小久保裕紀
オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銅 | 1992 | 野球 |
小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・野球指導者、野球解説者・評論家。
現役時代は福岡ソフトバンクホークス(福岡ダイエーホークス)と読売ジャイアンツに所属し、両球団で主将を務めた。2005年から2009年まで社団法人日本プロ野球選手会の第10代理事長を務めていた。
2013年からはNHKの野球解説者を務める一方、同年より2017年までは日本代表(侍ジャパン)の監督を務めた。学生・社会人・プロ野球でのコーチ・監督の経験無しで日本代表の監督を務めるのは史上初であった。
Contents
経歴
プロ入り前
1971年に和歌山市で生まれる。和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校へ進学し、野球部に所属。中学校卒業後は和歌山県立星林高等学校に進学し、1989年に青山学院大学へ進学。東都大学リーグでは通算40試合に出場して打率.291、8本塁打、23打点を記録する。ベストナイン3回。1993年には小久保が主将となり、青山学院大学史上初の大学野球日本一に貢献した。
1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、予選リーグで2本塁打を放つ。のちにメジャーリーグベースボールでプレーするノマー・ガルシアパーラ、ジェイソン・ジアンビを擁するアメリカ合衆国との試合で、小久保は先制打を含む2本のタイムリー二塁打で勝利に貢献し、銅メダルを獲得した。
ダイエー時代
読売ジャイアンツと福岡ダイエーホークスとの競合の末、ダイエーを逆指名し、1993年のドラフト会議で2位で指名され、入団。背番号は9。年俸は1200万円、契約金は最高額の1億6000万円であった(以下、金額は推定)。
1994年には春季キャンプから高畠康真の指導を受け、オープン戦はまずまずの成績を残し、同年4月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)に6番・右翼手として初出場を果たす。チームは17得点で大勝するも小久保は6打数0安打であった。4月10日のオリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)で野田浩司からプロ初安打を放ち、同年7月5日の対千葉ロッテマリーンズ戦(北九州市民球場)で、34試合目・67打席目で園川一美からプロ初本塁打を放った。最終的には打率.215・6本塁打と不本意なルーキーイヤーとなったため、この現状を打破すべく「ハワイ・ウインター・ベースボール」に参加し、首位打者とMVPに輝いた。そして、本人曰く「ものすごく緊張した」という、翌年から福岡ダイエーホークスの監督に就任する王貞治の目の前で本塁打を放ち、優勝へ導いた。
1995年には二塁手のレギュラーに定着すると全試合出場を達成、28本塁打を放ってパシフィック・リーグ本塁打王に輝いたほか、リーグ1位の9三塁打と長打率.548を記録した[1]。1995年のオールスターゲームにもファン投票トップで初選出され、第2戦目に古溝克之から広島市民球場の右翼へ本塁打を含む3安打を放った。シーズンの打順に関しては、4月は1試合を除く全試合で8番を打っていた。初めて4番を任されたのは、5月26日の対近鉄バファローズ戦である。
1996年は津野広志(ロッテ)からプロ初の満塁本塁打や、2年連続の20本塁打以上を記録するが、打率.247に終わった。チームも3年ぶりに最下位となる。
1997年になると、8月末から一塁手を、最後の9試合で三塁手を守るようになる。2年ぶりに全試合に出場し、打率.302・36本塁打・114打点の好成績を挙げ、ドミンゴ・マルティネス(西武)との争いに勝利して打点王を獲得。二塁打37本、長打率.588、塁打310はそれぞれリーグ1位を記録し、野球体育博物館では、「セの松井秀喜、パの小久保」としてポスターのモデルにもなった。しかし、オフにプロ野球脱税事件が発覚、自身も主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡され[2]、コミッショナーからは1998年の開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受ける[3]。
1998年は浜名千広・井口忠仁を二遊間としてレギュラーで固定するため、前年ベストナインに選出されたものの二塁を守らなくなる。出場停止期間から復帰した5月30日に4番・三塁手で2安打を放ったが、1ヶ月も経たずに右肩関節唇損傷の重傷で離脱し、わずか17試合の出場、2本塁打・打率.225に終わる。
1999年、前年に痛めた肩の影響もあり、打撃不振に陥るも王監督に1年を通して4番を任される。優勝を決めた日本ハム戦では、7回裏に金村暁から推定飛距離140メートルの同点本塁打を放つなど、福岡移転後初のリーグ優勝に貢献した。最終的には打率.234、24本塁打、77打点、本塁打と打点はチーム内トップであった。日本シリーズでも中日ドラゴンズ相手に4番・三塁手て全試合に出場。序盤はヒットすら打てなかったが、第3戦にようやく初ヒットを打つと、ナゴヤドームでの第4戦では、前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなど、日本一に貢献した。
2000年から本格的に三塁手として固定され、同時にチームの選手会長に就任するなど、チームに欠かせない存在となる。開幕から6試合で6本塁打と順調な滑り出しを切り、同年6月20日の対オリックス・ブルーウェーブ戦から同年7月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦にかけての10試合連続打点[4]や、21試合連続安打などで打率.390を記録し、6月は初の月間MVPを獲得した。同年8月30日の試合後時点で首位の西武ライオンズに3.5ゲーム差を付けられていたが、チームの選手会長として試合前や試合後に選手だけを集めてミーティングや決起集会を招集するなど、チームが一丸になるよう努めた。その結果チームは勝ち星を重ねて9月5日に首位を奪い返すと、マジック1で迎えた同年10月7日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(福岡ドーム)で金田政彦から決勝本塁打を放ち、リーグ連覇に貢献した。2000年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では途中離脱となった。それでも契約更改では31本塁打(リーグ5位)・105打点(リーグ3位)とシーズン連覇貢献を高く評価され、満30歳にして初めての1億円プレイヤーとなった。
2001年も好調を維持し、44本塁打(リーグ4位、40本以上は自身初)・123打点(リーグ4位)を記録。福岡ドームを本拠地にしての選手としては初の大台となった。この年は松中信彦が36本塁打(リーグ6位)、城島健司が31本塁打(リーグ9位)、井口資仁が30本塁打(リーグ12位)で、パシフィック・リーグで初めて同一球団から4名のシーズン30本塁打以上となる打者を輩出した。全員日本人なのはプロ野球史上初だった。
2002年は背筋痛や肉離れと戦いながら、3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つ。自身の通算1000本安打を通算1000試合出場と同時に達成するなど活躍したが、チームは2年連続の2位に終わった。守備ではオールスターで右翼手を、日米野球で二塁手を守ったりと過去の守備位置に就いた。シーズン最終戦となった同年10月12日の対大阪近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)で大塚晶文から9回に同点に追い付く32号本塁打を放ったが、この翌年の試合中に重傷を負ったことでシーズンを全休したため、この試合が自身の「福岡ダイエーホークス」での公式戦最後の出場となる。
2003年は選手会長を松中に譲り、打撃に専念してキャンプを消化していたが、同年3月6日のオープン戦(対西武ライオンズ戦)でホーム生還時スライディングの体勢で椎木匠と交錯し、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷・外側半月板損傷・脛骨と大腿骨挫傷という重傷を負う。そのまま退場し、完治まで最低6ヶ月と診断されたことでアリゾナ州のリハビリ施設でトレーニングに励んだ。自身は同年の試合には一、二軍とも全く出場できなかったが、チームは3年ぶりのリーグ優勝と4年ぶりの日本一を達成、優勝決定戦では自身も一時帰国し、胴上げに参加した。その後もリハビリ生活を耐え、キャッチボールや屋内での打撃練習は再開していた。
巨人時代
