三枝の愛ラブ!爆笑クリニック
『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』(さんしのあいラブばくしょうクリニック)は、フジテレビ系列局で放送されていた関西テレビ制作のトークバラエティ番組。制作局の関西テレビでは1981年9月16日から1995年9月26日まで放送された。司会は桂三枝(現・六代桂文枝)が担当した。前半30分はロート製薬の一社提供となっていた。
Contents
放送時間の移り変わり
※全てJSTで表記する。
- 水曜 22:00 - 22:54 (1981年9月16日 - 1985年3月)
- 月曜 22:00 - 22:54 (1985年4月 - 1985年9月) - 『夜のヒットスタジオDELUXE』放送開始に伴い、月曜22時台へ移動。
- 火曜 22:00 - 22:54 (1985年10月 - 1995年9月26日) - 関西テレビ制作の『影の軍団』シリーズと放送枠を交換。
番組概要
- 番組初期の番組名は『三枝の愛ラブクリニック』。
- 毎回3組の視聴者夫婦[1]の悩みを司会者とゲストコンサルタントの3人[2]が解消するという内容のトーク番組。そのため、三枝が出演した夫婦に対して最初に投げかける質問は「悩みはどちらですか?」だった[3]。
- 後期には、コンサルタントの紹介時(「○○先生」と紹介される)に視聴者から寄せられたはがきでの悩み相談を紹介するコーナーが加わった。後に悩みを紹介した後、三枝が「いったいどうしたら」と言った後、スタジオにいる観客全員で「よいのでしょーか」と叫ぶ定番パターンが誕生する。
- 番組最後には「愛ラブチャンス」があり、サイコロを投げてハート型のハワイマークのところにヒットすると、ボード上のセットから大量の紙吹雪が吹き出して降り(末期は天井から大量の紙吹雪が降る)、ハワイ旅行と賞金10万円を獲得出来るゲームがあった(番組開始当初はなく「愛ラブチャンス」は番組開始1年後にスタートした。詳しくは後述)。
番組初期は、スタジオに2組の夫婦が出演。後半では、全国各地でのロケによるクイズコーナー「悩み求めて三千里」(桑原征平やアダ・マウロがリポーターを担当)[4]をはさんで、「愛ラブチャンス」を放送していた。
番組後期は「スターお悩みクリニック」という、ゲストコンサルタントの1人の悩みを解消するコーナーがあった。なお、最終回は司会の三枝が悩み役で、進行役を羽賀研二が務めた。
当時の首相海部俊樹夫妻がプライベートで出演したこともある。当時の労働大臣・山口敏夫も夫婦で出演していた。
番組開始から1990年頃まで、関西テレビ本社(大阪市北区西天満)のスタジオで収録されていたが、その後、三枝のスケジュールが多忙になったことなどから、後期(1992年以降)は東京都世田谷区砧の東京メディアシティ内にある、関西テレビグループのレモンスタジオで収録された時期があった[5]。なお、アシスタントの細川ふみえが『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのコーナーでルー大柴からの紹介で出演交渉された際、今からこの番組の収録で大阪に向かうところだと言っていたことから、収録場所は三枝のスケジュールで変動していた模様である[6]。
年末年始特番や当時火曜日に放送されていた『FNS歌謡祭』の影響で、23時からの放送になった場合もしばしばあった。また、大晦日や元日、更に急遽報道特別番組[7]に差し替えといった特例を除いて、番組が休止になったこともほとんどなかった。
アシスタント
- 初代 - 三ツ矢歌子(1981年9月 - 1982年8月)
- 2代目 - 山本みどり(1982年8月 - 1983年9月)
