六四天安門事件
テンプレート:Infobox Historical Event
六四天安門事件 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 六四天安門事件 |
簡体字: | 六四天安门事件 |
拼音: | liùsì tiānānmén shìjiàn |
発音: | リゥスゥ ティエンアンメン シィチエン |
日本語読み: | ろくよんてんあんもんじけん |
英文: | June 4 Tiananmen Incident |
六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)は、1989年6月4日(日曜日)に、同年4月の胡耀邦元党総書記の死をきっかけとして、中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧、多数の死傷者を出した事件である。
通常、日本語で「天安門事件」と呼称されるが、本稿では他の天安門事件と区別するために、この表記を用いる。
Contents
解説
この出来事は、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなった[1]。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった[2]。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。統制がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[3]に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。
デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。
衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで自宅軟禁下に置かれた。
1989年夏以降、一般に「天安門事件」という場合はこの事件を指す。1976年4月5日に周恩来総理が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。
略した通称は六四、また中華人民共和国内の検索エンジンにて、「六四天安門事件」というキーワードを検索すると接続不可能になることから、「5月35日(5月31日+4日)」、「VIIV(ローマ数字の6と4を並べたもの)」や、「82(8の2乗を表す数学記法で、答えが64=6月4日)」などを[4][5]、隠語として使うことがある。
抗議者に対する中国共産党による武力弾圧に対しては、国内はもちろんのこと広範な国際的非難が集まった[3]。犠牲者の数は後述のように諸説あり、正確な数字は分かっていない。
事件概要
「百花斉放・百家争鳴」
- テンプレート:中華人民共和国
1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが、ソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み、硬直化した国家運営を立て直すために「ペレストロイカ」を表明して、同国の民主化を進めるなか、同じく1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは「開明の指導者」として支持を集めた。
これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。同年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて、胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや李鵬らの保守派の批判の矢面にさらされた。
12月に、北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。同月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。趙には経済・政治の両改革のいずれにも、反自由化の影響が及ばないよう指示を出したが、鄧小平が1988年夏から始めた公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は、経済の主導権を保守派の李鵬国務院総理らに渡すことになる。
胡耀邦死去
胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中心筋梗塞で倒れ、4月15日に死去した。
胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。
これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。
翌19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。翌22日にはデモ隊に「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬国務院総理との面会を求めた声明を出すと、文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。同日午前10時、人民大会堂で胡耀邦同志追悼大会が開催された。
四・二六社説
学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからである。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。
趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地に中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。
北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。
上海市の週刊誌である『世界経済導報』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の曽慶紅市党委副書記と陳至立市党委宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。
中国共産党は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。
4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。
デモの拡大
趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。
五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。
鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることで鄧、楊尚昆(国家主席)、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。
この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せてイギリスの植民地であった香港、日本やアメリカなどの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。
この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。
ゴルバチョフ訪中
このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフが、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問した。
中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。
このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。
ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、
“鄧小平同志從1978年十一届三中全会以来,是国内外公認的我們党的領袖。儘管在十三大根据他的請求,他退出了中央委員会,退出了政治和常委会,但是我們全黨都知道,我們離不開他,離不開他的智慧和經驗。我告訴你一个秘密,在十三届一中全会有一个正式的决定,雖然這个决定没有公布,但是它是一个很重要的决定,就是說,我們在最重要的問題上需要他掌舵。”
鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話そう。第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。つまり、我々は最も重要な問題において彼の指導を必要とするというものだ。
と「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かしたが、学生たちの矛先を鄧小平に向けたとして、第13期4中全会で「罪状」に数えられることとなった。
外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕[6]が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。
ゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党もゴルバチョフの訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている。ゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に北京首都国際空港から帰国した。
戒厳令布告
この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。
5月16日夜、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人の政治局常務委員会が開かれ、学生たちの要求する「四・二六社説」の修正について話し合われ、趙紫陽は修正に賛成、李鵬は反対したため、決着しなかった。
5月17日午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平に加え楊尚昆国家主席を含めた会議が鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた。政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定した[7]。
「事態の進展を見ればわるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。すなわち、趙(紫陽)が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」 — 鄧小平
これに対し、趙紫陽は以下のように述べ、戒厳令の発動を拒否したため、鄧小平は李鵬、楊尚昆、喬石の3人を戒厳令実施の責任者に任命した[8]。
「決定を下さないよりは下した方が良いけれども、今回の決定が招くであろう深刻な事態を大変憂慮している。総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」 — 趙紫陽
5月19日午前5時頃、趙紫陽は当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れて、ハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で涙を見せ、学生たちの愛国精神を褒め称え、「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない」と、迫りつつあった流血の惨事を避けるために、学生たちにハンストの中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。しかし、趙紫陽の演説は学生たちに歓迎され、拍手は止まなかった。5月20日、鄧小平は自宅で非公式会合を開き、趙紫陽の解任を事実上決定した。その後、6月19日の政治局拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消した[9]。
5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令布告の発表を行った。党中央、国務院、全人代、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部及び、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講話は楊尚昆国家主席が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。
これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。
こうした中、カナダを訪問中の全人代常務委員長の万里が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。
武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨーク市の「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。また、この頃香港や中華民国(台湾)、アメリカ合衆国など、国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。