2003年のシーズン終了後、多くのファンから来季の復活を期待されていたが、11月3日に突如読売ジャイアンツへ無償トレードで移籍することが発表された。移籍の理由は、当時の球団社長である高塚猛と意見が合わなかったことや、アメリカでの治療費・渡航費である約2000万円が球団から一切支払われなかったことが挙げられ、小久保はアメリカから一時帰国した2003年6月中旬に球団に対して契約解除(自由契約)の希望を伝えていた。無償トレードとなったのは、当時のオーナーである中内正が、金銭トレードの分を小久保の年俸に上乗せするよう巨人側へ伝えたからとされる[5][6]。小久保はのちに、「トレードを訴えたのは僕自身」「ホークス以外ならどこでもよかった」「無償トレードになった理由は知らない」と語った[7]。この一件はチームメイトやダイエーファンのみならず、球界全体に大きな衝撃を与え、前年優勝していたチームは優勝旅行をボイコットした[8]。この事件について小久保を慕う松中は、中日新聞の取材に対して「球団にふざけるな、と言いたい。どうして小久保さんをタダで巨人に出さなきゃいけないんですか。あんなにチームのために一生懸命やった人が簡単に放出されるなら、ぼくらだって同じ目に遭う。この球団は勝ちたくないんでしょうね。終わりですよ。ファンには申し訳ないけれど、来年連覇したいという気が急激に薄れています」と怒りをぶちまけ、小久保と自主トレを行ってきた斉藤和巳は「今、頭の中が真っ白で何も考えられません。恥ずかしいです。とても日本一の球団がやることじゃない。選手としては侮辱されているとしか思えない」と大きなショックを隠さなかった[9]。
一方、巨人としては、松井秀喜がメジャーリーグに移籍して以来、長距離打者に恵まれていなかったことから、右打者の松井と評されるほどに期待されており[10]、2004年、故障箇所にサポート器具を装具、膝関節も曲がりきらないというシーズンを迎えるが、3番・三塁手で阪神との開幕戦に出場すると、翌試合に福原忍から東京ドームのライトスタンド中段へ移籍後初安打・初本塁打を記録。その後はなかなか成績が上がらない中、徐々に膝への不安が減り、5月には負担の少ないすり足打法から元の一本足打法に戻して本塁打を量産する。前半戦最後の3連戦で4本塁打を放つなど活躍し、7月度の月間MVPに輝いた。シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって巨人軍第69代4番に座り、長嶋茂雄、原辰徳、落合博満、清原和博らも達成できなかった巨人の右打者としては史上初のシーズン40本塁打以上(41本塁打)を達成。アレックス・ラミレスが後に記録するも2014年終了時点で、いまだに日本人での巨人右打者40本塁打以上は小久保のみである。打率は自己最高の.314を記録した。
2005年、交流戦初年度に12本を放ち、交流戦本塁打王になる(タイで4人受賞)。レギュラーシーズンでは不調期間が長く安定感には欠けたが、5月3日から、1試合を除く全試合に4番で出場。横浜・土肥義弘からプロ入り初の3打席連続本塁打を放つなど、シーズンでは34本塁打を記録し、低迷するチームの中で孤軍奮闘の活躍をみせた。FA権を取得したが、入団時に2年+1年(球団側に選択権がある)オプションの最高3年契約を結んでおり、球団がこのオプションを行使し、巨人に残留した。
2006年、巨人代表清武英利に巨人軍第17代目の主将を依頼される。主将制度は1998年の吉村禎章以来8年ぶりに復活されたが、移籍選手の主将指名は初。小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられていた。年俸は3億円に達した。
6番・三塁手で開幕戦出場すると、4月に打棒を爆発。3試合連続を含む9本塁打を記録し、チームは首位を独走。その後、調子を落としたがチャンスになると送りバントを積極的に行うなど、何とか首位を守り、6月1日の日本ハム戦では札幌ドームで延長12回に武田勝から決勝本塁打を放った。しかし、その翌日の6月2日、対西武戦で和田一浩の打球を処理する際、古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し、長期にわたり登録抹消となる。チームもそこから極度の不振に陥った[11]。リハビリも思うようにいかず、8月18日の中日戦にてようやく一軍復帰。打撃面でも怪我前に比べて精彩を欠いてしまう。最終的に4番での出場は9月3日対中日戦の1試合のみ、打率は.256、二塁打数はわずか5本。そして結局チームは2年連続Bクラスに終わってしまう。
11月11日にFAにより福岡ソフトバンクホークス[12]に復帰が決定した(詳細は#ホークス復帰参照)。12月10日、小久保の人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。
ソフトバンク時代
2007年には、恩師である王貞治を胴上げすべく並々ならぬ思いでキャンプを迎え、同時に禁酒も決意した。さらに右足の状態も改善したことからサポート用具を外し、開幕戦に5番・三塁手で先発出場。キャンプ中に決意したことを早速開幕で示し、9本塁打・26打点、得点圏打率.375で同年3・4月の月間MVPを受賞する。交流戦では逆転満塁本塁打を放つなど好調を維持したが、夏場に疲労から調子を一気に下げ、8月末には死球により肋骨を骨折したため離脱した。それでも自身は最終的にチームトップの25本塁打・82打点を挙げ、後半戦には犠牲バントを2度決めるなど、チームに貢献した。しかしチーム自体は思うように成績が伸びず、2年連続の3位に終わり、2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでも4度目となる敗退に終わった。
2008年からは3年目の松田宣浩が頭角を現したこともあり、守備の負担が少ない一塁手に転向した。前年オフには三角線維軟骨複合体の治療のため左手首を手術し、キャンプ・オープン戦に全く出られず、ウエスタン・リーグでの調整を経て、同年4月8日にようやく自身の開幕戦を5番・一塁手で迎える。この試合では2安打を放つと、交流戦でも対横浜ベイスターズ戦(北九州市民球場)では吉見祐治から場外本塁打を放ち、球団初の交流戦優勝のウイニングボールを掴むなど、同年限りで勇退する王貞治監督のために貢献したが、終盤にチームごと大失速[13]し、12年ぶりの最下位に終わった。自身も2年連続20本塁打を記録するが、打率.253・56打点、得点圏打率.260の成績に終わった。
2009年は前年後半の大不振を受けて、肉体改造を決意した。過食で体重を激増させてウエイトトレーニングを再開、そして新たに就任した秋山幸二監督の新体制の下、キャプテンに任命された[14]。故障者の多いチーム事情の中で唯一の全試合中軸として先発出場(12年ぶりは前田智徳と並んで史上最長記録)し、そのうち138試合を一塁手として出場した。交流戦では史上最速で優勝(連覇)を成し遂げ、レギュラーシーズンでも一度も同一カード3連敗を受けることなく3位にまで躍進、打撃でも4番に定着してチームを支えた。100試合以上出場して初めて20本塁打を割ったが、チャンスでは右方向への軽打を見せるなど得点圏打率は.336を記録、チームトップの81打点を挙げた。しかし、2年ぶりに出場した2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは打棒が振るわず、チームも東北楽天ゴールデンイーグルスに2連敗して5度目の敗退を喫する。
2010年には8年ぶりに開幕4番で出場すると、同年4月2日から11試合連続安打を記録した。その後は首痛・肩痛によって一気に数字を落とし、さらに1ヶ月の離脱を余儀なくされた。離脱中のチームは6連敗など首位と最長の5.5ゲーム差に広がるなど窮地に陥った[15]が、前倒しで同年7月10日に復帰した際には3試合目で早くも4番に戻ると、一気に9連勝と波に乗った。チーム内ではホセ・オーティズに次ぐ勝利打点9、殊勲打もリーグ2位の25、併殺打も僅か4だった。同年9月18日の対埼玉西武ライオンズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)では自ら犠牲バントを決めるなど優勝への執念を見せ、最後はブライアン・シコースキーから通算399号となるサヨナラ本塁打を放った。その後もチームは5連勝で7年ぶりの優勝を決めた。勝負所の8・9月の全試合は4番で出場し、打率.303、併殺打は0だった。チーム長年の課題である2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは、最終ステージで打率1割台・0本塁打・3打点と大不振で、第6戦の最終回の最後の打者となり、チームも敗退した。シーズン終了後には2度目のゴールデングラブ賞を一塁手として受賞し、初受賞より15年ぶりの史上最長ブランクとなった。
2011年は開幕戦(対オリックス・バファローズ戦)で木佐貫洋から死球を受け、右手第一末節骨剥離骨折。それでも僅か10日間で一軍復帰し、初安打が自身3年連続10度目のサヨナラ打となった。同年5月12日には史上16人目(大卒選手では史上5人目)の通算400本塁打を達成した。シーズンでも8年連続の二桁本塁打を記録したが、後半は度重なる故障や年齢もあり、6月までは.298を記録した打率は7月 - 9月間では.228と急降下、同年8月4日の対オリックス・バファローズ戦では高宮和也から死球を受け、左第9肋骨を骨折、同年9月17日にも持病の首痛で出場選手登録を抹消される[16]。2011年の日本シリーズでは全試合に出場し、打率.320、第4戦と5戦の2試合連続先制打、守備でも無失策とチームとして8年ぶりの日本一に貢献し、日本シリーズMVPを獲得した。40歳1ヶ月での日本シリーズMVPも2011年現在で最年長記録である(それまでの最年長記録は1999年の秋山)[17]。