- 3代目 - 秋野暢子(1983年10月 - 1984年9月)
- 4代目 - 鮎川いずみ(1984年10月 - 1986年6月)
- 5代目 - 朝丘雪路(1986年7月 - 1986年9月)
- 6代目 - 市毛良枝(1986年10月 - 1987年9月)
- 7代目 - 榊原郁恵(1987年10月 - 1991年3月、途中産休あり)
- 8代目 - 山瀬まみ(1991年4月 - 1993年3月)
- 9代目 - 細川ふみえ(1993年4月 - 1994年12月)
- 10代目 - 高木美保(1995年1月 - 1995年9月)
※文枝と山瀬は現在『新婚さんいらっしゃい!』で共演している。また、榊原の産休期間中(1988年12月〜1989年6月まで)は、市毛が代役を務めた。
パネラー
- 大島渚
- 横山ノック
- 上岡龍太郎
- 長野智子
- 高見恭子
- 渡嘉敷勝男
- 篠沢秀夫
- マッハ文朱
- 大場久美子
- 斉藤ゆう子
- 和田アキ子
- 高島忠夫
- 大島さと子
- うつみ宮土理
- ポール牧
- 生島ヒロシ
- 宮尾すすむ
- ケント・デリカット
- 谷隼人
- 山城新伍
- ゆうゆ
- 島田洋七
- 内海好江
- 稲川淳二
- キャシー中島
- 吉村作治
- 掛布雅之
- 渡辺正行
- 林寛子
- 桂ざこば
- 水谷ミミ
- 蔵間
- 谷啓
- 宮川大助・花子
- 太平サブロー
- 林家こぶ平
- 桑野信義
- 志茂田景樹
- 栢木寛照
- 羽賀研二
- 麻木久仁子
- 松崎しげる
- 円広志
ほか
愛ラブチャンス
番組の最後に放送された、出演した夫婦がハワイ旅行と賞金10万円獲得に挑戦するゲームコーナー。
開始当初
開始当初は1 - 4のパネルで出場夫婦が1 - 4を選んでいた。パネルが開いて選んだ番号にハワイマークが出ればハワイ旅行獲得。ハートにヒビ入ったマークが出れば獲得ならずのゲームだったが、頻繁にハワイ旅行を獲得した夫婦が出ていたことからわずか1年でサイコロを投げる方式に変わった。
中期から末期
出演した夫婦がサイコロを投げてハワイ旅行獲得に挑戦するゲームで、1982年のリニューアルから登場した。6×6のボードに、当たりのハートマークをアトランダムに配置。まず女性がサイコロを転がすフィールドに向かってサイコロ(ピンク・クリーム色)を投げ、サイコロの出目に対応した縦列を決定。その次に男性がサイコロ(青・水色)を振り、同様に横列を決定させる。そしてボードの交点にハートマークがあればハワイ旅行獲得となる(師匠と弟子大会では弟子→師匠、ゲスト家族大会ではタレント→家族など、出場者によって変わる)。男性がサイコロを振る時はドラムロールが流れる。縦列の当たりの数は、初期は6か所中4か所が1列、3か所が1列、2か所が1列、1か所が3か所(因みに横列は2か所ずつ均等に配置)で、全体的な当たり確率は1/3(12/36)であった。後期は当たりが増えて4か所、3か所、1か所が1列ずつで2か所が3列、最終回は更に当たりが増えて4か所が1列で3か所が2列、2か所が3列であった。また、特番では双六の要領で当たりを決めるバージョンもあった(その際、サイコロは金と銀だった)。使用されたサイコロは、フジテレビ『ライオンのごきげんよう』のサイコロ以上に角が丸みを帯びたもので、なかなか目が確定せず、挑戦者や視聴者をハラハラさせる作りだった。また、投げたサイコロがバウンドしすぎてフィールド外に出てしまった時は振り直しとなる。
開始当初は、サイコロを振る時のBGMは無かったが、途中でBGMが流れる様になり、後期はコーナー全体のBGMがリニューアルされる。