報道管制
戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカ合衆国の CNN は、依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。
これに業を煮やした中国共産党の上層部は、CNNが生放送を行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して、放送を中止するよう要求したが、テレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りも、そのまま生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信された。なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオテープ収録による録画中継と、固定電話や公衆電話を使用した、音声による生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が香港や台湾など、国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクシミリを使って、北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたといわれている。
武力弾圧
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された[10]。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲した。
この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。現場に居た四君子の一人である高新の証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と戦闘を行う準備がある程度は整っていた[11]。
民衆は横転させたバスに放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、撲殺される者も居た。或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった。人民軍第54軍では民衆の暴行を受け、死者1名、重傷246名、軽傷1,500名、失踪150名という被害を受けたが、上層部からの命令を守り、最後まで発砲しなかった[12]。
武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[13](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。
なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、学生側リーダーの柴玲はインタビューに対し、「流血を期待していた(其实我们期待的就是流血)。中国共産党政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」と発言した[14][15][16]。
なお、事件の起きたとされる時間帯には、現場に居なかった柴玲は広場で事件があったと証言しているが、現場に最後まで残っていた候徳健は、広場で虐殺など起きなかったと証言している[17]。
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男性と戦車の接近場面を拡大した画像(ジェフ・ワイドナー撮影) |
武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜洲電視、アメリカ合衆国のCNNを始めとする、中国国内外のテレビ局によって世界中に中継され、無差別発砲によって市民の虐殺を伴う武力弾圧に対して、世界中から多くの非難が中華人民共和国に浴びせられた。武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性の映像も放映された(無名の反逆者)[18]。
武力弾圧に動員された中国人民解放軍の部隊は、「北京に知人、友人が少ないため、北京市民への無差別発砲に抵抗が少ない」という理由で戒厳令の施行後に地方(新疆ウイグル自治区など)から動員された部隊が中心と報道された[19]。
また、AFP通信の日本語記事によると、2014年6月に機密解除されたアメリカ合衆国連邦政府の公文書の中に、ホテルの一室から当時の天安門広場の様子を目撃した匿名の人物の話が記載されている。それによれば、楊尚昆の甥が指揮した、河北省石家庄から招集された第27集団軍(北京軍区所属)に属する非北京語話者の兵士たちは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と公文書の中に、武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した「残虐」なものだったと主張した内容だった[20] 。
しかし公開された機密文書の原文では、これらの情報が、However could not confirm this and dismissed it as "rumor." 「確認の取れない噂」とされている。また、この機密文書には、実際には1997年に死去した鄧小平が、既に死亡していたとする情報が記載されるなど、誤情報も含まれている[21][22]。
天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして、「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって…。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えているのを目撃した(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。相馬がその学生の言葉をメモに残してから天安門広場へと進む途中、相馬の姿を見た中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。男性は茫然自失した様子で、「軍が撃った。こんなことは許されない。中国はもう終わりだ。鄧小平を許さない」と語ったという[23]。
死傷者
中国共産党の公式発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない。
また天安門広場から、完全にデモ隊が放逐された後に、中国人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報[24]があるように、事件後に中国共産党によって、多くの死体が隠匿されたという報道もある。また、約300名の民主活動家がパリに亡命した。
ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には、軍兵士は下された「無差別発砲」命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させたことが記述されていた[25]。
また、ソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている[26]。
2017年12月23日、香港の日刊紙明報は、機密解除されたイギリスの公文書の内容から、イギリス政府は犠牲者を最大で3,000人と見積もっていたこと、退去期限を通告した5分後には装甲車による攻撃が始まったこと、大多数は広場から離れる途中で犠牲に遭ったこと、鎮圧部隊は山西省の第27軍であったことを報じた[27]。これに対し中華人民共和国外交部は、2017年12月26日の記者会見で「中国政府はとっくに結論を出している」と不快感を表明している[28]。
AFPは、2017年12月23日、機密解除されたイギリスの公文書から、死者は少なくとも1万人に上ると発表した。 公文書は、当時の駐中国アラン・ドナルド英大使から本国政府への外交機密電報。電報で「最低に見積もっても一般市民の死者は1万人」と報告している[29]。
国内における反応
批判
事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。
また、中国共産党首脳部の強硬派が密かに行った自国民の虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。
中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」の司会者である薛飛と杜憲は、喪服をイメージさせる服装で6月4日の放送に臨んだ。訃報を伝えるような速度でニュース原稿を読み、抗議を表したという。杜憲は1992年に中央電視台を退社し、2000年から香港のフェニックステレビでアナウンサー業を再開させている。
中国共産党による隠蔽工作
上記の様に、西側諸国だけでなく、東側諸国を含む世界各国では、この事件は報道されたものの、国内においては、事件後には、平常時にも増して報道管制が強化されたため、事件に対する詳細な報道は殆ど行われなくなった。しかも、最終的に事態を掌握した強硬派と、その一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証報道は、これまで一切行われておらず、中国共産党政府最大のタブーの一つでもある[30] 。 中華人民共和国国防部部長の遅浩田は、1996年にアメリカ合衆国を訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言して[31]、世界各国から反発を受けた。
事件から25年以上が経過した2018年現在でも、当局ぐるみでの事件の隠蔽が行われている。以下に主な当事件への隠蔽行為を挙げる。
- 当事件の名称や当事件の発生日である「6月4日」を金盾によるインターネット検閲対象とした。これにより、香港や澳門を除く中華人民共和国内の検索エンジン(Yahoo!やGoogle、MSNなど)では、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると、接続不可能になる。このことから、当事件を意味する「5月35日(5月31日+4日)」、VIIV(ローマ数字の64)や、「82(=64)」などの隠語を生んだ[32]。
- 国内向けの衛星放送などで海外メディアが天安門事件を報じると突如放送を停止させる[33][34]。
- 外国人カメラマンが6月4日前後に天安門広場を撮影しようとすると、目の前で傘を開いて天安門を写させないようにする[35]。
- 当事件における学生運動の主要メンバーであった劉暁波のノーベル平和賞受賞の際、中国政府は2010年10月下旬以降に、ノルウェーにある欧州各国の大使館に対し、12月10日にオスロ市庁舎にて行われるノーベル平和賞授賞式の式典に参加しないよう求める書簡を送った。書簡では式典当日に劉暁波を支持する声明を発表しないようにも求めた。また、北京においても数カ国の外交官に対して、同様の要請を行った[36]。
また毎年、事件発生日の6月4日前後になると、以下のような当事件への隠蔽行為と思われる当局の対応が行われている。
そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は、事実を殆ど知らない。知っている者でも、暴徒が中国人民解放軍を襲ったための自衛行為という程度で、中には海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者もいた。
当事件の結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望して決別した活動家は多く、石平を始めとした活動家が、中華人民共和国外で活動を続けることになる。なお、その後石平は日本に帰化している。
他の反応
香港の反応
全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主主義的な行為をする中国共産党に対して、抗議デモが起こった。
1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っており、たとえば学校では、小学校なども含んで校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも出た。
同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全会一致で採択。その宣言は中国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、香港がイギリスより中国へ返還、譲渡された後も、同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が、毎年香港島のヴィクトリアパークで開かれ、2007年6月4日には5万5千人の参加者を集めた[39]。2012年6月4日、約18万人の参加者が集めて歴年の記録を破った[40]。
また、結果的に香港人のイギリス・カナダ・オーストラリアなどのイギリス連邦諸国や、アメリカ合衆国などへの移住ブームを本格的に始動させた事件となったが、その後、宗主国のイギリスと中華人民共和国の間で結ばれた「返還後50年間は現状維持」の方針を受けて、「返還」後に中国共産党からの言論の締め付けなどがあるにもかかわらず、かろうじて政治的に安定している香港を評価して、多くの移民が香港に戻った。
だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。この影響で2008年の北京オリンピックの聖火リレーでも中国共産党への抗議活動が起きている。
