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南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。
略史
平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁、 源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の嫡子義家の弟の源義光の孫である清光の子孫は甲斐源氏と称されて武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、さらに南部氏、秋山氏、小笠原氏などが別れている。
奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された[1]。
光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人であるが、「秋山系図」(『続群書類従』)は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」とし、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名は、将軍の供奉を務める御家人でかつ北条時頼の側近として、しばしば『吾妻鏡』にあらわれる。[1]
文治 5年(1189年)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は陸奥国糠部五郡の土地を給され[2]、建久 2年(1191年)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられているが、拝領を支証するものはない[3]。
南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。
南部光行 | ─ | ┌ | 行朝 | 一戸氏の祖 | |||
├ | 実光 | 三戸南部氏(宗家)の祖 | |||||
├ | 実長 | 根城南部氏の祖 | |||||
├ | 朝清 | 七戸・久慈氏の祖 | |||||
├ | 宗朝 | 四戸氏の祖 | |||||
└ | 行連 | 九戸氏の祖 |
南部宗家は三戸南部氏であり、南部光行の嫡子・実光の子孫である。後の八戸南部氏の祖となる波木井実長は弟であり、二代実継・三代長継のあと、宗家三代時実の子政行の次男師行が長継の娘婿となって波木井家を継いだとされるが、実継・長継の名は波木井南部家一族の名を記した同時代史料には見えない。八戸(遠野)南部家文書には鎌倉時代の波木井領に関する文書は存在せず、八戸南部氏が波木井家の子孫とする「八戸家系」は、享保4年(1719年)信有の時代において八戸家と身延山久遠寺との交渉を通じ遠野南部家文書の中に入った。
鎌倉時代
源義光の玄孫の光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住んでいたことから南部氏と称したが、平安時代末期の奥州合戦の頃に奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したという。また『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219年)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。
初代・光行の奥羽入部の日が12月30日で、正月への準備不足のため、やむなく12月を特に大の月として1日延ばし、正月2日をもって元旦としたという故事に由来する「南部の私大(わたくしだい)」が入部以来の伝統行事であったが、南部重直の代に不合理だとして正規の元旦に戻した[4]。 光行には6人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光は後の宗家三戸南部氏の祖となり、三男の実長は波木井南部氏や根城南部氏の祖となり、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖、にそれぞれなった。 なお、光行の兄・小笠原長清は巨摩郡小笠原荘に住み、小笠原氏の祖となっている。
『吾妻鏡』によると、光行、実光、南部時実の三代が将軍家随兵として記されているが、弘文元年(1261年)および同 3年の実光、時実は北条時頼の御内人扱いであった。これは本領の南部領が得宗領の駿河国富士郡と隣接し、また宝治合戦(三浦氏の乱)後に、糠部郡総地頭職が得宗領となったことによるものであった。
鎌倉時代末期
鎌倉幕府と討幕側となった南部氏一族
