ラグビー日本代表
ラグビー日本代表(ラグビーにほんだいひょう)は、日本ラグビー協会が組織するラグビーユニオンのナショナルチーム。愛称は「チェリーブロッサムズ」(Cherry Blossoms)または「ブレイブブロッサムズ」(Brave Blossoms)。古くからのラグビーファンの間では「ジャパン」と呼ばれる[1]。時の監督、ヘッドコーチの名前を冠して、「大西ジャパン」「宿澤ジャパン」「エディージャパン」などと呼ばれることもある。
ファーストジャージーのデザインは赤に白の横線。国内ではそのユニフォームが「桜のジャージ」と呼ばれる。ジャパンが初めて結成された時のエンブレムは桜がまだ蕾であった。
Contents
歴史
黎明期
初めて日本代表が結成されたのは1930年のカナダ遠征である。香山蕃が初代監督に就任し、ブリティッシュコロンビア州代表(以下、BC代表)が初のテストマッチ認定試合となったが、6勝1分の成績を残した。国内での初のテストマッチは1932年のカナダ代表との対戦であった。戦前最高のプレイヤーと呼ばれた笠原恒彦(明大)らの活躍により、戦績は日本の2戦2勝だった。香山は1930年から1934年まで監督を務め、テストマッチで3勝1敗の成績を残した。
一方、1932年から1962年までは海外での試合はなく、国内でのみ試合を行なった。この間、ニュージーランド学生代表クラブ(NZU)、オーストラリア学生代表、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学の他、在韓ニュージランド部隊や極東英連邦軍チームなどと対戦したが、ほとんど勝てなかった。
1963年、葛西泰二郎が監督に就任し、33年ぶりにカナダへ遠征。同年4月13日のBC代表戦を33-6で制し、海外遠征テストマッチ初勝利を挙げた他、通算成績4勝1敗の成績を残した。ちなみに同遠征メンバーの中に、後にグレート草津としてプロレスラーとしての道を歩むことになる草津正武もいた。
「大西ジャパン」
「NZ遠征」
その後2年間は試合が行われなかったが、1966年に大西鐡之祐が監督に就任すると、2年後の1968年にニュージーランド(以下、NZ)とオーストラリアへ遠征し、1か月間で11試合を行い、6月3日のオールブラックスジュニア戦と6月8日のNZU戦がテストマッチ対象試合となった。そしてオールブラックスジュニア戦では、坂田好弘が4トライを挙げるなどの活躍を見せて23-19で撃破するという大金星を挙げた。翌日の地元新聞には、「NZラグビー暗黒の日」という見出しが踊ったという[2]。この長期遠征は5勝6敗の成績だった。
日本選手権出場辞退事件
1969年に開催された第1回のアジアラグビーフットボール大会(アジア選手権ともいう)で優勝。タイ・バンコクで開催された1970年の第2回も制覇したが、第2回開幕直前に、1969年度の全国社会人ラグビーフットボール大会で優勝した近鉄、準優勝のトヨタ自工、同3位の三菱自工京都が相次いで、アジア選手権に主力を送り込むため、同年度の日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)を辞退することを表明する騒動が起こった(詳しくは、日本ラグビーフットボール選手権大会#日本選手権の辞退を参照)。アジア選手権の開催日程が1月10日から18日までとなっており、1月15日に開催される日本選手権と日程が重なったためである。
このような騒動があったものの、アジア選手権連覇を果たした日本は、1970年3月に、NZUとBC代表を日本に招いてテストマッチを行なったが、このとき、日本のエース、坂田好弘はNZUのメンバーとして出場した。結果、BC代表には32-3で快勝したが、NZUには3戦全敗。ついに、大西ジャパン時代には、長年の宿敵であるNZUには勝つことができなかった。
母国相手に大健闘
1971年9月、ラグビーの母国、イングランド代表が来日した。同月24日に花園(19-27)では、双方5度に亘る逆転劇というシーソーゲームの末敗戦。28日の秩父宮では花園の一戦とは違って双方ノートライのロースコアゲームとなった。日本は山口良治が挙げた1ペナルティ・ゴール(PG)しか得点を奪えなかったが、後半32分頃に訪れた、宮田浩二があと2センチあればトライを取れていたシーンがあるなど、80分間に亘り、イングランドと互角以上に渡り合った。結果、3-6で惜敗したが、今もなお、日本代表試合史上に残るベストゲームとして語り継がれている[3]。
「ジャパン」のルーツ
大西は、早大監督時代から海外列強の理論を導入。自宅には、原語で書かれたラグビー理論書が多く蔵書されていたという。さらに寄せ集め的な日本代表チームの編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げた。このことに関連して、今、「〇〇ジャパン」という呼称がマスコミを中心に言われることが多いが、そのルーツは大西に起因している。日本代表監督に就任する前、当時はラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして、「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!よって親しみを込めてこれから『ジャパン』ということにする。」と、代表選手を集めたミーティングで説き、以後暫く、「ジャパン」といえば、ラグビー日本代表のことを指すようになった[4]。また、ラグビーでは「北島明治」などチーム名に監督名を冠する呼称が一般的だったので「大西ジャパン」と呼ばれた。
「接近・展開・連続」
大西の豊富なラグビー理論を集約した考え方が、「接近・展開・連続」である。これは、体の大きい相手にはスペースを与えず、できる限り「接近」してプレーする。相手とすれ違いざま、接触する寸前に素早く、味方に正確なパスを通し、人もボールもワイドに「展開」する。そのプレーを「連続」させて、相手ゴールを陥れるということに起因する。その理論に基づき、大胆な選手起用法も試みた。ラグビー経験の少ない井沢義明をいきなり代表に抜擢、身長160センチメートル台ながらタックルが良くラインアウトのスローイングに長けた石田元成をフランカーとして起用、トリッキーなステップで対面を抜き去るスリークォーターバックス (TB)ウィングの萬谷勝治を「カンペイ」の切り札としてフルバックにコンバート、ナンバー・エイトだった原進をプロップとして抜擢、徹底的に鍛え上げて世界に通用するプロップに育て上げるなど、オールスター選抜・早慶明同に人選が偏重する傾向の強かった日本代表を革新した。
相次ぐ海外遠征
上記イングランド来日試合を最後に大西が監督を退任し、1972年に同志社大学の指揮を執る岡仁詩が後継監督となったが、オーストラリアコルツ来日テストマッチで1勝1分を記録するなど、国内強化試合を含めて負けなしを記録した。そして翌1973年に、イギリス、フランス遠征を1か月間に亘って行うことが決まった。ところがその後、岡が指導する同志社で練習中に部員が死亡するという事態となったため辞任せざるを得なくなり、英仏遠征の監督には急遽横井久が就任したが、当時主将は実弟の横井章が務めており、「横井兄弟体制」ができあがった。英仏遠征では、同年10月6日に、当時世界一との評価を得ていたウェールズ(14-62)、10月28日にはフランスとそれぞれ初のテストマッチを行なった。なお、このフランス戦については、フランスラグビー連盟もテストマッチと認定したが、18-30と健闘した。
1974年、明治大学OBの斎藤寮が監督に就任し、4月下旬から1か月に亘り、6年ぶりとなるNZ遠征が実施されたが、遠征最終戦で、「大西ジャパン」時代でも勝利できなかったNZUに対し、「アニマル」こと藤原優の逆転トライが利いて24-21で破り、対同チーム初勝利を挙げた。
