江沢民
江沢民 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 江澤民 |
簡体字: | 江泽民 |
拼音: | Jiāng Zémín |
和名表記: | こう たくみん |
発音転記: | チャン・ツェーミン |
ラテン字: | Chiang1 Tze2-min2 |
- テンプレート:中華人民共和国
江 沢民(こう たくみん、ジャン・ツォミン、1926年8月17日 - )は、中国の政治家。鄧小平引退後の中国の最高指導者で、中国共産党総書記、中国共産党中央軍事委員会主席、国家主席、国家中央軍事委員会主席を務めた。
Contents
経歴
テクノクラート
江蘇省揚州市に生まれる。江沢民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関ジェスフィールド76号に協力をしていた[1]。叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争に地元匪賊に殺害された[2]。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠すためと考えられている[3]。
1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、日本語を専攻する[1]。日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業した。江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。1946年4月、中国共産党に入党。このときの江は、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。
上海交通大学卒業後、上海市で食品工場や石鹸工場のエンジニアとして働く。中華人民共和国建国後の1953年、第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長となる。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移る。後に江沢民政権下の国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清とは長春第一汽車製造廠時代の同僚である。1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受ける。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任。1962年、上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。1966年、第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。
1970年、北京に移り、第一機械工業部外事局副局長に任命される。翌1971年、ルーマニアのチャウシェスク政権との友好関係推進のため、同国での機械工場建設プロジェクトに対して中国から視察団が派遣されることになり、江はその団長として1年間同国に滞在する。帰国後、第一機械工業部外事局長に就任。1980年8月、国家輸出入管理委員会副主任(次官)兼秘書長となり、翌月には国家外国投資管理委員会副主任兼秘書長も兼務して、貿易・外国投資に関する業務を担当した。
1982年5月、新設された電子工業部の第一副部長(副大臣級)に任命される。同年9月、第12回党大会において中央委員に選出。翌1983年6月、電子工業部部長(大臣)に就任する。
上海市長・党委書記
1985年、上海市の実力者で、かつて江沢民を第一機械工業部に引き上げた汪道涵の推挙により、上海市長に転出。1987年11月、第13期党中央委員会第1回全体会議(第13期1中全会)において中央政治局委員兼上海市党委員会書記に昇進する。翌月に上海で発生した学生の民主化要求運動に対しては、学生と直接対話し説得した。
党総書記・国家主席