2012年は長年悩まされていた首の痛みを取る手術を受けたものの開幕には間に合わせ、5番・一塁手で出場。しかし、通算2000安打まであと1安打とした後の5月25日午前中に受けた検査で腰椎の椎間板ヘルニアが判明し、出場選手登録を抹消された[18]。同年6月24日に復帰すると、同日の対北海道日本ハムファイターズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)において、ブライアン・ウルフから中前安打を放って、史上41人目の2000安打を達成した[19][20][21]。同年8月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)の試合後に記者会見を開き、同年限りでの現役引退を表明した[22]。引退表明後も出場を続け、同年9月30日の対北海道日本ハムファイターズ戦では、10年ぶりとなる二打席連続本塁打を放った[23]。これで大怪我から復帰した2004年以降続いている1試合2本塁打を9年連続達成した。41歳の誕生日を迎えた同年10月8日、シーズン最終戦の対オリックス・バファローズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)に4番・一塁手で先発出場した。この前日、小久保は「直球だけ(で勝負する)とかは止めてほしい」とコメント[24]していたが、オリックスの先発だった西勇輝は真剣勝負で挑み、この試合でノーヒットノーランを達成した。そのため小久保も無安打で終わり、最終打席は遊撃ゴロに抑えられた。試合後には引退セレモニーが行われた[25][26]。2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズにはファイナルステージ第2試合を除いて先発出場するが、最終出場となった10月19日の対北海道日本ハムファイターズ戦(ファイナルステージ第3戦)の9回2死ランナー一塁で小久保に打席が回るが、遊飛に倒れて試合終了。ソフトバンクの敗退が決まり、これが小久保の現役最後の打席となった[27]。試合後には両チームの選手による胴上げが行われた[28]。同年11月29日、任意引退選手公示が行われた[29]。その功績により、背番号9番は2015年に柳田悠岐が継承するまで欠番となった。
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2000本安打達成(2012年6月24日)
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10年ぶりの2打席本塁打を放つ(2012年9月30日)
解説者
2013年からはNHKの野球解説者を務める(2013年のみ西日本新聞社スポーツアドバイザーおよび西日本スポーツ評論家も兼任[30])。公式サイトも開設し、全て自身の手で書き綴った自叙伝が1月30日発売された[31]。
日本代表
2013年10月9日に、過去の成績やリーダーシップを評価され、常設化された野球日本代表(侍ジャパン)の監督に任命され、就任した。11月に行われた2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイで初采配。2015年11月のWBSCプレミア12では準決勝で韓国に逆転負けを喫し、3位に終わった[32]。2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシックでは戦前から苦戦が予想されたが、下馬評を覆し準決勝まで進出、アメリカと対戦の末敗戦した。この試合をもって日本代表監督を退任した[33]。
プレースタイル
打撃
通算413本の本塁打を量産した一本足打法の長距離砲。独特の大きな弧を描く本塁打が特徴でもあった[34]。アッパースイングで打球を高く上げてホームランを放つ[35]。自身は「ヒットの延長がホームランではなく、自分のスイングの延長にホームランがある」という見解を持っている[36]。松中と同じ試合で本塁打を打つMKアベック弾を放った試合では34勝5敗で勝率8割7分2厘と高勝率を誇り、ビジターでアベック弾を放った試合では2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。
満塁に強く、13本塁打を放っている。過去12勝1敗と勝率も高い。珍しいエピソードとしては、1999年8月20日に史上7人目の満塁ランニング本塁打を放っている。このイニングに秋山幸二がスタンドインによる満塁弾を打ち、史上2回目となる「1イニング2本の満塁本塁打」の快挙を達成している。2011年は満塁の本塁打は0だったが満塁打率は.429を記録した。
日本のプロ野球において大卒で400本塁打と2000本安打を共に達成したのは長嶋茂雄・山本浩二・金本知憲に次いで史上4人目である。
守備・走塁
守備では捕球・スローイング共に比較的安定していたが、ヒザを故障して以降は反応がやや鈍くなっている[37]。試合中は積極的に投手に声をかける[38][39]。
大学時代のポジションは三塁手で、プロ1年目は主に右翼手として出場し、1995年から1997年シーズン途中までは二塁手を務めた。当時より一塁での出場経験もあり、ゴールデングラブ賞を二塁手、一塁手でも受賞した。
プロ入り当初は2桁盗塁やリーグ最多三塁打を記録したこともあった。しかし膝の故障を発症してからは脚力の衰えが顕著となり、一塁到達タイムは4.62秒と平均を下回るようになったが、全力疾走は怠らない[35]。
人物
幼少の頃に両親が離婚。幼少期は柔道部であったが、母親がきっかけになり野球を始める。小学1年生で野球部に入部したものの、非常に厳しい野球部で辞めることを決意していたが、甘えさせてはいけないと、母は嫌がる小久保を無理やりグラウンドに連れて行ったという[40]。プロを目指したのは小学2年生で、そこからその目標はぶれなかった。高校卒業後は社会人野球を目指していたが、大学進学に急きょ変更した。これも母の強い勧めである。その地元への恩返しに、2005年オフから和歌山市民球場で軟式少年野球大会を行い、トーナメントで優勝を決める、いわゆる「小久保裕紀杯」を開催している。表彰式でメダルを渡すのはもちろん、試合前ノックや、始球式にも打者として出るなどサービスも行っている[41]。
学生時代は文武両道で、授業中寝たことも宿題を忘れたこともなく、常に成績はクラスで5番以内だったという。青山学院大学時代も3年時で単位を取得。4年生では野球に完全集中できるほどだった[42][43]。野球教室でも野球だけではなく、勉強もするように勧める[44]。その成果か非常に話が上手く、遠藤久美子と番組で共演した際には絶賛されていた[45]。芸能界にも親友は多く、2007年シーズン中に森田一義アワー 笑っていいとも!の人気コーナー、テレフォンショッキングに友達紹介として、中村橋之助から出演のオファーがあったが、出演日が試合と重なったため実現しなかった[46]。
歌が好きで、歌唱力も高い。主に、大学の先輩でもあるサザンオールスターズや、コブクロ、EXILEなどを好む。nobodyknows+とも親交があり、特にcrystalboyとは名古屋遠征の際、よく食事を共にする[47]。ソフトバンク復帰後の打席に入る際のBGMはSMAPの『ありがとう』。2007年交流戦で仲が良い高橋尚成に抑えられ、試合終了後電話がかかってきて、皮肉たっぷりに歌われたという[48]。2011年のみ東日本大震災の影響もあり『がんばりましょう』に変更した。巨人時代の入場曲は『希望の轍』(桑田佳祐が自身の母校青学大の先輩ということから)。
読書家としても知られ、1996年に「プロ2年目でたまたまタイトルを取れて有頂天になっていた」と絶不調に陥っていた際に船井幸雄の本を目にし、船井の著作物を読みあさって以降、20代から30代にかけて貪るように自己啓発本を読み、40代となった現在は歴史小説に傾倒しているという[49]。もっとも尊敬しているのは稲盛和夫で、その中にある「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」は小久保を支える言葉となっている[50]。ちなみに愛読書は北方謙三 水滸伝である。印象深い言葉にはメモをつけている。小説すばる8月号で北方謙三と初対談を果たした。
エコロジーにも関心があり、2009年からいわゆる「My箸」を持参している。2011年4月15日から自身の折れたバットを箸に加工し、限定400膳を販売している[51]。ネット利用にも積極的である。2009年に球団から配布された自身の全打席を見ることができるiPhoneを有効に使った[52]。
ダイエー若手時代、小久保のエラーが一因となり敗れた試合後、エラーの場面について幾度も質問してきた記者に辟易した小久保は「私にはこれが精一杯ですから」と発言し、それがそのまま翌日の新聞に掲載された。記事を見た監督の王はすぐに小久保を呼び出し、「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見る事ができなくなる。今後2度とこのような発言はするな」と叱責した。後日、小久保本人がこのエピソードに関して、王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事だと語っている[53]。
巨人に移籍した際にも、「プロ野球人としての手本になる選手だからジャイアンツにとってもいい刺激になる。」と語っている[54]。因みに2012年6月24日に2000本安打を達成し、7月14日にセレモニーが行われたが名球会からは「名球会ブレザー」が贈呈された。その際、ブレザーを直々に贈呈したのはホークス監督として小久保とプロ野球人生を歩み、小久保を見守り続けた王貞治(名球会・会長)であった。その際には、「自分が必ず着せる。責任感の強い男。武士道というか気質として古い日本的なものを持っている。」と評した[55]。
