桑原征平
桑原 征平(くわばら しょうへい、1944年5月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。ニックネームは「征平さん」(もしくは「征平ちゃん」)で、2015年度からは種智院大学人文学部の客員教授を務める。
1969年8月から2004年5月までは、アナウンサーとして関西テレビに勤務。2004年度から2014年度までは、アナウンサーとして活動するかたわら、大阪芸術大学で客員教授や教授を歴任した。また、一時は「丹後ふるさと観光大使」(京都府)も務めていた。
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来歴
京都府京都市右京区西院の出身で、京都で「水泳一家」として知られた家庭の三男として出生した。高校進学の際には、2人の兄の母校でもある京都市立西京高等学校商業科を受験するも不合格。結局、私立京都西高等学校(現在は京都外大西高等学校)を経て、2人の兄の母校でもある成城大学経済学部に進学した[1]。
学生時代には、競泳や水球の選手として活躍。男子200mバタフライでは京都府の中学生記録を5年間保持していたほか、中学校時代には同種目で東京オリンピック(1964年)の日本代表候補選手になったこともある。高校時代にも3年連続で、国民体育大会の競泳・バタフライ種目に京都府代表で出場している[2]。
ちなみに、中学校時代の同級生に、山本忠男(元・南海ホークス内野手・コーチ、三星ライオンズコーチ・監督)や桧山進次郎(元・阪神タイガース外野手)の伯母などがいる。桧山本人も、出身小学校の後輩である。京都西高校水泳部の同期生にお笑い芸人・宮川大輔(以下「大輔」と略記)の実父、成城大学水球部時代の同期生にピン芸人・TAIGAの実父がいた関係で、大輔やTAIGAとも幼少期から親しい[3]。
酒問屋の営業マンからアナウンサーへ
成城大学を卒業後は、当時「黄桜クラブ」という水球部を擁していた黄桜酒造からの預かり社員として、高島屋と縁の深い大阪市内の酒問屋・祭原(さいはら、2001年に菱食へ吸収合併、現在は三菱食品)に入社。かつて南海の選手だった上司に仕えながら、酒やクーポンサービスの営業マンとして勤務するとともに、社長の仲人によってTAIGAの実父(前述)のいとこ(現在の妻)と結婚した。また、「黄桜クラブ」の選手として、水球の全日本選手権で優勝している[4]。
しかし、結婚1ヶ月後の営業活動中に、休憩のつもりで立ち寄った大阪ガスビル内の喫茶店で「サンケイスポーツ」の関西テレビアナウンサー募集記事を偶然目にした。この一件をきっかけに、妻や祭原の関係者に内緒で、同局の中途採用試験へ挑戦[5]。1969年(昭和44年)8月に、約750人の応募者の中から、杉山一雄と共に関西テレビへ採用された。関西テレビ初の中途採用アナウンサーで、この年の新卒採用組に、上沼真平(上沼恵美子の夫、元プロデューサー)、千草宗一郎(元社長)、荒田静彦(元カメラマン、現在は系列局・鹿児島テレビ放送の社長)などがいる。
桑原が中途採用試験を受けた1969年の関西テレビでは、正社員の定期採用を実施しなかった。しかし、地元で大阪万博の開催を控えていたことや、関西テレビと同じフジネットワークへの加盟を前提にしたUHF局の開局が九州で相次いだことから方針を転換。大阪万博に関する自社制作番組への出演や、九州のUHF新局への派遣[6]を視野に、アナウンサーを大量に確保する必要に迫られていた。
「テレビ局見学のつもりで受験した」という桑原は、受験資格に「標準語を話せる者」との条件がありながら、最終面談(6次試験)で社長から「自分自身の欠点は?」と聞かれて「欠点は標準語が話せない」と回答。しかし、試験官を務めた当時の制作担当常務から、「(桑原の話す)京都弁こそ100年前までは標準語だった」「おもろいやっちゃ(面白い奴だ)」という言葉を掛けられた。結局、人事部長から「研修の3ヶ月間で標準語のアクセントを身に付けられなければ(酒問屋・祭原所属時代に経験のある)営業職へ異動」という趣旨の同意書に一筆記すことを条件に、アナウンサーとして採用された。ちなみに、アナウンサー試験を受けたことを妻や祭原の関係者に打ち明けたのは、採用の通知後であった。当時の祭原の社長からは転職を強く反対されたため、関西テレビ入社の条件であった祭原の退社証明書を同社から発行してもらうために、先代社長の親戚筋へ周到な根回しを重ねたという。
桑原は関西テレビの入社直後から、「どうにかしてアナウンス室にとどまりたい」との一心で、自分へ仕事を回すよう制作部の部長へ直談判。(通常はアシスタントディレクターや若手芸人が担当する)公開放送の前説、関西テレビ本社で撮影していた江原真二郎出演のドラマ(タイトル不詳)のエキストラ、大阪万博の会場内で関西テレビの重役や取材スタッフを運搬する電気自動車の運転手などを務めながら、次第に番組出演の機会を増やした。
関西テレビアナウンサー時代
桑原の名が全国に知られるようになったのは、関西テレビ制作の全国ネット番組『ハイ!土曜日です』にレギュラーで出演してからである。当初はスタジオアシスタントに過ぎなかったが、1975年(昭和50年)から毎週担当したVTR取材コーナー『征平の挑戦』において、日本各地や世界各国で体当たりレポートを敢行(後述)。危険を顧みないほどのバイタリティー、喜怒哀楽を露わにしたリアクション、濁声の絶叫などで全国に名を知られるようになった。
1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)3月までは、関西テレビと関連会社・ラジオ大阪(OBC)による相互交流企画の一環として、当時の関西テレビアナウンサーから唯一ラジオ大阪の番組にレギュラーで出演。『みんなでみんなでリクエスト バンザイ!歌謡曲』(同局が当時阪神百貨店梅田本店内のサテライトスタジオから放送していた生ワイド番組)の木曜日に、浅川美智子とともにパーソナリティを務めた[7]。
『ハイ!土曜日です』の終了後も、後継番組の『DOサタデー』『モーニングスタジオ・土曜!100%』(以下『土曜100%』と略記)や、関西テレビ制作・全国ネットのクイズ番組『クイズDEデート』で司会を担当した。1985年(昭和60年)4月からは、その人気に注目したフジテレビ(関西テレビのキー局)からの強い要請で、アナウンサーのまま東京支社編成部へ異動(後述)。1987年(昭和62年)3月までの2年間、フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』で司会を務めた。この時期には、関西地方で大きな事件やブームが続発。関西から単身で東京へ赴任していた桑原も、実際には取材リポーターとして頻繁に関西へ戻っていた。
1987年4月に本社へ復帰してからは、『ハイ!土曜日です』の放送枠で、『土曜大好き!830』『土曜ぴーぷる』の司会を担当。『めざましテレビ』の中継コーナーにリポーターとしてレギュラーで出演するなど、全国ネット・関西ローカルを問わず、関西テレビの看板アナウンサーとして情報・バラエティ番組を中心に活躍した。
また、横山ノックが参議院議員選挙や大阪府知事選挙への出馬で『ノックは無用!』(関西ローカルの生放送)への出演を見合わせた期間には、ノックの代役として高校の先輩・上岡と共演[8]。ただし、競馬実況で知られた先輩アナウンサー・杉本清とともに定時ニュースを担当する機会はほとんどなかった(後述)。1990年3月末に毎日放送で放送された『あどりぶランド』(同局アナウンサー総出演のテレビ番組)300回記念スペシャルには、杉山や中島優子(いずれも当時の同僚アナウンサー)とともに、局の垣根を越えてゲストで出演している。
2004年4月から大阪芸術大学の客員教授へ就任した後に、同年5月14日で関西テレビを定年退職。杉本に次ぐ「局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー」(管理職扱いの専門職)として、局アナ人生を全うした。関西テレビでは、桑原の退職翌日(5月15日)に、前代未聞の定年退職記念特別番組『さらば征平・最後の挑戦!』を生放送。後輩のアナウンサーや、『土曜大好き!830』で共演した板東英二や香坂みゆきなどをスタジオに迎えて、『征平の挑戦!』のダイジェストや定年間際での挑戦(東尋坊からのダイビング[9]やマチュ・ピチュでのグッバイボーイ経験など)の模様を放送した。同番組は、関西ローカルでの放送ながら、2004年度の日本民間放送連盟賞でテレビ番組部門のエンターテインメント番組最優秀賞を受賞した[10]。また、大きな反響を得たことから、以降も2度にわたって放送している。
フリーアナウンサーへの転身後
