山城国
山城国(やましろのくに)
京都府の南半部の旧名。畿内の一国。上国。奈良時代には山背国,山代国と書いた。奈良京から「山のあなた」とされたところ。古くから文化が開け,秦氏や狛氏(高麗氏)らの渡来人が住んだ。京都市太秦の広隆寺は秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を安置した寺と伝え,木津川市に高麗寺跡があることはこれを物語る。古来の氏族としては賀茂氏があり,『山城国風土記』逸文にみえる賀茂伝説で知られ,賀茂神社(賀茂御祖神社,賀茂別雷神社)はこの祖神をまつった神社である。国府の所在地については異説があり明らかでない。国分寺は木津川市の加茂にあり,ここに聖武天皇は天平12(740)年からしばらく恭仁京を置いたこともあった。『延喜式』には乙訓(おとくに),葛野(かとの),愛宕(おたき)など 8郡,『倭名類聚抄(和名抄)』には郷 77,田 8961町を載せている。延暦3(784)年には桓武天皇が乙訓郡長岡に新都を造営(長岡京),同 13年にはさらに葛野郡宇太の地に遷都して平安京と呼んだ。これを機会に国名も山城国と改められ,五畿(五畿七道)内の序列も大和国に代わって首位となった。権門勢家,神社,寺院などの勢力も強くなって,他国とは大きな相違がみられた。鎌倉に幕府が開かれてからは他国にみられる守護は置かれず,文治1(1185)年北条時政が京都守護に任じられたが,承久の乱以後は六波羅探題を設置,これにあたった。建武中興以来再び政治の中心となり室町時代にいたったが,室町幕府の所在地として特殊な地域であった。商工業は全国にさきがけて発達し,ことに室町時代以降には京都に多数の酒屋,土倉が繁栄。その反面,これらの大商人に対する反抗がいわゆる一揆として発生し,さらに室町時代の後期には幕府の権威失墜とともに応仁の乱が起こり,京都市街の大半は焼失した。江戸時代には京都所司代の支配下に置かれ,藩では淀藩に稲葉氏 10万石が置かれた。明治1(1868)年閏4月京都府が置かれ,同 4年7月に淀藩が県となり,同年 11月に丹波国とともに京都府に,さらに 1876年統合されて今日の京都府となった。