座右の銘は「一瞬に生きる」。2002年に内観でこの言葉と出会う。内観は、2002年から4年に1度、栃木県の山奥で行っている。一畳も満たないところに一日15時間座り、感謝や謝罪、してもらったこと、してかえしたことを延々と思い浮かべるという。3日間の断食ありの1週間、修行をおこなっている[56]。この年からメンタルトレーニングを行うようになり、2003年の大怪我などトータル8度の手術を行いながらも第一線で活躍した。この座右の銘を題材に2010年オフに福岡の小学校で先生として授業を行った。トレーニングには非常に積極的で、30歳過ぎたころから目のトレーニングも行っている[57]。
ファンとの交流を大事にしていたため、ヤフードームで試合がある日は、試合直前までサインをしていた[58]。さらに自身の公式ファンサイト「K'Project」で2004年から毎年オフに、100人以上のファンと間近でふれあう。主にトークと歌のディナーショー形式である。様々なサプライズがあり、諸事情で参加できないと言いながら、本当は隠れて待っていたり、和服姿やドラキュラ姿で参加したりした[59]。2010年オフはリーグ優勝を果たしたこともあり、ファンと炭酸ファイトを行った。その際イベントでオークションなどを行い、ポケットマネーと合わせて24時間テレビ 「愛は地球を救う」、宮崎の口蹄疫に義援金を送った。2011年東北地方太平洋沖地震もK'Projectを通して2011年3月26日にトークショーを行い、急きょだったにも関わらず、ホークスの1軍選手ほぼ全員、被災地東北の球団である楽天の選手も、嶋基宏、岩隈久志、田中将大らが参加した。終了後に募金を行い、総額375万円を贈った[60][61]。
2005年4月8日の中日戦で、川上憲伸から、シーズン初のホームラン(その試合を決定づける満塁本塁打)を打った時、TVカメラに向かって「約束を果たしたよ」と手話を送った。前年のシーズンオフに高橋由伸と訪問したろう学校にて、第1号の本塁打を打ったら手話でメッセージを送る約束をしていたとスポーツニュースで報道される。この手話は2006年4月1日の対横浜戦の土肥義弘からソロ本塁打を打った際も行い、この事については、カルビープロ野球チップス・2005年第2弾のカードに書かれている。
2005年12月から2009年12月まで第10代目の社団法人選手会理事長を務めた。キャッチボールプロジェクトとして、公園でも気軽にできるよう「ゆうボール」を作るなど、貢献した。4年間在位は岡田彰布、立浪和義に続いて3人目だった[62]。後任は井端弘和である。
自身の最後の目標は教師である。コーチ、監督などやるべきことを全てを全うしての目標だが、その気持ちは熱い。理由は、自身の恩師である高畠康真の影響である。ホークス、ロッテなどでコーチを30年も務めたが、通信教育で教職の免許を取り、58歳にして教師の道に進んだものの、わずか1年後膵臓癌により故人となってしまう。その高畠が目標としていたのは甲子園で指揮をとることであった。果たせなかった夢を小久保は目指している。その第一歩として2010年オフに福岡市内の小学校で授業をおこなった[63]。
通算4番出場試合数は歴代10位の1329試合を務めている。本塁打は両リーグで40本塁打以上を達成。これは日本人では落合、田淵幸一に次ぐ史上3人目の記録。その反面、三振も多い。4番打者像として「三振数が少ない選手」と語っている[64]が、ツーストライクからの打率は悪いわけではないものの、実際には歴代11位の1516三振を喫している。オールスター戦でも2本塁打放っているが21三振と歴代11位である。主に、外角のスライダーに空振りしてしまうケースが多く、「僕自身、多いんですがね(笑)」と話している[64]。
通算413本塁打を放っており、また、史上6人目となる200人以上の投手から本塁打を放っている。2012年8月8日に帯広の森野球場で行われた日本ハム戦で本塁打を放ち、史上8人目の30球場制覇を達成した[65]。 チーム内でのあだ名は「こく」「キャップ」。
実弟の小久保隆也は、腹話術師のいっこく堂のマネージャーであり、智弁和歌山高校で投手として1年夏、3年夏に甲子園に出場している。
主将として
学生時代からチームを引っ張っており、小、中、大学と主将であった(高校時代は投手だったため副主将)[66]。ルーツは中学生時代である。野球は団体競技であり、全体の責任はキャプテンにあると徹底的に叩き込まれたため、チームとしてどう動くべきかという全体を見る目を自然と持てるようになったという[67]。怒られることは自身のプレーではなく、チームとしてであった。プロでも、巨人で2006年に外様初の主将となり、古巣復帰後も2009年に主将就任。前年最下位だったチームは3位となり、2010年にはリーグ優勝。2011年にはパリーグ連覇、CS制覇、日本一を果たす。秋山監督にも信頼され「自分が監督を務めている間は主将は絶対に変えない」と言われていて[68]2012年の引退年までチームをAクラスに導いた。
チームの士気を上げるため、強気な発言をすることが多い。2011年、長年苦しめられてきたクライマックスシリーズ前日には、「1つも負けるつもりはないです。最後(6戦目)までチケットを買ってくれたファンのみなさんには申し訳ない」[69]と発言した。日本シリーズでも、打撃で最年長記録を次々と塗り替え、守備では積極的に投手に声をかけ、第7戦前には円陣で選手に手を重ねるよう指示する[70]など、日本一に大きく貢献した栄誉を称えられ、日本シリーズMVPを獲得。4月11日、ペナントレース前日に「今年は必ず日本一をとります」と宣言したとおり、見事有言実行を果たしてみせた[71]。
青山学院大学の練習方法を変えた選手でもある。「自分たちで練習する時間が欲しい」という小久保の提言によって全体練習を減らした。大学4年で初の大学野球優勝をもたらし、以後定着した青学大の伝統である[72]。恩師である河原井正雄は小久保ほど部員を引っ張ってくれた選手はいないとコメントしており[73]、引退後に際しては、「野球界をリードできる男。王さんじゃないけれど球界を引っ張ってもらいたい。先陣をきってやる、という位の器は俺はあると思う。」と絶賛した[74]。
1993年のプロ野球ドラフト会議から逆指名制度ができ、リーダーシップの強いスラッガーを、常勝球団巨人とダイエーが獲得に名乗りを上げた。悩みに悩んだ末、ダイエーを逆指名。理由はスカウトから、「うちはこれからのチーム。生え抜きとしてチームを常勝球団に導いてくれ」との言葉に心を動かされたからである。(鷹盤DVD〜小久保裕紀特集〜[75]より)
巨人2007年〜2009年のV9以来の3連覇達成時のエンブレムは、原監督、小久保、高橋由伸が決めたものである[76]。今や恒例となった、巨人の全選手がキャンプ前に読売ジャイアンツ球場に集まる合同自主トレも、2006年、主将就任した小久保と選手会長の高橋由が発案である[77]。
現役時代、自主トレは大所帯で行っていた。主にアリゾナで行っているが、稀に、奄美大島でやることもある。ソフトバンクのチームメイトである斉藤和巳は毎年恒例で、過去には松中信彦、村松有人、川崎宗則、明石健志、長谷川勇也、岩嵜翔、中村晃なども参加。巨人時代は、二岡智宏、木佐貫洋の同行を球団に依頼された。車好きでもあり、国際免許を持っている。アリゾナ州ではチームメイトを乗せ、自らハンドルを持つことが多い[78]。ただし、2011年は、斉藤がコーチになったことと、前年自身がオーバーワークで離脱した反省を踏まえ、プロ入り初めて一人で自主トレを消化した。
キャンプの全体ランニングでは常にトップを走る。ダイエー新人時代から「選手の中で一番早く球場入りして、試合後一番遅くまで残っている」と言われるほど練習熱心である。入団時から守備・走塁コーチであった定岡智秋は「小久保には厳しい練習に耐えられる体の強さがあり、努力を継続させる強い意志も持っていた。だからこそ、球界を代表する選手に成長できた」と語っている[79]。後輩である松中信彦、斉藤和巳などの信奉する選手も多く[80]、同期であり、元ダイエー、現高校野球監督の大越基は生徒に模範すべき選手と語っている[81]。自身は成績の上下に関わらず4番打者として長らく起用してもらった王監督に絶対の信頼を置く[37]。松中、城島健司とは、師弟・ライバルと呼べる関係である。城島は小久保が2000安打達成の際、「ホークスの新たな伝統を築いた若手の中心が間違いなく小久保さんだった。野球を愛され、真剣に向き合ったからこその偉大な数字。僕らの誇りです」[82]と述べた。
自身がジャイアンツに移籍した直後に感じた孤独を他の選手には覚えさせてはいけないと、新入団選手にも気を配る。読売ジャイアンツから復帰してすぐの2007年には不振に喘いでいたプロ2年目の松田宣浩を食事に誘ってアドバイスを送り[83]、2011年からソフトバンクにFA移籍してきた内川聖一も同様にキャンプから積極的に食事に誘った。その年の8月に小久保自身が骨折で離脱した際には内川が小久保のバッティンググローブを借りて出場、「尊敬する小久保さんがいない間、心配をかけたくない。僕が頑張る」と語った[84]。2015年に内川が主将を任された。ホークスは小久保引退して以来3年ぶりに主将制度を再開。「このチームにおけるキャプテンの重さは、小久保さんが引退してから感じていた。チームに影響を与えられるようになりたい」と責任感を口にした[85]
川﨑宗則とは、他の選手よりも深い話をすることが多かった。まだ芽が出る前の2002年に一緒に自主トレをしていたり、一緒に三遊間を組んでいたこともあって、川﨑は小久保を尊敬している[86]。
ホークス復帰
無償トレードにより福岡ダイエーホークスから読売ジャイアンツへ移籍したため、小久保が数年後にFA権を行使して福岡ソフトバンクホークス(2004年に福岡ダイエーホークスを買収)に復帰するのではないかという噂や期待が絶えることはなかった[87]。小久保が着用した背番号「9」は小久保のジャイアンツ在籍中は準永久欠番の扱いとなり、誰も着用しなかった。
