香淳皇后

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香淳皇后
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第124代昭和天皇后
皇后在位期間
1926年12月25日 - 1989年1月7日
昭和元年12月25日 - 昭和64年1月7日
立后 1926年(大正15年)12月25日

誕生 1903年(明治36年)
3月6日
日本の旗 日本東京府麻布区 麻布鳥居坂町 久邇宮邸(現・東京都港区六本木
崩御 (2000-06-16) 2000年6月16日(97歳没)
日本の旗 日本東京都千代田区
吹上御苑 大宮御所

結婚 1924年(大正13年)1月26日
皇后 1926年(大正15年)12月25日
皇太后 1989年(昭和64年)1月7日
大喪儀 2000年(平成12年)7月25日
陵所 日本の旗 日本東京都八王子市長房町
武蔵野東陵
身位 女王皇太子妃皇后皇太后
敬称 殿下陛下
良子(ながこ)
氏族 久邇宮家(皇族
旧名 良子女王
追号 香淳皇后
お印
父親 久邇宮邦彦王
母親 邦彦王妃俔子
配偶者 昭和天皇
子女 照宮成子内親王
久宮祐子内親王
孝宮和子内親王
順宮厚子内親王
継宮明仁親王
義宮正仁親王
清宮貴子内親王
皇居 青山東宮御所宮城吹上大宮御所
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香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年明治36年)3月6日 - 2000年平成12年)6月16日)は、第124代天皇昭和天皇皇后今上天皇生母

良子(ながこ)。久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。歴代皇后中で最長の在位(62年と14日間)であり、神話時代を除き最長寿(満97歳没)である。

家系

久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)。

祖父の朝彦親王は男子9人を儲けており、首相経験を持つ東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。

また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。

生涯

少女時代

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少女時代の良子女王(当時7歳)
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1912年(明治45年)、左から智子女王・信子女王・良子女王。
ファイル:Crown Princess Nagako 1924.jpg
1924年(大正14年)、婚礼に際し撮影

1903年明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一女子として誕生[1]

1907年(明治40年)9月2日学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食を取るが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方しっかりとした性格で、2人の妹が彼女の行動をすべて真似ることもあったという。

学習院女学部小学科を経て(1909年入学)、1915年大正4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の1918年(大正7年)1月14日皇太子裕仁親王のに内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたことなどが挙げられる。内定に伴い学習院を退学し、同年4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇太子妃としての教育を受ける。学問所は“お花御殿”と呼ばれ、妹たちのほか、親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、共に学んだ。

なお、お妃教育のために作られたお花御殿の建物はその後に東京市麻布区日ヶ窪(現・東京都港区麻布十番)にあった東京府立第三高等女学校(府立三女)に下賜された[2]第二次世界大戦後の学制改革などにより府立三女が現在の東京都立駒場高等学校と名を改め、校舎を現在の目黒区大橋に移転した後、お花御殿の建物も現校地へ移築し、現在も保存されている[2]

1920年(大正9年)5月7日に裕仁親王が元服礼を行ったことをうけて、同年6月10日に正式に婚約が内定する。しかし、1921年(大正10年)に入って母系島津家色盲遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った、いわゆる"宮中某重大事件"が起こる。[3]事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったため良子女王に同情が集まり、原敬首相らの反山縣勢力が山縣追い落としにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし。」の発表が行われて事件は決着した(翌日付で新聞記事解禁)。最終的な決め手のひとつが、生物学者でもあった裕仁親王の「良子でよい」という意向であったと言われている。

学問所での教育は2・3年前後の予定であったが、宮中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。

皇太子妃時代

ファイル:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG
1924年(大正14年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と同妃良子女王
ファイル:Crown Prince Hirohito & Princess Nagako & Princess Shigeko 3.jpg
成子内親王を見守る皇太子裕仁親王と同妃良子女王

1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇勅許が下り、9月18日納采の儀。同日付で勲一等宝冠章を受章する。翌1923年(大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、関東大震災の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。[4]