1989年4月、胡耀邦(1987年、保守派により党総書記を解任)が死去したことを契機に民主化運動が高まっていった。しかし、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定、共産党の機関紙である『人民日報』は4月26日付社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を発表した。当時の江沢民は、趙紫陽総書記ら民主派と、李鵬国務院総理(首相)ら保守派との中間的存在であったが[4]、江はこの社説にいち早く対応し、胡耀邦追悼の座談会を報じた『世界経済導報』を停刊処分とした。この江の行動が陳雲や李先念といった保守派長老の目に留まり、民主化運動に理解を示していた趙紫陽の後任候補として江を推す声が高まっていった[5]。6月4日、第二次天安門事件が発生。その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。
さらに同年11月の第13期5中全会において、鄧小平から党中央軍事委員会主席の地位を継承し、翌1990年4月の第7期全人代第3回会議において国家中央軍事委員会主席に就任する[6]。中華人民共和国は中国共産党を中心とするヘゲモニー政党制であり、執政党(指導政党)である中国共産党が国家機構を領導(上下関係を前提とした指導)し、その権力は党の軍隊である中国人民解放軍に担保されている。そのため江沢民以前は、国家主席や総書記ですら就任する人物によってはソビエト連邦の最高会議幹部会議長のように半ば名誉職と化していた一方で、党中央軍事委員会主席の鄧小平が最高実力者であるなど、地位と実権が必ずしも一致しなかった[7]。しかし、江沢民が1993年3月に国家主席に就任して以来、最高指導者が総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化するようになっている。
総書記就任後は鄧小平の後継者として改革開放政策を概ね継承し、共産党の独裁体制を維持しつつ経済発展を推進した。1992年10月の第14回党大会で自らを中心とする指導体制を確立し、最高指導者としての地位を確実なものとした江沢民は、同大会において「社会主義市場経済」の導入を決定、事実上自由主義経済に舵を切った。2001年11月には中国の世界貿易機関への加盟を実現し、外資の導入と世界経済のグローバリゼーション化の動きに適応した輸出の強化を図る一種の開発独裁で「世界の工場」とまで呼ばれる世界最大の製造・貿易大国[8][9][10][11]へと中国を変貌させる基礎を築く。その結果、総書記就任直後の1990年の中華人民共和国のGDP(国内総生産)が3888億ドルだったのに対し、2000年のGDPが1兆71億ドルになるなど、1990年から2004年にかけて平均約10%近くの世界最高の経済成長率を記録して中国の高度経済成長は進展し、中国を実質的に資本主義国化させていった(国家資本主義)。共産党の執行部は自らと同じエンジニア出身者を中心とし、中央指導部[12]から地方の省長・市長[13]までエンジニア出身者が多く占める脱イデオロギー的なテクノクラシー体制を確立した。また、1997年7月には香港、1999年12月には澳門の中国への返還も実現させ、列強の植民地化によって長らく分裂してきた大陸を事実上初めて統一した。現代中国史の研究者である天児慧は江沢民を「大国化する中国の建設に貢献した」と評する[14]。
江沢民の任期から中華人民共和国は大国意識を剥き出しにした外交政策が目立つようになり、台湾の李登輝総統は当初国家統一委員会と海峡交流基金会の設置や対中直接投資の解禁を打ち出すなど対中穏健路線を掲げて江沢民も腹心の曽慶紅や汪道涵らを通じて接触するも、1995年に一つの中国原則で妥協しない江沢民側の提案(江八点)に対して李登輝側が武力行使放棄などを訴えたこと(李六条、李六点)で決裂し、1996年の1996年中華民国総統選挙で台湾の民主化を警戒して台湾海峡にミサイルを撃ち込んでアメリカ軍の緊急展開を招くなど「文攻武嚇」(李登輝を批判し、武力を以て威嚇する路線[15])で情勢を緊迫させた。その一方で台湾が康定級フリゲートを購入しようとした際はフランス軍需産業と当時の台湾の国民党政権から不正な献金を受けて黙認したと後の台湾の陳水扁総統はその汚職体質を指摘している[16]。なお、陳自身も江の息子である江綿恒とその共同事業者である台湾の大富豪王永慶の長男・王文洋から資金援助されていたと元立法委員の秦慧珠は主張している[17]。他にも同年にCTBT採択直前に駆け込みでジャック・シラク大統領のフランスとともに核実験を強行し、世界中から非難された。1999年の国慶節では15年ぶりに軍事パレードを挙行し、軍事力を誇示した。また、江が推進した経済発展は、国民の貧富の格差や都市と地方農村の地域格差といった格差社会、汚職の蔓延、そして環境破壊による公害などの負の遺産も残した。
