伊賀国

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伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

歴史

律令制以前
律令制以前は伊賀国造の領域であったとされる。
飛鳥時代
令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立し、その後680年天武天皇9年)に伊勢国から分立した。当初は2郡だったが、後に阿拝郡山田郡伊賀郡名張郡の4郡になった。
室町時代安土桃山時代
おおむね仁木氏が伊賀守護をつとめたが、支配力は緩く、地侍による自治が進むが、織田氏により制圧された(天正伊賀の乱)。
この頃に600を越える土塁付の屋敷が作られ、忍者の発生へとつながった。徳川家康が「神君伊賀越え」を実行したことでも知られる。
江戸時代
江戸時代には藤堂家の領国の一部となり、伊賀国一帯は伊勢津藩の領土となった。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

国府阿拝郡に所在した。現在の伊賀市坂之下字国町にあたる(位置)。1989年平成元年)から1994年(平成6年)にかけての発掘調査により、I-IV期に分類される8世紀末から11世紀半ばにかけての遺構とともに、「国厨」の墨書を有する土器が検出された[1]。政庁域は40メートル強四方で、主要建物群として正殿・前殿・左右脇殿の「品」字状の配置が認められている[1]。これらの遺構は、2009年(平成21年)7月23日に「伊賀国庁跡」として国の史跡に指定された[2]

国分寺・国分尼寺

  • 伊賀国分寺跡 (伊賀市西明寺字長者屋敷、位置
    国の史跡。東大寺式伽藍配置で、推定寺域は東西約220メートル・南北約240メートル。上寺山国分寺(伊賀市坂之下)が後継を称する。
  • 伊賀国分尼寺跡
    国の史跡「長楽山廃寺跡」(伊賀市西明寺字長楽寺、位置)に比定される。伽藍のうち金堂・講堂のみが検出されている。龍王山菊昌院法華寺が後継を称する。

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社1座1社・小社24座24社の計25座25社が記載されている(「伊賀国の式内社一覧」参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社ではない。
総社一宮以下
『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[3]
  • 総社:不詳
    伊賀市府中に府中神社があるが、若宮八幡宮が明治以後に他神社と合祀されて改称したもので、総社ではないとされる。
  • 一宮:敢國神社(伊賀市一之宮、位置
    史料初見は『源平盛衰記』で、源範頼源義経入京の際に伊賀国の「一宮南宮大菩薩」を拝したという。それより以前の1165年の史料には伊賀国の神社の筆頭として南宮社の記載が見え、これらが敢國神社に比定される。
  • 二宮:小宮神社 (伊賀市服部町、位置
    中世に小宮神社が二宮を称した記録はなく、近世以後の比定。伊賀国に二宮があったことは確かと見られる。
  • 三宮:波多岐神社 (伊賀市土橋、位置
    『伊賀記』(伝・北畠親房著)に「里人称之三宮。又号波太伎社之宇都可明神説見于上」とあるのが初見。

守護所

守護所は、「府中」「こふ」と呼ばれた現在の伊賀市の東条・西条あたりと想定されている。

安国寺利生塔

  • 安国寺 - 三重県伊賀市三田沢に所在した。
  • 利生塔 - 楽音廃寺(三重県伊賀市佐那具町)に所在した。

地域

江戸時代の藩

伊賀国の藩の一覧
藩名 居城 藩主
伊賀上野藩 伊賀上野城 筒井定次(20万石、1600年~1608年)。改易により廃藩
津藩 伊賀上野城(城代) 藤堂家(22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石、1608年~1871年)
藤堂氏は、伊賀・伊勢2国を領有し、本城は伊勢津城であったが、伊賀上野城にも城代をおいていた。

人物

国司

伊賀守

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国大名

伊賀国には有力な戦国大名は誕生しなかった。当時伊賀は群雄割拠の状態で、守護として入国した仁木兵部少輔柘植氏に討たれた。のち仁木氏が国人達によって追放された後、阿加、山田、阿拝の3郡は六角氏、名張郡は北畠氏によって間接的な支配が行われた。 天正9年(1581年)、直接的な支配を目指した北畠信意(織田信雄)により平定されている(天正伊賀の乱)。

武家官位としての伊賀守

伊賀国の合戦

地理

脚注

  1. 1.0 1.1 伊賀国庁跡現地説明板。
  2. 伊賀国庁跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 76-78。

参考文献

関連項目



テンプレート:伊賀国の郡