1975年、岡が監督に復帰し、同年7月中旬から約1か月間、オーストラリア遠征を実施した。オーストラリア代表(ワラビーズ)とはテストマッチを2試合行い、第2テスト試合の8月17日の試合では、25-30と健闘した。そして、このワラビーズ戦は、2試合ともオーストラリアラグビー連合もテストマッチと認定した。この頃までは、勝てないまでも日本は、国際ラグビーフットボール評議会(現在のワールドラグビー)ファウンデーションユニオン8か国の代表に対し健闘する試合も少なくなかった。
ラグビーブームとは裏腹の日々
1970年代後半あたりから、とりわけ大学ラグビーについては空前のブームとなった。早明戦や早慶戦、全国大学ラグビーフットボール選手権大会、日本ラグビーフットボール選手権大会といった試合では満員のスタンドで行われるのが常となっていた。しかし日本代表はこの頃、アジア諸国相手にしか勝てないという戦績に喘いでいた。キャップ対象試合だけを紐解くと、1975年のオーストラリア遠征-1980年まで、日本代表が勝利を収めたのはアジア選手権において3度韓国を破った試合があるのみ。それ以外の相手となると、1979年の花園におけるイングランド戦の惜敗(19-21)があったとはいえ、1引き分けを挟んで19連敗を喫した。
1981年のオーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利すると、1982年の香港及びカナダ代表の来日試合に勝利してテストマッチ5連勝を記録した。以後、1982年9月26日にNZUから国内初勝利を挙げた試合や、1983年のウェールズ遠征でウェールズ代表に24-29と惜敗した試合もあったが、一方では韓国に度々敗戦してアジア王者から陥落した年もあるなど、安定した成績を収めることができなかった。またこの間の代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか、新任監督が誕生せず、過去の経験者が二度目、三度目の就任をするなど、場当たり的な人事とみられてもおかしくなかった。ひいては上記の通り、国内の爆発的なラグビー人気があり、かつ松尾雄治などのタレントを擁しながらも、成績が振るわなかったのである。
第1回ワールドカップ
ラグビーには長年世界一を決める大会がなく、日本は海外遠征やラグビー強豪国を招いてのテストマッチでラグビー強豪国(IRB正加盟国8カ国)を破ることが悲願であったが、実力と試合機会という高い壁に阻まれてきた。1987年、ラグビーワールドカップが創設され、日本は第1回大会に招待された。
しかし、第1回ワールドカップの招待を受けたにもかかわらず、岡が大会直前になってNZへの研修留学という名目で監督を辞任[5]。急遽宮地克実が指揮を執って挑んだ。初戦のアメリカ戦ではペナルティ・キック(PK)を5回も外し、勝てる期待の高かった試合を18-21で落とした。続くイングランド、オーストラリア戦にも敗戦し、3戦全敗で予選敗退となった。その後は通常のテストマッチでも連敗が続き、1986年のスコットランド戦からテストマッチ11連敗という「暗黒の時代」が続いた。その後、1988年のアジア選手権で韓国に2大会連続で敗退した責任を取り、日比野弘が監督を辞任。しかし、後任監督の選定には時間を要した。
「宿澤ジャパン」
「宿澤ジャパン」誕生
日比野の後任監督には、早大時代にラグビー日本選手権2連覇達成の立役者の一人でありながら、銀行員という職業柄、ラグビー界から遠ざかっていた「伝説のスクラム・ハーフ」宿澤広朗に白羽の矢が立った。 日比野が辞任を表明してからしばらくして、当時、選手強化委員長だった白井善三郎は日比野を携えて、住友銀行(当時)の英国支店勤務中に五ヶ国対抗ラグビーの観戦記などを日本のラグビー雑誌に寄稿したりするなどしていた宿澤を呼び、開口一番、「何のことかわかるだろう。」と切り出した。宿澤は当初、母校・早稲田大学のコーチ就任についての話かと思っていたらしく、まさか代表監督の要請とは思ってもいなかったという。しかも代表監督ということになると、勤務先の住友銀行も許可を出さないだろうと思っていたが、白井と日比野が事前に住友銀行に根回ししていたこともあり、「出世に響いてもいいなら、やってみろ。」という当時の上司からの事実上の快諾を得たため、1989年に日本代表監督に就任することになった。ちなみに、日本代表の新任監督は、1980年の山本巌以来、実に9年振りのことだった。
スコットランド相手に「金星」
宿澤監督就任初の采配試合となった。1989年5月28日、秩父宮ラグビー場で行われたスコットランドXVとの一戦である。スコットランド代表メンバーのうち、レギュラークラスの過半数はブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてNZに遠征中だったため、ベストの布陣とは言えず代表扱いではないチームとして「スコットランドXV」を名乗っていたが、ここまで日本はスコットランドには3戦全敗中。そのため、最初から勝てる相手ではないと思われても致し方なかった。ところが、宿澤はこの強力な来日チームの試合を観戦し、次の弱点があることに着眼して「勝てる」と感じ、代表選手たちにこう力説した。
- 関東代表やU23があっさりトライを取られたのは、ジャパンとは格が違うから。ディフェンスさえしっかりすれば、ジャパンは勝てる。
- スコットランドは予想通りスクラムが弱い。ジャパンのスクラムなら絶対に押せる。
- また、二線防御の弱さも予想通りで、ジャパンのBKなら相当なトライ奪取が可能だ。
- ただし、モールでは不利。ラックでボールを支配しよう。
高温多湿、かつスコットランドのキッカーの絶不調があったとはいえ、全体として宿澤のほぼ読み通りの試合内容となり、28-24のスコアでIRB常任理事国を破る金星を挙げた。そして、当時のスポーツ紙がこの金星を一面で大々的に報道した他、この勝利がきっかけとなり、日本代表は、Sports Graphic Number誌における同年度のMVP賞に選出された。この試合では、当時の代表チームの主将に、当時神戸製鋼の主将でもあった平尾誠二が就き、また、シナリ・ラトゥ、吉田義人、堀越正巳、青木忍といった現役大学生をレギュラーに抜擢したことにも特筆すべき点があった。そのため、たった1戦の指揮しか行なっていないにもかかわらず、宿澤は日本のラグビーを変えた、とまで言われるようになっていった。
テストマッチのあり方を見直す
スコットランド戦の金星があったとはいえ、宿澤は、日本代表とレベルの近いチームとの対戦を志向したため、その後はIRFBファウンデーションユニオン8か国との対戦は、1991年のワールドカップまでなかった。また宿澤は、これまでNZUやオックスフォード、ケンブリッジの両大学などの対戦相手についても、(日本代表のみ)テストマッチとしてきたあり方を抜本的に見直し、原則的に各国代表チーム以外のチームとの対戦についてはテストマッチとはみなさないことも方針として決めた。この方針は、当時の日本代表チームとしてはかなり画期的な方針であったが、以後の日本代表監督、ヘッドコーチ時代もこれに倣うことになった。
ワールドカップ初勝利
対スコットランド勝利後のカナダ遠征では2戦2敗、翌1990年3月のフィジー戦も完敗した。ワールドカップのアジア・太平洋予選では、西サモアにこそ苦杯を舐めたが、トンガ、韓国を破って2大会連続でワールドカップ出場を決めた。だが、その後は西サモア戦の敗退を含めてテストマッチで5連敗。ところが、1991年のワールドカップを迎えるにあたって、むしろ宿澤ジャパンに対する評価は不安よりも期待感のほうが高まっていた。プール2に入った日本は、初戦で優勝候補の一角にも挙げられたスコットランドと対戦。スコットランドのホームであるマレーフィールド・スタジアムが会場であったが、2年前の「再現」を期待していた日本のラグビーファンも多かった。しかし、前半こそ9-17で折り返したものの、後半は雪辱を期していたスコットランドの一方的展開となり、9-47で完敗した。続く対アイルランド戦はアイルランドのホームグラウンドであるランズダウン・ロードで行われた。対スコットランド戦から中3日で行われたこの試合では、吉田義人の70m独走トライなどのシーンが見られた拮抗した試合になったものの、16-32で敗北。この時点で日本の予選突破は消えた。最終戦の対ジンバブエ戦はベルファストで行われ、日本は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せて52-8でW杯初勝利を収めた。