鎌倉時代末期には、南部氏一族は幕府側と討幕側に分かれた。鎌倉幕府打倒未遂事件の1つの「元弘の乱」が起きた1331年(元弘)元年には、波木井南部氏の家祖・南部実長の子、二代目実継は護良親王・尊良親王両親王とともに河内の赤坂城で戦うが親王とともに捕らえられ、実継は京の六条河原で最初に斬首されている。新田義貞の鎌倉攻めでは、三戸南部氏の南部右馬頭茂時や南部孫二郎[5]、南部太郎[6]らは鎌倉幕府についた。だが、甲斐南部氏の南部義行の嫡子、義重[7]や、南部時長・奥州の南部政長らは倒幕軍の新田氏の軍勢と鎌倉に向かい、時長は北条一門伊具土佐孫七を討ち取る等武名を挙げている。鎌倉幕府の滅亡の際に、南部氏宗家は2代・実光の頃から南部長継までに、南部師行の父、南部政行が工藤氏に入るなどして、鎌倉幕府の命で奥州に地盤を張っていた同族を頼り、奥州に向かった[8][9]。
建武の新政時代
建武の新政とこれに離反した足利氏にそれぞれ合流した南部氏
波木井南部氏の奥州の勤王勢力は甲斐を本拠に奥州の糠部で鎮守府将軍の北畠顕家、北畠顕信に従い活躍した。鎌倉幕府が崩壊して後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると元弘3年(1334年)8月、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、南部師行は伊達行朝・結城宗広・葛西貞清らと共に奥羽に下向する。
元弘(1335年)4年7月、京から下向、北条時行が主導した中先代の乱を8月に平定した足利高氏が鎌倉に入ると、護良親王はすでに足利直義に殺害されていた。高氏は自ら征夷大将軍を名乗り、建武政権から与えられた新田氏の所領を乱の平定の恩賞にするなどして、新田氏と足利氏の対立が始まる。[10]
建武2年(1335年)11月8日、宣旨を受けた義貞は節度使として刀を賜り、軍勢は足利尊氏の討伐に京を発った。[11]南部氏一族の分裂はさらに続き、11月の矢作川の戦い[12]から伊勢南部氏が従う直義軍は、義重が参陣する尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃ったが敗れた。賊軍となることを恐れていた尊氏の箱根・竹ノ下の戦いへの出陣で追討軍を破った足利氏の軍勢は京に向かうが、これを聞いた後醍醐帝は供奉の者と比叡山に入り、奥州からの軍勢を待った。山崎の合戦などで足利勢を迎えうった新田氏らの軍勢が破れると、尊氏ら足利氏の軍勢は京都に入った。
―奥州軍の1度目の西上―
前年11月に綸旨を受けて、義良親王を奉じた奥州の北畠顕家の軍勢[13]は、途中、鎌倉の足利の軍勢を破り、建武3年1月12日に5万騎が東坂本着き、新田氏の軍勢4万5千騎や楠木正成の軍勢と合流した。足利氏に組した三井寺の戦いを制した、義貞・顕家・正成の軍勢は2月6日、豊島河原の戦いも制すと、足利勢は味方についた300艘余りの船で九州に向かった[14]。
元弘3年(1336年)1月、九州に落ち延びた尊氏の軍勢は、多々良浜の戦いの後、建武政権に不満の九州などの武士を集め、京を目指し東上を開始した。後醍醐天皇は建武3年(1336年)1月、供奉の者らの者と再び比叡山へ入った。同年、5月25日、湊川の戦いに敗れた義貞の軍勢は京を離れた後醍醐帝に従って叡山に立て篭もり、反尊氏の武士や奥州からの顕家の軍勢を再び待ったが、尊氏は京に入り光明天皇を即位(北朝)させた。
しかし奥州の顕家の軍勢の出立は1年以上遅れ、10月、後醍醐帝は若宮の東宮を新田義貞に預けると、持明院統の豊仁親王を推し立てて北朝を開いていた尊氏は建武政権との和睦に応じた。しかし後醍醐帝の一行は捕らえられ帝は幽閉され、伴の武士の多くは殺害された。和睦に同意せず帝の一行から離れ恒良親王を伴っていた義貞は北国へ向かっていた。12月、後醍醐帝は幽閉されていた花山院を脱出して吉野に向かい、吉野朝廷(南朝)を開く。
南北朝時代
南朝南部氏
―奥州軍の2度目の西上―
一方南部師行ら、顕家の第二次西上の南朝の西上軍には『南部史談会誌』によれば、伊勢から駆けつけ、顕家の命で男山に陣取った顕家の弟、北畠顕信に従っていた三戸南部氏第11世の南部信長や、南部茂行・南部信行兄弟もいた。[15]延元2年、(1337年)8月11日、に奥州の霊山を発した顕家率いる第2次西上軍には、結城宗広、伊達行連、信夫、南部師行、下山など6千騎が駆け付け、程なく10万騎になる[16]と、東北から尊氏の傘下にあった京都を目指して進軍し戦勝を重ねた。新田義興や北条時行が加わったとされる[17]鎌倉での足利義詮が守る戦いでは、大将の斯波家長を自決させると、延元3年1338年1月2日、西上軍は義良親王を奉じると鎌倉を発し、青野ヶ原の戦いでも小笠原貞宗、高重茂、今川範国、上杉憲顕、桃井直常、土岐頼遠らの足利勢の大軍を破っていたが、背後から立て直した鎌倉の足利勢8万騎や、黒血川を背にした足利直義が率いた新たな足利勢の挟み撃ちを避け義良親王を吉野に送り届けた[18]。しかし京都の目前で男山救援に軍勢を分けていた顕家は、般若坂の戦いで待ち受けていた高師直率いる北朝軍と交戦[19]、師行は顕家とともにその家士108名が戦死している。日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部氏一門がおり、南朝方に属していたと伝えられる。
