後村上天皇

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後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日1368年3月29日))。は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた[1]。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和奈良県)の吉野賀名生摂津大阪府)の住吉などを行宮とした。

明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。

系譜

後醍醐天皇の第七皇子。母は、阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)。

生母に関して、吹上本『帝王系図』の巻末付紙は、熙成親王(後亀山天皇)を阿野実為女の所生とし、近世成立の南朝系図は、憲子内親王を中宮北畠顕子の所生、泰成親王を藤原勝子の所生、惟成親王・師成親王を中原師治女(大蔵卿局)の所生、説成親王・良成親王を越智家栄女(冷泉局)の所生とするが、その確たる史料的裏付けはない。

系図

持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栄仁親王
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


略歴

元弘3年/正慶2年(1333年鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇建武の新政を始めると、幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。建武元年(1334年)5月多賀城において親王となる。翌2年(1335年足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返す。建武3年(1336年)3月行在所比叡山において元服を行い、同時に三品陸奥太守に叙任され、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。延元2年/建武4年(1337年)多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、8月に再度上洛を始める。12月に鎌倉を攻略し、延元3年/暦応元年(1338年)1月さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢伊賀方面に転進した後、父天皇のいる大和吉野行宮に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの皇子を派遣する中、9月に義良親王も宗良親王とともに北畠親房・顕信に奉じられて、伊勢国大湊から三たび奥州を目指すものの、途中暴風に遭って一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着。翌延元4年/暦応2年(1339年)3月吉野へ戻り、間もなく皇太子となった[3]8月15日に父天皇の譲位を受けて践祚する[4]

ファイル:Former imperial palace at Ano.jpg
堀家住宅(賀名生皇居跡)

天皇は若年ながら主に畿内近国の寺社や武士に対して精力的に綸旨を発し、南朝の安寧祈願や所領安堵・給付、軍勢催促や褒賞を行った。正平3年/貞和4年(1348年)1月足利方の高師直に吉野を襲撃され、天皇は紀伊花園(和歌山県かつらぎ町)へ一旦難を避けたが、後に大和賀名生奈良県五條市)へ移った。正平5年/観応元年(1350年)足利一族間の内訌が激化すると(観応の擾乱)、先に足利直義が南朝に降伏し、翌年(1351年)10月には尊氏が同じく南朝に降伏した(正平一統)。天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え、11月には北朝崇光天皇廃位するとともに三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収し、皇太子直仁親王廃太子とされた。

南朝は、尊氏が直義を追討すべく関東に向かった隙を突いて、京を回復する作戦に出る。正平7年/文和元年(1352年)2月に賀名生を発し、河内東条(大阪府富田林市)を経て摂津住吉(大阪市住吉区)に至り、閏2月19日山城男山京都府八幡市)に入り、七条大宮の戦い楠木正儀足利義詮を破って京の回復に成功した。一統は破綻して義詮は近江に逃亡し、天皇は光厳光明・崇光の三上皇廃太子直仁親王を男山に連行した。3月に足利方の反撃に遭って京を放棄し、男山に立て籠もるが、5月義詮の軍に敗れて辛うじて脱出、三輪社・宇陀を経て、賀名生に帰還する。正平9年/文和3年(1354年)3月には光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王を河内天野の金剛寺塔頭観蔵院に入れると、10月には自身も金剛寺に移って塔頭摩尼院を行宮と定める。正平10年/文和4年(1355年)1月、再び南朝に帰順した直冬を立てて京の回復を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫し、しばらくして光明上皇は京都に返した。

正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返し、正平14年/延文4年(1359年)12月、自身も観心寺(大阪府河内長野市)に行宮を移し、翌年9月には住吉まで北上。正平16年/康安元年(1361年幕府の政争に敗れて失脚した執事細川清氏の帰順を受け、12月8日四条隆俊・楠木正儀らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、すぐに義詮軍の反撃に遭って、同月26日には撤退している。南朝の力は既に弱体化しており、退勢を挽回するまでには至らなかった。それでも南朝はなお強硬姿勢を貫いたと見え、正平22年/貞治6年(1367年)4月に勅使葉室光資をして幕府との和睦交渉が行われたものの、天皇は武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。この年にはもう病気がちであったらしく、翌正平23年/応安元年(1368年3月11日刻に住吉大社宮司津守氏住之江殿にて崩御した[5]。享年41。

和歌二条為定に師事し、正平8年(1353年)の『内裏千首』や同20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』に詠進して、准勅撰集新葉和歌集』には最多の100首が入集した他、『源氏物語』にも関心を寄せた。また、孤峰覚明に就いてを極め、琵琶の音楽や大覚寺統の唐様を受け継いだ書道にも長けていたとされる。

諡号・追号・異名

父の後醍醐天皇が醍醐村上天皇延喜・天暦の治を理想とし、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていたことを受け、後村上院と追号された。

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により大阪府河内長野市寺元の観心寺内にある檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

崩御後の3月15日に当所で火葬され、間もなく天皇のための法華三昧堂(現存せず)も建立された。天授4年/永和4年(1378年)に観心寺を参詣した賢耀の『観心寺参詣諸堂巡礼記』によれば、墓所の東に法華三昧堂、その前に勾当内侍五輪塔があったと伝える。同寺は天皇の御在所でもあったが故、古来御陵を崇敬しており、近世の地誌類も当所を御陵として挙げている。なお、同境内にコウボ坂陵墓参考地、境外に檜尾塚陵墓参考地が所在し、ともに母・阿野廉子の墓と伝えられている。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、宮城県多賀城市多賀城政庁跡の北側にある多賀城神社にも祀られている。

脚注

  1. 鴨脚本『皇代記』に「諱義良後改憲良」とあることによる。ただし、近世の『続史愚抄』・『系図纂要』などのように、憲良を初名として掲げている文献も多い。
  2. 2.0 2.1 2.2 かつては東宮(皇太弟)を泰成親王に、護聖院宮を説成親王に比定する南朝系図の説が通説であったが、近年、護聖院宮と東宮とを同一人とし、これを惟成親王に比定する説が有力となっている。なお、護聖院宮の母については、長慶天皇らと同じく嘉喜門院であったと推定されている(『満済准后日記』永享3年10月28日条)。
  3. 新葉和歌集』雑上・1034の詞書から立太子がこの年であったことは確実だが、その月日は不詳である。『南朝編年記略』は何によってか、3月4日とする。
  4. 太平記』によれば、即位式は周到ではなく、ただ神器を拝するだけの簡便なものであった。その月日は不詳だが、10月に即位の旨を神宮に奉告している。
  5. 八代国治とともに長慶天皇即位確定に大きな役割を果たした武田祐吉は、『新葉和歌集』が「後醍醐天皇」「後村上院」と記していることを指摘して、後村上天皇が生前に譲位して上皇となっていた可能性を指摘している(「長慶天皇を仰ぎ奉りて」 『武田祐吉著作集 第8巻 文学史・歌物語篇』 角川書店、1973年。初出は1917年)

関連項目