145失点の屈辱
ワールドカップ終了後、宿澤は退任。後任には、新日鐵釜石時代、監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修が就任することになった。小藪はチームコンセプトとして、「タテ・タテ・ヨコ」というパワーラグビーを志向した。しかし、レベルが総体的に落ちるアジア諸国相手であれば通用したが速度が伴わず、北・南両半球の強豪相手には通用しなかった。とりわけ、1993年のウェールズ遠征では、同国代表はもとより同国Aチームにも惨敗を喫し、小藪解任論まで噴出した。そのため、タテ・タテ・ヨコの修正を迫られた。以後は立て直しが見られ、フィジーに国内でのテストマッチで連勝、また1994年のアジア選手権決勝で韓国を破って3大会連続のワールドカップ出場権を得た。
1995年に開催されたW杯本戦では全く歯が立たず、ウェールズには10-57、アイルランドには28-50といずれも完敗。この時点で3大会連続となる予選プール敗退が決定した。3戦目の対戦相手のニュージーランド(オールブラックス)は既に決勝トーナメント進出を決めていたため、控え選手主体のメンバーであったが、日本代表もワールドカップの過密日程からか一部の主力選手が出場せず、前半だけで12トライ、後半も9トライを挙げるなどして、145-17で圧勝。オールブラックス来日時の第2テストマッチで100失点以上を経験していたため、戦前から日本代表の大敗は予想されていたとはいえ、「ブルームフォンテーンの悪夢(悲劇)」と呼ばれる大敗を喫した。なお、この試合をもって小藪は監督を退任した。
小藪の後任には、サントリーの部長だった山本巌が3度目の就任となった。1996年のパシフィック・リム選手権で2勝4敗の最下位に終わり、同年限りで退任した。
平尾体制
1997年、平尾誠二が監督に就任。平尾は就任後、ラグビーの競技人口が減少している背景から、「平尾プロジェクト」なるものを立ち上げた。つまりは、素質はありながらも所属チームが無名であるがゆえに埋もれた逸材と見られている選手や、ラグビー経験がなくとも他のスポーツで優秀な成績を収めている選手を取り込む目的があり、育成した上で将来その中から日本代表選手を発掘するという意味合いがあったのだが、結果的に大した成果は挙げられなかった。また、パシフィック・リム選手権はカナダに32-31に逆転勝利(1997年5月18日、秩父宮)した以外は全敗し1勝5敗の最下位に終わった。
1998年、日本代表としては史上初めて外国籍選手のアンドリュー・マコーミックが主将に指名された。第4回ワールドカップのアジア予選の壮行試合となったアルゼンチンに44-29で勝利。シンガポールで行われたW杯アジア予選でも優勝し、4大会連続のW杯出場を決めた。
1999年、パシフィック・リム選手権で、フィジー以外の5か国に勝ち、初優勝を果たした。この時の日本代表には、グレアム・バショップやジェイミー・ジョセフといった、オールブラックスの選手としても著名な活躍をした選手が入っていたことから、「チェリーブラックス」と、海外列強のマスコミから報じられた。ラグビーワールドカップ1999は4戦全敗に終わり、プール敗退となったが、パシフィック・リム選手権での実績を評価して平尾体制を継続していくことを決めた。
2000年のパシフィック・リム選手権では4戦全敗となり最下位。その後のカナダ、アイルランドの各遠征でもテストマッチで大敗を喫した。11月25日、日本協会は平尾の監督辞任を了承した。
宿澤が現場復帰
平尾の辞任を受け、宿澤広朗が強化委員長に就任し、現場復帰することになった。宿澤は、自身の出身校である早稲田大学を含めた、日本ラグビー界にはびこる「学閥」の排除の意味も込めて、監督時代に東芝府中の黄金時代を築いた、東海大学出身の向井昭吾を監督に招聘した。向井は東芝府中監督時代、「PからGO」のキャッチフレーズを掲げ、ペナルティを与えられたら間髪入れず素早い攻撃を仕掛けるという戦法を駆使し、日本選手権3連覇などの実績を挙げた。また「PからGO」の戦法は、体格に劣る日本代表にも合致していると思われた。しかも、向井時代の代表選手には、大畑大介と小野澤宏時というフィニッシャーがいたからなおさらだった。しかし、「速いラグビー」が売りであるがゆえに、他国チームは逆に、日本はスクラムやラインアウトといったセットプレーが弱点と考え、とりわけ列強諸国は、そこを重点的に突いてきたが、日本はほとんどそれに対応できなかった。結果、向井時代にテストマッチでアジア諸国以外のチームから勝ち星を得たのは、2001年におけるカナダと、2002年におけるロシアの2勝のみ。ラグビーワールドカップ2003は4戦全敗(3大会連続の全敗)でプール敗退となった。大会終了後、監督の向井、強化委員長の宿澤がそれぞれ辞任した。
迷走時代突入
2004年3月22日、神戸製鋼コベルコスティーラーズのヘッドコーチだった萩本光威が監督に就任。萩本は就任当初、同年のスーパーパワーズカップでロシアとカナダを破って優勝に導き、幸先のよいスタートを切ったかに思われたが、続くイタリア戦で敗戦すると、同年11月に挙行された欧州遠征において、スコットランドに8-100、ルーマニアに10-25、ウェールズに0-98と、いずれも完敗ないし大敗したため、同遠征直後に解任論が噴出。しかし、萩本解任を唱えた向井昭吾、春口廣、清宮克幸の3名が、監督評価機関である8強会議の委員を解任され、欧州遠征と前後して、代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで繁華街でのトラブルで逮捕される不祥事が起きた[6]が、監督の萩本には「警告」のみという処分にとどまった。だが、翌2005年の南米遠征でウルグアイ、アルゼンチンに連敗。さらに5月から6月にかけて、カナダ、アイルランド(2試合)にもそれぞれ敗退したため、ついに萩本は辞任に追い込まれた。
これを契機に、強化委員長・監督という指導体制に限界を感じた日本協会は、ゼネラルマネージャー(GM)及びヘッドコーチ(HC)という体制に改め、2005年8月、初代GMにNECグリーンロケッツの太田治、HCには、初の外国人指導者となる、ジャン=ピエール・エリサルドが就いた。新体制下の日本代表は、いきなりテストマッチ4連勝を果たし上々の滑り出しとなったかに思われたが、2006年、第一回のIRBパシフィック・ネイションズ・カップでは全く歯が立たず、4戦全敗で最下位に終わった。そして同年9月、エリサルドが、日本協会に無断でアビロン・バイヨンヌのスポーツマネジャーにも就任したことが判明。日本協会はHCに専念するよう求めたが、エリサルドがこれを拒否したため、同年10月31日付でエリサルドを解任[7]。暫定的にGMの太田がHCも兼務することになった。そして太田は、かつての自身のチームメイトであり、かつ第1回W杯における最大の優勝の立役者(ジョン・カーワン)に白羽の矢を立てることになる。
「JKジャパン」
太田HC代行体制で挑んだ2006年11月のW杯アジア予選で、韓国、香港に快勝し、6大会連続の本戦出場を決めた。
2007年 ワールドカップ