このような中で、江は2002年11月、自身の任期で最後となる第16回党大会を主宰し、自ら提唱した「3つの代表」理論(中国共産党は先進的生産力・先進的文化・最も広範な人民の利益を代表する)を党の指導思想として党規約に追加した。「3つの代表」理論を掲げて私営企業主へも門戸を開いた中国共産党は、この党大会より階級政党から国民政党への転換を始めた[18]。しかし、「3つの代表」理論については保守派から批判が出され[19]、「江は『3つの代表』理論を党規約化することで自身を毛沢東・鄧小平と同格に位置づけようとしている」と江に反発する意見も強かった。ともあれ、「3つの代表」理論を党の指導思想とした江沢民は、この党大会で総書記・政治局常務委員を退任し、2003年3月、第10期全国人民代表大会第1回会議で国家主席も退任した。その後、2004年3月の第10期全人代第2回会議において憲法が改正された際に、「3つの代表」理論は「マルクス・レーニン主義」・「毛沢東思想」・「鄧小平理論」とともに国家理念として憲法前文に追加された。
江は総書記在任中、上海市長・党委書記時代の部下を次々と中央に引き上げ、枢要な地位に就けて「上海閥」を形成し、その総帥として政界に君臨した。総書記退任後も党中央軍事委員会主席に留任した江は、党の最高指導部である政治局常務委員の過半数を自派閥で固め、曽慶紅らを通じて後継の胡錦濤指導部に影響力を発揮していた。しかし、2006年に江の地盤である上海市の幹部(党委書記の陳良宇など)が汚職で根こそぎ摘発され、「上海閥」は大打撃を受けた。その結果、江沢民派の官僚はかなり減少し、胡錦濤が権力の掌握を確実なものとしていった。
引退後
2004年9月に党中央軍事委員会主席を、2005年3月に国家軍事委員会主席を退いて一党員となったが、2007年11月の第17回党大会に出席した際にその席次が党総書記の胡錦濤に次ぐ第2位であるなど、依然として「党と国家の指導者」として遇されている。これは1990年代に鄧小平や陳雲らが受けた待遇に近い。また、2008年の旧正月には上海市党委書記と市長を伴って公式の場に現れ、健在振りを誇示した。北京オリンピックの開会式では胡錦涛夫妻の左隣に並んで出席した[20]。
2010年5月1日より上海万博が開催された。地元での万博開催は江沢民にとっても悲願であったが、4月30日に挙行された開会式には江沢民派の韓正上海市長が出席し、江の姿はなかった。このことが健康不安説や、上海閥の領袖として長きに渡り中国政界に君臨していたが、遂に胡錦濤派(共青団派)に完全に権力を握られたなど、様々な憶測を呼んだ[21]。同年12月には上海で開催された京劇俳優による歌唱大会を鑑賞したことが報道され、健在ぶりを示したが[22]、2011年4月に急病で入院。一時は意識を失うまで容態は悪化した。7月1日に開催された中国共産党創建90周年記念祝賀大会には欠席し、再び健康不安説が表沙汰になった[23]。その後まもなく香港や日本の一部マスメディアが死亡説を報じたが、実際には自宅療養しており[24]、8月ごろから回復。10月9日に人民大会堂で開催された辛亥革命100周年記念式典では、歩行に介助が必要ではあったものの出席を果たし、死亡説を払拭した[25][26]。
2015年9月3日の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では党総書記である習近平の左隣に胡錦濤とともに並んで健在ぶりをアピールした[27]。
2017年10月18日の中国共産党第十九回全国代表大会では党総書記である習近平の両脇に胡錦濤とともに並んで党の団結をアピールした[28]。
外交政策
対欧米関係
欧米では、江沢民は中華人民共和国の経済発展や外交の改善に貢献したとして、「中国を変えた男」と肯定的に評価されている。とくに、アメリカ合衆国との関係においては緊密な関係を築き、大統領であるビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュとも複数回にわたって会い、一緒にレジャーを過ごした事もある。ブッシュの叔父で米中商工会議所議長を務めたプレスコット・ブッシュ・ジュニアと江沢民は長年の友人[29]であるなどブッシュ家とは密接な関係を持ち、江綿恒は王文洋とともにブッシュの弟で親中家[30]でもあるニール・ブッシュと中国で会社を共同経営していた[31]。1997年10月に訪米した際、江沢民とクリントンは両国関係を初めて「戦略的建設的パートナー」と表現して米中協調の枠組み作りを本格化させ、当時のクリントン政権には「チャイナゲート」と呼ばれる中国政府から選挙資金を得た疑惑からの批判もあった[32]。その後はコソボ紛争などを巡って米中関係は緊張し、クリントンの後任に中国を「戦略的競争相手」と位置付けるブッシュが就任した直後に南シナ海で海南島事件が起きたこともあって中国とアメリカの亀裂は決定的とする見方もあった。
