国司
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。
郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。
沿革
『日本書紀』には、大化の改新時の改新の詔において、穂積咋が東国国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたという(「大宰府」の語はその名残だと言われている)。その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。
8世紀初頭の大宝元年(701年)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である国郡里制に編成され、地方分権的な律令制が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。律令制を根幹的に支えた班田収授制は、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。
国司は中央の官人が任命されて家族を連れて任国に赴くことが認められていた。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかった訳ではなかった[1]。
国司は通常は国府に設けられた国衙の中にある国庁で政務を行っているが、郡司の業務監査や農民への勧農などの業務を果たすために責任者である守が毎年1回国内の各郡を視察する義務があった。これを部内巡行という[2]。
平安時代の天長3年(826年)からは親王任国の制度が始まった。桓武天皇や平城天皇、嵯峨天皇は多くの皇子・皇女に恵まれたため充てるべき官職が不足し、親王の官職として親王任国の国司が充てられ、親王任国の国司筆頭官である守には必ず親王が補任されるようになった。親王任国の守となった親王は太守と称し、任国へ赴任しない遥任だったため、実務上の最高位は次官の介であった。
また平安時代になると、朝廷は地方統治の方法を改め、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。それは、律令制的な統治方法によらなくとも、一定の租税を徴収することが可能になったからである。9世紀〜10世紀頃には田堵と呼ばれる富豪農民が登場し、時を同じくして、国衙(国司の役所)が支配していた公田が、名田という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを負名という)。律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すなわち土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。
一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない遥任国司が多数現れるようになった。そして現地赴任する国司の中の最高責任者を受領と呼ぶようになった。王朝国家体制への転換の中で、受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。
平安時代中期以降は開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。『枕草子』には除目の日の悲喜を描いている[3]。平安中期以降、知行国という制度ができた。これは皇族や大貴族に一国を指定して国司推薦権を与えるもので、大貴族は親族や家来を国司に任命させて当国から莫大な収益を得た。
新しく国司に任ぜられる候補としては、蔵人、式部丞、民部丞、外記、検非違使などが巡爵によって従五位に叙せられたものから選ばれる[4]ほか、成功、院宮分国制などもあった。
国司の選任に当たっては、その国に住み所領を持つ者は、癒着を防止するという観点から任命を避けるという慣例があった。寛弘3年(1006年)1月28日の除目において、右大臣藤原顕光が伊勢守に平維衡を推挙したが、藤原道長が「維衡はかつて伊勢国で事件を起こしたものである」ことを理由に反対している[5]。この「事件」とは、かつて維衡が伊勢において平致頼と合戦を起こしたことである[6]。なお道長は8年後の長和3年2月の除目で、清和源氏である源頼親を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている[7]。
鎌倉時代にも国司は存続したが、鎌倉幕府によって各地に配置された地頭が積極的に荘園、そして国司が管理していた国衙領へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。
室町時代になると、守護に大幅な権限、例えば半済給付権、使節遵行権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。
こうして国司は名目だけの官職となり、実体的な支配は守護(守護大名)が執行するようになった。ここに至り、国司は単なる名誉職となり、被官される人物の実効支配地に関係なく任命された。戦国時代の武将の中には国司を自称、あるいは僭称する者も多かった(百官名)。政治の実権が幕府等の武家にあるうちは、単なる名誉職に過ぎなかった国司であったが、下克上が頻発した戦国時代では守護や守護代等の幕府役職者以外の出自の大名が、自国領土支配もしくは他国侵攻の正当性を主張するために任官を求める事が増加した。この時代では国司職を求めて戦国大名が朝廷へ盛んに献金などを行った。これは、天皇の地位が再認識される契機ともなった[8]。また、一部の戦国大名(大内義隆の周防介・伊予介、織田信秀・今川義元・徳川家康の三河守など)は名目的な国司職ではなく実質的な目的を持って申請を行っている[9]。
江戸幕府成立以降は、大名や旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて国司名を称することが行われた(武家官位)。しかしこれらの「名乗り」は名目上のものであったため、同時期に複数の人物が同じ国司名を名乗ることも多かった[10]。ただし、国持大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、小倉藩から熊本藩へ加増転封されて肥後国主となった細川忠利は息子光尚の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している[11]。
明治維新後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。
国等級区分
各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき判定された。