2007年1月9日(就任は同年1月1日付)、日本協会はジョン・カーワンをヘッドコーチ (HC) とすることを発表した。カーワンは海外のラグビー事情を多少でも知る者ならば誰でも知っているスーパースターであり、1987年の第1回のワールドカップにおけるイタリア戦で、90メートル独走トライをしたことでも知られている。また、現役生活の晩年にはNECでもプレー経験があり、日本のラグビーファンにも知名度があった。また現役引退後、イタリア代表のヘッドコーチを務めた。既にW杯出場を決めていることもあり、カーワンに求められたのは本戦での実績。これについて、カーワンは、フィジーとカナダには少なくとも勝つことを主眼におき、決勝トーナメント(各プール2位まで)には残れなくとも、3位以内(同位以内であれば、次回のW杯予選が免除される)には確実に入る算段を目論んでいた。しかし、IRBパシフィック・ネイションズ・カップでは1勝4敗で最下位。8月18日にイタリアのサン=ヴァンサンで行われたイタリア戦も12-36で敗退した。ワールドカップ開幕直前になって、エースの大畑大介、山本貢、安藤栄次の3選手が怪我により帰国したため、急遽替わりのメンバーが招集されるといった事態にも見舞われた。カーワンは、確実に2勝するため、同じプールBに入った強豪のオーストラリア、ウェールズにはいわばリザーブ主体の選手で挑み、フィジー、カナダにはレギュラー級で戦うという、「二刀流」を試みた。したがって、初戦のオーストラリアには3-91で大敗したが、カーワンには「想定の範囲内」のようだった。しかし、続くフィジー戦では、フィジーのフィットネスが後半になって急激に低下する形になったにもかかわらず、31-35で惜敗。さらにウェールズにも18-72で大敗し、6大会連続の予選プール敗退決定。加えて、1995年W杯のウェールズ戦から数えて13連敗となってしまった。そして、最終戦のカナダに例え勝ったとしても、最低限の目標である3位以内もきわめて難しくなった。そんな状況で迎えたカナダ戦。日本はノーサイド直前まで5-12でリードされていたことから、4大会連続の全敗が確実視されていたが、ロスタイムに平浩二が右隅にトライを決めて2点差まで迫ると、その後、大西将太郎がゴールキックを決め同点となり、ここでノーサイドの笛。この結果日本は14試合ぶりに敗戦を免れ、また、4大会ぶりに予選プール最下位を免れた。
本格始動
大会終了後、日本協会は、目標としていたW杯2勝はできなかったものの、準備期間が短かったことや、けが人が続出した中で予選プール最下位を免れたことを評価し、引き続きカーワンにジャパンの指導を託した。2008年、まずは、同年より開始されたアジア5カ国対抗で優勝をもたらした。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップは前年同様1勝4敗に終わったが、トンガには前年に続き連勝。その後、11月のアメリカ来日シリーズでは、テストマッチ連勝を果たした。2009年、アジア5カ国対抗を連覇。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップはトンガに3年連続で勝利したものの1勝3敗に終わった。
2009年7月28日に行われた国際ラグビー評議会(IRB)の理事会で、2019年のラグビーワールドカップ開催国に日本が決定した。同年11月、カナダが来日。日本はテストマッチで連勝した。2010年、アジア5カ国対抗では順当に3連覇を達成し、7大会連続となるW杯出場を決めた。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップでは、サモアとトンガに勝利し、得失点差の末、3位に終わったとはいえ、サモア、フィジーと同じく2勝1敗の好成績を挙げた。その後、10月30日のサモア来日テストマッチでは10-13と惜敗したが、翌週11月6日のロシア来日テストマッチでは75-3と大勝。JKが本格的に指導を行なった成果が徐々に実績にも現れつつあり、翌年に控える2011年のワールドカップにも弾みがついたと思われた。
2011年 ワールドカップ
2011年シーズンもアジア5カ国対抗から始動し、順当に4連覇を達成。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップではサモアには敗れたが、続くトンガを1点差で破ると、最終戦となったフィジーに、テストマッチとしては17年ぶりに勝利し、得失点差により、ついに大会初優勝を果たした。その後、8月13日のイタリア遠征でも、24-31で敗れたとはいえ、前半は17-14でリードして折り返した。そして同月21日のW杯壮行試合のアメリカ戦は20-14で下し、通常のテストマッチでは第二グループと称されるナショナルチームにはほとんど勝てるほどにチーム力が向上していた。だが、不安も残った。それはカーワン体制になってからW杯以外のテストマッチでは、いわゆる、旧IRFBファウンデーションユニオン8か国との対戦が全くなかったことだった。ひいては、ワールドカップでその不安が露呈することになる。ワールドカップでは日本はプールAに入った。カーワンの目標は、前回大会で果たせなかった2勝を挙げること。初戦のフランス戦では一時4点差まで詰め寄ったところまでは日本のファンを大いに堪能させてくれた内容だった[8]が、結局は21-47と完敗。ニュージーランド(オールブラックス)戦では主力を温存してフランス戦とメンバーを大幅に入れ替えた。その結果、オールブラックスの速い攻撃に終始防御を強いられ、前半に6トライ、後半に7トライを献上。結局、本大会ワースト2位の得失点差である7-83と惨敗した[9]。これで日本の予選プール突破は極めて難しくなった。その後の試合は、次回のワールドカップ優先出場権が与えられるプール3位以内を目指すべく、目標としていた2勝を挙げるため、比較的相性が良くなってきた対トンガ、対カナダ戦の勝利を目指したが、トンガ戦ではミスを連発した上に、日本の速い攻撃を完全に封じ込められて18-31と完敗[10]。最後のカナダ戦も、前半に17-7でリードしながらも、後半終盤になってミスを連発し、立て続けに得点を許し、23-23で2大会連続ドローとなってしまった。結局、2勝はおろか、5大会連続勝利なしという結果に終わった[11]。
大会終了後、太田GMはカーワンを含めた首脳陣と契約を更新しない意向を示し、カーワンもこれを了承。同年10月13日、正式にカーワンの退任が決まった[12]。
「エディージャパン」
2012年
2012シーズンからエディー・ジョーンズが日本代表ヘッドコーチに就任。前任者のカーワンのチーム作りが、ともすれば外国人への依存度が大きかったという反省の意味もあり、3月19日に発表された代表メンバーは、外国人選手にけが人が続出していたという背景もあったが、マイケル・リーチ以外は全て日本人選手となり、しかもノンキャップ選手が13名というフレッシュな顔ぶれとなった[13]。また主将には、5年振りの代表復帰となった廣瀬俊朗を任命した。
アジア5カ国対抗では、全チームに順当に勝利し、5連覇を達成。その後、IRBパシフィック・ネイションズ・カップ(以下、PNC)と、フレンチ・バーバリアンズを招待[14]してのリポビタンDチャレンジに挑んだ。しかし、PNCではいずれも惜敗ながらも3戦全敗で最下位。また、フレンチ・バーバリアンズにも2連敗し、春シーズンを終えた。
秋シーズンは11月にテストマッチ2試合を含めた欧州遠征を挙行。11月10日、ルーマニアのブカレストで行われたルーマニア戦では中盤の競り合いを制して34-23で下し、日本は欧州で行われたテストマッチで、敵地がホームのチームに初めて勝利した[15]。さらに11月17日、ジョージアのトビリシで行われたジョージア戦では、後半15分過ぎ以降、これまでのビハインドを跳ね返し、同点で迎えたノーサイド寸前に、小野晃征がドロップゴール (DG) を決め、25-22と劇的な勝利を収めた[16]。この遠征から元フランス代表のマルク・ダルマゾがスクラムコーチに就任した。