政長は戦死した兄師行の跡を受け、子の信政らと糠部の根城で南朝側として戦い続け、興国元年(1340年)伊勢に戻っていた顕信が南朝立て直しのため奥州に鎮守府将軍として派遣された。[20]この年より尊氏や直義から政長へ投降を促す書状が実に7回も送られることになるが、政長・信政親子は山辺の合戦の後も糠部や鹿角の合戦で功をあげ、一族の南朝支持の戦いは孫の信光・政光の時代の南北朝の合一まで変わることはなかった。
正平22年(1367年)1月11日、甲斐の波木井城に在った南部信光は、同国神郷の領主・神大和守の襲来を退け、6月、後村上天皇から褒賞として神大和守跡や、甲冑を授かっている[21]。文中3年(1374年)、信光は弟の政光を糠部から甲斐に呼び寄せ家督を譲る[22]。天寿2年(1376年)1月12日、波木井城の南部信光は、八戸に置いた嫡子・長経が幼少のため、弟・政光へ八戸の譲り状を記し、翌日同地で逝去した[23]。
北朝南部氏と北朝に合流した南部氏
南部宗継[24]は、矢矧の戦い以降「多々良浜の戦い」などで足利尊氏に従い、康永4年(1345年)8月29日には天竜寺供養の随兵となり、その弟の次郎左衛門尉(宗冶)は根城南部氏の南部信政が戦没したとの説がある貞和(1348年)4年1月5日の「四条畷の戦い」から、兄と共に高武蔵守師直の手勢となり、南遠江守、南次郎左衛門尉と南姓になって[25]<太平記>に少なからず登場する。
後村上天皇の時世、貞和5年(1349年)以降甲斐国が鎌倉公方の足利基氏の支配下になると、観応の擾乱の正平一統を機に、尊氏軍に合流した甲斐南部氏や、北畠顕信の南朝軍の一角から直義派の吉良貞家に合流した三戸南部氏の南部信長と推定されている南部伊予守などがおり、甲斐の南部氏一門は観応2年(1351年)から足利氏のもとで戦っている様が<太平記>に記され、南部為重の嫡男とみられる波切遠江守は「薩埵山の戦い」で観応2年1351年12月27日に今川勢に参じている。観応3年(1352年)2月25日には同じく、南部義重の子とされる南部常陸介は[26]武蔵野合戦で、甲斐源氏の衆として、武田氏、小笠原氏などとともに「笛吹峠軍」の将軍足利尊氏方に参じている。
なお南北朝合一が行われた元中9年/明徳3年(1392年)頃、将軍足利義満の密命を受けて、南部守行が南朝を支持する根城南部氏の南部政光の元をたずねて降伏勧告を行っている。波木井にいた南部政光は南北朝合一に際して奥州へ移住したとされるが、根城南部氏の八戸への本拠移転以降、総じて甲斐の南部氏一族は衰退に向かうことになり、一戸南部氏系とされ、甲斐南部氏の嫡流ともみられる南部清政の系統は南北朝末期の頃から武田氏に圧迫され奥州に戻るが内紛で滅び、惣領は根城南部氏から三戸南部氏へ移ったとされる。
室町時代
足利勢となった南部義重の後胤、[27]なども垣間見られるが、同じく足利方の南部宗継の弟の次郎左衛門尉宗冶は「観応の擾乱」の際に北陸に向い、今の富山県の砺波市に逃れて八伏山城を築いたことが地元に伝わる。伊勢・北陸の両南部氏とも戦国時代に勢力を減じるが子孫は今に残る。南部宗継から2世後の頼村は伊勢南部氏[28]を実質的に起こした武将[29]とされる。
根城(八戸)南部氏を配下に加えた南部守行の三戸南部氏は室町期の陸奥北部における最大の勢力に伸長するが、100年前の鎌倉時代末期の波木井南部氏の南部長継の討伐から続く安東氏などの従来の在地勢力などに加え、大浦氏など一族内の実力者の統制が上手くいかず内紛が頻発したとされ、惣領家の具体的な移動時期などこの頃の南部氏の動向については不明な部分も多い。
戦国時代
文明末(1487年)頃、八戸南部氏・第14代当主であり、笛の名手だった信長は同族のよしみから、甲斐国守護・武田信虎と親交があったと伝わり、将軍家や宮中で笛を吹いたと伝わる[30]。
甲斐の南部氏
戦国時代には義重系・河内南部氏の一族は甲斐守護・武田氏に従属する。『甲斐国志』によれば、大永3年(1523年)3月13日には八代郡小山城主・穴山伊予守信永が南部某の攻勢により自害したという[31]。一方、波木井に居た波木井南部氏の義実は、大永7年(1527年)に駿河国の今川氏に通じて武田信虎に敵対したため滅ぼされている。
甲斐国では天文10年(1541年)6月に信虎嫡男・晴信が信虎を駿河に追放して家督を継承する。戦国期の武田一門には「南部信登」の存在が知られる[32]。信登は「蓮華定院文書坤」に含まれる年未詳10月18日の断簡に「武田下野守信登」として記載され、武田姓を名乗る人物であったことが確認される[33]。