ところが2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生すると、江はこの事件を契機にアメリカとの協調関係の再構築に乗り出した。中国は真っ先にアメリカに対して哀悼の意を表するとともにテロリズムに共同で立ち向かうことを宣言し、翌月に上海で開催されたAPEC首脳会議で江はブッシュが唱える「テロとの戦い」を全面的に支持した。アメリカ軍がタリバーン打倒した後のアフガニスタン復興に1億5000万米ドルもの資金を援助し、対テロ戦争を支える国連決議にも賛成して有志連合を支持した[33]。これらの中国の動向を受けて、ブッシュは中国を「責任ある利害共有者」とし、台湾独立についても支持しないことを明確にするなど、中国とアメリカの接近が深まった。また、当時のアメリカ合衆国労働長官イレーン・チャオの父親は江と同級生でもあり、ブッシュ政権でアメリカ合衆国財務長官を務めたヘンリー・ポールソンと江は親交があった。なお、国家主席による首脳外交というスタイルが確立したのは江の代からである。一方で、イラク戦争には反対するなど一極化する米国の単独行動主義は牽制し、中国大使館への誤爆も起きたコソボ紛争などからのNATOの東方拡大にともに反発するロシアのプーチン政権とは中露善隣友好協力条約を結び、米軍基地問題を抱える中央アジアなども引き入れて上海協力機構を事実上の対抗軸として上海で組織した。
欧米諸国では人権問題の観点から江沢民の政策を批判する者もいる。江沢民指導部は反政府活動を行う法輪功を弾圧したが、これに対してアルゼンチンやオランダ、スペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起訴する動きがあった[34][35][36]。アルゼンチンにおいては2009年に逮捕状が出ている。 2013年11月19日、スペインの全国管区裁判所は80年代から90年代にかけて行われたとされるチベット人への「集団殺害」容疑で江沢民や李鵬ら5人に逮捕状を出したことを発表[37]。中国政府はこれに強く反発した[38]。その後スペインは国内法を改正し、それに伴い訴追は却下された[39]。
対越関係
中越戦争以来初めて訪中したベトナム指導者のグエン・ヴァン・リンらと会談して国境の非武装化や捕虜交換など国交正常化を進めることで合意した[40]。ベトナムからの中越戦争での謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵攻によるものだ」として、謝罪はしていない。2002年2月末にベトナムを訪問した際、ベトナム側首脳に対し「もう過去のことは忘れよう」と主張し、中越戦争のことを教科書から削除するよう求めた[41][42]。
対韓関係
朝鮮戦争以来敵対し、台湾と国交を持っていたアジア最後の国である大韓民国と1992年8月に国交正常化した[43]。同年9月29日に当時の盧泰愚大統領は中国を訪問した。盧泰愚の前任の全斗煥大統領も日本政府に対して中国の胡耀邦に韓国の国家承認を働きかけるよう要請し[44][45]、全斗煥の前任の朴正煕大統領も日本の財界の後押しで鄧小平と接触[46]するも何れも国交樹立には成功せず、中国が江沢民政権となってから中韓は急速に接近した。その後任の金泳三大統領も1994年に中国を訪問して江沢民と会談し、1995年11月13日には江沢民は中国の指導者としては初めて韓国を訪問した。1998年には金大中大統領は江沢民と「中韓協力パートナーシップ」構築で合意した[47]。
1990年3月に江沢民は北朝鮮を訪問した際に金日成国家主席に対して韓国との通商代表部設置を遅らせることは難しいと述べ[48]、1991年10月に金日成主席は生涯最後の外遊で訪中して中韓国交正常化の見送りを要請するも江沢民ら中国指導部は北朝鮮核問題の解決を求めた[48]。1992年7月に銭其琛外交部長は訪朝して江沢民の中韓国交正常化の意向を金日成主席に伝えた際は恒例の宴会も開かれず、中朝関係は冷却化した[48]。2000年に鄧小平と犬猿の仲[49]だったとされる金正日が朝鮮労働党総書記就任後の初外遊で17年ぶりに訪中した際はその後に行われた初の南北首脳会談を調整したとされ[50]、南北等距離外交を基本とした。また、2001年に金正日が再び訪中した際はこれに同行した金正日の長男の金正男は江沢民の長男である江綿恒と会談して中国の太子党と親密になったとされる[51][52]。
