右京区

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うきょうく
右京区
地方 近畿地方
都道府県 京都府
京都市
団体コード 26108-4
面積 292.07km2
総人口 203,592
推計人口、2018年4月1日)
人口密度 697人/km2
隣接自治体
隣接行政区
京都市北区左京区中京区
下京区南区西京区
亀岡市南丹市
外部リンク 京都市右京区役所
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右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11のひとつ。市内西北部に位置し、旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。

区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。

区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。

地理

区北部の京北は全域が丹波高原に当たる。旧京北町の町役場が置かれた周山と宇津が主な盆地だが、その他は山地で、この盆地をつなぐように桂川が流れる。

区南部は、北方の山岳部を除いては桂川に沿っており、ほぼ平坦である。

京北は編入前から右京区と周山街道(国道162号)や桂川によって結ばれていた。

歴史

現在の右京区がある地域の歴史は古く、かつてこの地には山背(山城国府が置かれていたともいわれる。渡来人秦氏もこの地方を拠点として活躍したと思われ、氏寺として広隆寺を建立した。秦氏は聖徳太子とも関わりがあったらしく、のちの山背大兄王が蘇我氏に攻められた際には、彼に太秦に避難するよう進言する者があった。秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の大覚寺)を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。

戦国時代以降より桂川水運が盛んとなり、嵯峨周辺に豪商が成長したが、その中で嵐山の豪商角倉了以が徳川幕府と結びつき、保津川(桂川)ほか各地の河川の開削を行った。このためか角倉家は大いに発展し、東南アジアにまで進出するに至る。鎖国以後も桂川水運の管理を任され、現在の南丹市世木より下流の桂川の重要な港には角倉役所が置かれた。桂川の水運は嵐山や梅津を荷揚場とし、天神川を水路として丹波以北からの品物を京都中に運んだ。

右京区京北地区の歴史としては、平安京造営の際に木材を献上した山国郷が歴史上最初に現れる。これが基となって朝廷に縁を持ち、南北朝時代には光厳天皇が山国郷に一寺常照皇寺を開きこの地に葬られた。戦国時代には土豪宇津氏が当地に割拠したが、明智光秀の攻撃を受けて滅んだ。この地に周山城が築かれたという。江戸時代には園部藩篠山藩が支配したが、山国郷は禁裏御料となった。また明治維新の際には時代祭行列で知られる山国隊が当地の農民により編成され官軍に参加し活躍した。

沿革

人口

右京区に相当する地域の人口の推移
1970年 0人
1975年 197,196人
1980年 199,958人
1985年 201,359人
1990年 202,410人
1995年 204,680人
2000年 202,259人
2005年 202,356人
2010年 202,943人
2015年 204,262人
総務省統計局 国勢調査より

区役所

ファイル:Ukyo ward-office.jpg
移転前の右京区総合庁舎

右京区役所(総合庁舎)は、京福電鉄嵐山本線(嵐電)太秦広隆寺駅前から、地下鉄東西線太秦天神川駅併設の建物SANSA右京に移転した。

  • 右京区役所
〒616-8511
京都市右京区太秦下刑部町12
  • 嵯峨出張所
〒616-8422
京都市右京区嵯峨釈迦堂大門町35
  • 高雄出張所
〒616-8283
京都市右京区梅ヶ畑奥殿町26-1
  • 宕陰(とういん)出張所
〒616-8475
京都市右京区嵯峨樒原宮ノ上町2-5
  • 京北(けいほく)出張所
〒601-0292
京都市右京区京北周山町上寺田1-1

教育

小学校

中学校

高等学校

大学

特別支援学校

その他

  • 京都朝鮮第二初級学校 - 日本の幼稚園・小学校に当たる教育を行っている朝鮮学校(非一条校)
  • 京都朝鮮第二中級学校 - 日本の中学校に当たる教育を行っている朝鮮学校(非一条校)

隣接している自治体・行政区

交通

鉄道

路線バス

道路

有料道路

一般国道

名所・旧跡・観光スポット・観光名産品・祭事・催事

出身者

その他

右京区の担当集配郵便局は、以下の管轄となっている。

関連項目

外部リンク