平重衡
平重衡 | |
---|---|
時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 保元2年(1157年) |
死没 |
文治元年6月23日(1185年7月21日) 享年29 |
主君 |
二条天皇→六条天皇→高倉天皇 →安徳天皇、および後白河院 |
氏族 | 桓武平氏維衡流(伊勢平氏) |
平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。
平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
生涯
父の清盛は保元の乱、平治の乱を勝ち抜いて平氏政権を樹立。継室の時子の子として生まれた重衡は幼少にして叙位し、平氏の公達として順調に昇進を重ね、治承3年(1179年)、23歳で左近衛権中将に進んだ。
だが、平氏の権勢の高まりは後白河法皇・院近臣との軋轢を生み、同年11月、清盛はクーデターを起こして院政を停止する(治承三年の政変)。この事件の際に重衡は後白河法皇への奏上を行う使者となっている。
翌治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が起こり、重衡は甥の平維盛と共に大将軍として出陣した。この反乱は早期に鎮圧されたが、その後も反平氏の挙兵が各地で相次いだ。8月に源頼朝が伊豆国で挙兵し、同年10月の富士川の戦いで平氏の追討軍を破り、関東を制圧した。さらに後白河院と密接につながる園城寺や、関白・松殿基房配流に反発する興福寺も公然と反平氏活動を始めた。
南都焼討
重衡は清盛の命により、12月11日に園城寺を攻撃し寺を焼き払うと、12月25日に大軍を率いて南都へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯・逆茂木を巡らせて迎えうつ。河内方面から侵攻した重衡の4万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫った。28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。
この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。翌治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は死去する。また清盛の後を追うかのように清盛の盟友的存在で舅だった藤原邦綱も同年の閏2月23日に薨去し重衡の後ろ盾も万全なものではなくなり後に甥の清宗に一時期位階を抜かれる事になる。同年3月、大将軍として墨俣川の戦いに赴き、源行家・義円軍を破り、源氏の侵攻を食い止めた。
一門都落ち
寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで平維盛の軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされた。重衡も妻の輔子と共に都落ちした。
重衡は勢力の挽回を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の戦いで足利義清を、同年11月の室山の戦いで再び源行家をそれぞれ撃破して源義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した源範頼と義経率いる鎌倉源氏軍によって滅ぼされた。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していた。
だが、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは『平家物語』では梶原景季と庄高家、『吾妻鏡』では梶原景時と庄家長とされる。重衡は京へ護送され土肥実平が囚禁にあたった。後白河法皇は藤原定長を遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営を置く平氏の総帥・平宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。 しかし玉葉の2月10日条によるとこの交換は重衡の発案によるものであり使者は重衡の郎党だった。
同年3月、重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった。
元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっている。
最期
同年6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立。22日に東大寺の使者に引き渡された。『平家物語』には、一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。『愚管抄』にも日野で重衡と輔子が再会したという記述がある。
23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29。なお、斬首前に法然と面会し、受戒している[1]。
死後
妻の輔子はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆(だいしゅ)から首も貰い受けて荼毘に付し、日野に墓を建てた。現在、この墓は京都市伏見区の団地の中に残っている。また輔子は高野山にも遺骨を葬らせ、その後、大原に隠棲した建礼門院に仕えた。夫婦の間に子は無かった。
重衡が斬首された木津川畔の京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。また梟首された般若寺にも供養塔がある。能『重衡』では、奈良阪の墓地にある石製の笠塔婆から迷い出た重衡の霊が旅の僧に供養を頼む描写がある。能『重衡』が成立した室町時代、奈良阪には奈良市民の惣墓があり、その一角に存在した笠塔婆は重衡の墓だと信じられていた。この石塔は現在般若寺に移築されているが、重衡の墓ではないことが分かっている。
重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。
東大寺盧舎那仏像は重源の大勧進によって再建され、建久6年(1195年)に大仏殿の落慶法要が行われた。戦国時代に松永久秀によって再び焼亡し、現在のものは江戸時代に再建されたものである。
遺児
『鶴岡八幡宮供僧次第』によれば、重衡の子とされる僧がおり、建保7年(1219年)の源実朝暗殺の際に公暁の共犯の疑いで取り調べを受けている。嫌疑はすぐに晴れたが、平家の出身者が鎌倉幕府から疑いの目を向けられていた事が伺われる。
他にも遺児の重度が重衡の処刑後に信濃国に勢力をもっていた仁科氏を頼って現在の安曇野市明科東川手名九鬼に落ち延び、そこで名を降旗氏に改め隠れ住んでいたという。
また信濃小笠原氏の系図によると、小笠原長経の次男で赤沢氏の祖である赤沢清経の母は重衡の娘と書かれている。
京都市伏見区の善願寺の地蔵菩薩坐像は服帯地蔵と呼ばれているが、保元元年頃に重衡の安産祈願の際に七条仏所の仏師により作られたと伝わっている。また重衡の妻の藤原輔子が安産を祈願してその後無事に授かったので本堂が寄進されたという。
人物
『建礼門院右京大夫集』や『平家公達草紙』によると、重衡はちょっとした事でも人のために心遣いをする人物であり、いつも冗談を言い、怖い話で女房を怖がらせたり、退屈していた高倉天皇をなぐさめるために、強盗のまねごとをして天皇を笑わせたというエピソードが残されている。容貌については「なめまかしくきよらか」と書かれている。江戸時代に書かれた平家公達草紙によると、都落ちの際、常に遊んでいた式子内親王の御所に武者姿で別れの挨拶に訪れた際には、親しんだ女房たちが大勢涙にくれたという。しかし、同時代に生きた建礼門院右京大夫集によると、「平清経の中将」とあり、同じ中将の誤伝と考えてもよい。
『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。
官歴
※日付=旧暦
- 応保2年(1162年・6歳)12月23日:従五位下
- 応保3年(1163年・7歳)正月24日:尾張守(頼盛の後任)
- 仁安元年(1166年・10歳)
- 仁安3年(1168年・12歳)
- 嘉応3年(1171年・15歳)正月6日:従四位上(建春門院御給)
- 承安2年(1172年・16歳)
- 治承2年(1178年・22歳)12月15日:春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任
- 治承3年(1179年・23歳)
- 正月19日:左近衛権中将、元左馬頭。
- 12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元
- 治承4年(1180年・24歳)
- 治承5年(1181年・25歳)5月26日:左中将に還任。従三位
- 養和2年(1182年・26歳)3月8日:但馬権守兼任
- 寿永2年(1183年・27歳)
- 正月7日:正三位(建礼門院御給)
- 8月6日:解官
脚注
関連項目
- 小説