桑原は、関西テレビからの定年退職の前後に、ライバル局の朝日放送(現:朝日放送テレビ)やテレビ大阪(TVO)からテレビ番組へのレギュラー出演を打診。テレビ大阪では、関西テレビからの退職を機に、『征平・宮根のヨソ様の事情』(朝日放送〈所属当時〉を退社したばかりの宮根誠司との共同司会によるレギュラー番組)を放送することが内定していた。しかし、関西テレビからの報道発表で事情を知った当時の関西テレビ社長・出馬迪男が、桑原に対して定年退職後から5年間の専属出演契約を提案。その結果として、テレビ大阪制作番組への出演を容認することを条件に、「メディアプルポ(同局の関連会社)所属のゼネラル・エキスパート・アナウンサー」扱いで関西テレビの番組出演を優先する契約を結んだ。
上記の経緯から、関西テレビでは契約期間満了の2009年まで、アナウンス室に桑原専用のデスクを設置。テレビ大阪では2005年4月から、関西ローカルの冠番組(『征平・宮根のヨソ様の事情』→『征平・宮根のクチコミぃ!?』)で、宮根と共に司会兼リポーターを務めていた。さらに、テレビ・ラジオ兼営局である朝日放送では、上記の契約がラジオ番組への出演にまで及ばないことに着目(後述)。退職直後の2004年6月から、桑原を朝日放送ラジオのパーソナリティに起用するとともに、ラジオでは自身初めての冠番組として『桑原征平粋も甘いも』(以下『粋甘』と略記)の放送を開始した。
テレビ番組については、『征平・宮根のクチコミぃ!?』へ出演していた2006年に、テレビ東京系列で1月2日に放送された正月特別番組『第2回全日本パフォーマンス人文字大賞』でテレビ大阪チームのリポーターとして登場。フジテレビ以外の在京テレビ局が制作する全国ネット番組へ初めて出演した。しかし近年は、出演番組を関西ローカルに限定。2009年4月から半年間『アップ&UP!』(当時関西テレビで放送されていた情報番組)のリポーターを務めたことを最後に、レギュラー出演の機会が途絶えている。
その一方で、朝日放送ラジオでは2004年10月から、『粋甘』を「ラジオのゴールデンタイム」とされる平日昼間の生ワイド番組へ移行した。現在では、週2回放送の『粋甘』に加えて、『征平・吉弥の土曜も全開!!』(土曜日の生ワイド番組、以下『土曜も全開』と略記)や『征平・あさおのどす恋ラジオ』(事前収録による平日夕方のラジオショッピング番組、以下『どす恋ラジオ』)でもパーソナリティを担当。2015年9月までの『どす恋ラジオ』では、「征太郎(しょうたろう)」というキャラクターで、パートナー・高野あさおとの掛け合いによるショートコントを披露していた[11]。2011年と2014年には、同局の看板番組『おはようパーソナリティ道上洋三です』で、夏期休暇中の道上洋三の代役としてメインパーソナリティを担当。同局の制作番組では新年最初の生放送番組になる『新春スーパーワイド』では、2013年から第1部(5:00 - 11:00)のメインパーソナリティに起用されている。
2012年には、フリーアナウンサーに転身してから3019日を経過した9月12日に、転身後初の著書として『3019(さんれいいちきゅう)桑原征平』を発売。また、宮川大輔の一族を取り上げた『ファミリーヒストリー』(10月8日にNHK総合テレビで放送)の証言ゲストとして、NHKの番組に初めて登場した。
2014年の誕生日で70歳に達したため、同年度限りで大阪芸術大学を定年退職。2015年には、3月15日に万博記念公園で開催の「ABCラジオ スプリングフェスタ2015」で「公開断髪式」に臨んだ(詳細後述)。同年4月以降は、フリーアナウンサーとしての活動と並行しながら、地元・京都にある種智院大学の社会福祉学部で客員教授を務める。同年7月には、メインパーソナリティを務める『粋甘』が、2015年日本民間放送連盟賞の近畿地区・ラジオ生ワイド部門最優秀賞を受賞した[12]。
趣味・人物
- 趣味は、全国各地の温泉巡りと世界各地の石の収集。『征平・宮根のクチコミぃ!?』の温泉ロケでは、入浴中にお湯を指で少し舐めただけで、お湯のおおよそのpHを当てる特技を度々披露していた。
- 温泉巡りについては、2016年2月までに、600ヶ所以上の温泉を訪問。関西テレビのアナウンサー時代に、「征平の挑戦」のロケ直後に入ったという奥鬼怒温泉を、「最高の温泉」に挙げている。
- 温泉巡りを始めたきっかけは、成城大学水球部での活動にある。征平によれば、野沢温泉にあった温水プールで合宿を実施していたことや、日本各地の高校生に対するスカウティング中に温泉地へたびたび宿泊していたことが影響しているという。
- 関西テレビのアナウンサー時代には、リポーターを担当した番組で、日本国内の温泉地をロケ地にたびたび指定していた。同局が社員の保養所として使用していた白浜温泉内のマンションの1室を売却した際には、9名の社員(当時プロデューサーだった梁典雄など)と共同でその部屋を購入。管理費を共同で負担しながら、別荘代わりに使っていた(現在は売却済)。
- 京都での学生時代には、名門のスイミングクラブとして知られる「京都踏水会(とうすいかい)」に通いながら、水泳の腕を上げた。現在でも週に3日は、自宅近くのスポーツクラブのプールを利用。自分でタイムを図りながらプールを全速力で泳ぐことによって、アナウンスに必要な心肺機能や舌の筋力を鍛えているという[13]。また、関西テレビのアナウンサー時代に番組取材を通じてヨガを体験したことをきっかけに、就寝前のヨガを日課にしている。
- 71歳だった2015年12月9日(水曜日)には、長岡スイミングスクール[14](京都府長岡京市)内のプールで、『征平・吉弥の土曜も全開!!』の特別企画「どちそそ・冬の陣〜どっちが勝てるでSHOW〜」として50m自由形のタイムトライアルで桂吉弥(当時44歳)と対決。『粋甘』の本番終了後に対決へ臨んだにもかかわらず、タイムは36秒37で、37秒50の吉弥を上回った[15]。
- 長年にわたってマスターズ水泳への出場を固辞してきたが、73歳だった2017年7月には、「1回限り」という条件で第34回日本マスターズ水泳選手権大会(東和薬品RACTABドーム)・70歳以上の部2種目に出場。男子25mバタフライで優勝(タイムは17秒21)、男子50m自由形で2位(タイムは35秒21)という好成績を残した。
- コーヒーや牛肉(ハンバーガーなど)が好きな一方で、酒問屋の祭原に勤務した経験を持つにもかかわらず、酒を一滴も嗜まない。また、豚肉を食べられず、鶏肉料理も唐揚げ以外は食べない。また、桑原曰く、少年時代から一貫してふんどしを着用しているという。
- プロボクシング、プロ野球、プロレスの観戦が好きで、『Sports Graphic Number』を愛読。メジャーリーグへの関心も高い[16]。大阪市内で開催されるプロボクシングのタイトルマッチ(井岡一翔や長谷川穂積などが出場する試合)を在京の民放テレビ局が全国に向けて中継する場合には、朝日放送関係者からの計らいによって、リング付近の招待席で観戦する桑原の様子が中継映像で見られることもある。
- 少年時代からのボクシング好きが高じて、関西テレビへの入社直後には、スポーツ中継を担当するプロデューサーに対して「(本業の)アナウンスでなくても構わないので、(同局が制作を担当する)ボクシング世界戦の全国向け中継で何か仕事をさせて欲しい」と直談判。その結果、入社1ヶ月目にあった中継で、先輩のスポーツアナウンサー・塩田利幸のアシスタント(塩田が担当した勝者インタビュー用マイクのケーブル裁き)を務めた。もっとも桑原は、「アナウンサーは出演するテレビ番組で顔や名前を知られてこそナンボ(価値がある)」という考えから、スポーツ実況の道を志したことが一切なかったという。
- 関西テレビアナウンサー時代の1974年11月28日には、同局のスタジオから『スター千一夜』(フジテレビ制作・全国ネット番組)に生出演。当時のWBC世界ライト級チャンピオンで、放送の直前に大阪府立体育会館のタイトル防衛戦でロドルフォ・ゴンザレスに勝利したばかりのガッツ石松のインタビュアーを務めた。両局がこの試合のテレビ中継を担当したことを背景に、「スポーツアナウンサーではないがボクシングに詳しい」という理由での起用であった。
- NPBの球団については、実父が南海ファンだった影響で、京都での学生時代まではもっぱら南海を応援[17]。しかし、関西テレビへの入社直後に太田幸司が近鉄バファローズへ入団したことをきっかけに、近鉄バファローズのファンになった。現在は、近鉄出身の礒部公一と岩隈久志が球団発足時に加入した東北楽天ゴールデンイーグルスのファンであることを公言している。
- 従妹の子(母の弟の娘の娘)がアマナキ・レレィ・マフィ(NTTコミュニケーションズシャイニングアークス所属のラグビー選手・ラグビー日本代表)と結婚した2015年からは、ジャパンラグビートップリーグが関西地方で開催するシャイニングアークスの試合もたびたび観戦。同じスポーツクラブを利用する縁で、ラグビー日本代表や神戸製鋼コベルコスティーラーズで長年にわたって活躍した大畑大介とも面識がある。