2013年
アジア5カ国対抗では、全チームに順当に勝利し、6連覇を達成。続くテストマッチは、PNCとリポビタンDチャレンジのウェールズ戦であった。PNCでは、トンガとフィジーに連敗したため、この時点で優勝の可能性がなくなった(最終順位は4位)。その後、国内では12年振りとなるウェールズとのテストマッチ2試合を行った。6月8日に花園で行われた第一戦では、ジャパンはマイケル・ブロードハーストと藤田慶和がそれぞれ1トライずつを挙げながらも、PGとGKで17点を挙げたウェールズの巧みな試合運びに屈し、18-22で惜敗した[17]。翌週15日の秩父宮で行われた第二戦では、前半は互いにPGでの得点にとどまり、日本が6-3でリードして終了。後半に入ると、まずはウェールズが最初のトライを挙げて8-6で逆転したが、ジャパンは8分にクレイグ・ウィング、19分にブロードハーストがそれぞれトライ、また、五郎丸歩が前後半5つのPK・GKを決め、23-8でノーサイド[18]。ジャパンは対ウェールズ戦初勝利を挙げた。旧IRBファウンデーション8か国のチームに勝利したのは、宿澤広朗監督時代の1989年5月28日に秩父宮で行われた対スコットランド戦以来のことである。また、スコットランドは正式な代表ではなかったため、正代表に対しては史上初めての勝利であった。その後、PNCで組まれた、カナダ、アメリカにも勝ち、春のシーズンを終了した。
秋シーズンは、国内で11月2日にニュージーランドと戦い、一時は五郎丸歩のPG2発で1点差に迫るが1トライも挙げることが出来ずに敗れる[19]。その後、海外でテストマッチを行い、スコットランドとグロスターに敗れたが、ロシアとスペインには勝利し、2勝2敗でシーズンを終えた。
2014年
まずアジアと太平洋地区から選抜されたチームであるアジアパシフィックドラゴンズと対戦し、前半はリードするも後半に逆転されて29-35で敗れた[20]。アジア5カ国対抗では、全チームに順当に勝利し、7連覇を達成。これによって8大会連続となるW杯出場を決めた。続くPNCでは、カナダ、アメリカに連勝し、アジア・パシフィック・カンファレンスで1位になる。その後イタリアと秩父宮で対戦し勝利。イタリアに6戦目にして初勝利を挙げ、テストマッチ10連勝を達成。世界ランキングが過去最高の10位となり[21]、春のシーズンを終了した。
DFコーチに香港ヘッドコーチだったリー・ジョーンズ、FWコーチにイングランド代表主将だったスティーブ・ボーズウィックが就任。
秋シーズンは、国内で2試合マオリ・オールブラックスと戦い、11月1日にノエスタで行われた第一戦は終始リードされて、21-61で完敗した[22]。翌週8日の秩父宮で行われた第二戦では前半5-15でリードされるも、後半五郎丸歩のPG2発などで逆転した。しかし37分に決勝トライを決められて、18-20で逆転負けを喫した[23]。しかし、世界ランキング上位国がテストマッチで敗北したため、一時、世界ランキングは過去最高の9位に浮上した[24][25]。その後、海外でテストマッチを行い、ルーマニアに勝利したが、ジョージアには敗れ、1勝1敗でシーズンを終える。国代表ではないアジアパシフィックドラゴンズ戦、マオリ・オールブラックス戦はテストマッチではないため、ジョージアに敗れるまでテストマッチ11連勝だった。
2015年
前年まで行われたアジア5カ国対抗の改編により発足したアジアラグビーチャンピオンシップでは、香港戦が試合中止(詳細は当項目参照)となったが優勝した。PNCでは、カナダに勝利したが、アメリカ、フィジー、トンガに3連敗して4位で終えた。世界選抜戦も敗れたが、ウルグアイには2試合とも勝利し、ジョージアにも勝利した。
スポーツ史上最大の番狂わせ
ラグビーワールドカップ2015のグループB開幕戦で、W杯で2回優勝し世界ランク3位の南アフリカ代表(スプリングボクス)に初対戦ながらラストプレーでの逆転により34-32で勝利した。スプリングボクスから奪ったこの24年ぶりのW杯勝利は、海外のメディアにより「W杯史上最も衝撃的な結果」、「スポーツ史上最大の番狂わせ」と報じられた[26][27]。 中3日のスコットランド代表戦では前半7-12で折り返す。しかし、レイドローの正確なキックに苦しめられる。さらに後半トライを重ねられ10-45で敗れた。第3戦サモア代表に26-5で勝利し初のW杯1大会2勝目と通算3勝目を挙げた。第4戦でもアメリカ代表に28-18で勝利し大会3勝目通算4勝目を挙げるも、勝ち点で南アフリカとスコットランドを下回り、初の1次リーグ突破はならず1次リーグ敗退の連続記録は8大会連続に伸びてしまった。W杯において3勝したチームが1次リーグ敗退となるのは史上初である[28]。国内外のメディアからは「最強の敗者」等と言われる。ラグビー日本代表のオフィシャル(公式)スポンサーの大正製薬は選手、スタッフ全員に1人当たり100万円で合計5000万円の報奨金を贈呈すると発表した[29]。
また、報知プロスポーツ大賞・特別賞[30]、日本プロスポーツ大賞[31]、第65回日本スポーツ賞・特別賞[32]、毎日スポーツ人賞・グランプリ[33][34]を受賞。
ジョーンズHC退任後
ワールドカップ終了をもってジョーンズHCが退任(退任自体はワールドカップ開幕前には決定していた)、後任にはスーパーラグビー・ハイランダーズのヘッドコーチを務めるジェイミー・ジョセフが就任することが決定した。しかし、ジョセフは2016年シーズン終了までハイランダーズとの契約が残っており代表には合流できないため、2016年度上半期の代表テストマッチについては、アジアラグビーチャンピオンシップはU-20代表HCを勤める中竹竜二が、そしてリポビタンDチャレンジカップ2016のカナダ代表戦(バンクーバー)とホームのスコットランド代表戦(豊田・味の素の2戦)の3試合はサンウルブズヘッドコーチを務めるマーク・ハメットがHC代行として代表の指揮を執った。
アジアラグビーチャンピオンシップは若手選手を中心としたチーム編成で臨み、香港・韓国を相手に4戦全勝で前年に続き優勝を果たした。続くカナダ戦は前年のワールドカップ組の半数を召集して臨み、前半を13-12の1点差リードで折り返すものの後半に入って逆転を許し、またFL細田がラフプレーによりシンビンを宣告され14人での戦いを余儀なくされるなど厳しい戦いを強いられた。しかし、FB松島のトライやSO田村のPGを加え再逆転、終了間際カナダにトライを許したものの26-22で辛くも逃げ切った。
帰国後のスコットランド代表戦は、初戦の豊田では前半堀江のトライで先制するも反則によるPGで差を詰められ前半終了間際にスコットランドにPTを決められ10-16で折り返し、後半もノートライで点差を詰められず13-26で敗れた。1週間後の味の素での第2戦は前半を13-9のリードで折り返すものの後半は反則を多く喫しPGを立て続けに決められ16-21の逆転負け。ハメットHC代行で臨んだ3戦は1勝2敗で上期シーズンを終えた。
「ジェイミージャパン」
2016年
9月になりジョセフHCが正式に就任。就任後の会見では2015年ワールドカップの躍進の要因としてジョーンズHCの手法を称えつつ、これからの日本の課題として「パワー」の部分を挙げ、世界のラグビーの潮流に合わせた「キッキングゲーム」「相手のストラクチャーを崩すキック」「キックのスキル」の必要性を強調し、スーパーラグビーで実践してきた、キックやパントを用いて陣地を確保しFWのアタック力とBKの俊敏な展開をもって突破していく「キッキングラグビー」を代表チームに取り入れることを宣言。トップリーグの視察を繰り返した上で代表選手を選考し、その後に短期合宿を2回行った上で11月のテストマッチに備えた。
