西日本スポーツ
西日本スポーツ(にしにっぽんスポーツ)は福岡県福岡市の西日本新聞社から発行されているスポーツ新聞。略称は西スポ。
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概要
1955年(昭和30年)2月21日、九州で初のスポーツ新聞[1]として創刊。九州各県(主に北部九州地方)のスポーツ(主に福岡ソフトバンクホークス、アビスパ福岡、大分トリニータ、サガン鳥栖、ロアッソ熊本、ギラヴァンツ北九州、V・ファーレン長崎)の情報に力を入れている。フクニチ新聞が発行していたフクニチスポーツが廃刊されるまでは、福岡県内においては西スポ・フクスポで熾烈な読者獲得争いが繰り広げられていた。
特に福岡ソフトバンクホークスについては、他に大きな出来事があっても、1面に持ってくるほど力を入れており、2006年からは「1面から3面まで…まるごとホークス!!」と銘打って、従来よりもさらにホークス情報に力を注いでいる(過去にキャッチフレーズとして「野球はホークス、新聞は西日本!」というものがあった)。現在は一面の「西日本スポーツ」題字の発行所住所の下に「ホークス情報満載!」と表記されている。
西鉄ライオンズの投手だった稲尾和久の通称として知られる“神様・仏様・稲尾様”は、当紙の見出しで表記されたのが最初である。
中央競馬面は中日スポーツからの記事・予想提供で編集。芸能・社会面、福岡ソフトバンク以外のプロ野球面、北部九州地区以外の一般スポーツ面は西日本新聞社と同じブロック紙3社連合に加盟する中日新聞社が発行する東京中日スポーツから記事・紙面を提供されている。(2015年7月より芸能・社会面は神戸新聞社が発行するデイリースポーツからの記事・紙面へと変更された。)中央競馬面は2013年4月1日付まではサンケイスポーツ(大阪本社版)が製作していた。(それぞれの記事の字体がサンスポやトーチュウと同じであるところから判断できる[2])。
松本零士の漫画「新竹取物語 1000年女王」を産経新聞と同時連載していた(この連載があった当時、産経新聞が九州地区では発行されていなかったため。[3]また松本は福岡県出身である。)。
創刊当初はアダルト面もあったが、後に廃止されている。
西スポは中日スポーツ、東京中日スポーツ、デイリースポーツの3紙との共同連載企画や、4紙共同の読者プレゼント企画「アタック4」を実施するなど、ブロック紙・地方紙系スポーツ紙との連携を強めている。
発刊の経緯と功績
西日本パイレーツの経営問題で、読売及び巨人軍首脳に煮え湯を呑まされた西日本新聞社首脳は、当時デイリースポーツを売っていたが、他のスポーツ新聞を売るくらいなら、ライオンズを中心に据えた新聞を作って売ればいいんじゃないか、という考えから、試合の主催及び広告、宣伝面でライオンズを支えるため、新しいスポーツ新聞の発行を計画した。
当時はテレビも普及していない時代であり、球場で野球を観戦するとも限らなかった。多くの人にとってライオンズの情報は新聞やラジオなど限られた情報手段に頼っていた。西日本スポーツの発行で九州全域にファンを増やし、同時に読者を獲得していきたいと言う狙いがあった。
もともと九州は、野球ファンの多い広島や四国、名古屋などと違って、どちらかといえば野球に対して冷めた土地柄であった。それは、春夏の甲子園大会に象徴される戦前の中等学校野球大会、戦後の選抜、夏選手権で全国制覇を狙える強いチームが少なかったせいでもあるが、そのため野球ファンの熱気がそのままプロ野球人気になだれ込むとい構図にはならなかった。ところが、そうした土壌の外側から、西日本スポーツはプロ野球人気という熱気を、ライオンズファンの獲得という形で九州に吹き込んでいった[4]。
コラム「斜光線」