- 祭原に入社してから現在に至るまで、折々の勤務先や仕事先で配布される手帳に仕事の内容やスケジュールを記入することを日課にしている。『粋甘』木曜日の14時台に放送される「征平の、私は忘れない」で、「取材手帳で振り返る○月○日(○は放送日の日付)」と称して、手許に残っている手帳から折に触れて過去の出来事を事細かに語ることも多い。
家族・親族
次兄は、水球の日本代表選手として1964年東京オリンピック・1968年メキシコオリンピック・1972年ミュンヘンオリンピックに出場した桑原重治(元・水球日本代表監督。2007年死去)[18]。長女は桑原菜穂子(元フジテレビディレクター)で、菜穂子の弟に当たる桑原達秋(福井テレビ局員、元・同局アナウンサー)が長男である。
親族には、マフィ、TAIGA・近江知永夫妻、テレビカメラマンの柿内孝文(菜穂子の夫)などがいる。また、自身の孫(柿内・菜穂子夫妻の3人の息子)は、小学生でありながらyoutuberとしても活動[19]。その関係で、孫がYouTubeへ投稿する動画に、桑原、宮川大輔、宮川の父親、マフィが登場することもある。長男の達秋も男児が1人いる。
エピソード
桑原は、『粋甘』や『土曜も全開』で、自身のエピソードを度々披露している。ただし以下では、自著『生きてるだけで丸もうけ』(2005年、ぴあ)や『3019桑原征平』での記載内容を中心に紹介する。
学生時代
- 実父の栄は、大日本帝国陸軍の一員として日中戦争へ従軍。復員後に京都で征平を授かってからは、京都府警西陣警察署(現在の上京警察署)の巡査・島津製作所の総務課長・布団店の経営など、数々の職業や事業を経験した。永眠する前には、日中戦争当時の状況を克明に記した「従軍日記」を製本。2014年8月から2015年3月までの『粋甘』木曜日では、「征平の、私は忘れない」[20]のシリーズ企画として、「これが戦争だ! 親父の陣中日記」(征平の朗読を通じて日記の内容を紹介する企画)を放送していた。
- 征平自身は、「陣中日記」を発見するまでの出演番組や著書で、成城大学への進学で故郷・京都を離れるまで事あるごとに兄弟と同じように、栄から理不尽な仕打ちを受けたことをしばしば告白してきた[17]。しかし、「陣中日記」を通じて戦場での壮絶な経験を知ったことを機に、栄の人柄についての認識を若干改めている。なお、桑原が中学生になって以降は、兄弟の体力が栄を圧倒するようになり、仕打ちを受けることはなくなっていった。
- 小学生時代に、担任の紹介でNHK京都放送局内の劇団(NHK京都放送児童劇団)へ入団。しかし、作品での出番の少なさに嫌気が差したことから、すぐに退団した。成城大学時代にも、難関で知られる文学座養成所の試験に合格。ただし、興味半分の受験であったため、入所を辞退している。
- 辞退の直後には、「面白い人材」という桑原の入所を想定して『俳優志望』(10 - 15年単位の追跡取材によるドキュメンタリー番組)の制作を準備していた当時のNHKプロデューサー・末盛憲彦が、自身の担当番組『夢であいましょう』のリハーサルを見学することを桑原に推奨。「芸能界にまだ興味があるなら見ておいた方が良い」という末盛の配慮で、実際に3週間見学したが、末盛が思うほどの興味が湧かなかったという。さらに、見学の合間に参加していた水球の練習中に、チームメイトとの揉み合いで眼球を負傷。縫合手術を受けるほどの重症であったことから、末盛とも疎遠になった。ただし、関西テレビのアナウンサーとして全国的な知名度を得た頃に、末盛から直々に激励の手紙を送られている[21]。
- 関西テレビアナウンサー時代の1988年には、多数のレギュラー番組を抱える一方で、同局の開局30周年記念企画として制作された実写映画『妖女の時代』[22]に警官役で出演した。本人曰く、「ストーリー上重要な役柄だった」という。
- 成城大学への在学時には、水球部の慣例に沿って、成城学園中等部水泳部の監督も務めた。後に新日鐵釜石のラグビー選手として活躍した松尾雄治[23]は、当時の教え子の1人である。その一方で、4年生の時には、学内体育会のトップ(総務)として学内外で数々のイベントを指揮。当時在学していたミュージシャン(ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・ブロードサイド・フォー、森山良子など)を一堂に集めて「成城音楽の集い」というイベントを学外で実施したことや、当時大学の近隣に住んでいた著名人からただ1人浜美枝をボランティアで文化祭に招いたことや、大学OGの岩下志麻が参加した学内のダンスパーティーで「実行委員長」として岩下とのダンスに臨んだこともある。
関西テレビ時代
- 桑原がアナウンサーの中途採用記事を「サンケイスポーツ」で偶然目にしたのは、中途採用試験への応募締め切り3日前だった。その記事では、応募者に対して、出身大学の卒業証明書・成績証明書を提出することを求めていた。しかし、桑原には祭原の営業部員として関西地方にとどまる必要があったため、締め切り前日までに東京の成城大学まで証明書の申請と受け取りへ出向くだけの時間がなかった。そこで桑原は、記事を読んだ翌日に、当時少なかった長距離向け市外通話用の電話を通じて大学時代の知人に連絡。その知人が成城大学の職員でもあったことから、上記の証明書一式を至急発行したうえで、証明書を入れた封筒を〆切当日の東京駅正午発新大阪駅行き東海道新幹線1号車先頭座席の網棚へ乗せておくよう依頼した。実際には知人が先頭座席の乗客に封筒を託したことから、この乗客が新大阪駅で待ち受ける桑原を呼び止めたうえで、封筒を直々に渡した。桑原はその足で関西テレビの本社へ直行すると、応募に必要な書類一式を、締め切り時刻(17:00)の1時間前に受付へ提出。無事に受理されたため、祭原の関係者に知られることなく、中途採用試験を受ける権利を得られた。
- 桑原が入社した当時の一般企業では、中途採用社員に対する新卒採用社員からの風当たりが強かった。桑原も入社当初はその例に漏れず、共通アクセントの習得や腹式呼吸の体得にも苦闘していたことから、研修期間中に急性肝炎を発症[24]。折しも妻が短期留学でアメリカに滞在していたため、当時京都府城陽市内で布団店を営んでいた実家に寝泊まりしながら、早朝に最寄りの医院で点滴注射を打ってから関西テレビの本社へ出勤する生活を1ヶ月ほど続けた[25]。これに対して、アナウンス部長・松本暢章は、「私の知らないことをよう(よく)知っているし、私にはない何か(キャラクター)も持っているから、自分の個性をそのまま生かしたらええ(良い)。だけど、アナウンス部に残りたかったら、自分なりに努力するんやで」という関西弁で、桑原を頻繁に激励。急性肝炎の治療中には、桑原を入社時の条件に沿って営業職へ異動させようとする他の管理職へ説得を重ねた末に、その条件を白紙に戻させた。このような経緯から、桑原は松本が永眠してからも、出演番組を通じて「まっちゃん先生(松本の愛称)は(アナウンサーとしての)恩人」と慕っている。
- 吉本興業で桂三枝(現在の六代 桂文枝)などのマネジャーを務めた中井秀範と親交があったことから、中井が吉本総合芸能学院(NSC)大阪校の校長を務めていた1990年には、京都西高校に在学していた宮川大輔を中井に紹介。俳優を志していた大輔は、同期生から2ヶ月遅れながら、中井からNSC大阪校への入学を認められたことによって芸能界デビューのきっかけをつかんだ。大輔は、NSC及び、高校卒業後に、同期の星田英利とお笑いコンビ「チュパチャップス」を結成するも、1999年に解散。コンビ時代を含めて低迷していた時期が長く続いたが、2000年代以降に仕事が増え、現在は、ピン芸人、俳優として活躍している。
- スポーツ中継での本格的な実況経験[26]がなかったにもかかわらず、1992年には、地元の京都市西京極球技場で催された日本サッカーリーグ・松下電器(現在のガンバ大阪)対JR古河(現在のジェフユナイテッド市原・千葉)戦で、関西テレビ制作・全国向け中継の実況を中島優子と共に担当した。当時スポーツ局のディレクターだった同期入社の千草が、翌年(1993年)からのJリーグ開始を視野に、「サッカーに詳しい中島とのコンビで、サッカーに詳しくない視聴者でも楽しめるように中継したい」との意向の下に桑原へ直々に打診したことによる。
『ハイ!土曜日です』のサブ司会として
- 『ハイ!土曜日です』のサブ司会(男性アシスタント)起用は、新人アナウンサー時代から桑原の型破りなキャラクターに注目していた当時のディレクター・古吟勲一(こぎん くんいち)の強い推薦による。同番組では、サブ司会とアシスタントが、本番中に別のスタジオから放送するCM(生CM)にも登場。桑原の先輩アナウンサーであった鈴木紘夫がサブ司会を務めていた時期には、本番中に6本放送される生CMで、鈴木の穏やかな語り口が視聴者にもスポンサーにも好評を博していた。以上の事情から、番組中のCM全般を取り扱う在京の広告代理店が、鈴木に比べて知名度もアナウンス技術も低かった桑原の起用に難色を示した。結局、桑原はサブ司会として出演を始められたが、当初は鈴木が生CMのみ引き続き担当。出演開始から半年後に桑原の生CM出演を広告代理店が了承したため、鈴木は『ハイ!土曜日です』を完全に降板したうえで、『奥さまリビング』(当時平日の午前中に放送されていた主婦向けの情報番組)のメイン司会へ異動した。ちなみに桑原は、『奥さまリビング』でも週に2日、サブ司会(鈴木のサポート役)を担当。関西テレビからの退職後も、『粋甘』で同局時代の思い出を語る際に、鈴木のアナウンス技術や人柄の良さに言及することがある。