対日関係
天安門事件直後の1989年6月21日、日本政府は第3次円借款の見合わせを通告し、フランスなどもこれに応じた。7月の先進国首脳会議(アルシュ・サミット)でも中国の民主化弾圧を非難し、世界銀行の中国に対する新規融資の延期に同意する政治宣言が発表された。ただし、当時の日本の宇野宗佑首相はアルシュ・サミット前に対中制裁反対派及び慎重派[53]の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相と会談し、サミットでは「中国を孤立させるべきではない」と主張[54][55]して宣言に盛り込ませたことで他の西側諸国と距離感が目立った。
江沢民は、総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にこのことへの感謝を述べた[54]。円借款自体は1991年8月に宇野の後任である海部俊樹首相の訪中によって再開されたものの、中国には天安門事件のイメージを国際社会から払拭する必要があった。
そのために江沢民は1992年4月6日に田中角栄への見舞いも兼ねて訪日した際に天皇を中国に招待、同年10月に今上天皇・皇后は中国を訪問することになる[56]。天皇訪中は日中関係史で歴史的な出来事だったが、1988年から10年間外交部長(外務大臣)として、1993年から2003年まで国務院副総理として15年間、江沢民時代の外交を支えた銭其琛は回顧録で天皇訪中は西側諸国の対中制裁の突破口という側面(用日)もあったと明かしている[57]。
江沢民政権は1994年に「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「抗日戦争勝利50周年」にあたる1995年から、徹底した反日教育を推進していった。同年9月3日に北京で開催された「首都各界による抗日戦争記念ならびに世界反ファシスト戦争勝利50周年大会」で江は演説し、日中戦争の被害者数をそれまでの軍民死亡2100万(抗日勝利40周年の1985年に中国共産党が発表した数値)から死傷者数を含めた上で3500万とした[58]。
1998年8月には、「日本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなくてはならない」と外国に駐在する特命全権大使など外交当局者を集めた会議で指示を出した[59]。江沢民の対日政策によって中国では反日感情が高まり、同時に日本でも嫌中意識が強まっていった。
1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初めて日本を訪れた。この訪日で江は「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言して、日本の歴史教育を激しく非難した。当時の日本の小渕恵三首相に韓国大統領の金大中が10月に訪日した際の日韓共同宣言の「痛切な反省と心からのお詫び」と同様の記述を日中共同宣言に明記するよう要求し、その執拗さから日本国民の反発を買った[60][61]。訪日中の11月26日に行われた今上天皇主催の豊明殿での宮中晩餐会では、答礼のスピーチについて中華人民共和国外交部は歴史問題に踏み込まない草稿を準備していたが、晩餐会直前に江沢民の意向で内容が差し替えられ、晩餐会の席上で過去の歴史について遠慮のない日本批判を行った[62]。また、江の回顧録では、この宮中晩餐会で、同席した三笠宮崇仁親王から「今に至るまでなお深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」との発言があったとしている[63][64]。なお、江は中国共産党の礼服である中山服(人民服)を着用して宮中晩餐会に出席したが、これが非礼ではないかとの批判[65]もある。この中山服着用の件について中国側は、「式服か民族服を着用するように外務省から要望があったために、中山服を民族服として選んだ」としている。
また、この訪日の際に講演をおこなった早稲田大学からの名誉博士号の授与を拒否している。これは、同大学の創立者・大隈重信が首相時代に対華21か条要求を出したためともされている[66]。
一方で、魯迅が留学していた仙台市を訪問した際には、魯迅が学んだ東北大学の教室で記念撮影をしたり、日中友好を願った直筆の漢詩を送るなど終始友好的なムードが保たれた[67][68]
