村上水軍
村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1]で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに瀬戸内海各所の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した[2]。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[3]。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。
なお、2016年(平成28年)4月25日、日本遺産 第二期の19箇所の一つとして「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」のタイトルで認定された。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土と芸予諸島に42項目の遺産対象がある[4]。
Contents
起源
これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代末期に活躍した村上為国の弟・村上定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160年)に越智大島[5]に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
越智大島を始め伊予国(現在の愛媛県)各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。
また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。
村上水軍の活動
文献史料上、最も古い記録は南北朝時代である。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。南北朝時代の村上水軍は因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行ったりしていた。
能島村上氏は能島城(能島)、因島村上氏は長崎城から余崎城、その後青木城へと移り(長崎城と青木城は因島、余崎城は向島)、来島村上氏は来島城(来島)を本拠として活動した。
戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は毛利氏の支援する河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。
村上水軍の解体
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は関ヶ原の戦いの結果、豊後国の内陸部にある玖珠郡に転封され(森藩)、一部の飛地藩領や海路による参勤交代を除いて海から遠ざけられた。
村上水軍の一族
系図
能島村上氏
(村上師清?義胤?) ┃ 義顕 ┃ 雅房 ┃ 隆勝 ┣━━┳━━┓ 義雅 義忠 隆重 ┃ ┃ ┃ 義益 武吉 景広 ┏━━┫ 元吉 景親 ┃ ┃ 元武 元信 ┃ <長州藩士家> 就親 ┃ (略) ┃ 就庸 ∥ 某(佐佐木就清の子) ∥? 惟庸(兼助)(右田毛利房顕の次男) ┃ 毛利親信(右田毛利家を継ぐ) ┃ 藤枝
来島村上氏
※村上氏→来島氏→久留島氏 数字は藩主代数(※最後の藩主・通靖の跡は弟の通簡が家督を継ぐ)
師貞 ┃ 義信 ┃ (村上義胤?義顕?) ┃ 顕忠 ┃ 吉元 ┃ 康吉 ┃ 通康 ┣━━━┳━━━┓ 得居通幸 通清 来島通総 ┃ 長親1 ┃ 久留島通春2 ┏━━━━━┳━┻┳━━┓ 通清3 通貞 通迥 通方 ┣━━┓ ┃ 通政4 通重 光通 ┣━━┳━━┳━━┓ ∥ ∥ ∥ ∥ 通用 通孝 通重 光通5 ┏━━┫ 通祐6 通同 ∥ 通同7 ┃ 通嘉8 ┏━━┫ 通容9 通胤 ┃ 通明10 ∥ 通胤11 ┣━━┓ 通靖12通簡(※13) ┃ ┣━━┓ 通寛 長一 健三郎 ┃ 武彦
因島村上氏
(村上義胤?義顕?) ┃ 顕長(吉豊) ┃ 吉資 ┃ 吉充 ┃ 吉直 ┃ 尚吉 ┣━━━━━┳━━┳━━━━━┳━━━┓ 吉充 吉忠 亮康 隆吉 尚末 ┣━━┓ ┃ ┣━━┓ ┃ ∥ ∥ ┃ ┃ ┃ ┃ 景隆 吉亮 吉国 景隆 吉亮 尚久 ┃ ┃ 元充 尚次 ┃ 尚昌
その他
平成27年3月13日、村上水軍の村上武吉が1581年(天正9年)に雑賀衆の向井弾右衛門尉に発行した海上通行証「過所船旗(かしょせんき)天正九年三月廿八日」が重要文化財に指定された[6][7][8][9]。
かつて本拠地であった能島を見渡せる大島 (愛媛県今治市)海岸部には村上水軍博物館[10]が開設されている。
広島県と愛媛県には村上水軍の末裔が多く存在し、一部地域では『村上』姓ばかりが居住している。サッカー選手の村上佑介[11]、芸能人でも村上信五、村上ショージ、村上文香などが村上水軍の末裔だという。しかし、村上水軍は大人数のため血縁関係があるわけではない。
船の進行方向を決める号令(面舵、取舵)は村上水軍の航海術の伝承を受け継いでいる[12]。
脚注
- ↑ ただし、瀬戸内海という概念ができたのは明治時代である。詳細は瀬戸内海参照。
- ↑ 村上海賊いんのしま観光なび(2018年3月9日閲覧)
- ↑ 羽原又吉『漂海民』(岩波新書、1963年) ISBN 4-00-415074-4
- ↑ 尾道市HP参照 http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/info/detail.jsp?id=8160
- ↑ 伊予大島の別名で、現愛媛県今治市
- ↑ 重文に「鳥羽天皇像」掛け軸
- ↑ 根来寺の「絹本著色鳥羽天皇像」などが重文指定へ
- ↑ 根来寺の鳥羽天皇肖像画が重文に
- ↑ 根来寺「鳥羽天皇像」など重要文化財に
- ↑ 村上水軍博物館(2018年3月9日閲覧)
- ↑ 松本隆志 (2014年4月11日). “[愛媛]『村上海賊の娘』が本屋大賞に輝く。村上水軍をルーツに持つ村上佑介に直撃取材!”. BLOGOLA . 2016閲覧.
- ↑ “マッキーのものしり事典(次点) マッキーの「海の常識」第3回目「面舵、取舵、ようそろ!」”. 2013年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008年4月29日閲覧. - 海上保安庁伏木海上保安部
参考文献
- 北川建次ほか 編『瀬戸内海事典』(南々社、2007年) ISBN 978-4-931524-63-7
村上水軍に関する作品
- 南国水狼伝 - 鳥海永行の小説
- 村上海賊の娘-和田竜の小説。上下巻75万部売り上げのベストセラー。2014年第11回本屋大賞1位。
- 瀬戸内海賊物語 - 大森研一監督の映画
- 星籠の海 - 島田荘司の小説
- 海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク - 三島安精の小説
- 鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍- - 上を原案としたテレビドラマ
- つる姫 - 阿久根治子の小説
- 碧のミレニアム - 杜野亜希の漫画
- 瀬戸内少年海ぞく団 - 長谷川京平による児童文学
関連項目
外部リンク
- 武家家伝_村上(能島)氏
- 武家家伝_村上(因島)氏
- 武家家伝_久留島氏
- 村上水軍博物館(大島、能島村上氏)