- 『ハイ!土曜日です』の出演期間中に、レギュラーパネラー・小松左京からの発案で、司会の桂米朝から「桂珍丸」という高座名を付けられた。桂一門では桂朝丸(現在の「2代目桂ざこば」)の弟弟子に当たるが、現在に至るまで、高座で落語を披露したことはない。ただし、「征平の挑戦」の一環で、3代目三遊亭圓歌から落語の稽古を付けられたことがある。圓歌が永眠した直後(2017年4月26日)の『粋甘』では、稽古の際に圓歌宅へ1泊したことや、圓歌の弟子であることを示す「桑原征平」名の木札が現在も圓歌宅に掲示されていることを明かした。
- 『ハイ!土曜日です』などで人気が出るにつれて、関西テレビ系列局の番組・イベントで司会を務めたり、個人の立場でいわゆる「内職」(番組スポンサーが主催するイベントの司会や講演など)を引き受けたりする機会が増加[27]。その一方で、実兄が飲食関連事業向けの融資を受けた際に、事情を熟知しないまま連帯保証人に名を連ねた。後にこの事業が立ち行かなくなったことから、征平は退職までの3年間にわたって、「内職」を積極的にこなしながら融資の返済に努めていた[28]。
『おはよう!ナイスデイ』の司会として
- 在阪準キー局・関西テレビのアナウンサーながらキー局・フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』(以下『ナイスデイ』と略記)の司会に抜擢されたのは、それまで出演していた『土曜!100%』が関西テレビの方針で桂三枝(当時)司会の『モーニングアップル』に変わったことに加えて、『ナイスデイ』司会陣のうちフジテレビのアナウンサーが須田哲夫しかいなかったという事情もある[17]。このため、『ナイスデイ』の出演期間中にも、週に1回は関西テレビの東京支社へ出勤していた。
- 出演期間中の平日には、午前中にフジテレビのスタジオで本番(生放送)を進行(須田との共同司会)。本番終了後から翌日(金曜日の場合には翌週月曜日)の本番直前までは、現在の報道・情報番組における「フィールドキャスター」のような役割を須田と分担しながら、事件・芸能関係の取材(山一抗争・豊田商事事件・ロス疑惑・日本航空123便墜落事故など)やインタビュー企画などで日本各地へ赴いていた。ただし、前述した『粋甘』の「取材手帳で振り返る○月○日」で当時のエピソードを紹介する際には、「現在ではコンプライアンスや報道倫理などの面で到底認められないような取材」という注釈表現や関係者への謝意を必ず交えている。
- 出向1年目の1985年8月7日(水曜日)には、かねてから親交の深い輪島功一からの紹介で、『おはよう!ナイスデイ』の本番終了後に『笑っていいとも!』(フジテレビ制作)の「テレフォンショッキング」へゲストで出演。『FNNスーパータイム』(前年10月から[29]夕方に放送を始めたばかりの全国ニュース番組)平日版の初代メインキャスター・逸見政孝(当時は同局アナウンサー、大阪市出身で桑原と同学年)を、「同じ関西地方出身のアナウンサー」という縁で、翌日のゲストに指名している。逸見はこの指名をきっかけに、同番組への初出演を果たした[30]。
ニュース番組での逸話
- 桑原曰く、「関西テレビ実際にニュースを読んだのは、定年退職当日を含めても20回しかない。それでも、担当した際には波瀾万丈だった」[31]。ただし、『おはよう!ナイスデイ』の司会だった時期には、フジテレビの全国ニュース番組『FNNニュースレポート11:30』で当時のメインキャスター・露木茂(当時の同局アナウンサー)の休暇期間中に露木の代役を務めた。
- まだ番組出演の少なかった若手時代に、定時ニュースで報道部の記者から殴り書きの速報原稿を渡された際に、隣にいた千草に思わず判読を頼んだことがある。桑原自身は、現場が騒然とする中で、千草からの口伝えのおかげでどうにかニュースを読み終えた[16]。桑原によれば、「千草も後の報道記者時代にアナウンサー泣かせの字で原稿を書いていたが、自分はそもそもニュースの担当を任されていなかったので、千草の原稿を読まずに済んだ」という。
- フジテレビへの出向期間満了で関西テレビへ復帰してからは、『アタック600』(当時夕方に放送されていたローカルニュース番組)で一時中継リポーターを担当。ニュースを扱う情報・バラエティ番組(『ニュースな夕方』『ニュースわからんチー』など)にも、レギュラーで出演していた。
- 阪神・淡路大震災(1995年)では、自宅が半壊するという被害(後に復旧)を受けながら、発生直後からアナウンサーの1人として被災地を取材。同年4月から1年間にわたって『桑原征平 復興の街』という番組で取材を続けたほか、震災関連番組・特集の中継リポーターも務めた。また、1981年にアメリカで人類初のAIDS感染が報告されたことを受けた報道特別番組で、現地リポーターとしてAIDS患者への取材も経験[32]。フリーアナウンサーに転身した現在でも、以上の経験を講演会で話すことがある[33]。
- 定年当日の深夜(2004年5月15日未明)には、「もう1回キッチリとニュースを読んで、サラリーマン生活を終えたい」との思いから、当時『ニュースJAPAN』内で2分間放送していた関西ローカルのニュースに出演。ストレートニュースを1本伝えた後に、視聴者に向けて、10秒のアドリブで「私事ではありますが、関西テレビアナウンサー桑原征平は、只今のニュースを持ちまして関西テレビを定年退職致します。みなさま35年間、本当にありがとうございました」という挨拶を述べた[16]。
体当たり取材での逸話
- 『征平の挑戦!』の第1回は、阪急ブレーブスと広島東洋カープが対戦した1975年の日本シリーズ第1戦(広島市民球場)の2日前に、(関西テレビと関連の深かった)ブレーブスのユニフォーム姿で広島市内へ「殴り込む」という企画だった。桑原は、(当時プロデューサーだった古吟の指示で)カープファンの怒りをかき立てるメッセージを記したプラカードを持たされたため、行く先々でカープファンからヤジと暴行を受けた。この企画が大きな反響を呼んだことで、桑原の名が一躍全国に知れ渡るとともに、サブ司会を務めながら長年にわたって古吟と共に体当たり取材ロケ企画へ携わるようになった[34]。ちなみに、桑原は取材を通じて、未経験者の立場でスキージャンプ(ジュニア選手向けの20m級ジャンプ)[35]、リュージュ、ロデオなど大きな危険を伴うスポーツにも挑戦している。
- 『征平の挑戦!』をはじめ、テレビ番組のリポートで海・プール・温泉に入る時には、体の線がはっきり見える虎パン(虎柄の海水パンツ)を着用。このいで立ちで、高さ16mのアカプルコ(メキシコ)からのダイビングを成功させたこともある[36]。
- 奥飛騨温泉のお膝元・岐阜県上宝村(現在は高山市に合併)の観光協会による提案・全面協力の下に、同温泉のPRを兼ねて、『征平の挑戦!』で1日100ヶ所の露天風呂入浴に挑戦したことがある。桑原は、ギネスブックによる記録の公認を狙いながら、赤い褌(ふんどし)姿で午前6時から次々と入浴。しかし、午後9時頃に45ヶ所目の温泉で湯あたりを起こして倒れたため、100ヶ所の制覇には至らなかった(記録自体もギネスブック未公認)。
- 野球好きが高じて、『征平の挑戦!』の一環で、近鉄バファローズやカリフォルニア・エンジェルスの入団テストを受験した。いずれも不合格に終わったが、放送後には当時のブレーブス監督・上田利治や、メジャーリーグ通で知られたパンチョ伊東から賛辞を受けている[36]。
- 取材の一環として、周囲の関係者が麻酔銃を構えていることを承知したうえで、身体の一部をライオンに噛ませたことが3回ある。1981年にティッピ・ヘドレン出演の映画「ロアーズ」の宣伝を兼ねて、『征平の挑戦!』で彼女を取材した際には、彼女が自宅で飼っていた体重約200kgのライオンに臀部を噛まれた[37]。1984年には、関西テレビの正月番組用の企画「人間大砲に挑戦」で、高さ9メートルの砲台から15mの距離を跳んだ。しかし、この企画で一時失神したことから、運動神経の衰えを理由に『征平の挑戦!』シリーズへ終止符を打った[38]。
- 『めざましテレビ』にリポーターとして出演した時期には、早朝の生中継で全国各地の達人と対決。表向きには「関西地方担当のリポーター」という位置付けながら、桑原が登場する中継には、「征平の朝からナニ言うてまんねん」(1994 - 1997年度金曜)→「征平のビックリ関西」(1998年度木曜)→「征平の朝からかなわんなぁ〜」(1999年度木曜)→「征平の出てこ〜い!達人」(2000年度木曜)というタイトルが付けられていた。その一方で、1996年・1997年の1月17日には、前述の事情から阪神・淡路大震災関連のリポートも特別に担当していた。