『甲陽軍鑑』では宗秀は父を駿河に追放して家督を相続していた武田晴信に、天文17年(1548年)、巻十四によれば、天文17年(1548年)に「南部殿」「南部下野守殿」が足軽大将・山本勘助を誹謗中傷したことにより晴信の不信を買い、国外に追放されたとする逸話が記されており、これが信登に該当すると考えられている[34]。
一方、公家・山科言継の日記である『言継卿記』には、元亀元年(1570年)3月24日に織田信長のもとに「武田下野守」が参礼したことを記している[35]。織田信長は将軍・足利義昭を推戴し武田家とも友好的関係にあり、「武田下野守」を信登とすれば上洛して将軍義昭に仕えていた可能性も考えられている[36]。
国替えや波木井南部氏が成敗された後、河内地方には武田氏の一族の穴山氏が入部して国衆となる。
陸奥の南部氏
陸奥では南部守行の後、三戸南部氏の第24代当主である南部晴政が現われると、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。晴政は中央の織田信長とも誼を通じるなどの外交を展開するが、家中では晴政とその養嗣子だった従兄弟の石川信直が対立するなど、内訌も存在していた。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵した。広大な南部氏の領地では、国人の家臣化と中央集権化はあまり進んでおらず(南部氏の中央集権が進むのは利直の時代に入ってから)、津軽地方の国人らは為信に各個撃破されていった。
天正10年(1582年)に晴政、晴継父子が没し、南部一族内の家督争いの結果、石川(南部)信直が相続するが、その際に晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。津軽地方、外ヶ浜と糠部郡の一部を押領した大浦為信は豊臣秀吉に臣従し所領を安堵されたために、三戸南部氏は元々不安定だった大浦南部氏の統制を完全に失うことになる。
天正18年(1590年)、南部氏第26代当主である南部信直は八戸直栄を随伴し兵1000を率いて、豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣する。これは八戸政栄(直栄の父)が、根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めて自らの小田原参陣を諦め、領内で対立する九戸政実や大浦南部氏への牽制を委ねることができたからである。信直はそのまま奥州仕置の軍に従軍し、秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る[37]。
翌年に九戸政実が起こした「九戸政実の乱」が豊臣政権の手で鎮圧され、失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、南部氏は7ヶ郡10万石の安定した基盤を得ることとなる。
江戸時代
江戸時代を通じて三戸南部氏は盛岡藩として存続する。分家で大名とされた家には八戸藩と七戸藩(盛岡新田藩)がある。
明治時代
明治時代になると、盛岡藩主の南部氏および八戸藩、七戸藩の2分家は華族に列せられ、明治17年(1884年)華族令施行により旧・盛岡藩主の南部利恭は伯爵、分家の旧・八戸藩主の南部利克および旧・七戸藩主の南部信方は子爵とされた。九戸政実の実弟の中野康実の系譜を引く中野氏は一般の士族とされた。なお、八戸氏および中野氏は、江戸時代末期より、南部を称することを盛岡藩主の南部氏より許されていた。
明治期中頃からは旧臣の家系で政友会の実力者であった原敬が、南部諸家の家政に対する助言をしばしば行うようになった[38]。明治29年(1896年)には八戸氏を称していた根城南部氏(遠野南部氏)が南朝の天皇への忠節を賞して特旨をもって華族に列せられ、当主の南部行義は男爵とされた[39]。遠野南部家は明治維新以来財政が窮乏し、伯爵家から援助が行われている。南部利恭の長男で南部氏第42代当主の利祥は日露戦争で戦死し、利祥には子がなかったので、利恭の次男で利祥の弟の利淳が第43代当主を相続した。利淳には一男一女がいたが、長男の利貞は早世したために、長女の瑞子に公爵一条実輝の三男の利英が婿入りして第44代当主を相続した。第45代当主の南部利昭は利英の三男で、靖国神社の宮司を務めたが平成21年(2009年)1月7日死去。
なお、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏のほかには薩摩の島津氏などごく少数で、所領が中央政権(幕府)から遠く離れていたのが理由と考えられている。
南部氏の各支族
根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されていた。少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には、宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。
根城南部氏(遠野南部氏、八戸氏)