また事件当日から6日にかけて明報や新晩報などの香港メディアは情報が錯綜したことから、「軍同士の衝突が起きた」、「鄧小平氏の死亡」などの様々な未確認情報を報道した[41]。
西側諸国の反応
民主主義国である西側の政府が次々と、事件における中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。アメリカ、台湾、フランス、西ドイツを含む各国は、武器を持たぬ市民を手当たり次第に大虐殺した蛮行に対して譴責あるいは抗議を発表し、G7 による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止などの外交制裁を実施した。日本も当時の宇野宗佑内閣総理大臣は対中円借款を凍結する一方で外務大臣の三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張[42][43]して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元総理と会談した[44]。総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中国の江沢民からこのサミットでの対応に感謝されている[42]。
天安門に集まる一般市民を最初は非難していたシンガポールのリー・クアンユーは、武器を持たない一般市民の騒動に対しては最低限の治安目的の対応を期待していたため、「今回の中国共産党の対応に衝撃を受けるとともに悲しみを受けた」とニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに応えた[45]。その後、「譴責」や「抗議」を行った国を含めて、ほとんどの国が1990年の日本の海部俊樹総理の訪中と円借款再開(前述の中曽根・鈴木・竹下元総理に制裁解除を迫られていた[46])や1992年の宮沢内閣が行った天皇の中国訪問を契機に時期をおいて中国との外交関係の回復を行ったものの、この事件が中国共産党による一党独裁とその異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる大きな原因の1つとなった。
2007年6月1日にアメリカ国務省副報道官のトム・ケーシーが、「民主化運動(六四天安門事件)に参加した」ことを理由に現在も身柄を拘束されている人々を釈放し、併せて事件の再調査を行うように中国共産党政府に要請した[47]。また、2009年6月3日にアメリカのヒラリー・クリントン国務長官は、中国共産党政府に「過去の事件を検証し、死者や行方不明者についての報告を行うように」と要求し、事件の検証や拘束中の人権活動家を釈放するよう求めた。
一方、スペイン国営放送テレビの「レストレポ」記者[48]は、撮影した映像を証拠に「少なくとも天安門広場内では、人民解放軍による虐殺はなかった」と主張している[49]。
東側各国と一党独裁国、その他の国々の反応
そのほとんどが中華人民共和国と同じく一党独裁国である「鉄のカーテン」の東側諸国にあっては、「ベルリンの壁」において自国国民に対する銃撃を行っていた東ドイツ政府が、公式に中国共産党による武力弾圧を支持した。
その一方で「遺憾の意」を示した国には、「竹のカーテン」であるベトナムのような社会主義国や、タイ王国のような、華僑の多く住む、当時は中華人民共和国と友好的な関係を持っていた国も含まれている。しかし華僑が多く、中華人民共和国と微妙な関係下にあったフィリピンやインドネシアは、事件について直接コメントせず、「(内政のことなので)事件は中華人民共和国と自国とのあらゆる関係に対して、影響を及ぼさない」と発表した。
指名手配された21名の中心人物
中国政府より指名手配されたものは21人。うち、亡命生活を送っているのは14人いる。
- 王丹 - 名簿第1位
- ウーアルカイシ - 名簿第2位
- 劉剛(zh:劉剛 (民運人士)) - 名簿第3位、逮捕、投獄を経て米国に亡命
- 柴玲
- 周鋒鎖(zh:周鋒鎖)
- 翟偉民
- 梁擎暾
- 王正雲
- 鄭旭光
- 馬少方(zh:馬少方)
- 楊濤
- 王治新
- 封從德(zh:封從德)
- 王超華
- 王有才(zh:王有才)
- 張志清
- 張伯笠(zh:張伯笠)
- 張銘
- 熊煒
- 熊焱(zh:熊焱)
劉暁波のノーベル平和賞受賞
2010年10月8日、劉暁波のノーベル平和賞受賞が発表された。ノーベル賞委員会は、劉暁波の受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことで、劉暁波への授与の決定は「有罪確定時の今年2月には不可避の状況になっていた」こと、「選考は全会一致であった」ことなどを発表した[50][51]。劉暁波は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる[52]。
国外への影響
リビアで起こった2011年の騒乱では、カダフィ大佐が「天安門広場では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする[53]」と述べ、反体制派に対する虐殺と民主化の弾圧などを正当化した[54]。それに対し、中華人民共和国外交部は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった[55]。なお、当時の中国はリビアの首都トリポリとカダフィ大佐の故郷スルト[56]やリビアの東西南北[57]を結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱えていた他、中国国内ではアラブの春に影響された中国ジャスミン革命も起きており、中国政府にはカダフィ政権への武器供与疑惑も追及されていた[58]。
2016年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬した共和党のドナルド・トランプ大統領候補が天安門事件の弾圧を肯定するかのような過去の発言[59]をCNNのテレビ討論会で追及を受けて天安門事件を「暴動」と表現した際には「まるで中国共産党の指導者」「中国共産党による抑圧に反対する者への侮辱だ」「アメリカの価値観の敵」であるとして王丹[60]、魏京生[61]やウーアルカイシ[62]ら天安門事件に関係した民主化運動家が抗議を行っている。
脚注
- ↑ Pan, Philip P. (2008). Out of Mao's Shadow: The Struggle for the Soul of a New China. Simon & Schuster. ISBN 978-1416537052.
- ↑ "Keesing's Record of World Events". Volume 35, p. 36587. 1989.