また、各選手のインタビューでは松中信彦は「球団にふざけるな!と言いたい。このチームは勝ちたくないんでしょうかね?」、柴原洋は「チームをまとめていたのは小久保さんだったんでチームにとっても大打撃」、斉藤和巳は「今は、頭が真っ白です」、城島健司は「普通じゃない」、和田毅は「シーズン中何度も励ましてくれた。来年いないなんて信じられない」監督である王も「チームが崩壊する」と、その他各選手らが怒りを露にした[88][89]。11月6日、ダイエー中内正オーナーが球場に来た際にも、すれ違う選手がいる中、挨拶をした選手は0という異例中の異例な出来事が起こった[90]。
2006年1月1日の西日本スポーツ1面で、「小久保2007年ホークス復帰決定」と報じられ、巨人側から抗議が出るという事態が起きた。同じ時期に東京スポーツ紙面にて、ロサンゼルス・ドジャース移籍説もあった。
2006年10月17日に古傷の検査のため渡米する前の空港で、小久保はFA権を行使する考えを示した。11月7日に正式にFA権の申請。帰国時の会見での「次に着るユニフォームの球団でユニフォームを脱ぐという思いもある」という発言や、巨人側との交渉での契約年数に関する条件面の開きがあると予想されたことから、小久保の復帰はほぼ確実ではないかと言われていた。球団オーナーである孫正義もどうにかしてホークスに戻したいとシーズン中に語っている。ソフトバンク側は、交渉解禁直後の11月9日に王監督も参加しての最初の交渉を行い、11月11日、4年総額12億円+出来高の契約に合意し、古巣への復帰が決定した。最大の理由は王監督が胃の全摘出手術でやせ細っている中、わざわざ交渉の席に駆けつけてきたことである[91]。復帰会見で王監督は「ジャイアンツに行く話になった時が一番ショックでしたから、一日でも早く(ホークスへ)帰ってきたらいいなという気持ちを、毎日のように思っていました」と語った[92]。
監督時代
采配について
日本代表監督として初の本格的な国際大会となった2015年11月の第1回WBSCプレミア12では1次ラウンドを5戦全勝とし、準々決勝でもプエルトリコを退け、19日の準決勝で韓国と対戦した。先発投手の大谷翔平が7回まで85球1安打11奪三振で二塁を踏ませないという圧倒的な投球を見せ、日本打線も3点をリードしたが、小久保は8回から則本昂大に交代させると則本は8回こそ無失点で抑えたものの、9回表に1点を返されなおも無死満塁、打者金賢洙となったところで今度は松井裕樹にスイッチ。しかし、松井も押し出し四球で1点差とされ、代わった増井浩俊が次打者李大浩に2点タイムリーを打たれ逆転を許すとその裏の攻撃も無得点に終わり、日本は準決勝で敗退となった。 この試合での投手起用を巡り、日本国内では野球ファンを中心に「大谷は球数も比較的余裕があったが、8回以降も続投させるべきだったのか」「則本は8回限りで交代するべきだったのか」「ただでさえこの時弱冠20歳で、1次ラウンドでの投球も不安定だった松井や、準々決勝プエルトリコ戦で3ラン本塁打を浴びた増井を無死満塁の場面で出すべきだったのか」など激しい議論となった。さらに、4回に3点を先制したもののその後無得点が続き、7、8回にも二塁に走者を送りながら追加点が取れなかった打線とそれに対する小久保の采配を責める声や、この試合のみならず大会全体を通じた采配として、牧田和久や澤村拓一、山崎康晃ら他にクローザーとしての実績のある投手が控えていながらなぜ一発勝負の準決勝でも前述のように大会を通じて好調とは言えなかった松井や増井に拘り続けたのかという声、さらにそこから派生した、パ・リーグの選手に偏った起用ではないかという声(実際に準決勝に登板した4投手は全員パ・リーグのチームに所属)、そもそも今大会の代表に選出された投手は全員先発か抑え(クローザー)の投手で、満塁のようなピンチに突如送り出されても対応できるような中継ぎ専門の投手がいなかったという選手選考に対する疑問の声もあった[93]。野球評論家の張本勲は「あれだけ良い采配をしていた人がなぜ大谷を代える? プロ野球の悪い流れなんですよ。(先発が)6、7回投げたら継投でリリーフに任せるっていう、アメリカの悪いところを真似してね。やっぱり先発完投がピッチャーの夢なんですよ」「韓国のバッターがものすごく嫌がっているんですよ。次に出てくる則本、松井もいいピッチャーです。でも、あの日の大谷はすごかったんですよ」「『最後まで投げ切れ』というのも監督の仕事なんです」とコメントし、吉井理人も「長いシーズンだと球数で交代もあるかもしれないけど、ここで負けたら終わりっていう試合だったら別ですよ」と張本の意見に賛同した[94][95][96]。また、小久保が大谷を降板させた理由について「決勝で最後に投げさせようと思ったのかもしれない」と推測しつつ、「考えが甘いですよ。これは小久保の油断だと思います」と述べた[96]。里崎智也も「球数を考えると続投させない理由はなかった。もしつかまれば、中継ぎ経験のある牧田を挟み、9回の頭から則本という手もあった。しかし、それよりも問題は今大会を通じて守護神が誰だったのかが、決まっていなかったこと」と述べ、小久保自身も「継投ミス」と自身の非を認めている[97]。一方、江本孟紀は「(選手は)プレッシャーがきついのは確か。ちょっと可哀想」と述べつつ、「一流の選手を全部集めてきて寄せ集めのチームですから、その出した選手が働いてくれる以外にない」「出された選手は最高の力を発揮するのは当たり前。起用だとか采配だとか関係ない。選手がやるしかない」「たまたま調子が悪くて打たれただけの話」などと述べ、敗因は小久保の采配ではないとした[98]。また、広岡達朗は読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題が明るみに出た際、当時巨人監督の原辰徳と小久保を比較して「巨人の首脳陣よりも、日本代表の小久保裕紀監督のほうが私にはいい采配に見えました。小久保監督はベンチの最前列に立って真剣にグラウンドに目を向け、コーチも一生懸命やっていた。首脳陣が真剣な姿勢を見せて、エースと中軸を信頼するから、選手もそれに応えて結果が出ていたんです」「ベンチに座っているだけで、気分で4番打者[99]を7、8番に下げるわけのわからない采配をする監督よりは、よっぽどマシです」と小久保の采配をある程度高く評価した[100]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994 | ダイエー | 78 | 191 | 177 | 18 | 38 | 6 | 0 | 6 | 62 | 20 | 2 | 1 | 4 | 2 | 8 | 0 | 0 | 31 | 5 | .215 | .246 | .350 | .596 |
1995 | 130 | 538 | 465 | 72 | 133 | 20 | 9 | 28 | 255 | 76 | 14 | 4 | 5 | 6 | 50 | 7 | 12 | 94 | 16 | .286 | .366 | .548 | .914 | |
1996 | 126 | 539 | 478 | 73 | 118 | 26 | 3 | 24 | 222 | 82 | 7 | 3 | 0 | 6 | 48 | 1 | 7 | 95 | 13 | .247 | .321 | .464 | .785 | |
1997 | 135 | 588 | 527 | 88 | 159 | 37 | 3 | 36 | 310 | 114 | 4 | 3 | 0 | 5 | 52 | 2 | 4 | 112 | 16 | .302 | .366 | .588 | .954 | |
1998 | 17 | 75 | 71 | 7 | 16 | 3 | 1 | 2 | 27 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 1 | 19 | 1 | .225 | .267 | .380 | .647 | |
1999 | 130 | 538 | 465 | 60 | 109 | 24 | 2 | 24 | 209 | 77 | 4 | 2 | 3 | 6 | 62 | 1 | 2 | 103 | 8 | .234 | .323 | .449 | .773 | |
2000 | 125 | 520 | 473 | 87 | 136 | 26 | 3 | 31 | 261 | 105 | 5 | 2 | 0 | 6 | 31 | 2 | 10 | 85 | 13 | .288 | .340 | .552 | .892 | |
2001 | 138 | 605 | 535 | 108 | 155 | 32 | 1 | 44 | 321 | 123 | 6 | 1 | 0 | 5 | 62 | 3 | 3 | 97 | 6 | .290 | .364 | .600 | .964 | |
2002 | 136 | 579 | 507 | 89 | 148 | 25 | 0 | 32 | 269 | 89 | 8 | 1 | 0 | 3 | 63 | 3 | 6 | 90 | 10 | .292 | .375 | .531 | .905 | |
2004 | 巨人 | 125 | 508 | 462 | 85 | 145 | 24 | 2 | 41 | 296 | 96 | 0 | 0 | 0 | 2 | 42 | 1 | 2 | 101 | 6 | .314 | .372 | .641 | 1.013 |
2005 | 142 | 592 | 524 | 77 | 147 | 25 | 0 | 34 | 274 | 87 | 1 | 1 | 0 | 1 | 62 | 0 | 5 | 114 | 11 | .281 | .361 | .523 | .884 | |