パネルボードは、初期は挑戦者の背後に置かれ、後期はスタジオの向かって左横に配置されていた。また後期のパネルボードのほぼ真ん中の3と4を境目にして左右に開き、そこに6×6のハガキを収めるボックスがあり、初期の頃はそこでハガキを引いてダイヤモンドリングの当選者を抽選していたが、後にフィールドの前に抽選ボックスを持って来て抽選する様になる。
たいてい必ず1組はハワイ旅行が出たが、全組ハワイ旅行獲得や全組残念となったことが年に何度かあった。さらに、当たりが6か所中1か所しかなかったのに成功する、逆に当たりが6か所中4か所もあったのに失敗してしまったことも年に何度かあった。失敗すると残念賞として週替りの賞品が貰えたが、最末期にダイヤモンドリングに固定される。また、視聴者にはハワイ旅行を獲得した組数に応じて、愛ラブチャンス終了後に抽選でダイヤモンドリングのプレゼントがあり、ハワイ旅行獲得が1組なら1名、2組なら2名、3組なら3名にダイヤモンドリングがプレゼントされ、逆に全員失敗した場合はプレゼント無しとなる。
エピソード
- 三枝が『たけし・所のドラキュラが狙ってる』(毎日放送)にゲスト出演した時に、セットをそっくりそのまま「ドラキュラチャンス」という名でゲームが行われていた。ボードの交点に書いていたハートマークは番組ロゴが記されている以外は、ジングルと番組のテーマもそのまま流れていた。
- 一時期ゲームセンターでそっくりそのまま、景品が当たるゲームも登場した。
- 室内プールでの収録があり、その際に数字の書かれたビニールボールをプールの中の噴水に投げ入れる形式で行われた(周りに水着の女性もいた)。しかし全く盛り上がらず[8]、更には3組とも失敗で追い討ちをかける結果に、三枝は「お茶碗の中でサイコロを転がしてもよかった」とぼやいた。
- 辰吉丈一郎が出演した際、飛行機が苦手だという理由で当たりの目を横にして転がし、わざと失敗した。
- 当たりが1つの場合、三枝が念力で当たりの目に念を送る事があったが、殆どが失敗。また、手本として三枝が投げる事があったがやはり失敗で、会場の笑いを誘った。これらとは逆に、既に成功した夫婦が三枝に促され別の夫婦に念を送り、大当たりして2組の夫婦が輪になって喜んだ事がある。
- 数ある全組残念となった回の1つで、1990年3月20日放送分では全組残念となった瞬間、榊原郁恵が「えー!? 皆さん残念賞なのー!?」と叫んでいたり、残念賞紹介直後(その回は「家庭用コピー機」だった)に三枝がスタジオの床に置かれていたハートマークを強引に持ち上げて「がっかりーっ!!」と叫んでいたエピソードがあった。
- ABC朝日放送制作の『新婚さんいらっしゃい!』にて、三枝が間違えて「アイラブチャーーンス」と言ってしまい、山瀬まみに突っ込まれるハプニングがあった。偶然にも『新婚さん〜』のアシスタントを務めている。
スタッフ
- プロデューサー:遠山伸彦
- ディレクター:長嶋一郎、永田公春、濱星彦、高井久雄、竹原栄一
- 構成:久世進、藤永暁
- 音楽:広瀬健次郎
- 制作著作:関西テレビ
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- 前半はロート製薬の一社提供(番組の開始前にはロート製薬のオープニングキャッチが流された[9])だった。なお、1993年4月からTBS『クイズテレビずき!』同様、オープニングキャッチがリニューアルされている。
- 後半は大手化粧石鹸メーカーの牛乳石鹸(1994年9月末まで)→大手家庭用品メーカーのP&G(1994年10月から最終回)を中心とした複数社提供だった。
ネット局
系列は放送終了時点のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | ネット形態 | 備考 |