初戦となったランキング4位アルゼンチン代表戦(秩父宮)では前述のキッキングラグビーを起点にPKを誘い先制、以降も相手のノックオンやスクラムの反則で凌いでいくも、徐々に自力で上回るアルゼンチンの攻撃に翻弄され前半を6-21で折り返す。後半に入ってもアルゼンチンのスピードについて行けずトライを重ねられ、20-54というスコアで完敗を喫した。
翌週の遠征試合となったランキング11位(日本は1つ下の12位)ジョージア代表戦(トリビシ)では、フォワードのフィジカルの強さを前面に押し出してくる相手に対してバックスの組織力で立ち向かい、前半早々バックスの素早い展開からFB松島が先制トライを奪うが、次第にジョージアのFW陣のアタックに劣勢となり2T1Gを奪われ12-8で前半終了。しかし後半に入るとBK陣のスピードとFWのアタックが噛みあいはじめ、レメキの2Tで徐々に点差を詰め、後半24分にWTB福岡がトライを挙げついに逆転、SO田村のPGでのリードを広げ、終盤のジョージアの猛攻を辛くも凌ぎ、22-18でジョセフHC体制での初勝利を挙げた。
翌週のランキング6位ウェールズ代表戦(カーディフ)は7万人を超える大観衆の仲で行われた。格上のウェールズに対して前半から体格差をものともしないアタックを展開し互角の戦いを行い、ウェールズの猛攻も何とか凌いで前半は13-14と1点のビハインドで折り返した。後半は自力に勝るウェールズがPGやトライを重ね徐々に引き離される展開となるが、WTB福岡やFB松島のトライ、SO田村のPGなどでの30-30の同点に持ち込む。しかし、ノーサイド残り1分にウェールズは10フェーズを超えるアタックで少しずつゲインし、途中から入ったSOデービスが正面からドロップゴールを決めてウェールズが逆転、その後のキックオフで日本はボールを奪うことができず蹴り出されてノーサイド、30-33の僅差で敗れた。
テストマッチ年度最終戦となったフィジー戦(中立地であるフランス・ファンヌで開催)は長期遠征の疲れからか攻守両面にて精彩を欠き終始主導権を握られ、レッドカード退場で1人少ないフィジー相手に終盤追い上げたものの結果は25-38で完敗。ジョセフHCが率いた4戦は1勝3敗で終わった。
2017年
年初の会見でジョセフHCは、今後はサンウルブズを中心にした代表強化を進めていく考えを打ち出すとともに、サンウルブズが海外で試合をする際は、遠征に参加しない選手を自ら指導するなどで若手を育成していく方針も明らかにした。
選手
現在の代表
リポビタンDツアー2018(イングランド代表戦・ロシア代表戦)イングランド遠征メンバー
- ヘッドコーチ: ジェイミー・ジョセフ
|
|
※所属、キャップ数は2018年11月25日現在
歴代キャップ数10傑
名前 | キャップ数 | 主なポジション | 所属 | W杯出場大会 |
---|---|---|---|---|
大野均 | LO | 東芝 サンウルブズ |
WC2007 WC2011 WC2015 | |
小野澤宏時 | WTB | サントリー | WC2003 WC2007 WC2011 | |
元木由記雄 | CTB | 神戸製鋼 | WC1991 WC1995 WC1999 WC2003 | |
畠山健介 | PR | サントリー ニューカッスル |
WC2011 WC2015 | |
田中史朗 | SH | パナソニック ハイランダーズ サンウルブズ |
WC2011 WC2015 | |
菊谷崇 | FL/NO.8 | トヨタ自動車 キヤノン |
WC2011 | |
トンプソンルーク | LO | 近鉄 | WC2007 WC2011 WC2015 | |
伊藤剛臣 | FL/NO.8 | 神戸製鋼 | WC1999 WC2003 | |
リーチマイケル | FL | 東芝 チーフス サンウルブズ |
WC2011 WC2015 | |
大畑大介 | WTB | 神戸製鋼 ASモンフェラン |
WC1999 WC2003 | |
堀江翔太 | HO | パナソニック レベルズ サンウルブズ |
WC2011 WC2015 |
※太字は現役選手、所属はキャップ獲得時
歴代監督・ヘッドコーチ・GM
歴代日本代表監督
名前 | 就任期間 | 在任中の主な大会 |
---|---|---|
香山蕃 | 1930年-1934年 | |
北島忠治 | 1936年 | |
奥村竹之助 | 1952年-1953年 | |
北島忠治(2) | 1956年 | |
西野綱三 | 1958年 | |
知葉友雄 | 1959年 | |
和田政雄 | 1959年 | |
葛西泰二郎 | 1963年 | |
大西鐡之祐 | 1966年-1971年 | |
岡仁詩 | 1972年 | |
横井久 | 1972年 | |
斎藤寮 | 1974年 | |
岡仁詩(2) | 1975年 | |
日比野弘 | 1976年 | |
横井久(2) | 1976年 | |
斎藤寮(2) | 1976年-1978年 | |
宮地克実 | 1978年 | |
横井久(3) | 1978-1979年 | |
今里良三 | 1979年 | |
山本巌 | 1980年 | |
斎藤寮(3) | 1980年-1981年 | |
山本巌(2) | 1982年 | |
日比野弘(2) | 1982年-1984年 | |
宮地克実(2) | 1984年 | |
岡仁詩(3) | 1985年-1986年 | |
宮地克実(3) | 1987年 | WC1987 |
日比野弘(3) | 1987年-1988年 | |
宿澤広朗 | 1989年-1991年 | WC1991 |
小藪修 | 1992-1995年 | WC1995 |
山本巌(3) | 1996年 | |
平尾誠二 | 1997年-2000年 | WC1999 |
向井昭吾 | 2001年-2003年 | WC2003 |
萩本光威 | 2004年-2005年 |
歴代日本代表ヘッドコーチ
名前 | 就任期間 | 在任中の主な大会 |
---|---|---|
ジャン=ピエール・エリサルド | 2005年-2006年 | |
太田治 | 2006年 | |
ジョン・カーワン | 2007年-2011年 | WC2007、WC2011 |
エディー・ジョーンズ | 2012年-2015年 | WC2015 |
ジェイミー・ジョセフ | 2016年- |
- 太田治は暫定ヘッドコーチとしてゼネラルマネージャーと兼任
歴代日本代表ゼネラルマネージャー
名前 | 就任期間 | 在任中の主な大会 |
---|---|---|
太田治 | 2005年-2012年 | WC2007、WC2011 |
岩渕健輔 | 2012年-2017年 | WC2015 |
キャップ対象試合成績
対戦相手 | 試合数 | 勝 | 負 | 分 | 勝率(%) | 得点 | 失点 | 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:RU | 7 | 0 | 7 | 0 | 0.00% | 118 | 336 | −218 |
テンプレート:RU | 2 | 0 | 2 | 0 | 0.00% | 28 | 81 | −53 |
アイルランド学生選抜 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0.00% | 12 | 24 | −12 |
テンプレート:RU | 23 | 9 | 13 | 1 | 39.13% | 526 | 655 | −129 |
25px アラビアンガルフ | 3 | 3 | 0 | 0 | 100.00% | 256 | 20 | +236 |
テンプレート:RU | 3 | 3 | 0 | 0 | 100.00% | 310 | 6 | +304 |
テンプレート:RU | 6 | 1 | 5 | 0 | 16.67% | 159 | 259 | −100 |
テンプレート:RU | 8 | 2 | 6 | 0 | 25.00% | 146 | 241 | −95 |