2006 | 88 | 344 | 308 | 37 | 79 | 5 | 0 | 19 | 141 | 55 | 1 | 0 | 2 | 2 | 31 | 3 | 1 | 68 | 6 | .256 | .325 | .458 | .782 | |
2007 | ソフトバンク | 124 | 514 | 466 | 70 | 129 | 26 | 0 | 25 | 230 | 82 | 2 | 4 | 2 | 2 | 41 | 4 | 3 | 103 | 9 | .277 | .338 | .494 | .831 |
2008 | 106 | 434 | 383 | 45 | 97 | 21 | 0 | 20 | 178 | 56 | 1 | 1 | 0 | 3 | 42 | 0 | 6 | 95 | 11 | .253 | .334 | .465 | .799 | |
2009 | 144 | 605 | 533 | 64 | 142 | 27 | 0 | 18 | 223 | 81 | 2 | 2 | 0 | 6 | 50 | 4 | 16 | 101 | 13 | .266 | .344 | .418 | .762 | |
2010 | 112 | 469 | 427 | 60 | 119 | 22 | 0 | 15 | 186 | 68 | 1 | 2 | 1 | 3 | 34 | 0 | 4 | 69 | 4 | .279 | .335 | .436 | .771 | |
2011 | 98 | 372 | 342 | 31 | 92 | 21 | 0 | 10 | 143 | 48 | 0 | 1 | 0 | 2 | 22 | 0 | 6 | 72 | 7 | .269 | .323 | .418 | .741 | |
2012 | 103 | 357 | 331 | 20 | 79 | 11 | 0 | 4 | 102 | 34 | 0 | 0 | 3 | 3 | 20 | 0 | 0 | 67 | 6 | .239 | .280 | .308 | .588 | |
通算:18年 | 2057 | 8368 | 7474 | 1091 | 2041 | 381 | 24 | 413 | 3709 | 1304 | 58 | 28 | 20 | 63 | 723 | 32 | 88 | 1516 | 161 | .273 | .342 | .496 | .840 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 2003年は1軍出場なし
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
年度別守備成績
年 度 |
一塁 | 二塁 | 三塁 | 外野 | ||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | |
1994 | - | 9 | 3 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | 15 | 6 | 13 | 0 | 4 | 1.000 | 51 | 69 | 3 | 2 | 0 | .973 | |||||
1995 | - | 130 | 304 | 372 | 9 | 75 | .987 | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ||||||||||
1996 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 123 | 291 | 338 | 4 | 81 | .994 | 5 | 2 | 4 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
1997 | 21 | 153 | 13 | 0 | 7 | 1.000 | 106 | 268 | 278 | 6 | 60 | .989 | 11 | 7 | 14 | 1 | 0 | .955 | - | |||||
1998 | 6 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | - | 15 | 9 | 21 | 4 | 7 | .882 | - | ||||||||||
1999 | 72 | 500 | 27 | 1 | 38 | .998 | - | 59 | 36 | 79 | 5 | 8 | .958 | - | ||||||||||
2000 | 1 | 9 | 2 | 1 | 0 | .917 | - | 119 | 78 | 196 | 4 | 14 | .986 | - | ||||||||||
2001 | - | - | 135 | 110 | 229 | 5 | 25 | .985 | - | |||||||||||||||
2002 | - | - | 135 | 101 | 199 | 7 | 16 | .977 | - | |||||||||||||||
2004 | - | - | 121 | 79 | 195 | 8 | 15 | .972 | - | |||||||||||||||
2005 | - | - | 142 | 102 | 248 | 4 | 21 | .989 | - | |||||||||||||||
2006 | - | - | 87 | 57 | 144 | 6 | 17 | .971 | - | |||||||||||||||
2007 | 6 | 58 | 5 | 1 | 2 | .984 | - | 106 | 58 | 175 | 10 | 27 | .959 | - | ||||||||||
2008 | 83 | 673 | 47 | 2 | 48 | .997 | - | - | - | |||||||||||||||
2009 | 138 | 1134 | 74 | 8 | 86 | .993 | - | - | - | |||||||||||||||
2010 | 108 | 815 | 52 | 2 | 62 | .998 | - | - | - | |||||||||||||||
2011 | 75 | 560 | 29 | 1 | 54 | .998 | - | - | - | |||||||||||||||
2012 | 90 | 654 | 47 | 3 | 44 | .996 | - | - | - | |||||||||||||||
通算 | 607 | 4559 | 296 | 19 | 342 | .996 | 368 | 866 | 995 | 19 | 217 | .990 | 950 | 645 | 1517 | 54 | 154 | .976 | 52 | 69 | 3 | 2 | 0 | .973 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
タイトル
表彰
- オープン戦最優秀新人賞(フレッシュマン大賞):1回(1994年)
- ベストナイン:3回(1995年、1997年 - 二塁手、2011年 - 一塁手)
- ゴールデングラブ賞:3回(1995年 - 二塁手、2010年 - 2011年 - 一塁手)
- スーパースラッガー賞:1回(1995年)
- 月間MVP:3回(2000年6月、2004年7月、2007年4月)
- カムバック賞:1回(2004年)
- 東京ドームMVP:1回 (2004年)[101]
- スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞:1回(2010年)
- 日本シリーズMVP:1回(2011年)
- 「ジョージア魂」賞:1回(2012年度第10回)
- パシフィックリーグ功労賞 : 1回(2012年)[102]
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1994年4月9日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、6番・右翼手として先発出場
- 初打席:同上、2回表に星野伸之の前に空振り三振
- 初安打:1994年4月10日、対オリックス・ブルーウェーブ2回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回表に野田浩司から左越二塁打
- 初打点:1994年6月26日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に小野和義から左犠飛
- 初本塁打:1994年7月5日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(北九州市民球場)、2回裏に園川一美から左越ソロ
- 初盗塁:1994年7月13日、対オリックス・ブルーウェーブ13回戦(福岡ドーム)、7回裏に二盗(投手:野村貴仁、捕手:高田誠)
- 節目の記録
- 100本塁打:1999年4月29日、対日本ハムファイターズ6回戦(東京ドーム)、3回表に岩本勉から左越2ラン ※史上202人目
- 150本塁打:2000年9月24日、対大阪近鉄バファローズ26回戦(大阪ドーム)、10回表に大塚晶文から右越3ラン ※史上116人目
- 200本塁打:2002年4月9日、対大阪近鉄バファローズ1回戦(福岡ドーム)、7回裏に関口伊織から左中間へ同点ソロ ※史上75人目
