石見国
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石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
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概要
東西に長いため、大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び、三分される。
また、中国山地を唯一越える江の川が流れており、安芸国との結びつきも強い。
領域
明治維新の直前の領域は、浜田市、益田市、江津市、邑智郡、鹿足郡および大田市の大部分(山口町山口・山口町佐津目を除く)、出雲市の一部(多伎町神原)、飯石郡の一部(飯南町塩谷・井戸谷・畑田)、広島県山県郡の一部(北広島町西八幡原の一部)にあたる。
該当区域の面積は3,585.41k㎡、人口は21万1940人(2010年国勢調査)。(1)
沿革
7世紀に設置された。
『延喜式』に石見国の駅として、波祢(はね)・託農(たくの)・樟道(くすち)・江東・江西・伊甘(いかみ)がみえる。駅は郷と同じ行政単位でもあった。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳データベース」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り[1](172,209石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。幕府領は大森代官所が管轄。
- 慶応2年2月15日(1866年3月31日) - 長州戦争により浜田藩が移転して美作鶴田藩となり、領地が山口藩預地となる。
- 明治2年8月2日(1869年9月7日) - 幕府領・山口藩預地が大森県の管轄となる。
- 明治3年1月9日(1870年2月9日) - 大森県の管轄地域が浜田県の管轄となる。
- 明治4年6月25日(1871年8月11日) - 津和野藩が廃藩。全域が浜田県の管轄となる。
- 明治9年(1876年)4月18日 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。
- 昭和28年(1953年)12月1日 - 那賀郡波佐村の一部(波佐字滝平の一部)が広島県山県郡八幡村(現・北広島町)に編入。
国内の施設
国府
『和名抄』によれば、国府は那賀郡にあった。現在の浜田市の伊甘(いかみ)脇遺跡付近や上府(かみこう)遺跡・古市遺跡辺りなど諸説あるが、遺構が発見されていない。また、浜田市下府町(しもこう)へ移転したとする説もある。
国分寺・国分尼寺
石見国の国分寺・国分尼寺は浜田市国分町にある。現在の曹洞宗の国分寺が国分尼寺跡と推定されている。その近くの金蔵寺(こんぞうじ)境内が国分寺と考えられている。部分的な発掘であるが、当時の山門・金堂・講堂・塔跡などの礎石と推定されるものが検出されている。
神社
地域
郡
江戸時代の藩
- 吉永藩、加藤家(1万石)→水口藩に転封
- 浜田藩、古田家(5.4万石)→松井松平家(5万石)→本多家(5万石、10万石格)→松井松平家(5.5万石→6.5万石)→越智松平家(6.1万石)
- 津和野藩、坂崎家(3万石→4万3468石)→亀井家(4.3万石)
人物
国司
石見守
- 三園千桂:天暦2年(948年)任官
- 安倍衆与:天徳元年(957年)任官
- 安倍良明:応和元年(961年)任官
- 坂上望城:天延3年(975年)任官
- 藤原在国:天元2年(979年)任官
- 大原忠亮:天元5年(982年)任官
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 1336年~1349年 - 上野頼兼
- 1350年~1351年 - 高師泰
- 1352年~1364年 - 荒川詮頼
- 1366年~1376年 - 大内弘世
- 1376年~1379年 - 荒川詮頼
- 1379年~1399年 - 大内義弘
- 1399年~1401年 - 京極高詮
- 1401年~? - 山名氏利
- 1429年~? - 山名教清
- 1437年~1440年 - 山名熙貴
- 1441年~1455年 - 山名教清
- 1465年~1467年 - 山名成清
- 1467年~1477年 - 山名政清
- 1481年~1495年 - 大内政弘
- 1495年~1528年 - 大内義興
- 1528年~1551年 - 大内義隆
戦国大名
武家官位としての石見守
江戸時代以前
江戸時代
名産
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 32 島根県
- 旧高旧領取調帳データベース