フリーアナウンサーとして
- 朝日放送テレビと朝日放送ラジオを兼営していた朝日放送(現:朝日放送グループホールディングス)では、関西テレビで長らく土曜午前の生放送番組へ出演していた桑原に対して、関西テレビからの退職直後に『おはよう朝日 土曜日です』(朝日放送テレビ)の司会への就任を打診していた[39]。しかし、前述の契約によってテレビ番組への出演が事実上関西テレビに限られていたため、打診の内容を(契約条件になく過去にラジオ大阪で経験のある)ラジオ番組に切り替えたところ快諾。「プロ野球シーズンの3ヶ月限定」という条件ながら、(プロ野球の公式戦がほとんど組まれない)月曜18:30からの1時間番組として、試験的に『粋甘』の放送を開始した[38]。
- ラジオパーソナリティとして出演する生放送番組で直近のニュースや自分の思い出話を語る場合には、放送前日までに予習した内容を基に、放送日の早朝に手書きで原稿を作成。さらに、その原稿を2回推敲してから生放送へ臨んでいる。少年時代からの習慣で(関西テレビ時代を含めて)もっぱら「朝日新聞」を読み続けているため、上記の番組で直近の時事問題やスポーツの話題を取り上げる場合には、自宅で購読している同紙兵庫版(大阪本社発行分)朝刊の記事を原稿作成の参考にすることが多い[40]。
- 『粋甘』の2010年最後の放送日に当たる12月30日(木曜日)の朝に、ゴミ箱を運ぼうとして自宅の階段から転落。救急車で病院に搬送された末に、腰椎(右第2横突起)の骨折で入院を余儀なくされた。出演予定だった『粋甘』は、前枠番組『ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です』のパーソナリティ・三代澤康司(朝日放送アナウンサー)が、同番組に続いて桑原の代役でメインパーソナリティを担当。それでも桑原は、病室のベッドから、オープニング・エンディングと一部のコーナーに電話で出演した。ちなみに桑原は、年末年始の特別編成をはさんで、2011年最初の放送から『粋甘』に復帰している[41]。
- 『粋甘』では、2008年から2016年、サークルKサンクスとのコラボレーションによるプロデュース商品(2010年までは「桑原征平人生劇場 思い出の○○弁当」、2011年からは「桑原征平の粋甘食堂」)を地域・期間限定で発売していた(桑原征平粋も甘いも#特別企画を参照)。2010年に「桑原征平人生劇場完結編 思い出のすきやき弁当」を発売した際には、「番組発のスキヤキソングを作る」と銘打って、スペシャルバンド「桑原征平と粋甘オールスターズ」を結成。枚数限定のCDながら、"歌手デビュー"を果たした。2016年には、『土曜も全開』でも、キンレイとのコラボレーションによる完全受注生産商品「征平・吉弥の土曜も全開!! 牛すき焼うどん」のプロデュースに参加。発売に合わせて作られたキャンペーンソング「あなたと食べたいすき焼きうどん」では(具材の牛肉にちなんで)「ギュウ!」という合いの手、「二人のすき焼き」(いずれも吉弥が歌唱)ではバックコーラスを担った。
- 2013年(平成25年)9月には、宮根の冠番組である『宮根のどないアングル〜どうでもいい!?究極の三択〜』最終回スペシャル(関西テレビで10月1日に放送)の収録で、テレビ番組としては久々に宮根や山本浩之・梅田淳(いずれもフリーアナウンサーで同局の後輩)と共演。エンディングで、「これがおそらくテレビ(番組)最後(の出演)やと思います。もうテレビには出ない」と公言した。収録後には、「(前述の)ABCラジオの番組という『死に場所』を見付けた今は、ホンマに満足の毎日(を送れている)」という真意を明かしたうえで、「(テレビ番組出演の)新たな依頼が来ても、今のままで十分。テレビは引退宣言です」と明言[42]。頭髪が薄くなるなどの「ビジュアル面での衰え」も、「引退宣言」の理由に挙げている。
- ただし、上記のテレビ引退宣言以降も、主に自身と親交の深い人物に関するテレビ番組へ登場することがある。
- 『祝番組10周年 人志松本のすべらない話 〜スピンオフ企画 大輔宮川のすべらない話を掘り起こす旅〜』(2014年1月11日、フジテレビ・北海道文化放送、関東・北海道ローカル)[43]:宮川の実父をゲストに迎えた2013年12月16日の『征平・吉弥の土曜も全開!!』で、生放送中のスタジオを宮川がサプライズで訪れた模様を放送。この時の映像は、2014年(平成26年)3月21日発売の同名DVDにも収録されている[44]。
- 『キャスト』(2014年1月8日・水曜日、朝日放送、関西ローカル):関西テレビのアナウンサー時代に数々の番組で共演してきたやしきたかじんが同月3日に64歳で逝去したことを受けて、当日の『粋甘』終了後に、第1部(17時台)の追悼企画へ遙洋子と共に特別出演。
- 『キャスト』(2014年5月5日・月曜日・こどもの日):朝日放送本社敷地内での公開イベント「ABC感謝祭2014 マイドほたるまち!」のステージ企画として、桑原・小川恵理子・永田まりの出演によるオフエアイベント「桑原征平粋も甘いも マイドほたるまち!スペシャル」が実施されたことから、同番組コーナーキャスター・斎藤真美(同局アナウンサー)のリポートによるステージからの生中継に3人揃って出演。
- 『必殺仕事人2014』(2014年7月27日放送、朝日放送〈当時〉・テレビ朝日共同制作、全国ネット):「息子(演:上田剛彦・朝日放送アナウンサー)を『仇討ち屋』に殺された町人」という設定の下に、台詞付きで主人公の東山と共演。『粋甘』を愛聴しているゼネラルプロデューサー・森山浩一(朝日放送)からの指名によって、出演が実現した。
- 『スーパーニュースANCHOR』(2015年3月20日放送、関西テレビ、関西ローカル):桂米朝が前日に永眠したことを受けて、「米朝と親交のあった著名人」の1人として、VTRで追悼コメントを寄せた。
- 『ショーヘイの人生一本勝ち!』(2015年9月19日・26日・10月3日・同月10日放送、関西テレビ、関西ローカル):桑原と同じ京都市の出身で、名前の読み方も同じ新実彰平(同局アナウンサー)の冠番組。同番組が2015年10月改編で終了することや、2014年9月まで放送された前身番組に当時のプロデューサー(桑原の同局アナウンサー時代の後輩)が「新実を(桑原に次ぐ)“ショーヘイアナウンサー”として活躍させたい」というニュアンスで『カンテーレ 二代目ショーヘイへの道!』というタイトルを付けたことから、鷲羽山ハイランド(岡山県倉敷市)での最終ロケに“初代ショーヘイ”として出演。本来は9月26日放送分で終了する予定だったが、同日放送分での桑原の提案をきっかけに、放送期間を10月10日まで延長した。
- 『ごきげんライフスタイル よ〜いドン!』(2016年5月26日放送、関西テレビ、関西ローカル):「となりの人間国宝さん」(VTRロケコーナー)の渡辺橋ロケ中に、朝日放送ラジオの番組への出演を終えて朝日放送本社から出てきた(ロケ時点で71歳の)征平に対して、リポーターの月亭八光が突撃取材を敢行した模様をおよそ3分間放送。「『テレビにはもう出ない』と決めた」と言いつつも、「関テレのおかげで年金が入ってくんねん。ABCよりも力入れろよ!」という表現で、古巣の関西テレビにエールを送った[45]。
- 『かごニュー』(2017年1月24日放送、鹿児島テレビ、鹿児島ローカル):関西テレビの同期局員であった鹿児島テレビの荒田社長(前述)からの依頼を受けて、金曜放送分へ月に1回レギュラー出演することを視野に、スペシャルコメンテーターとして同曜日の特集コーナー「県民100人に聞いた今週の気になるニュース」へ登場[46]。
- 『朝生ワイド す・またん!』(2017年3月16日放送、読売テレビ、関西ローカル):同番組司会の森たけし・気象キャスターの斉藤雪乃が、「七回帰(しちかいき)~す・またん!ベスト7年~」(同月29日にユニバーサルミュージックからリリースのアルバム)のPRを兼ねて前日(3月15日・水曜日)に『ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です』(朝日放送ラジオで『粋甘』の前枠に放送中の生ワイド番組)へ出演した直後に、戸谷公一(元・『粋甘』プロデューサー)の勧めで同番組のオープニングにも登場。森・斉藤に同行していた『す・またん』のスタッフがその模様を撮影した映像を、翌日の『す・またん』で放送した。もっとも、桑原や小川恵理子(『粋甘』水曜日のアシスタント)は、放送中に撮影されていることを知らなかったという。
- ただし、上記のテレビ引退宣言以降も、主に自身と親交の深い人物に関するテレビ番組へ登場することがある。