- 1000試合出場:2002年9月17日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(福岡ドーム)、4番・三塁手として先発出場 ※史上382人目
- 1000本安打:2002年9月27日、対西武ライオンズ25回戦(福岡ドーム)、1回裏に後藤光貴から左越先制2ラン ※史上211人目
- 250本塁打:2004年7月2日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、3回表に佐々岡真司から左越満塁本塁打 ※史上46人目
- 300本塁打:2005年9月10日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)、3回裏にルイス・マルティネスから左越2ラン ※史上31人目
- 1000三振:2006年9月23日、対阪神タイガース19回戦(東京ドーム)、3回裏に下柳剛から ※史上40人目
- 1000打点:2007年7月18日、対北海道日本ハムファイターズ14回戦(札幌ドーム)、5回表にブライアン・スウィーニーから左翼線適時二塁打 ※史上30人目
- 1500本安打:2007年9月15日、対北海道日本ハムファイターズ20回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、9回裏に江尻慎太郎から左前安打 ※史上94人目
- 1500試合出場:2008年4月13日、対埼玉西武ライオンズ6回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、5番・一塁手として先発出場 ※史上157人目
- 3000塁打:2008年7月22日、対オリックス・バファローズ13回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、1回裏に近藤一樹から左前安打 ※史上43人目
- 350本塁打:2008年4月30日、対埼玉西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、2回表に石井一久から左越先制ソロ ※史上21人目
- 300二塁打:2008年9月7日、対千葉ロッテマリーンズ20回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、7回裏に小宮山悟から左中間へ2点適時二塁打 ※史上50人目
- 1000得点:2010年5月3日、対オリックス・バファローズ7回戦(スカイマークスタジアム)、1回表に岸田護から左越2ランで達成 ※史上37人目
- 350二塁打:2011年4月24日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(藤崎台県営野球場)、1回裏に光原逸裕から左翼線適時二塁打 ※史上31人目
- 400本塁打:2011年5月12日、対オリックス・バファローズ6回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏にアルフレッド・フィガロから左越ソロ ※史上16人目
- 3500塁打:2011年5月15日、対埼玉西武ライオンズ6回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏に帆足和幸から右中間適時二塁打 ※史上25人目
- 2000本安打:2012年6月24日、対北海道日本ハムファイターズ9回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏にブライアン・ウルフから中前安打 ※史上41人目
- 2000試合出場:2012年6月28日、対オリックス・バファローズ12回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、6番・一塁手として先発出場 ※史上46人目
- 1500三振:2012年8月22日、対埼玉西武ライオンズ17回戦(西武ドーム)、4回表に菊池雄星から ※史上11人目
- その他の記録
- 10試合連続打点(2000年6月20日 - 7月4日)
- 210守備機会連続無失策(2001年5月13日 - 9月9日) ※三塁手としてのパ・リーグ記録
- 通算満塁本塁打:13本 ※歴代4位タイ
- ゴールデングラブ賞を再獲得するまでのインターバル最長記録:15年(1995年 - 2010年)
- 通算安打1999本目の記録日から2000本安打達成日までの日数最長記録:33日(2012年5月22日 - 6月24日)
- オールスターゲーム出場:11回(1995年 - 1997年、2000年 - 2002年、2004年、2007年 - 2009年、2011年) ※1998年、2006年にもファン投票で選出されているが、負傷のため欠場[103]
背番号
選手時代
- 8 (1992年 バルセロナ五輪、青山学院大学 学生)
- 9 (1994年 - 2003年、2007年 - 2012年福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークス)
- 6 (2004年 - 2006年、読売ジャイアンツ)
監督・コーチ時代
- 90 (2013年10月 - 2017年日本代表監督)
代表歴
- 第21回日米大学野球選手権大会 日本代表[104]
- バルセロナオリンピック 日本代表
- 第11回IBAFインターコンチネンタルカップ 日本代表
- 1993年夏季ユニバーシアード 日本代表
- 第22回日米大学野球選手権大会 日本代表[105]
- 2015 WBSCプレミア12 日本代表監督
- 2017 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督
脚注
- ↑ 三塁打と本塁打の両部門でリーグトップとなるのは、1947年の大下弘以来48年ぶり2人目の記録である。
- ↑ 朝日新聞、1998年1月12日付夕刊 (15面)
- ↑ 朝日新聞、1998年2月10日付朝刊 (31面)
- ↑ ベースボールマガジン社 『2001 ベースボール・レコード・ブック』89頁 2000年度主要記録集「小久保が10試合連続打点」より。10試合連続以上の打点は小久保で10人目。
- ↑ 小久保 巨人へ「移籍」 - 西日本新聞
- ↑ なぜだ…小久保裕紀、巨人へ無償トレード - スポニチ
- ↑ “小久保裕紀氏 巨人への電撃無償トレードの内幕を初めて語る”. NEWSポストセブン. (2013年2月4日) . 2017閲覧.
- ↑ “優勝旅行ボイコットへ ダイエー選手会が表明”. 47NEWS (2003年11月9日). . 2013閲覧.
- ↑ 『中日新聞』2003年11月4日朝刊33面「小久保 巨人へ移籍 - 主砲 異例の無償トレード」「ナイン 球団不信あらわ - 松中『連覇への気持ち薄れた』」
- ↑ A4STUDIO (著) 『決定版 ジャイアンツ大百科 』2015年、20頁。
- ↑ 2006年試合結果 - 読売巨人軍公式ホームページ
- ↑ 2004年にダイエーから買収
- ↑ 2008年9月試合結果 - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
- ↑ ホークスの主将制度は、2002年の秋山幸二以来7年ぶりに復活。
- ↑ 2010年6月試合結果- 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
- ↑ “小久保 首痛で登録抹消「スイング自体が厳しい」”. スポニチ (2011年9月17日). . 2011閲覧.
- ↑ ソフトB小久保MVP最年長40歳/日本S
- ↑ 小久保抹消 「最短で戻る」 腰椎椎間板ヘルニア判明 - 西日本新聞、2012年5月26日
- ↑ 【ソフトB】小久保が2000安打達成 - nikkansports.com、2012年6月24日
- ↑ 2000本安打までのあと1本でのインターバル33日間はプロ野球での史上最長記録となった。
- ↑ 400本塁打と2000安打を両方達成したのは史上14人目で、大卒では長嶋茂雄、山本浩二、金本知憲に次ぐ史上4人目となった。
- ↑ 小久保が現役引退表明 6月に通算2千安打達成 産経新聞 2012年8月14日閲覧
- ↑ 「ありえへん」小久保10年ぶり2打席連発ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
- ↑ 小久保今日引退試合「ちゃんと勝負して」ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
- ↑ 小久保の“ガチで来い”に応えた 西「どう喜んでいいのか」スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧
- ↑ 【ソフトB】小久保41歳誕生日に引退試合ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
- ↑ 2012年10月19日北海道日本ハム対福岡ソフトバンクソフトバンク球団公式サイト
- ↑ 朝日新聞 2012年10月20日
- ↑ コミッショナー公示(29日)スポーツナビ、2012年11月29日閲覧。
- ↑ 「退任のご報告」 - 小久保裕紀オフィシャルサイト
- ↑ )書籍|小久保裕紀 小久保裕紀オフィシャルサイト
- ↑ “3位終戦の小久保監督「戦い続けてくれた選手たちに敬意を」”. スポーツニッポン. (2015年11月21日) . 2015閲覧.