各国は時節の国情、時勢を元に変動する大国(たいこく、たいごく)・上国(じょうこく、じょうごく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の4等級に割り付けられた。
国司の格や役職数も時勢に基づき変動したが、基本的に官位相当は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。これを示すものとして、以下のような例がある。
- 『続日本紀』宝亀6年(775年)3月2日の条によれば、「始めて伊勢国に少目2員、参河国に大目1員と少目1員、遠江国に少目2員、駿河国に大目1員と少目1員、武蔵国に少目2員、下総国に少目2員、常陸国に少掾2員と少目2員、美濃国に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、陸奥国に少目2員、越前国に少目2員、越中国に大目1員と少目1員、但馬国に大目1員と少目1員、因幡国に大目1員と少目1員、伯耆国に大目1員と少目1員、播磨国に少目2員、美作国に大目1員と少目1員、備中国に大目1員と少目1員、阿波国に大目1員と少目1員、伊予国に大目1員と少目1員、土佐国に大目1員と少目1員、肥後国に少目2員、豊前国に大目1員と少目1員を置く」とある。
- 『文徳天皇実録』天安2年(858年)4月15日の条によれば、「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する」とある。
- 『日本三代実録』貞観8年(866年)3月7日の条によれば、当時の国司の介を置いていなかった上国を含む八国(甲斐国、能登国、丹後国、石見国、周防国、長門国、土佐国、日向国)に介を置き飛騨国に掾を置くなど、公廨稲・公廨田・事力の新たな分配を示す太政官判定があった旨が見え、これら9国で国司の増員が行われていたことが分かる。
延喜式の時代の各国の等級
延喜式が策定された10世紀ごろの各国の等級は以下のとおり。
- 大国(13カ国)
- 大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
- このうち、上総国・常陸国・上野国は親王任国
- 上国(35カ国)
- 山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
- 中国(11カ国)
- 安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
- 下国(9カ国)
- 和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国
親王の任国
諸国の任国の内、上総国、常陸国、上野国の三ヶ国は、親王の任国として、その長官を「太守(たいしゅ)」と言った。 しかし、皇族方であるため赴任はせず、ただ俸給のみをとっていたことから、欠員があっても俸給は他に使わず、無品(むほん)親王方のご入り用にあてられていた。 この三ヶ国を親王の任国としたのは、淳和天皇(延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))の御代から始まったものである。 後醍醐天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))の御代には、陸奥国も親王の任国とされ、義良(よしなが)親王(後村上天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))を太守としたことが「神皇正統記」に記載されている。
(参考例:江戸時代中期、播州赤穂浪士事件(赤穂事件)に関係する「吉良義央」が持っていた官職は「上野介(こうずけのすけ)」であるが、実際は上記事情により上野国は親王に国司があてられているため、「~守」の受領任官は親王以外不可能で、官職上長官職である一等官「上野守」(~カミ)の代替として、名は次官級二等官であるが、実質上は長官職として(親王は赴任しないので)「上野介」(~スケ)で受領任官させたと推察される。吉良義央が他にも受領任官した官職は「従四位下(じゅしいげ)・侍従(じじゅう:従五位下相当、場合により大納言(正三位)~少納言(従五位下)も侍従を兼務した例がある)兼上野介、従四位上(じゅしいじょう)・左近衛権少将(少将=スケ(次官)正五位下相当:場合により正二、三位程度相当職任官の場合あり)」であり、通常、親王が任官する「上野守(こうずけのかみ)」は国司の中でもいくら「大国」とはいえ、比較しても、吉良義央の持つ官職すべての最高位は「従四位上」で、親王方の「上野守」はせいぜい「従五位上」である。吉良義央が受領任官している「上野介」を単独でみると「正六位下」の格の官職であるが、吉良義央は「上野介」ほかに「侍従(従四位下)」や「左近衛権少将(従四位上)」も併任で受領任官しているため、持つ官職最高の「従四位上」の扱いになることから、吉良上野介は親王方の受領である「上野守」単独任官の官職より、合わせ技で2段階程度は上格の官職を受領任官されていることになる。(官職として、単独受領した場合の「上野介」と比較して、この「合わせ技」は7~8段階ほど上格となる。)なお、吉良家は旗本であるものの高家 (江戸時代)のため、大名家よりも格が高い官職を持っておかなければならない必要性があったと思われる。(武士としての家格は大名家より旗本の方が格下である。)) [12]。
脚注
- ↑ 馬場基「中央と地方を結ぶ人々の動き」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 pp.87-89
- ↑ 鈴木景二「国府・郡家をめぐる交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 pp.87-89
- ↑ 「すさまじきもの」三巻本基準で二十五段、能因本基準で二十二段。
- ↑ 和田英松、所功 校訂『官職要解』 講談社学術文庫 ISBN 978-4061586215、107-108p
- ↑ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 中公文庫 ISBN 978-4122044388、246p
- ↑ 『権記』 長徳4年12月14日条
- ↑ 『小右記』 同年2月16日条。なおこの件は実現しなかった。
- ↑ 特に後土御門天皇から後奈良天皇の時代は皇室の経済状態が疲弊甚だしく、こと国司職に関してはほとんど申請のままに任じられた。
- ↑ 今谷明 『戦国大名と天皇』 講談社学術文庫 ISBN 978-4061594715、111-138p
- ↑ 同じ職に就いた場合には先任のものに遠慮して他の職に遷任する例であった。
- ↑ 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』(講談社学術文庫、2004年)P223
- ↑ 和田英松 『新訂・官職要解』講談社学術文庫 ISBN 4-06-158621-1、162-173p