---|---|---|---|---|
近畿広域圏 | 関西テレビ | フジテレビ系列 | 制作局 | |
関東広域圏 | フジテレビ | 同時ネット | ||
北海道 | 北海道文化放送 | |||
青森県 | 青森テレビ | TBS系列 | 遅れネット | |
岩手県 | 岩手めんこいテレビ | フジテレビ系列 | 同時ネット | 1991年4月開局から |
宮城県 | 仙台放送 | |||
秋田県 | 秋田テレビ | 1987年4月から[10] | ||
山形県 | 山形テレビ | テレビ朝日系列[11] | 遅れネット | テレビ朝日系へのネットチェンジに伴い、1993年3月打ち切り[12] |
福島県 | 福島テレビ | フジテレビ系列 | [13] | |
山梨県 | テレビ山梨 | TBS系列 | ||
新潟県 | 新潟総合テレビ | フジテレビ系列 | 同時ネット | 新潟テレビ21開局後の1983年10月から |
長野県 | 長野放送 | |||
静岡県 | テレビ静岡 | |||
富山県 | 富山テレビ | 遅れネット | ||
石川県 | 石川テレビ | 遅れネット →同時ネット |
テレビ金沢開局後の1990年4月から同時ネット。[14] | |
福井県 | 福井テレビ | 遅れネット | ||
中京広域圏 | 東海テレビ | 同時ネット | ||
島根県・鳥取県 | 山陰中央テレビ | |||
岡山県・香川県 | 岡山放送 | |||
広島県 | テレビ新広島 | |||
山口県 | テレビ山口 | TBS系列 | 1985年4月から1987年9月まで また、同局は1987年9月まではフジテレビ系列とのクロスネット局だった。 | |
山口放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 山口朝日放送が開局する1993年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局だった。 1994年10月から1995年3月まで[15] | |
徳島県 | 四国放送 | 日本テレビ系列 | ||
愛媛県 | テレビ愛媛[16] | フジテレビ系列 | 遅れネット →同時ネット |
1985年4月から[17] |
高知県 | テレビ高知 | TBS系列 | 遅れネット | |
福岡県 | テレビ西日本 | フジテレビ系列 | 同時ネット | |
佐賀県 | サガテレビ | |||
長崎県 | テレビ長崎 | 1985年4月から | ||
熊本県 | テレビ熊本 | 熊本朝日放送が開局した1989年10月から[18] | ||
大分県 | テレビ大分 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
遅れネット →同時ネット |
同局は月曜時代と1990年代初頭は遅れネット。 大分朝日放送が開局した1993年10月から同時ネット。 |
宮崎県 | テレビ宮崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット | |
鹿児島県 | 鹿児島テレビ | フジテレビ系列 | 同時ネット →遅れネット →同時ネット |
1985年4月から[19] |
沖縄県 | 沖縄テレビ | 遅れネット | 火曜夜10時枠では日本テレビ系の「土曜グランド劇場」の時差放送をしていた。 |
※時差放送の局は、冒頭の「♪ロート…」のオープニングキャッチが省かれていたか[20]、あるいはスポンサーが表示されなかった(PT)局が多かったと思われる[21]。
関連項目
- バラエティ番組
- 新婚さんいらっしゃい!