- 『土曜も全開!!』でコンビを組む桂吉弥とは、朝日放送ラジオの他番組でもたびたび共演している。
- 吉弥と共にパーソナリティ代理を務めた2014年8月15日(金曜日)の『おはようパーソナリティ道上洋三です』では、当ページでの記述内容を検証する目的で、「徹底検証!桑原征平」という特別企画を放送した。
- 2015年1月1日放送の新春スーパーワイド第1部『征平・吉弥のお正月も全開!!』のエンディングでは、「重大発表」[47]と称して、戸谷の勧めで前述の「断髪式」を実施することを公表した。
- 桑原自身は、前述した「ビジュアル面での衰え」や、15歳まで頭を丸刈りにしていたことにちなんで「(日本人の平均寿命より5歳長い)85歳まで丸刈り頭で過ごしたい」という意向を明言[48]。桑原がアナウンサー生活を送るきっかけになった大阪万博初日(1970年3月15日)のちょうど45年後に、万博のメイン会場であったお祭り広場で「ABCラジオ スプリングフェスタ2015」を開催することも相まって、放送と連動しないステージ企画として「公開断髪式」(12:30 - 13:50)が実現した[49]。
- 「公開断髪式」では、中邨雄二・桂紗綾(いずれも朝日放送アナウンサー)による進行の下で、『粋甘』のアシスタント(小川・永田)、桑原と縁の深い朝日放送ラジオのパーソナリティ(道上・三代澤・柴田博・妹尾和夫)、京都西高校水球部時代の恩師・同級生などが断髪に参加。2万人を超える観衆が、断髪の瞬間を見届けた[49]。
- 桑原は、フリーアナウンサーへの転身後から、理髪館(株式会社マツモトが大阪府・兵庫県内で展開する理髪店チェーン)の「キャンペーンボーイ」(看板モデル)を務めてきた。中学校時代の同級生で、広告会社を営む山本忠男が、同社の広告を取り扱う縁による。株式会社マツモトでは、断髪式の開催が決まってからも、「理髪館では丸刈りの要望にも対応している」という理由で断髪を容認。そのため桑原は、断髪前の写真を看板に使うことを条件に、断髪後も理髪館の「キャンペーンボーイ」を続けている。
- 年に2回『粋甘』へ出演している西川潔(婦人科医・内科医)の勧めで2013年に血液検査を受けたところ、糖尿病の指標の1つであるヘモグロビンA1cの数値が高いことが判明したため、西川から入院加療を通告された。これを機に、水泳やヨガを続けながら、投薬治療や節制に努めている。このような経緯から、2014年11月以降は、『桑原征平の教えてドクター!糖尿病』(「ABCラジオ糖尿病予防啓発キャンペーン」と連動した同局の期間限定番組)のパーソナリティも担当している。
- 72歳の誕生日だった2016年5月14日(土曜日)には、『征平・吉弥の土曜も全開!!』出演後に、プライベートでの水泳中に急性心筋梗塞を発症。帰宅後にドクターカーで病院へ搬送中に心臓の血栓が見付かったことから、緊急手術・静養を経て、同月25日(水曜日)の『粋甘』でラジオパーソナリティの活動を再開した[50]。桑原によれば、血栓が血管の4分の3を塞いだ状態で搬送されたにもかかわらず、発症から1時間以内に手術を受けたことで一命を取り留めたという[51]。活動再開後には、このような経験を背景に、心筋梗塞に関する講演会で講師を務めることがある。
大学教授として
- 大阪芸術大学の教授時代には、生放送のレギュラー番組がない月曜日・火曜日を中心に、放送学科(当初は芸術計画学科)で話し方の指導や音声キャラクター論などの講義を担当。『粋甘』では年に数回、桑原を客員教授として招聘した相羽秋夫(元・芸術計画学科長、2011年度で定年退職)や、担当するゼミの学生をゲストに招いていた[52]。
- 大学がサンテレビ・KBS京都・テレビ神奈川と共同で制作したテレビドラマ『ブロードキャストASUKA』では、エピソード2(第3話)に「毎朝放送テレビ出身の富田林教授」役で出演していた。
- 幼少期の交通事故による下半身の麻痺で20年以上にわたって車椅子での日常生活を強いられながら、「前輪お絵かき」(前輪に刷毛を付けた車椅子を走らせながら地面に敷いた紙へ描画する手法)による絵画で東京デザインウィーク100人展(2015年)への出展を果たした画家のヤノガハク(矢野円香)は、当時の教え子の1人である。ヤノは、在学中から折に触れて、征平の勧めで『粋甘』に出演。卒業後の2016年3月13日に万博記念公園で開かれた「創立65周年 ABCラジオスプリングフェスタ2016」では、『粋甘』が受け持ったステージ企画の一環で、「『前輪お絵かき』によって征平の肖像画を描く」というパフォーマンスを披露した[53]。
- 70歳を「定年」とみなす学内の規定に沿って、2015年3月31日付で定年退職。同年4月以降は、前月で朝日放送の定年を迎えた和沙哲郎(同局アナウンサー)が、放送学科の教授へ就任するとともに桑原の講義を引き継いでいる。
- 2015年4月1日付で、種智院大学人文学部社会福祉学科の客員教授に就任。中山寺(兵庫県宝塚市)で毎年2月3日に開かれる「儺(ついな)豆まき式」へ、朝日放送ラジオの番組出演者として過去2回招かれていることから、同大学の学長を兼務する長老の村主康瑞からの勧めで就任が決まった。就任後は、大阪芸術大学の教授時代から一転して、年に数回のペースで集中講義を担当。その一方で、2017年の「儺豆まき式」にも参加している。
現在の出演番組
いずれも朝日放送ラジオの番組。
- 桑原征平粋も甘いも
- 征平・吉弥の土曜も全開!!
- 征平・あさおのどす恋ラジオ(2012年4月2日 - 、毎週水曜日17:00 - 17:10)[54]
- 桑原征平の快適生活ラジオショッピング!(2015年12月3日 - 、毎週火曜日17:00 - 17:10)[55]
過去の出演番組
レギュラーを務めた番組、キャスター・パーソナリティ代理やナレーターとして出演した番組、冠番組として放送された特別番組のみ記述。
関西テレビ時代
全国ネット・一部地域ネットのテレビ番組
- ハイ!土曜日です(中期からサブ司会として出演→「征平の挑戦」の開始を機にリポーターへ転身)
- DOサタデー (初期は生中継リポーター→1982年7月から最終回までサブ司会を担当)
- モーニングスタジオ・土曜!100%(初めてメイン司会を務めたワイドショー番組)
- クイズDEデート(全国ネット時代に司会を担当、番組内で放送されていたMIZUNOのインフォマーシャルにも一時出演)
- 柳生一族の陰謀 第30話「生きていた影武者」 (征兵衛役として真田広之と共演)
- 三枝の愛ラブ!爆笑クリニック(初期に放送されたVTRクイズコーナー「悩み求めて三千里」で、「お悩みマン」と称してロケVTRのリポーターを担当)
- 土曜大好き!830→土曜ぴーぷる(いずれも板東英二とともに司会を担当)
- なんてったって好奇心(フジテレビ制作、同局への出向期間満了後に準レギュラー格で随時出演)
- めざましテレビ(関西地方担当の中継リポーター、定年退職直前の2004年5月11日放送分まで出演)
- 2時ドキッ!(月 - 金曜総合司会、2003年9月まで出演)
- たかじん胸いっぱい(やしきたかじんの冠番組で、たかじんの希望から挑戦企画などへ随時出演)
- 大阪国際女子マラソン中継(沿道からのリポートや、優勝選手へのインタビューを担当)
- SMAP×SMAP『'97 今夜は大阪から生スペシャル』(1997年10月13日、関西テレビ大阪本社スタジオでの進行役)[56]
関西ローカルのテレビ番組
- 爆笑寄席(新人時代には前説を担当)
- 上方味くらべ
- 土曜イブニング・ショー(栗原玲児の司会で土曜16:00 - 18:00に生放送、中継リポーター、アナウンサーとして初めてのレギュラー番組)
- 4時だぜ!飛び出せ!!ワイワイワイド[57]
- 奥さまリビング(月 - 金曜11:00 - 11:40、司会)
- 二人でお茶を(全国ネットで人気を博した『パンチDEデート』の高齢者版に当たる公開お見合い番組、司会)
- ノックは無用!(横山ノックの代役・後任として司会を担当)
- ノンストップゲーム(同上)
- アタック600(フジテレビへの出向期間満了後に中継リポートを担当)
- ニュースな夕方(1988年、毎週土曜日の夕方に生放送[58])
- ほんまかいな!(1997年10月 - 1998年3月、『ノックは無用!』の後番組)
- VIVIDたいむ(関西テレビアナウンサー総出演のバラエティ番組、毎週月曜日の午前中に放送)
- ニュースわからんチー(1993年4月 - 1994年9月、池谷幸雄が司会を務めた金曜深夜のニュースバラエティ番組)
- 桑原征平 復興の街(1995年4月 - 1996年3月、毎週土曜日に放送された30分番組)
- 昼あがり!どまんなか
- ニュースJAPAN(関西ローカルキャスター、前述)
- さらば征平!最後の挑戦(前述)
この他にも、関ジャニ∞がデビュー直後にレギュラーを務めていた深夜番組に出演していたことがあった(放送時期・番組名不詳)。
フジテレビ制作・全国ネットのテレビ番組