南部氏は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は糠部の八戸の地に根城(現在の青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城とした。師行が一時、工藤氏を称していたとの説もある。
南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏と呼ばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家として見られてきたが、近年の研究では根城南部氏が当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。いずれにしても、根城南部氏は南朝を支持していたために南朝の衰退に伴って14世紀半ばからは次第に力を弱めたが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。
根城南部氏の当主とされている南部信長が上洛して武田信虎(武田信玄の父)の世話になって室町幕府の第13代将軍足利義輝に拝謁したという記録の存在も指摘されている。
元和3年(1617年)には所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収され、寛永4年(1627年)に遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれ、江戸時代を通じ盛岡藩の世襲筆頭家臣であり、中野氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。文政元年(1818年)には南部藩の家格昇進を祝って北氏、南氏、中野氏、東氏とともに嫡子嫡孫まで南部の称号を許され、南部姓へ戻っている。
なお遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる八戸実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは、江戸時代後期になってからである。
三戸南部氏(盛岡南部氏)
三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏と呼ばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と従来は考えられてきたが、上述の通り根城南部氏が当初は南部氏宗家に位置付けられていたと近年では推定されている。三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかは分かっていない。
このような一族内の主従関係が曖昧な状況に終止符が打たれたのは、豊臣秀吉によるいわゆる「天下統一」事業により三戸南部氏当主である南部信直が、津軽為信に押領された津軽三郡以外の所領を安堵され、また津軽氏へ与えられた津軽地方の代替地として和賀郡、稗貫郡が与えられたころである。近世大名としては同族連合を否定し、有力一族も家臣として宗家への服属を求められた。南部一族の有力勢力のうち、八戸政栄は根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めたが、九戸政実は逆に反発して三戸南部氏側と激しく対立する。秀吉は九戸政実を近世的秩序である「豊臣の平和」への反逆者として全力で討伐して九戸氏は滅ぼされ(九戸政実の乱)、全国的にも近世秩序を再確認する契機にもなった。
その後、三戸南部家は居城を三戸から盛岡に移し、根城南部氏に対しては遠野への知行替を行った。三戸南部氏は大浦氏以外の南部諸氏を家臣化することに成功し、宗家としての地位を確立した。
八戸藩
近世には盛岡藩から八戸藩が分立するが、これは、盛岡南部氏の当主南部重直が、実子、養子の死後、将軍 徳川家綱に面会して後継者選定と家の存続を願い、それに基づき重直の死後に家綱が裁定して、寛文4年(1664年)12月に重直の異母弟の南部重信に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を相続させ、同じく異母弟(重信とも異母兄弟)の南部直房に新知として八戸2万石を与え、事実上の分割相続を行った際に創立したものである。
直房の子の南部直政は、将軍 徳川綱吉の側衆を経て側用人となり、江戸時代において南部氏で唯一、幕政に参画した。重信は後に幕府に盛岡藩の高直しを願い出て、八戸藩を含まずに、8万石から10万石となっている。
七戸藩
七戸藩(盛岡新田藩)は、重信以後の盛岡南部氏の分知旗本南部氏に、盛岡南部氏が更に分知を行い、幕府に願い出て分知大名としたものである。分知旗本家の創設の際、七戸藩の創設の際、いずれの分知も名目上は新田開発による打出高を当てたため(新田分知)、盛岡藩の石高に変動はない。