この訪日に先立つ1997年10月、江沢民はアメリカ合衆国を訪問。ハワイ真珠湾へ立ち寄って戦艦アリゾナ記念館に献花を行い[69]、ここで日本の中国(当時の中国大陸は中華民国の中国国民党政府の統治下であった)「侵略」と真珠湾攻撃を批判した。これについては、「歴史問題を通じてのアメリカへの接近、ひいては日米離間を狙った演説だった」とする見方[70][71]もある。
日本の首相による靖国神社参拝には断固反対の立場をとった[72]。江沢民と後任の胡錦濤は、靖国神社を毎年参拝した小泉純一郎首相とは極力首脳会談を行わなかった。
家族
1949年12月に結婚した王冶坪との間に二人の子息を儲けた。長男の江綿恒は中国科学院副院長(2015年1月まで)、上海科技大学の学長職を務める[73]。
年譜
- 1937年 - 揚州中学入学。
- 1943年 - 南京中央大学入学。
- 1945年10月 - 上海交通大学に転籍。
- 1946年4月 - 中国共産党に入党
- 1982年9月 - 第12回党大会で、中央委員に選出。
- 1983年6月 - 電子工業部長(大臣)に就任。
- 1985年6月 - 上海市党委員会副書記に就任。
- 1985年7月 - 上海市長に就任。
- 1987年11月 - 第13期1中全会で、中央政治局委員・上海市党委書記に選出。
- 1988年4月 - 上海市長を退任。
- 1989年6月 - 第13期4中全会で、中国共産党中央委員会総書記・中央政治局常務委員に選出。
- 1989年11月 - 第13期5中全会で、中国共産党中央軍事委員会主席に選出。
- 1990年3月 - 第7期全国人民代表大会第3回会議で、中華人民共和国中央軍事委員会主席に選出。
- 1992年4月 - 中国共産党中央委員会総書記として初めて日本を訪れる。
- 1993年3月 - 第8期全人代第1回会議で、中華人民共和国主席に選出。
- 1998年11月 - 中国国家主席として初めて日本を訪れる(国賓)。
- 2000年2月 - 共産党の政権奪取によって階級闘争は終了したとして、永続的な階級闘争を否定する「3つの代表」思想を提起。
- 2002年11月 - 第16期1中全会で、党総書記・政治局常務委員を退任。
- 2003年3月 - 第10期全人代第1回会議で、国家主席を退任。
- 2004年9月 - 第16期4中全会で、党中央軍事委員会主席を辞任。
- 2005年3月 - 第10期全人代第3回会議で、国家中央軍事委員会主席を辞任。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 宮崎正弘『出身地でわかる中国人』(PHP研究所、2006年)、91ページ。
- ↑ 矢吹晋『中国の権力システム ポスト江沢民のパワーゲーム』(平凡社〈平凡社新書〉、2000年)。なお、この著書の内容は著者のウェブサイト「矢吹晋中国研究室[1]」でも閲覧できる[2](2010年9月5日閲覧)。
- ↑ 矢吹晋『激辛書評で知る 中国の政治・経済の虚実』(日経BP社、2007年)、74ページ。
- ↑ 池上彰『そうだったのか!中国』(集英社、2007年)、184ページ。
- ↑ 矢吹晋『鄧小平』(講談社〈講談社現代新書〉、1993年)は、1989年5月末の段階で江沢民が総書記に内定していたとする。
- ↑ 中華人民共和国全国人民代表大会公告第一号 (中国語)
- ↑ 鄧小平は1987年に政治局常務委員を辞任したが、軍の統帥権者である党中央軍事委員会主席の地位には留まった。さらに、第13期1中全会において、重要問題については引き続き鄧小平の指導を受けるという決議がなされた(この決議は秘密とされていたが、第二次天安門事件直前の1989年5月にソビエト連邦最高会議議長兼共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにした)。鄧小平は1989年に党中央軍事委員会主席の地位を江沢民に譲り、無位無官の身となったが、第13期1中全会の決議により、事実上の最高実力者として江沢民政権に影響力を発揮していた。なお、1994年9月の第14期4中全会において、中央指導体制の第2世代(鄧小平を中心とする世代)から第3世代(江沢民を中心とする世代)への移行が完了したとする公式声明が発表され、これにより鄧小平は政治指導から全て退くこととなった。
- ↑ “中国が米国を上回り世界一の製造大国に、インドネシアも10強入り―国連”. Record China. (2016年4月25日) . 2017閲覧.