1924年(大正13年)1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂東宮御所に住居を移す。裕仁親王との夫婦関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をするなどしていたという。1925年(大正14年)12月6日には第一子(第1女子)・照宮成子内親王が誕生する。良子妃は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。

皇后時代

ファイル:Empress Kojun and Prince Akihito.jpg
1934年(昭和9年)、継宮明仁親王を抱く香淳皇后

1926年(大正15年)12月25日、夫・皇太子裕仁親王の践祚に伴い立后。1927年昭和2年)、第二皇女久宮祐子内親王が誕生するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭折ようせつ。香淳皇后は自ら死化粧を施し、昭和天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日即位の大礼京都御所で盛大に執り行われた。

1929年(昭和4年)、宮城きゅうじょう皇居の当時の呼称)に住居を移す。さらに2人の皇女(第三皇女子孝宮和子内親王・第四皇女子順宮厚子内親王)が誕生するが、なかなか男児(「お世継ぎ」となる皇位継承者)を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、側室制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は夫の昭和天皇が自ら「人倫に反する事はできない」として、これを拒否した。1933年(昭和8年)12月23日、第五子・第一皇男子の継宮明仁親王が誕生。天皇・皇后の五人目の子にして待望の皇子誕生とあり、宮城前の万歳三唱・旗行列・提灯ちょうちん行列・花電車・奉祝会など日本全体から盛大に祝賀される。[5]

一方この頃より、皇女たちは学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ呉竹寮で養育される。これは天皇の元では養育係が仕えづらく、その結果我がままに育ったという批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。1935年(昭和10年)11月28日、第六子・第二皇男子の義宮正仁親王(現:常陸宮)誕生。また、天皇家の神格化が推進され、皇太子明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育され、親子でありながら土日以外には会うことさえできなくなった。皇后は明仁親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。1939年(昭和14年)3月2日、第七子・第五皇女子の清宮貴子内親王誕生。

第二次世界大戦中は昭和天皇とともに夫婦で東京にとどまり、心労の多かった夫を支えたと言われる。またこの頃には、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の車に同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、国民と同じように皇室への食糧配給も厳しくなる中、天皇と夕食を共にする際、二人で相談して、必ず料理の一皿か二皿を残し、侍従女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引揚者のための布団着物作りを行った。 1945年(昭和20年)3月、東久邇成子は長男を出産した。香淳皇后の初孫となった。

皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする夫・昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社護国神社への天皇親拝にもたびたび同行している。

また皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘たちの意思を尊重するためのお見合いデートを勧めた。その一方で、皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子(当時)との婚約が決定された(貴賤結婚)際には秩父宮妃勢津子の母親で貞明皇后の御用係として長年宮中に仕えた松平信子らとともに「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示している。『入江相政日記』においては、松平が宮崎白蓮などとともに、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとしたと記されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。

1960年(昭和35年)11月、長女の東久邇成子が病に倒れた。すでに末期癌が進み、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れたが、7月に成子は死去した。天皇ともども、愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。皇太子明仁親王・同妃美智子の第一子・長男で、自身の内孫である浩宮徳仁親王の存在が慰めになり、たいへん可愛がったという。

昭和40年代(1965年1974年)前半から半ばの『入江相政日記[注釈 1]によれば、皇后が絶大な信頼を置いた今城誼子の問題が頻出している。新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙ひんしゅくを買っていたことから今城は『入江日記』で「魔女」と名づけられ登場する(宮中魔女事件)。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟む、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、入江相政侍従長等の側近たちはこの問題に頭を痛めることになり、天皇の同意を取り付けて、1971年(昭和46年)に今城を宮内庁から事実上追放した。皇后は解任を最後まで惜しんでいる。

ファイル:Ford and Emperor1975.jpg
1975年(昭和50年)訪米時の、
昭和天皇、香淳皇后とフォード大統領ベティ同夫人夫妻

1971年(昭和46年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。1973年東久邇 信彦は、長男を儲け 香淳皇后の初ひ孫となった。1974年(昭和49年)には金婚式を迎え、記者団の「楽しかった思い出は何か」という問いに、天皇・皇后ともに「先の欧州訪問」を挙げた。翌年の訪米にも行幸啓で共にした。