- 小川宏ショー(『ハイ!土曜日です』と姉妹番組だった縁で不定期出演)
以下の番組には、フジテレビへの出向中に出演。
- おはよう!ナイスデイ(1985年4月 - 1987年3月、司会兼リポーター)
- FNNニュースレポート11:30(FNN全国ニュース、前述)
定年退職後も続けて出演した番組
- ぶっちゃけ!生タマゴン(リポーター)
- 走れ!ガリバーくん →GO!GO!ガリバーくん(ガリバーくん側のナレーター)
ラジオ番組
- みんなでみんなでリクエスト バンザイ!歌謡曲(ラジオ大阪、1976年4月 - 1977年3月) - 木曜日担当
- 桑原征平デー(ニッポン放送、フジテレビへの出向期間中に放送された特別番組)
フリーアナウンサーへの転身後
テレビ番組
- 征平・宮根のヨソ様の事情→征平・宮根のクチコミぃ!?→みみヨリぃ!?(テレビ大阪、『征平・宮根のクチコミぃ!?』までは宮根誠司と共演)
- 京都!ちゃちゃちゃっ(水曜司会・関西テレビ☆京都チャンネル・KBS京都共同制作、2006年9月まで)
- 桑原征平のおもしろ京都検定(関西テレビ☆京都チャンネル・KBS京都共同制作)
- 鉄道オヤジの行き当たりバッ旅(関西テレビ☆京都チャンネル)
- 夜明けのテレショップ(関西テレビ)
- 映像と証言で綴る昭和の記録(関西テレビ、2008年11月19日放送分)[59]
- アップ&UP!(関西テレビ、2009年4月15日 - 9月30日、水曜日コメンテーター兼「桑原征平のアップ&TRIP!」リポーター)[60]
- 宮根のどないアングル 〜どうでもいい!?究極の三択〜(関西テレビ)
- 必殺仕事人2014(朝日放送〈当時〉・テレビ朝日共同制作、町人・杉作役として東山紀之と共演)
ラジオ番組
- モーニングライダー! 藤川貴央です(ラジオ大阪)
- 乾・藤川・玉巻のラブリー・レディオ(2017年3月)
- 次は〜新福島!(毎日放送ラジオ)
以下はいずれも、朝日放送ラジオの番組。
- 上方落語をきく会
- 2012年1月25日(水曜日)の『粋甘』本番終了後に、ABCホールで開かれた第110回・3日目の公演で「日替わり席亭」を担当。公演の生中継にも出演した。
- 2017年1月21日(土曜日)の『土曜も全開!!』本番終了後には、梅田芸術劇場(シアター・ドラマシティ)での第115回昼公演・夜公演[64]の幕間に朝日放送ラジオのスタジオから放送された「上方落語若手噺家図鑑」(2016年12月開催の「なみ1グランプリ」に出場した若手落語家総出演の特別企画)で、「落語家が絶対売れる方法」というテーマパートの講師を務めた。
- おはようパーソナリティ道上洋三です(前述)
- 2015年12月21日(月曜日)放送分では、前日に水球男子日本代表がアジア選手権でリオデジャネイロオリンピック(2016年)への出場を決めたことを受けて、元・水球選手として「スポーツの話題」(7時台のスポーツコーナー)に急遽電話で出演した。
- よなよな…月曜日(2014年9月15日・22日および2016年9月26日)
- いずれも、同曜日パーソナリティの森脇健児と「グリコ2段熟カレー手売り対決」で対戦することに関連したサブライズ出演。森脇とは、2014年元日放送の「午年いななきスペシャル」でも10:00頃に舌戦を繰り広げた[65]。
- 桑原征平の教えてドクター!糖尿病(2014年11月および2015年4月、毎週水・木曜17:00 - 17:10)
- ABC創立65周年記念連続ラジオドラマ ナデシコですから(2016年7月14日) - 「アメリカから帰国したばかり」という設定のカリスマラジオパーソナリティ・桑名征太郎(くわな しょうたろう)役で出演。
- 以下は、『新春スーパーワイド』(毎年1月1日に放送される自社制作の長時間生ワイド番組)の第1部(5:00 - 11:00→2018年からは10:00に終了)として放送
出演映画
広告
テレビ・ラジオCM
テレビ
- りんくう・プレミアムアウトレット
- 智頭急行「スーパーはくと」(2011年まで放送)
- 大徳食品「奈良うどん」(主に奈良テレビで放送)
- 株式会社ビグネコーポレーション「異邦人」(2015年8月22日 - 9月6日、テレビ大阪・関西ローカル限定で放送)- 同社運営の靴店「異邦人」に製作を依頼したオーダーメイドによる靴の中敷を愛用していることから、「応援団長」という肩書で新聞広告にも登場。『粋甘』では、テレビCMの開始前から、桑原のアナウンスによる「異邦人」のインフォマーシャル(生CM)を定期的に放送している。
ラジオCM
いずれも朝日放送ラジオ・関西ローカル限定で放送
- 再春館製薬所「痛散湯」- 『粋甘』内でも、桑原のアナウンスによる生CMを定期的に放送。
- 江崎グリコ「二段熟カレー」
- サントリー「セサミン」
- 森井食品・よしこハット
- エスプリライン「スピードラーニング」(2012年1月から放送)
- ホテルニューアワジ(2016年1月から放送)
- 株式会社テイル「お好み焼・鉄板焼 きん太」 - 桑原が金原章悦社長(京都西高校の後輩)の結婚式で司会を務めたり、同社が「きん太」名義で『粋甘』12時台の「ABCニュース」のスポンサーに付いたりする縁で、金原との掛け合いによるCMを2016年3月最終週から順次放送。
2008年以降は、『粋甘』でサークルKサンクスとのコラボレーション商品(前述)を地域・期間限定で発売するたびに、桑原の声・歌によるラジオCMを放送している。
看板
- 株式会社マツモト「理髪館」(前述)
著書
- ハイ!土曜日です 征平の挑戦(1978年、鶴書房)
- 生きてるだけで丸もうけ(2005年3月、ぴあ)ISBN 978-4835615332
- 3019桑原征平(2012年9月12日、プラネットバルン)ISBN 978-4990584528
脚注
- ↑ 『桑原征平3019』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。
- ↑ 『3019桑原征平』に所収の「トークバトル 道上洋三vs桑原征平」より。東京オリンピックの日本代表候補になったのは、バタフライ・中学生の部で全国11位の記録を残したことによる。また、国民体育大会には熊本・火の国国体(1960年)「秋田・まごころ国体」(1961年、競泳種目は福島県会津若松市で開催)「岡山国体(1962年)の夏季大会にそれぞれ出場。岡山国体では、バタフライ・高校生の部で7位入賞を果たしている。
- ↑ 大輔との関係については、『3019桑原征平』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」で詳しく記載。
- ↑ 『3019桑原征平』に所収の「トークバトル 道上洋三vs桑原征平」より。
- ↑ 『3019桑原征平』には、該当する記事の写真が掲載されている。
- ↑ 実際に、関西テレビから九州のUHF新局へ派遣することを前提に、桑原・杉山と別枠で九州出身者2名をアナウンサーとして採用。しかし、研修期間中に派遣の必要がなくなったため、研修後は2名とも一般職員として関西テレビに勤務したという。
- ↑ 『3019桑原征平』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。ちなみに、この相互交流企画では、当時ラジオ大阪アナウンサーの水本貴士が関西テレビで『奥さまリビング』の司会を務めていた。
- ↑ 公職選挙法対策として、番組名も『ロックは無用!』に改めていた。
- ↑ 息子・達秋との父子ダイビングというプランもあったが、息子が勤務する福井テレビから止められたという(『粋甘』2014年2月6日放送「征平の、私は忘れない」より。この日は福井県にまつわる思い出話を語った)。
- ↑ 日本民間放送連盟賞/2004年(平成16年)入選・事績
- ↑ 2015年10月以降の放送では、大相撲史上に残る横綱の伝説を桑原が紹介してから、ラジオショッピングのコーナーに入っている。
- ↑ 「民放連賞ラジオ近畿地区審査 エンタメ部門で和歌山放送が最優秀」(2015年7月11日付和歌山放送ニュース)
- ↑ 元関テレアナ・桑原征平さん、毎日400メートル全力水泳で100歳現役目指す(「スポーツ報知」2012年10月3日大阪本社発行版に掲載の特集「プレミアムトーク」より)
- ↑ 桑原の従妹(マフィの妻の実母)が、長年にわたってコーチを務めるスクール。
- ↑ 『征平・吉弥の土曜も全開!!』公式サイト「どちそそ・漢(おとこ)の奇跡」第430回「どちそそ冬の陣 征平・吉弥水泳対決 どっちが勝つでショー」(2015年12月12日放送分)
- ↑ 16.0 16.1 16.2 『生きてるだけで丸もうけ』第7章「定年退職」より。
- ↑ 17.0 17.1 17.2 『生きてるだけで丸もうけ』第4章「少年時代」より
- ↑ “~京都、滋賀ゆかりの五輪選手~”. 京都新聞 (2000年). . 2012閲覧.