- ↑ 3.0 3.1 Nathan, Andrew J. (January/February 2001). “The Tiananmen Papers”. Foreign Affairs. 2004年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2010年8月13日閲覧.
- ↑ 隔牆有耳: VIIV現天安門 蘋果日報-要聞港聞20090604
- ↑ “今天是5月35日” FT中文网 (FTChinese.com)
- ↑ ジェームズ・R・リリー 2006, p. 289
- ↑ 『趙紫陽 極秘回想録』趙紫陽著(光文社 2010年)
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- ↑ ジェームズ・R・リリー 2006, p. 291
- ↑ 高新『卑微与輝煌 一個「六四」受難者的獄中札記』p.325(台北 91年 聯経出版事業公司)
- ↑ http://www25.big.or.jp/~yabuki/2011-15/2014.06.04.25anniversary.pdf 矢吹晋中国研究室 天安門事件25周年 『情況』2014年9-10月合併号
- ↑ SAPIO(2002/04/10号)特別図解『李鵬[4月来日]の「天安門流血粛清」全手口を暴く/惠谷治』
- ↑ http://www.tsquare.tv/chinese/archives/chailin89528.html 天安门 THE GATE OF HEAVENLY PEACE
- ↑ http://news.boxun.com/news/gb/pubvp/2009/06/200906151216.shtml 柴玲起诉卡玛,是不是“恶意诉讼”?/茉莉 博讯北京时间2009年6月15日 来稿
- ↑ https://www.youtube.com/watch?v=27T63QNLpqg 1989柴玲: 我們期待的就是流血 (內附20年後在美國做貴婦的柴玲)
- ↑ https://www.nakanihon.ac.jp/nacinfo/college/ronso/pdf/nac_ronso_032-09.pdf 中日本自動車短期大学 「論叢」32号 天安門事件の証言者は語る 事件当日、広場に最後までいた候徳健氏に聞く
- ↑ 1989年6月5日にアメリカのカメラマン、ジェフ・ワイドナー (The Associated Press) により撮影された写真。
- ↑ 38軍、27軍、63軍は幽霊部隊ではなかった(2013年7月31日時点のアーカイブ)によれば、写真集『北京風波真相』(香港広角鏡出版社 90年2月)の75頁に掲載された写真で、戒厳部隊として配備された、第24, 27, 38, 39, 65各軍の北京市内配置状況説明図を前に、当時の北京軍区司令員周衣冰中将が李鵬首相に向かって説明を行っている。
- ↑ AFP通信:天安門事件関連の米公文書を公開、「兵士が笑いながら発砲」
- ↑ National Security Archive Electronic Briefing Book No. 473 Tiananmen at 25 Years
- ↑ National Security Archive Electronic Briefing Book No. 473 Tiananmen at 25 Years Document9
- ↑ 『中国共産党に消された人々』(相馬勝・小学館 2002年)30ページ
- ↑ ジェームズ・R・リリー 2006, p. 313
- ↑ “天安門事件新事実 兵士の怒りを煽り、学生を虐殺=ウィキリークス”. 大紀元. (2011年9月29日)
- ↑ Berlinski, Claire, "A Hidden History of Evil", City Journal, Spring 2010.
- ↑ 犠牲者は最大3000人=天安門事件で英推計-香港紙 時事通信社(2017年12月26日)2017年12月26日閲覧
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- ↑ 天安門事件20年で厳戒態勢 NHKニュース 2009年6月4日付
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- ↑ 中国の天安門広場に傘を持った謎の男たちが出現、報道陣の取材を一斉に妨害 - GIGAZINE
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- ↑ “トランプ氏の天安門事件「暴動」発言 謝罪求める声”. NHK. (2016年3月13日). オリジナルの2016年3月13日時点によるアーカイブ。 . 2016年03月13日閲覧.
- ↑ “Tiananmen dissident Wuer Kaixi condemns Trump as an enemy of American values”. サウスチャイナ・モーニング・ポスト. (2016年3月15日) . 2016年03月14日閲覧.
参考文献
- 石平 『中国大逆流 絶望の「天安門20年」と戦慄の未来像』 ベストセラーズ、2009-06-04。ISBN 978-4-584-13162-6。
- 宗鳳鳴 『趙紫陽 中国共産党への遺言と「軟禁」15年余』 高岡正展訳、ビジネス社、2008-08-05。ISBN 978-4-8284-1441-6。
- Zhang Liang (January 2001). The Tiananmen Papers. PublicAffairs. ISBN 978-1-58648-122-3.
- ジェームズ・R・リリー 『チャイナハンズ―― 元駐中米国大使の回想1916~1991』 西倉一喜 訳、草思社、2006-03-10。ISBN 4-7942-1427-8。
関連項目
- 戒厳令
- ジェフ・ワイドナー - 無名の反逆者 (Tank Man) を撮影した AP通信のカメラマン
- 趙紫陽
- リー・クアンユー
- 弾圧
- 中国人民解放軍
- 中国民主化運動
- 天安門文書
- 無名の反逆者 (Tank Man)
- 蔡衍明
- 劉暁波
- 水上勉 - 事件当時、北京飯店に宿泊していて一部始終を目撃した。著書『心筋梗塞の前後』に記述あり。
- 天安門の母(en:Tiananmen Mothers) - 事件で殺害された大学生たちの母親らでつくる遺族組織。
- 丁子霖 - 天安門の母の創設者。
- 日本解放第二期工作要綱
外部リンク
- 天安門事件(執筆者:中嶋嶺雄) - Yahoo!百科事典(2013年6月25日時点のアーカイブ)
- THE TIANANMEN PAPERS - 英文。『天安門文書』の原著。
- 関連写真集 - 英文。残虐なものがあるので注意。
- 関連動画集 - 残虐なものがあるので注意。
- 天安門事件 武力鎮圧(1989年) - NHKアーカイブス
- BBC新闻档案节选:六四清场报道 - YouTube BBC News 中文
座標: 東経116度23分30秒北緯39.90333度 東経116.39167度