1976年(昭和51年)には政府主催の「天皇陛下御在位五十年記念式典」に出席し祝賀を受けるものの、この前後から心身に老いの兆候が目立つようになる。翌年の夏に那須御用邸内で転倒した際に腰椎骨折。側近はこのことを伏せ、適切な治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。骨折について皇后は大変なショックを受けたとされ、この事故を境に老いの兆候は顕著になった。歩行に際してもを用いることが多くなり、散歩の際に天皇が手を引く姿も見られた。式典・行事に際しても北白川祥子女官長らが介添えしていた。

可能な限り式典などの公務に出席を続けていたが、1986年(昭和61年)1月2日新年祝賀4月29日天皇誕生日祝賀を最後に出席できなくなり、同年に政府主催で開催された「天皇陛下御在位六十年記念式典」を欠席し、同年9月30日以降は日課にしていた散歩も取り止めるようになった。やがて車椅子を頻繁に利用するようになる。また、1987年(昭和62年)12月11日、新年用の写真撮影後に軽い心臓発作を起こし、翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。

皇太后時代

1989年(昭和64年)1月7日、夫・昭和天皇崩御を受けた長男・皇太子明仁親王践祚および皇太子妃美智子立后に伴い、皇太后となる。同年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼(委員会委員長・竹下登内閣総理大臣)には欠席し、名代を常陸宮正仁親王妃華子が務めた。この年には昭和天皇の他に、第三皇女・鷹司和子、実妹の大谷智子が死去し、肉親との別れが続いた。これ以降、その動静が伝えられることがまれになり、メディア等への露出も少なくなった。

1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、後冷泉天皇皇后藤原寛子の数え年92歳を抜いて歴代最長寿となった。晩年には認知症の症状があったとされ、マスメディアでは「老人特有の症状」と報道されていた[注釈 2]

2000年(平成12年)6月16日老衰による呼吸不全のため皇居吹上大宮御所崩御した[注釈 3]。97歳没。歴代の皇后中最長の在位(62年と14日間)であり、神話時代を除き最長寿(97歳と102日)でもあった。

7月10日に「香淳皇后」と追号された。香淳とは上代漢詩集『懐風藻』で、お印と号にちなんだ「桃」から「花舒桃苑、草秀蘭筵新」(安倍広庭「春日侍宴」)、および「四海既無為、九域正清」(山前王「侍宴」)に拠る。「和書」を典拠にする諡号はこれが初めてであった。

7月25日東京都文京区豊島岡墓地斂葬の儀が行われた。陵墓は東京都八王子市長房町武蔵野東陵である。

皇子女

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1941年(昭和16年)12月7日、真珠湾攻撃(日米開戦)前日の昭和天皇一家

昭和天皇との間に7人の皇子女を儲ける。

読み 生年 没年 御称号 続柄 備考
成子 しげこ 1925年〈大正14年〉
12月6日
1961年〈昭和36年〉
7月23日(満35歳没)
てるのみや
照宮
第一皇女 盛厚王(東久邇宮家)と結婚
戦後皇籍離脱
祐子 さちこ 1927年〈昭和2年〉
9月10日
1928年〈昭和3年〉
3月8日(満0歳没)
ひさのみや
久宮
第二皇女
和子 かずこ 1929年〈昭和4年〉
9月30日
1989年〈平成元年〉
5月26日(満59歳没)
たかのみや
孝宮
第三皇女 鷹司平通と結婚
皇籍離脱
厚子 あつこ 1931年〈昭和6年〉
3月7日(93歳)
よりのみや
順宮
第四皇女 池田隆政と結婚
皇籍離脱
明仁 あきひと 1933年〈昭和8年〉
12月23日(90歳)
つぐのみや
継宮
第一皇子 第125代天皇
正仁 まさひと 1935年〈昭和10年〉
11月28日(88歳)
よしのみや
義宮
第二皇子 常陸宮当主
貴子 たかこ 1939年〈昭和14年〉
3月2日(85歳)
すがのみや
清宮
第五皇女 島津久永と結婚
皇籍離脱