テンプレート:RU | 2 | 0 | 2 | 0 | 0.00% | 22 | 95 | −73 |
テンプレート:RU | 5 | 0 | 5 | 0 | 0.00% | 71 | 131 | −60 |
テンプレート:RUA | 2 | 0 | 2 | 0 | 0.00% | 30 | 92 | −62 |
イングランド学生選抜 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0.00% | 0 | 43 | −43 |
イングランドU-23 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0.00% | 25 | 77 | −52 |
オックスフォード&ケンブリッジ | 3 | 0 | 3 | 0 | 0.00% | 30 | 113 | −83 |
オックスフォード大学 | 4 | 0 | 4 | 0 | 0.00% | 28 | 130 | −102 |
ケンブリッジ大学 | 4 | 1 | 3 | 0 | 25.00% | 52 | 110 | −58 |
テンプレート:RU | 10 | 1 | 9 | 0 | 10.00% | 159 | 526 | −367 |
テンプレート:RU | 4 | 0 | 4 | 0 | 0.00% | 56 | 229 | −173 |
ウェルシュクラブ | 1 | 0 | 1 | 0 | 0.00% | 9 | 63 | −54 |
テンプレート:RU | 3 | 2 | 1 | 0 | 66.67% | 88 | 32 | +56 |
テンプレート:RU | 5 | 0 | 5 | 0 | 0.00% | 88 | 283 | −195 |
テンプレート:RUA | 4 | 0 | 4 | 0 | 0.00% | 51 | 242 | −191 |
エマージング・ワラビーズ | 2 | 1 | 0 | 1 | 50.00% | 41 | 39 | +2 |
クィーンズランドレッズ | 1 | 0 | 1 | 0 | 0.00% | 6 | 42 | −36 |
オーストラリア学生選抜 | 6 | 2 | 4 | 0 | 33.33% | 60 | 90 | −30 |
テンプレート:RU | 1 | 0 | 1 | 0 | 0.00% | 13 | 15 | −2 |
テンプレート:RU | 5 | 5 | 0 | 0 | 100.00% | 418 | 23 | +395 |
テンプレート:RU | 25 | 15 | 8 | 2 | 60.00% | 612 | 581 | +31 |
BCベアーズ | 6 | 2 | 2 | 2 | 33.33% | 103 | 82 | +21 |
テンプレート:RU | 36 | 29 | 6 | 1 | 80.55% | 1614 | 517 | +1097 |
テンプレート:RU | 15 | 4 | 11 | 0 | 26.66% | 273 | 482 | −209 |
テンプレート:RU | 6 | 5 | 1 | 0 | 83.33% | 150 | 96 | +54 |
テンプレート:RU | 1 | 1 | 0 | 0 | 100.00% | 45 | 15 | +30 |
テンプレート:RU | 1 | 1 | 0 | 0 | 100.00% | 52 | 8 | +44 |
テンプレート:RU | 7 | 0 | 7 | 0 | 0.00% | 84 | 313 | -229 |
テンプレート:RU | 4 | 1 | 3 | 0 | 25.00% | 64 | 165 | -101 |
テンプレート:RU | 3 | 3 | 0 | 0 | 100.00% | 114 | 43 | +71 |
テンプレート:RU | 3 | 3 | 0 | 0 | 100.00% | 266 | 29 | +237 |
テンプレート:RU | 1 | 1 | 0 | 0 | 100.00% | 42 | 11 | +31 |
テンプレート:RU | 4 | 4 | 0 | 0 | 100.00% | 474 | 27 | +447 |
テンプレート:RU | 17 | 8 | 9 | 0 | 47.05% | 418 | 446 | −28 |
テンプレート:RU | 4 | 0 | 4 | 0 | 0.00% | 61 | 351 | −290 |
テンプレート:RU | 2 | 0 | 2 | 0 | 0.00% | 4 | 180 | −176 |
ニュージーランドマオリ | 1 | 0 | 1 | 0 | 0.00% | 22 | 65 | −43 |
ジュニア・オールブラックス | 3 | 0 | 3 | 0 | 0.00% | 32 | 141 | −109 |
ニュージーランドU-23(ニュージーランド・ジュニア) | 5 | 1 | 4 | 0 | 20.00% | 66 | 196 | −130 |
ニュージーランド大学選抜 | 15 | 2 | 11 | 2 | 13.33% | 221 | 417 | −196 |
テンプレート:RU | 17 | 3 | 14 | 0 | 17.65% | 312 | 467 | −155 |
テンプレート:RU | 2 | 2 | 0 | 0 | 100.00% | 220 | 10 | +210 |
テンプレート:RU | 4 | 0 | 3 | 1 | 0.00% | 91 | 151 | −60 |
テンプレート:RU | 6 | 0 | 6 | 0 | 0.00% | 31 | 272 | −241 |
テンプレート:RU | 28 | 24 | 4 | 0 | 85.71% | 1172 | 370 | +802 |
テンプレート:RU | 1 | 1 | 0 | 0 | 100.00% | 34 | 32 | +2 |
テンプレート:RU | 6 | 5 | 1 | 0 | 83.33% | 152 | 119 | +33 |
テンプレート:RU | 6 | 5 | 1 | 0 | 83.33% | 269 | 117 | +152 |
計 | 347 | 150 | 187 | 10 | 43.22% | 9800 | 9700 | +100 |
タイトル
- 1999年パシフィックリム優勝
- 2004年スーパーパワーズ杯優勝
- ワールドラグビー パシフィック・ネーションズカップ優勝2回
- アジア大会優勝14回(うち1回は日本選抜)
- アジア5カ国対抗優勝7回
- アジアラグビーチャンピオンシップ優勝3回
ワールドカップでの戦績
回数(開催年) | 日付 | 開催地 | 対戦相手 | 勝敗 | スコア | 監督・ヘッドコーチ |
---|---|---|---|---|---|---|
第1回(1987年) | 5月24日 | ブリスベン | テンプレート:RU | ● | 18-21 | 宮地克実 |
5月30日 | シドニー | テンプレート:RU | ● | 7-60 | ||
6月3日 | シドニー | テンプレート:RU | ● | 23-42 | ||
第2回(1991年) | 10月5日 | エディンバラ | テンプレート:RU | ● | 9-47 | 宿澤広朗 |
10月9日 | ダブリン | テンプレート:RU | ● | 16-32 | ||
10月14日 | ベルファスト | テンプレート:RU | ○ | 52-8 | ||
第3回(1995年) | 5月27日 | ブルームフォンテーン | テンプレート:RU | ● | 10-57 | 小藪修 |
5月31日 | ブルームフォンテーン | テンプレート:RU | ● | 28-50 | ||
6月4日 | ブルームフォンテーン | テンプレート:RU | ● | 17-145 | ||