かつて1面に三行風刺コラム「斜光線」があって人気を博していたが、球団や選手を中傷することもたびたびあり、読者から抗議の電話が寄せられることも少なくなかった。2001年4月25日付けのコラムで阪神タイガースの野村克也監督と日本ハムファイターズの大島康徳監督を中傷する記事を掲載して、両球団から抗議があり、2001年4月29日限りで打ち切りになった。
投書コーナー「FAXプラザ」
1990年頃にスポーツ新聞では初となる投書欄「FAXプラザ」が設けられた。投稿者のほとんどは、ラジオ番組のハガキ職人で構成されていた。現在ではエフエム滋賀やエフエム石川で放送作家として活躍している投稿者もいた。画期的なコーナーだったが、憂さ晴らしで投書する読者が少なくなかったことと、投稿者の住所を詳しく載せていた(「福岡県」や「別府市」などの表記でなく、「滋賀県大津市西ノ庄」となっていた)事で、投稿者の家に不幸の手紙が舞い込んでいた事、デスクが投書欄の縮小を図ったことに加え、98年に発覚した福岡ダイエーホークスのスパイ行為で、正常な状態を維持する事ができなかった事から、自然消滅した。
レース欄について
- 競艇欄は福岡競艇は1ページ分、芦屋競艇場、若松競艇場、唐津競艇場、大村競艇場、下関競艇が2分の1サイズ、徳山競艇場は4分の1サイズとなっている。ビッグレースの時はどの競艇場を問わずサイズが拡大される。なお、レース結果は6着までの着順を載せている。
- 補足として九州地区のスポーツ新聞の競艇欄は全国の競艇場の成績を掲載している。ただし3着までの成績である。
- 競輪欄は小倉競輪場、久留米競輪場、武雄競輪場、佐世保競輪場、熊本競輪場、別府競輪場が2分の1サイズ、防府競輪場は4分の1サイズとなっている。GIレースとKEIRINグランプリの場合は拡大される。
- 地方競馬は佐賀競馬場、オートレースは山陽オートレース場と飯塚オートレース場とも4分の1サイズとなっている。
野球評論家
脚注
- ↑ 同じ時期に、スポーツニッポン(毎日新聞系)が西部本社版を創刊したが、九州に本社を置く地方新聞社では初めて。ブロック紙及び地方紙系の新聞社が発行するスポーツ新聞としてはデイリースポーツ(神戸新聞社)、中日スポーツ(中日新聞社)に次いで3番目に創刊した。
- ↑ 同じことは道新スポーツ(北海道新聞社)でも言える。北海道の地場記事以外のサンスポ提供記事の字体がサンスポ本体と同じであるため
- ↑ 但し、西日本新聞エリアセンターへの委託販売という形で大阪本社発行で夕方18時(午後6時)締め切りの早版(6版)が発売されていた。2009年10月1日付から九州・山口特別版を創刊させ、従来通り西日本新聞エリアセンター(※北九州市やその他の九州・山口地区は、毎日新聞販売店)からの配達が行われる。なお競馬面で提携していたサンスポの九州・山口版の発行は当面ない。
- ↑ 立石泰則『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』文藝春秋、1999年、159-163、196、197頁
沿革
- 1955年2月21日 創刊。創刊当初は当時、福岡を本拠としていた西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の報道が主体のスポーツ紙だった。
- 1989年4月1日 紙面を九州のスポーツ紙では初めてカラー化。
- 2009年3月31日 西日本新聞と共に山口県(一部除く)に於いての販売を終了。
- 2013年4月1日 中央競馬面が、これまでのサンケイスポーツ(大阪本社版)の制作記事から中日スポーツの制作記事に切り替わる。
- 2015年7月1日 芸能・社会面が、これまでの東京中日スポーツの制作記事からデイリースポーツの制作記事に切り替わる。
- 2018年3月31日 西日本新聞と共に宮崎県、鹿児島県に於いての販売を終了[1]。
関係紙
発売地域
出典
- ↑ “西日本新聞、宮崎と鹿児島で発行休止…部数減少”. 読売新聞. (2017年10月13日) . 2017閲覧.