- SMAP×SMAP - 放送開始から14年間続いたロート製薬前半1社提供番組(2010年4月より複数社提供の一部になっている)。
脚注
- ↑ ただし、特別企画の時はタレント夫婦または親子・タレントとそのマネージャーなど。国際結婚カップル特集も年に1回は必ずあった。
- ↑ 主にタレント、または文化人。栢木寛照住職がよく出演。
- ↑ ほんの主な一例として、「うちの主人が、ばくち事(ギャンブル)に手を出しているので困る」などが挙げられる。
- ↑ 「お悩みマン」と称するリポーターが様々な場所に行って、その場所の人に悩みを聞き、スタジオの出場者はその悩みを当てる。クイズは3問あり、形式は三択で、どちらか一方が正解だと1万円獲得、双方とも正解だと3万円獲得となる。そして3問全て双方正解だと「パーフェクト賞」として10万円獲得となる。
- ↑ それ以前は渋谷ビデオスタジオで収録した時期もある。なお、レモンスタジオを使用する以前に東京のスタジオで収録した回については「制作協力:フジテレビ」のクレジットが表記されていた。
- ↑ エンドロールに「制作協力:レモンスタジオ」の表示が無い放送回が該当。最終回も含む。
- ↑ 主な例として、1985年8月12日の日本航空123便墜落事故、1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生時の報道特別番組がある。
- ↑ 通常のサイコロと違い、水面に落ちた時点ですぐ止まってしまった上に判定がし辛かった。
- ↑ ただし、1988年9月中旬から1989年1月までは昭和天皇が病気になった事により、ロートのオープニングキャッチは休止され、テーマ曲+「この番組はロート製薬の提供でお送りします」というパターンに変更された(しかし、1989年1月2日に放送された正月スペシャルでは特別にオープニングキャッチが流れた)。当時放映していた他のロート一社提供番組も同様の措置が取られている。
- ↑ テレビ朝日系とのクロスネット解消による開始。それ以前は当該時刻に同系列の『プロポーズ大作戦』〜『パーティー野郎ぜ!』を同時ネットの後、『月曜ドラマ9』を遅れネットで放送していた。
- ↑ 同局は1993年3月まではフジテレビ系列だった
- ↑ ただし、近隣のフジテレビ系列局(秋田テレビ・仙台放送・新潟総合テレビ・福島テレビ(4局のうち、福島テレビのみ遅れネット))をケーブルテレビなどで受信できた場合は4月以降も引き続き視聴できた。火曜夜10時枠では日本テレビ系の『水曜ロードショー→金曜ロードショー』(YTSでは「火曜ロードショー」のタイトルで放送)の時差ネットを放送していた。
- ↑ 『はまつアワー』として放送。終了時は別番組(『開運!なんでも鑑定団』)だった
- ↑ 1990年3月までは日本テレビ系の『土曜グランド劇場』放送の為時差放送。
- ↑ テレビ山口のFNS脱退に伴う移行。
- ↑ 当番組が放送されていた当時は愛媛放送だった。
- ↑ 1993年ごろまでは時差放送だった。
- ↑ テレビくまもとは開局当初からフジ系メインネット局でありながら、クロスネット期間中(開局から1989年9月30日まで)は当該時間帯にテレビ朝日系時差ネット枠が組まれていたため、当番組のネット受けは行わず、フジ系シングルネット化完了後に放送を開始した。
- ↑ 鹿児島テレビは1985年4月からネットを開始し、1986年3月までは同時ネット。1986年4月〜1987年3月は日曜22:30〜23:30、1987年4月〜1994年3月は深夜番組として時差ネット。1994年4月以降は最終回までは再び同時ネット。なお、深夜の時差ネット以外は提供スポンサーのCMもキー局と同じモノをそのまま流していた。
- ↑ 例:番組開始後にブルーバックで「この番組はロート製薬と、ご覧のスポンサーの提供でお送りします」との提供読み。
- ↑ どの局だったかは不詳。
フジテレビ系列 水曜22時台 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
三枝の愛ラブクリニック
↓ 三枝の愛ラブ!爆笑クリニック (1981年9月 - 1985年3月) 【ここまで関西テレビ制作枠】 |
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フジテレビ系列 月曜22時台 | ||
三枝の愛ラブ!爆笑クリニック
(1985年4月 - 1985年9月) 【ここから関西テレビ制作枠】 |
影の軍団・幕末編
(火曜22時台から移行) |
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関西テレビ制作・フジテレビ系列 火曜22時台 | ||
影の軍団IV
(月曜22時台に移行) |
三枝の愛ラブ!爆笑クリニック
(1985年10月 - 1995年9月) |
ひらけ!GOMA王国
(1995年10月 - 1996年3月) |
関西テレビ制作 ロート製薬前半提供枠 | ||
激突!お笑いルーレット
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三枝の愛ラブクリニック
↓ 三枝の愛ラブ!爆笑クリニック |
ひらけ!GOMA王国
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