大隅国
大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
Contents
沿革
大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年日向国を割いて唱更国・多褹国を設けたのが先行してあり、その流れの中で大隅国は和銅6年(713年)4月3日、同様に日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡を分けて設けられた。
数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。
天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島と種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。
平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。
明治12年(1879年)、奄美群島(大島郡)を編入した[1]。
概要
令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲(球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた[2]。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。
当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した[3][4]。
養老4年(720年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に班田制も導入され、律令制による支配が定着した。
しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開発者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた[5][注 1]。
こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮に八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している[2][7]。
平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では全域が薩摩鹿児島藩領であった。(262,168石余)
- 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により鹿児島県の管轄となる。
- 明治30年(1897年)4月1日
国内の施設
国府
国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。
現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
- 大隅国分寺跡
- 鹿児島県霧島市国分中央。
神社
- 桑原郡 鹿児嶋神社(正八幡宮、霧島市隼人町内) - 薩摩・大隅・日向で唯一の大社。
- 曽於郡 大穴持神社 (霧島市国分広瀬)
- 曽於郡 宮浦神社 (霧島市福山町)
- 曽於郡 韓國宇豆峯神社 (霧島市国分上井)
- 馭謨郡 益救神社 (熊毛郡屋久島町宮ノ浦)
安国寺利生塔
- 安国寺 - 鹿児島県姶良市加治木町反土。
地域
郡
江戸時代の藩
人物
国司
- 陽侯史麻呂、養老4年(720年)被殺害
- 榎氏鉢麻呂、天平2年(730年)目として万葉集に名前が見える
- 大伴国人、天平10年(738年)守として正倉院文書に名前が見える
- 土師山麻呂、天平10年(738年)掾として正倉院文書に名前が見える
- 日置三立、天平10年(738年)史生として正倉院文書に名前が見える
- 中臣伊加麻呂、天平宝字7年(763年)守に任官
- 中臣習宜阿曾麻呂、宝亀3年(772年)守に任官
- 藤原藤主、仁寿2年(852年)任官
- 布勢直継、貞観12年(870年)任官
- 佐伯春継、元慶2年(878年)任官
- 春日宅成、元慶2年(878年)任官
- 菅野重忠、寛弘4年(1007年)被射殺
- 船守重、長元2年(1029年)退任[2]
守護
鎌倉幕府
- 1197年~1203年 - 島津忠久
- 1217年~1224年 - 北条義時
- 1225年~1245年 - 北条朝時
- 1250年~1272年 - 北条時章
- 1283年~1291年 - 千葉宗胤
- 1295年~1317年 - 北条時直
- 1323年~1333年 - 北条師頼
室町幕府
- 1333年~1363年 - 島津貞久
- 1363年~1376年 - 島津氏久
- 1376年~? - 今川貞世
- 1391年~1411年 - 島津元久
- 1411年~1425年 - 島津久豊
- 1425年~1470年 - 島津忠国
- 1470年~1474年 - 島津立久
- 1474年~1507年 - 島津忠昌
- 1507年~1515年 - 島津忠治
- 1515年~1519年 - 島津忠隆
- 1519年~1527年 - 島津勝久
- 1527年~1566年 - 島津貴久
戦国大名
武家官位としての大隅守
江戸期以前
江戸時代
脚注
注釈
出典
- ↑ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達
- ↑ 2.0 2.1 2.2 日隈正守 「大隅国における建久図田帳体制の成立過程」
- ↑ 『鹿兒島縣史』 第一巻/第二編 國造時代/第四章 國造縣主の設置と諸豪族
- ↑ 竹森友子 「南島と隼人 -文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景-」 『人間文化研究科年報 Vol.22』pp.69-84
- ↑ 日隈正守 「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に」
- ↑ 日隈正守 「大隅守菅野重忠殺害事件の背景に関する一考察」
- ↑ 鹿児島県歴史資料センター 黎明館 『黎明だより』 『黎明 vol.34 No.2』 2016年8月1日
参考文献
- 角川日本地名大辞典 46 鹿児島県
- 旧高旧領取調帳データベース
- 『吉田町郷土史』「第3編 中世」 1991年3月 pp147-206
- 日隈正守 「大隅国における建久図田帳体制の成立過程」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』 2009年3月
- 日隈正守 「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』 2015年3月11日
- 日隈正守 「大隅国正八幡宮社家機構の形成過程」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 59巻』 2008年3月27日 pp.75-87
- 日隈正守 「大隅守菅野重忠殺害事件の背景に関する一考察」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 68巻』 2017年3月11日 pp.53-60
- 竹森友子 「南島と隼人 -文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景-」 『人間文化研究科年報 Vol.22』 2007年3月31日 pp.69-84
- 松本直樹 「古事記における熊襲・隼人の位置付け―熊襲・隼人と大八嶋国・葦原中国―」 『国文学研究 vol.121』 1997年3月