久邇宮朝彦親王
久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。
第125代今上天皇の曽祖父である。
生涯
幕末
天保7年(1836年)、仁孝天皇の猶子となり、翌天保8年(1837年)に親王宣下、成憲(なりのり)の名を下賜される。天保9年(1838年)に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、青蓮院門跡の第四十七世門主に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。青蓮院が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮(しょうれんいんのみや)または粟田宮(あわたのみや)と呼ばれた。その後には第二百二十八世天台座主にも就いている。
尊融入道親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、江戸幕府13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老・井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融入道親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮(ししおういんのみや)と呼ばれた。
井伊大老が翌万延元年(1860年)に桜田門外の変で暗殺され、文久2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には国事御用掛として朝政に参画、翌文久3年(1863年)8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。
文久3年前半は長州藩を中心とした尊王攘夷派公卿が朝廷の主流だった。そして尊攘派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔だった。孝明天皇が大和に行幸し、その際に天皇自ら攘夷のための軍議を開き、それによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すという企てである。その上で勅許を待たずに条約を批准した幕府にこそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取らせようという算段でもあった。
公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」として都から遠ざけられそうになった。しかし中川宮はこれを固辞し、政敵であり長州派の有力者のひとりだった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を譲った。
さらに中川宮は京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、八月十八日の政変を行う。同年元服を済ませて朝彦(あさひこ)の諱を賜り、親王任官職の二品弾正尹に任じられる。以後は弾正尹の通称である尹宮(いんのみや)とも呼ばれた。
八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐されると、朝彦親王や関白二条斉敬は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うことにもなる。
元治元年(1864年)、因幡国鳥取藩士河田景与らを中心とした一部の尊攘派は、朝彦親王邸への放火や松平容保の襲撃を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった古高俊太郎に大量の武器を用意させた。しかし、計画途上で古高が新選組に捕らえられ、6月5日の夜に関与していた者の多くが潜伏していた三条木屋町の旅館・池田屋で闘死、もしくは捕縛された(池田屋騒動)。
この年、宮号を中川宮から賀陽宮(かやのみや)に改めた。京都御所南方の旧恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、賀陽宮は家禄1500石で宮家の列に新しく加わった。同年7月19日、長州藩兵が京都へ攻め上る蛤御門の変が勃発、その懲戒として幕府は前後2度にわたる長州征討を行ったが、1度目は長州藩のあっけない降伏により短期間で終結、慶応2年(1866年)に行われた2度目の征伐では長州藩の前に敗北を重ねる中で、幕府は14代将軍徳川家茂を病で失い、同年9月に実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。12月には家茂の後を追うように孝明天皇が崩御し明治天皇が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。一方幕府では15代将軍となった徳川慶喜が意表をつく大政奉還によって国政の主導権を確保しようとしていた。
慶応3年(1867年)12月9日、小御所会議において王政復古が決定し、これに伴い長州藩主毛利敬親・毛利広封父子や、有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。一方の朝彦親王は明治元年(1868年)広島藩預かりとなった。その後明治5年(1872年)正月に伏見宮に復籍するまで、朝彦親王は政治の表舞台からは姿を消すことになった。
明治
明治3年(1870年)閏10月、政府から京都に戻る許可を得る。明治5年1月、謹慎を解かれて、伏見宮家の一員に復帰する。同年7月、東京移住を命令されるものの、京都で暮らし続ける。維新前後の経緯から明治新政府の中枢には入らなかった。こうしたことが、後に久邇宮邦彦王や東久邇宮稔彦王ら子息たちの感情や行動に複雑な影響を与えたとの指摘もある。
明治8年(1875年)4月、一代宮家となる。同年5月、新たに久邇宮家を創設する。明治16年7月11日、「二品勲一等朝彦親王、特旨ヲ以テ二代皇族ニ被列候事」[1]とある。明治20年、世襲の皇族になったのにともない、次男邦憲王が病弱のため、三男邦彦王を継嗣と定める。
明治8年7月、伊勢神宮の祭主に就任する。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。
神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られるほか、親王が書き残した日記は『朝彦親王日記』と呼ばれ、幕末維新史料として重視されている。
明治24年(1891年)10月25日、S状結腸潰瘍のため死去[2]。
栄典
系図
血縁
、若年時には。還俗してからも子を多く作った。今上天皇以下の皇族は、香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる。
- 兄弟(女子省略)
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- 妻子
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- 女房泉亭靜枝子
- 女房泉萬喜子
- 第2王女:東園栄子(さかこ、子爵・東園基愛夫人、1868年 - 1949年)
- 第3王女:池田安喜子(あきこ、侯爵・池田詮政夫人、1870年 - 1920年)
- 第4王女:飛呂子女王(ひろこじょおう、1871年 - 1889年)
- 第5王女:竹内絢子(あやこ、子爵・竹内惟忠夫人、1872年 - 1946年)
- 第3王子:久邇宮邦彦王 (1873年 - 1929年 第2代久邇宮 第125代今上天皇外祖父)
- 第6王女:仙石素子(もとこ、子爵・仙石政敬夫人、1877年 - 1918年)
- 第7王女:懐子女王(やすこじょおう、1879年 - 1880年)
- 第8王女:壬生篶子(すずこ、伯爵・壬生基義夫人、1879年 - 1947年)
- 第7王子:(1882年)
- 女房原田光枝子
- 女房寺尾宇多子
- 女房角田須賀子
脚注
参考文献
関連項目
日本の皇室 | ||
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先代: (創設) |
久邇宮 初代:1875年 - 1891年 |
次代: 邦彦王 |