人となり・逸話

  • 「おおらかでおっとりとした円満な性格の持主である」と言われ、昭和天皇との夫婦仲は「まことに良かった」と伝えられる。昭和天皇は香淳皇后のことを「良宮(ながみや)」と呼び、皇后は天皇のことを「お上(おかみ)」と呼んだ。いわゆる従順に「夫を立てる」タイプの古風な女性で、それだけに天皇も、よく皇后のことを気遣ったらしい。
  • 天皇との間に夫婦喧嘩は一度も無かった、と近しい人は繰り返し証言しているが、河原敏明は『文藝春秋』(1979年(昭和54年)2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。
  • 天皇と皇后の晩年の楽しみは、皇居や御用邸内を2人で散歩することで、植物の好きな天皇がよく皇后に説明をしながら歩いたという。また分かれ道に来ると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「お上のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。
  • 朝食のひとときにNHK連続テレビ小説を視聴するのが好きだった天皇に付き合って、この番組をよく見ていた。一方、皇后本人は奈良漬けを好んでいたことから、朝食をはじめ日常の食事では奈良漬けがしばしば添えられたという(夫・昭和天皇は特に漬物の好みは強くなかった)。
  • 活発で開明的な姑貞明皇后とは性格の違い・出自の違い(貞明皇后が華族側室の子であるのに対し、香淳皇后は嫡出の皇族であった)もあってうまくゆかず、特に結婚した当初は関係に悩んだとも言われる。
    • 宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数か月前、夫・皇太子裕仁親王(昭和天皇)と共に夫妻で療養先である葉山御用邸に見舞った際である。香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいっていないと知らしめる結果になってしまった。
  • 刺繍日本画観世流)、バラの栽培、ピアノなど多趣味であった。
  • 特に日本画は玄人はだしで、結婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後、川合玉堂前田青邨に師事、1956年(昭和31年)以降はよく宮内庁職員美術展に出品した。号を「桃苑」といい、皇居東御苑にある桃華楽堂はこの号に由来する。画集は『桃苑画集』(37点を収む、1967年(昭和42年)、便利堂)、『錦芳集』(54点を収む、1969年(昭和44年)、朝日新聞社)がある。
  • バラは皇后自ら鋏を取り、枝の剪定などを行っていた。皇居の庭は天皇の意向により、武蔵野の面影を残し、自然の生育に任せて、雑草の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは天皇も口を挟むことはなかった。
  • 1971年(昭和46年)秋に、郵政省発行の「天皇皇后陛下御訪欧記念切手」で、所縁の図案として、皇后画「海の彼方」が用いられた。
  • 晩年の動静は、皇太后宮職侍従も務めた卜部亮吾が遺した『卜部亮吾侍従日記』(全5巻、朝日新聞出版)に詳しい。卜部は「斂葬の儀」の祭官長を務め、2002年(平成14年)に没した。

崩御に際して

2000年(平成12年)6月16日崩御した日が金曜日であったこともあり、各方面では哀悼の意を表明しつつも、比較的現実的な対応がなされた。

例えば、崩御の当日と翌日(6月17日土曜日)は、中央競馬は哀悼の意を表するため、17日の競馬の全レースを中止し19日に振り替え、18日、19日の出走ファンファーレを自粛して開催された(なお、公営競技では、尼崎競艇が当日中止となっている。