- ↑ “中国、米国抜き世界最大の製造国に”. 人民網. (2011年3月15日) . 2017閲覧.
- ↑ “中国は米国に代わり世界一の製造国に”. 人民網. (2013年9月5日) . 2017閲覧.
- ↑ “中国、世界一の貿易国に”. 日本経済新聞. (2014年3月2日) . 2017閲覧.
- ↑ 岩田勝雄「新執行部体制下の中国の課題 Ⅰ」立命館大学、2003年5月。
- ↑ “なぜ中国の指導者はエンジニアリングの学位を持ち、アメリカの指導者は法律の学位を持っているのか?”. GIGAZINE. (2016年3月1日) . 2016閲覧.
- ↑ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、393ページ。
- ↑ “台湾はいつまで現状を保てるか——習近平ですら描けない統一への道筋”. ビジネスインサイダー. (2017年10月25日) . 2018閲覧.
- ↑ “台湾軍艦購入事件で、江沢民氏など中国高官8人に買収資金流出”. 大紀元 (2005年12月1日). . 2017閲覧.
- ↑ 秦慧珠著『不可能的接触 扁江通訊実録』狼角社 2001年
- ↑ 天児慧、前掲書、353ページ。毛里和子『新版 現代中国政治』(名古屋大学出版会、2004年)、84 - 86ページ。
- ↑ 第16回党大会に先立つ2001年、江が中国共産党創立80周年を記念する講話で「3つの代表」理論を初めて打ち出した際、保守派のイデオローグであった鄧力群らは「階級性こそ党の基本的属性であり、私営企業主の入党は党規約違反である」と批判し、江を「党大会や中央委員会に諮らず重大問題を個人で発表したことは、重大な党規約違反である」と弾劾した。
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- ↑ 2006年8月に発売された『江沢民文選』による。「『歴史問題、永遠に言い続けよ』江沢民氏、会議で指示」『読売新聞』2006年8月19日付記事。
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- ↑ 2006年8月10日東京新聞朝刊12版3頁「日中戦争-三笠宮さまが謝罪の意」
- ↑ 「戦後皇室の歩み体現 三笠宮さまをしのぶ 皇室担当特別嘱託・岩井克己」『朝日新聞』2016年10月28日
- ↑ 「日本中に『江沢民石碑』を建てる『二階俊博』はどこの国の政治家か!」(『週刊新潮』2003年2月13日号)における田久保忠衛の発言など。
- ↑ 徐勝「『韓日新時代』論考-金大中政権の対日政策」(『立命館法学』267号、1999年)。
- ↑ 魯迅特集 - 東北大学 まなびの杜
- ↑ 魯迅特集2 - 東北大学 まなびの杜
- ↑ “On First Stop of U.S. Trip, Jiang Visits Pearl Harbor”. ニューヨーク・タイムズ (1997年10月27日). . 2011閲覧.
- ↑ “The View from Tokyo-- Jiang's Visit Ends America's Cold War Alliance with Japan”. pacificnews.org (1997年10月31日). . 2011閲覧.
- ↑ 入江通雅「日本を悪者にし米中提携へ」(『世界日報』1997年10月28日付記事、2011年5月7日閲覧)、林志行「アジア総括と展望(1997 - 98)前編 -大中華経済圏の動向-」(『Business & Economic Review』、日本総合研究所、1998年1月号)、「日本は『脱亜入欧』『奪亜入欧』『通米入亜』、韓国は『脱米入中』、中国・胡主席の訪米は『脱倭入米』か」『日本経済新聞』2006年4月16日付記事。
- ↑ “靖国参拝は有害と批判 江主席が川口外相に表明”. 共同通信社. 47NEWS. (2002年9月8日) . 2015閲覧.
- ↑ “江元主席の長男退任 影響力低下と関係か”. 産経新聞社. (2015年1月9日) . 2015閲覧.
参照文献
報道資料
- 『読売新聞』2013年11月21日東京朝刊
外部リンク
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