- ↑ “WBC 小久保監督、退任へ「これで契約満了ということ」”. 毎日新聞. (2017年3月22日) . 2017閲覧.
- ↑ 白夜書房『野球小僧プロ野球&世界野球選手名鑑 〈2012〉』2012年、23頁。
- ↑ 35.0 35.1 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、224-225、234頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ↑ スポーツ千夜一夜 - 時事ドットコム
- ↑ 37.0 37.1 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクトムック、2008年、340-341頁。ISBN 978-4-7572-1439-2。
- ↑ 自主トレメッセージリレー第2弾〜細川選手・馬原投手・小久保選手〜 - 夢空間スポーツ
- ↑ 小久保裕紀 「野球とは、」 - 夢空間スポーツ
- ↑ 「一瞬に生きる」 - 読売教養講座
- ↑ 小久保選手、ヒットよりアーチだ! - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
- ↑ 野球漬けでも授業も真剣=福岡ソフトバンクホークス選手・小久保裕紀さん - 毎日新聞
- ↑ 有名人スポーツワンポイント講座 - JS日本の学校
- ↑ チャリティー祝賀会 - 山本華世の人生旅行騒動記
- ↑ “遠藤久美子のHappy new day”
- ↑ 笑っていいとも - 小久保選手からのmessage
- ↑ 福岡ソフトバンクホークス小久保選手 - crystal boyオフィシャルブログ
- ↑ SMAP - 小久保選手からのmessage
- ↑ 小久保裕紀の読書遍歴 『野球小僧』6月号、白夜書房、雑誌18801-6、94-99頁。
- ↑ 良いお年を・・・ - 小久保選手からのmessage
- ↑ 小久保選手のバットを再利用した「My箸」&「靴べら」が遂に登場!! - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
- ↑ 松っちゃんのスポーツの現場〜iPhoneの秘密〜 - 夢空間スポーツ
- ↑ 2006年11月26日放送J-SPOより
- ↑ 王監督と選手たちの絆 - 夢空間スポーツ
- ↑ 西日本新聞2012年4月28日付
- ↑ 修行 - 小久保選手からのmessage(写真館)
- ↑ スポーツ選手は目も鍛えなきゃ 〜 心、技、体そして目 - menosite.com
- ↑ エンタメ - パシフィック・リーグ公式サイト
- ↑ 小久保、ドラキュラ姿でファンサービス - 日刊スポーツ
- ↑ 鷹&楽天が合同チャリティーイベント - サンスポ
- ↑ ソフトバンク選手ら、震災チャリティー企画に参加 - 朝日新聞(2011年3月26日)
- ↑ 社団法人日本プロ野球選手会歴代理事長 - 日本プロ野球選手会 公式ホームページ
- ↑ “小久保先生”初授業で明かした「最後は高校野球の監督に」 - スポニチ
- ↑ 64.0 64.1 『プロ野球4番打者―データが明かす最強バッターの凄さ』 別冊宝島、2000年。
- ↑ 小久保30球場制覇 帯広で快カ〜ン2号 - 西日本スポーツ
- ↑ 小久保裕紀「野球とは、」 - 夢空間スポーツ
- ↑ 青山学院スタイル・インタビュー - 読売新聞
- ↑ 小久保3億円現状維持 来季も一塁死守 - スポニチ
- ↑ 鷹・小久保「1つも負けるつもりない」
- ↑ 【ソフトB】Vへ円陣からの〜?/日本S
- ↑ 小久保主将が語る。「今年は必ず日本一」
- ↑ 座談会 青学スポーツの「強さ」と「魅力」 - 青山学院大学
- ↑ 河原井正雄著書「感涙の闘将」より
- ↑ 【月刊ホークス別冊】ありがとう小久保裕紀-プロ19年の軌跡-
- ↑ 2007年 vol.1「小久保裕紀特集」 - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
- ↑ 新エンブレムの“巨人”の名前は「G-KING」 - 読売巨人軍公式ホームページ
- ↑ キャンプ目前、合同自主トレ開始 - 読売巨人軍ホームページ
- ↑ Arizona2007 - 小久保選手からのmessage(写真館)
- ↑ FD定岡監督 鷹のまな弟子語る - 高知新聞
- ↑ チームリーダー66〜斉藤和巳〜 夢空間スポーツ
- ↑ 高校野球指導の元プロ選手 女生徒気になる球児の意識を指摘 - NEWSポストセブン
- ↑ 西日本新聞2012年5月6日付
- ↑ 小久保の背中を追って。松田宣浩、成長の理由。 - Number Web
- ↑ 内川会心の逆転弾、守備も2か月ぶり完全復活 - 読売新聞
- ↑ 【ソフトB】内川、3年ぶりキャプテン制復活!小久保魂を継承だ - スポーツ報知
- ↑ 川崎 小久保になったつもりで逆転の2点適時打 - スポニチ
- ↑ 激震の11月3日 小久保裕紀特集
- ↑ 「勝ちたくないのか」 - 西スポ
- ↑ 王監督「チーム崩壊する」 - 西スポ
- ↑ 中内オーナー 移籍騒動 釈明に必死 王監督と会談2時間「沈静化させる」 西スポ
- ↑ おかえりなさい小久保ホークス - 日刊スポーツ号外PDF
- ↑ 小久保裕紀 4年ぶり復帰 夢空間スポーツ
- ↑ 「イニング跨ぎ」と「満塁」、スペシャリストは誰?THE PAGE2015年11月23日11時0分配信
- ↑ 「韓国キラーの大谷をなぜ降ろした」「日本は首脳陣のせいで負けた」=台湾のファンも日本の継投に首かしげるレコードチャイナ2015年11月20日11時20分配信
- ↑ 張本氏、小久保采配に“喝”「考えが甘い」 韓国には「あっぱれ」(1/2頁)サンケイスポーツ2015年11月22日12時57分配信
- ↑ 96.0 96.1 張本氏、小久保采配に“喝”「考えが甘い」 韓国には「あっぱれ」(2/2頁)サンケイスポーツ2015年11月22日12時57分配信
- ↑ 本郷陽一、「プレミア12。日本は小久保監督の采配ミスで韓国に負けたのか」、THE PAGE、2015年11月20日12時50分配信、2018年6月20日閲覧。
- ↑ 侍ジャパンの逆転負け。小久保采配に江本孟紀氏は「たまたま打たれただけ」ライブドアニュース2015年11月21日7時5分配信
- ↑ 当時不振に陥っていた村田修一を指す。この年の村田は開幕を5番で迎えたが不振に喘ぎ、開幕8試合目に8番に降格、以降試合に先発出場しても下位打線を打つことが多かった(参照:巨人・村田が8番に降格 開幕7試合で打率1割5分4厘の不振 full-count、2015年4月4日)。
- ↑ 広岡達朗氏 巨人の首脳陣よりも侍J小久保裕紀氏の采配評価 news ポストセブン
- ↑ 東京ドームMVP賞 - 東京ドームシティ公式サイトより
- ↑ 小久保氏にパ功労賞 - 日刊スポーツ
- ↑ 2006年:ベースボール・マガジン社 『2007 ベースボール・レコード・ブック』958頁。
- ↑ “第21回日米大学野球選手権大会 オールジャパンメンバー”. 公益財団法人全日本大学野球連盟. . 2017閲覧.
- ↑ “第22回日米大学野球選手権大会 オールジャパンメンバー”. 公益財団法人全日本大学野球連盟. . 2017閲覧.
関連項目
外部リンク
- 小久保裕紀 - 株式会社ジャパン・スポーツ・マーケティング
- 小久保裕紀オフィシャルサイト - 公式サイト
テンプレート:ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督
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- 青山学院大学硬式野球部の選手
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- 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
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- 打点王 (NPB)
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- 野球のオリンピックメダリスト
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- 野球解説者
- 日本の野球監督
- 和歌山県出身の人物
- 1971年生
- 存命人物