第4回(1999年) | 10月3日 | レクサム | テンプレート:RU | ● | 9-43 | 平尾誠二 |
10月9日 | カーディフ | テンプレート:RU | ● | 15-64 | ||
10月16日 | カーディフ | テンプレート:RU | ● | 12-33 | ||
第5回(2003年) | 10月12日 | タウンズビル | テンプレート:RU | ● | 11-32 | 向井昭吾 |
10月18日 | タウンズビル | テンプレート:RU | ● | 29-51 | ||
10月23日 | タウンズビル | テンプレート:RU | ● | 13-41 | ||
10月27日 | ゴスフォード | テンプレート:RU | ● | 26-39 | ||
第6回(2007年) | 9月8日 | リヨン | テンプレート:RU | ● | 3-91 | ジョン・カーワン |
9月12日 | トゥールーズ | テンプレート:RU | ● | 31-35 | ||
9月20日 | カーディフ | テンプレート:RU | ● | 18-72 | ||
9月25日 | ボルドー | テンプレート:RU | △ | 12-12 | ||
第7回(2011年) | 9月10日 | オークランド | テンプレート:RU | ● | 21-47 | |
9月16日 | ハミルトン | テンプレート:RU | ● | 7-83 | ||
9月21日 | ファンガレイ | テンプレート:RU | ● | 18-31 | ||
9月27日 | ネーピア | テンプレート:RU | △ | 23-23 | ||
第8回(2015年) | 9月19日 | ブライトン | テンプレート:RU | ○ | 34-32 | エディー・ジョーンズ |
9月23日 | グロスター | テンプレート:RU | ● | 10-45 | ||
10月3日 | ミルトン・キーンズ | テンプレート:RU | ○ | 26-5 | ||
10月11日 | グロスター | テンプレート:RU | ○ | 28-18 | ||
第9回(2019年) | 9月20日 | 東京都調布市 | テンプレート:RU | ジェイミー・ジョセフ | ||
9月28日 | 静岡県袋井市 | テンプレート:RU | ||||
10月5日 | 愛知県豊田市 | テンプレート:RU | ||||
10月13日 | 神奈川県横浜市 | テンプレート:RU |
A代表、年代別代表、女子代表など
通常日本代表と呼ばれるものは、日本協会所属選手における最強メンバーによるいわゆるフル代表(テストマッチの成立要件となる)を指すが、その他日本代表の予備軍とされるチームも存在する。これらには、年齢制限のない日本A代表と日本B代表、U-20日本代表などの年齢別代表などがある。
15人制の他、7人制日本代表も結成されている。
女子の日本代表も15人制・7人制とも結成されている。7人制代表はカザフスタンに勝利し、アジア代表でW杯に初出場する。*2008年10月協会記録より
CM出演
脚注
- ↑ 二宮清純「侍ジャパン」の原点は「松永ジャパン」『週刊ベースボール』2012年3月19日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-3/19, 20頁
- ↑ 「栄光へのトライ」、267頁-285頁
- ↑ 「栄光のトライ」(馬場信浩著、光文社、ISBN 4334027857)の231頁-244頁
- ↑ 1995年頃放送された、大西を取り上げたテレビ番組より。また、ドラマ・スクール☆ウォーズでもこれに類似したシーンがあった。
- ↑ 「ザ・ワールドラグビー」(大友信彦 編、新潮社、ISBN 4104627011)65頁。
- ↑ 相次ぐ代表選手の逮捕。その根底にあるものとは。 - number EYES 2005年6月9日付
- ↑ ジャン-ピエール・エリサルド日本代表ヘッドコーチとの契約解除決定のお知らせ - 日本ラグビーフットボール協会 2006年9月29日付
- ↑ カーワン・ジャパン白星に手応え!フランス慌てさせた - スポニチアネックス 2011年9月11日付
- ↑ 今大会ワースト失点…カーワンJAPAN NZに惨敗 - スポニチアネックス 2011年9月17日付
- ↑ トンガに屈辱…カーワン・ジャパン 3連敗で1次L敗退 - スポニチアネックス 2011年9月22日付
- ↑ カーワンジャパン有終の美飾れず…0勝終戦 - スポニチアネックス 2011年9月28日付
- ↑ ラグビー日本代表 ジョン・カーワンヘッドコーチ退任のお知らせ - JRFU 2011年10月13日付
- ↑ 「HSBCアジア五カ国対抗2012」日本代表メンバー・スタッフ - ラグビー日本代表公式サイト 2012年3月19日付
- ↑ フレンチ・バーバリアンズは国代表ではないため、テストマッチではない。
- ↑ 11月10日「日本代表 34-23 ルーマニア代表」レビュー - ラグビー日本代表公式サイト 2012年11月17日付
- ↑ 11月17日「日本代表 25-22 グルジア代表」レビュー - ラグビー日本代表公式サイト 2012年11月20日付
- ↑ リポビタンDチャレンジ2013 試合速報 - サンケイスポーツ
- ↑ リポビタンDチャレンジ2013 試合速報 - サンケイスポーツ
- ↑ テストマッチ 日本代表 対 ニュージーランド代表
- ↑ 日本代表強化試合 試合結果
- ↑ 日本代表のスクラムが強くなった理由 世界ランクは過去最高の10位に
- ↑ リポビタンDチャレンジカップ2014 第一戦
- ↑ リポビタンDチャレンジカップ2014 第二戦
- ↑ 日本代表 IRB世界ランキング9位入りのお知らせ
- ↑ 日本代表 IRB世界ランキングで過去最高の9位!
- ↑ “日本が南アフリカから金星、大会史に残る衝撃的な勝利”. フランス通信社. (2015年9月20日) . 2015-9-21閲覧.
- ↑ “世界が震撼「史上最大の番狂わせ」”. デイリースポーツ. (2015年9月21日) . 2015-9-21閲覧.
- ↑ “ラグビーW杯 日本がアメリカに勝ち3勝”. NHK. (2015年10月12日) . 2015閲覧.
- ↑ “大正製薬太っ腹!ラグビー日本代表、史上初ボーナス5000万円”, サンケイスポーツ, (2015年10月16日) . 2015閲覧.
- ↑ “【報知プロスポーツ大賞】ラグビー日本代表が特別賞を受賞”. スポーツ報知 (2015年12月9日). . 2015閲覧.
- ↑ “日本代表がプロスポーツ大賞 マイケル主将「今後も憧れの存在に」”. スポニチアネックス. (2015年12月25日) . 2015閲覧.
- ↑ “日本スポーツ賞、伊調馨に大賞…13度目世界一”. 読売新聞. (2015年12月17日)
- ↑ 2015毎日スポーツ人賞 グランプリにラグビー日本代表毎日新聞 2015年12月10日
- ↑ ラグビー日本代表、晴れやか…表彰式毎日新聞 2015年12月17日
- ↑ 代表キャップ対象試合
- ↑ 日本代表 大正製薬「リポビタンD」テレビCM出演のお知らせ 〜7月1日オンエア開始!〜 - 日本ラグビーフットボール協会 2015年7月1日付
関連項目
- 日本ラグビーフットボール協会
- 日本のラグビーユニオン
- ジャパンラグビートップリーグ
- リポビタンDチャレンジカップ
- リポビタンDツアー
- ラグビーワールドカップ
- ラグビーワールドカップ2019
- ワールドラグビー パシフィック・ネーションズカップ
- アジア5カ国対抗(Asian 5 Nations)
- ラグビージュニア世界選手権
- 7人制ラグビー男子日本代表
- ラグビー女子日本代表
- ラグビーリーグ日本代表