当日の甲子園阪神 - 巨人戦は午前中に中止を決定しているが、これは皇太后崩御とは関係がなく悪天候のためであり、翌日は開催している)。

また、大阪府大阪市中央区道頓堀ではグリコのネオンサインが崩御当日のライトアップを自粛し、翌日は「くいだおれ太郎」も黒一色の衣装を纏っていた。

斂葬の儀は同年7月25日に行われたが、この日に予定されていたプロ野球のオールスターゲーム(長崎県営野球場で開催)が翌日に順延となった。

内閣総理大臣謹話

崩御を受け、森喜朗内閣総理大臣(当時)は以下の内閣総理大臣謹話を発表した。

 本日、皇太后陛下の崩御の報に接し、哀痛の念を禁じ得ません。天皇皇后両陛下、皇族各殿下、御近親の方々のお悲しみはいかばかりかと拝察申し上げます。

 皇太后陛下におかせられては、その御生涯の大半を昭和天皇の后として正に激動の時代をお過ごしになりました。社会が大きく変化していく中で、困難な時期にありましても、皇太后陛下には、昭和天皇の良き御伴侶として、公私にわたり、常に、誠心誠意お尽くしになりました。私ども国民は深く心打たれると同時に、大きな励みとなったところであります。

 また、その御生涯を通じ、国際親善や芸術、文化、医療、福祉など幅広い分野にわたり、昭和天皇をお助けして、お務めになりました。殊に、そのお優しいお人柄からにじみ出るほほえみを湛えられたお姿に心から敬愛の念を抱いたのであります。

 昭和天皇が崩御せられた後は、在りし日の昭和天皇をお偲びになりつつ、慎ましくお過ごしになっていらっしゃいました。

 皇太后陛下が崩御せられたことは誠に哀惜に堪えず、ここに、国民と共に謹んで哀悼の意を表します。


— 森喜朗内閣総理大臣、2000年(平成12年)6月16日[6]

御誄

崩御を受け、今上天皇は以下の御誄(おんるい:追悼の辞)を述べた。

「明仁」謹んで御母皇太后の御霊に申し上げます。

在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって日夜心を離れず、思い出は尽きることがありません。哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります。
ここに、霊柩を殯宮にお遷しして、心からお祭り申し上げます。

— 今上天皇、2000年(平成12年)6月29日。殯宮移御後一日祭の儀において

「明仁」謹んで御母香淳皇后の御霊に申し上げます。
昭和天皇の崩御あそばされてより十一年、吹上大宮御所にお過ごしの日々が穏やかにして一日も長からんことを願い、お側近く過ごしてまいりましたが、この夏の始め、むなしく幽明界を異にするにいたりました。
在りしの日のお姿を偲びつつ、殿に、また殯宮におまつり申し上げること四十日、ここに斂葬(れんそう)の日を迎え、葬列をととのえ、昭和天皇のお側にお送り申し上げます。お慈しみの下にあった去りし日々を思い、寂寥は深く、追慕の念は止まるところを知りません。誠に悲しみの極みであります。

— 今上天皇、2000年(平成12年)7月25日。斂葬の儀 葬場殿の儀において

栄典

日本

日本以外

系譜

香淳皇后 父:
邦彦王久邇宮
祖父:
朝彦親王久邇宮
曾祖父:
邦家親王伏見宮
曾祖母:
鳥居小路信子
祖母:
泉萬喜子
曾祖父:
-
曾祖母:
-
母:
俔子
祖父:
島津忠義
曾祖父:
島津久光
曾祖母:
島津千百子
祖母:
山崎寿満子
曾祖父:
-
曾祖母:
-

テンプレート:明仁の系譜

香淳皇后の登場する作品

関連項目

出典

  1. 歴代皇后125代総覧417頁
  2. 2.0 2.1 施設の概要 東京都立駒場高等学校公式サイト
  3. 歴代皇后125代総覧418頁
  4. 歴代皇后125代総覧419頁
  5. 歴代皇后125代総覧420頁
  6. 首相官邸 内閣総理大臣謹話 平成十二年六月十六日 - 2018年7月28日閲覧。

注釈

  1. 『日記』は朝日新聞社全6巻、朝日文庫全12巻で刊行。
  2. 1990年1月7日 朝日新聞「皇太后さまは権殿で拝礼へ 昭和天皇崩御から1年」などに"老人特有の症状"との表現が見られる。
  3. 皇太后が亡くなれば「崩御」と呼ばれるのが通例であるが、大半のマスメディアが「ご逝去」と報じた。

外部リンク


テンプレート:歴代日本の皇太后一覧