- ↑ 自ら動画番組作りラジオで話題の小学生はあの名物アナの孫(『THE PAGE』大阪版2015年8月26日付記事)
- ↑ 4回目の放送までは、13時台の「征平のコレが来まっせ、来てまっせ」で放送。
- ↑ 『生きてるだけで丸もうけ』第1章「アナウンサー志願」より
- ↑ 遠藤周作が著した同名の小説に基づく大森一樹脚本・長崎俊一監督・名取裕子主演の実写映画で、助演の片岡鶴太郎が第12回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞。
- ↑ 雄治は、「(成城学園)高等部の水泳部は弱い」という理由で、中等部からラグビー強豪校の目黒高校へ進学。弟の雄吾は、三菱自動車工業京都のラグビー選手として関西社会人ラグビーリーグで活躍していた時期に、征平の兄・重治が地元の京都で営むスイミングクラブのプールをトレーニングに使用していたという。
- ↑ 後輩アナウンサーの梅田も、1983年の入社直後に健康診断で急性肝炎の発症が判明したため、半年間の休養を余儀なくされた。ただし、梅田は新卒扱いで入社したため、桑原とは事情が異なる。
- ↑ 営業職への異動を免れるための窮余の策であったが、その影響で黄疸の指数が長らく高かったという。ちなみに、祭原へ勤務していた時期には、滋賀県内の営業活動で社用車を運転中に、過労による物損事故で瀕死の重傷を負っている。
- ↑ ただし、若手アナウンサー時代に、研修を兼ねて競馬中継の実況を1回だけ担当したという。
- ↑ 関西テレビ制作の全国ネット番組(『ハイ!土曜日です』『土曜大好き!830』『クイズDEデート』)へ出演していた時期には、さっぽろ雪まつりの開催期間に札幌で公開収録を実施していた関係で、系列局・北海道文化放送が開幕日・2日目に北海道ローカルで放送する生中継の特別番組で5年続けて司会を務めていた。
- ↑ 『粋甘』で水曜日に放送中のコーナー「征平の、じゃあこうしましょ!」の紹介(番組公式サイト)や、『桑原征平3019』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。
- ↑ 週末版は1985年春から。
- ↑ 『笑っていいとも!』「テレフォンショッキング」1985年放送分ゲストリスト
- ↑ 『生きてるだけで丸もうけ』第7章「定年退職」より。フリーアナウンサー転身後の2013年1月1日には、朝日放送ラジオの新春特別番組『新春スーパーワイド第1部 元旦早々、粋も甘いも 桑原征平です』で、自身21回目にして同局の2013年初ニュース(午前6時の『ABC朝日ニュース』)を特別に担当した。
- ↑ 兵庫県臨床検査技師会「HIV・STI予防啓発キャンペーン市民公開講座」(2010年12月18日開催)
- ↑ 株式会社パワービーンズ 講師のご紹介:桑原征平
- ↑ 『生きてるだけで丸もうけ』第2章「『征平の挑戦』」より。同書や『桑原征平3019』には、放送時の1シーンの写真も掲載されている。
- ↑ 札幌オリンピック70m級ジャンプ銅メダリストで、当時の『ハイ!土曜日です』提供スポンサーだった雪印乳業社員の青地清二から指導を受けた。
- ↑ 36.0 36.1 36.2 『生きてるだけで丸もうけ』第2章「『征平の挑戦』」より。
- ↑ 『桑原征平3019』に掲載の「実録 『征平の挑戦』より ライオンとの格闘」より。同書に所収の「激白!桑原征平大いに語る」によれば、同様のリポートを志願した宮川大輔が当時のVTRを『世界の果てまでイッテQ!』のスタッフに見せたところ、「今の時代には無理」との反応があったという。
- ↑ 38.0 38.1 『桑原征平3019』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。
- ↑ 元関西テレビの桑原征平アナ、定年退職から10年。「征平の挑戦」はまだまだ続く(『THE PAGE』大阪版2014年9月3日付記事)
- ↑ 『桑原征平3019』pp.53には、「征平さんの原稿用紙」として、『桑原征平粋も甘いも』の過去の放送で使われた推敲済みの手書き原稿の写真を掲載。約20分の話のために、ノート2ページ分のメモを準備していることを紹介している。
- ↑ 『桑原征平3019』に所収の「リスナーさんが選ぶ征平さんの事件簿」より。
- ↑ 桑原征平アナ「これが最後」TV引退宣言(『サンケイスポーツ』2013年9月10日付記事)
- ↑ 関西ローカルでは、関西テレビが2015年6月28日に初めて放送。
- ↑ 人志松本のすべらない話スピンオフ企画 最新作発売!。
- ↑ 『ごきげんライフスタイル よ〜いドン!』2016年5月26日放送分「となりの人間国宝さん」
- ↑ 『かごニュー』2017年1月27日(金)放送分「伝説のアナ桑原征平、鹿児島を語る」
- ↑ 重大発表自体は事前に告知されており(radiko.jpにおける放送内容案内などで)、その内容を当てるメールも募集していた。
- ↑ 桑原征平アナ・正月からラジオで衝撃発言 ── 3月に公開で「断髪式」します(『THE PAGE』・『Yahoo!ニュース』2015年1月1日配信記事)
- ↑ 49.0 49.1 桑原征平アナ「公開断髪式」にリスナー2万人 ── 仲間が様々な断髪披露で爆笑の渦(『THE PAGE』・『Yahoo!ニュース』2015年3月15日配信記事)を参照。吉弥は午前中のステージ企画(朝日放送ラジオの生ワイド番組『磯部・柴田の日曜のびのび大放送』の放送枠内で生中継)に参加していたが、「公開断髪式」の時間帯にピッコロシアター(兵庫県尼崎市)で開催の落語会に出演していた関係で、高野(親戚の結婚式に参列するため欠席)・山本浩之とともに「祝電」を寄せた。
- ↑ 桑原征平アナ急性心筋梗塞で入院 ラジオ生放送で電話報告(『THE PAGE』大阪版2016年5月18日付記事)
- ↑ 桑原征平アナが仕事復帰「1分が命取りになる」(『日刊スポーツ』2016年5月25日付記事)
- ↑ 『生きてるだけで丸もうけ』第8章「陽はまた昇る」より。
- ↑ 桑原征平アナ教え子の奮闘に感動!万博でABCラジオまつり(『THE PAGE』2016年3月13日付記事)
- ↑ 番組開始から2013年9月27日までは毎週月 - 金曜日、2015年春改編までは毎週月・火曜日、2015年11月までは毎週木・金曜日、2016年3月までは毎週金曜日の17:00 - 17:10に放送。
- ↑ 2016年3月までは、毎週木曜日の17:00 - 17:10に放送。『粋甘』水曜日の本番終了後に、翌週の放送予定分を収録している。
- ↑ 1997年10月1日の本社屋移転を記念した生放送による特別番組で、桑原は「涙のSMAP」(当時のレギュラー企画)の進行を担当。ちなみに、2016年12月26日の最終回までオブザーパー・プロデューサーとして『SMAP×SMAP』の制作に携わった初代プロデューサー・田中猛彦は、桑原の関西テレビ時代の後輩に当たる。
- ↑ 日本初の子供向け公開番組として、毎週金曜日の夕方に放送。西川きよし・麻田ルミの司会で人気があったが、観覧客の将棋倒し事故(1971年12月)が発生したため終了。
- ↑ 放送期間中は、土曜日の午前中に『土曜大好き!830』、午後に『ノックは無用!』(いずれも生放送)へ出演してから、当番組にも登場していたという。
- ↑ 「関西テレビ開局50周年スペシャルウィーク」の特別番組として放送。同局の元アナウンサーとして、第3回「70年代」のナレーターを務めた。
- ↑ リポーターとしては、取材VTRの最後に、旅先にまつわる独自の川柳を必ず披露していた。
- ↑ 『モーニングライダー!藤川貴央です』公式サイト内「ライダーBLOG」で当日の本番終了後に更新された記事を参照。
- ↑ 「ライダーBLOG」で当日の本番終了後に更新された記事を参照。
- ↑ “大阪ラジオ3局の名物アナが他局電波ジャック ワイドFM1周年で記念番組”. スポーツニッポン. (2017年3月8日)
- ↑ 当日の『土曜も全開!!』で共演していた桂吉弥が、夜公演で『地獄八景亡者戯』を披露
- ↑ 森脇は11:00からの新春スーパーワイド第2部「森脇健児の新春!!走るラジオ2014」を小川恵理子、かみじょうたけしと共に担当。その宣伝を兼ねて小川と共に第1部の「午年いななきスペシャル」へも出演した。
- ↑ 映画.com「妖女の時代」
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