分知旗本南部氏は二家あり、共に南部重信の子を初代とする。もう一家は当主の南部利正が盛岡藩主となったとき、幕府に願い出て盛岡藩に併合された。
庶族
- 東氏
- 北氏
- 南氏
- 石亀氏
- 毛馬内氏
- 九戸氏 - 天正19年(1591年)九戸政実、処刑。
- 一戸氏 - 天正 9年(1581年)一戸政連、実弟の平舘政包に滅ぼされ、嫡流は断絶。
- 四戸氏
- 七戸氏 - 天正19年(1591年)七戸家国、九戸政実の乱において九戸氏方につき処刑。
- 久慈氏 - 天正19年(1591年)久慈直治、久慈政則 父子、九戸政実の乱において九戸氏方につき処刑、嫡流は断絶。
その他にも、津軽や岩手郡にも今井氏などの支族があったが岩手郡の南部氏支族は没落し、津軽の南部氏支族は全て大浦氏に滅ぼされた。
歴代当主
※ 以下は三戸南部氏(盛岡南部氏)の当主である。
- 南部光行
- 南部実光
- 南部時実
- 南部政光
- 南部宗経
- 南部宗行
- 南部祐行
- 南部政連
- 南部祐政
- 南部茂時
- 南部信長
- 南部政行
- 南部守行
- 南部義政
- 南部政盛
- 南部助政
- 南部光政
- 南部時政
- 南部通継
- 南部信時
- 南部信義
- 南部政康
- 南部安信
- 南部晴政
- 南部晴継
- 南部信直[40]
- 南部利直
- 南部重直
- 南部重信
- 南部行信
- 南部信恩
- 南部利幹
- 南部利視
- 南部利雄
- 南部利正
- 南部利敬
- 南部利用
- 南部利済
- 南部利義
- 南部利剛
- 南部利恭
- 南部利祥
- 南部利淳
- 南部利英[42]
- 南部利昭
- 南部利文[43]
系譜
※ 凡例 数字は『南部系譜』による南部宗家の当主、太線は実子、細線は養子。※は同一人物。
(ただし、第26代当主の南部信直以前の系譜は諸説あって一定しない。ここでは一例を示す)
南部光行 ┏━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━┓ 行朝 実光2 実長 朝清 宗清 行連 (一戸氏)[三戸南部氏] (波木井南部氏) (七戸氏)(四戸氏)(九戸氏) ┃ ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ 時実3 実継 長義 ┃ ┃ (波木井氏) ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ 政光4 宗経5 政行 実政 宗実 義元 長継 ┃ (伊勢南部氏) (甲斐南部氏) ┣━━━━━━━┓ ┏━━━╋━━━┓ ┣━━┓ ┃ ┃ ┏━━━┳━━━┓ 時長 師行 政長 義行 ┃ 宗継 女(南部師行妻) ┃ 宗行6 祐行7 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ [根城南部氏] ┃ ┃ ┃ (伊勢南部氏?) ┃ ┃ ┃ ┃ ━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃ ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┣━━━┓ 信政 義重 茂時10 信長11 仲行 茂行 信行 政連8 祐政9 ┣━━━┓ ┃ 信光 政光 政行12 (八戸氏)(七戸氏) ┃ 守行13 ┏━━━┳━━━━━━━━━━━╋━━━┓ 義政14 政盛15 助政16 行長 (東氏) ┣━━━┓ ┃ 光政17 時政18 信時20 ┃ ┏━━━┫ 通継19 信義21 政康22 ┃ ┣━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━━┓ 致愛 安信23 高信 長義 信房 秀範 ┃ ┃ ┏━━━┫ (南氏)(石亀氏)(毛馬内氏) 信愛 晴政24 信直26 政信 (北氏) ┃ ┃ (石川氏) 晴継25 利直27 (盛岡藩) ┏━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 重直28 重信29 直房 ┃ (八戸藩) ┣━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ 行信30 政信 勝信 ※通信 直政 ┏━━━╋━━━┓ | (直政養子) | 実信 信恩31 利幹32 信弥 ※通信 ┃ ┣━━━┓ | ┃ 利視33 利雄34 信起 ※信伝 広信 ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ※信伝 信駕 信周 信居 利正35 利謹 信喜 信興 (信弥養子) ┃ ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 信敞 信浄 信丞 利敬36 利済38 信鄰(七戸藩) 信依 ┃ ┃ ┃ ┏━━━┫ ┃ ┏━━┫ 信也 利用37b 利用37a 利義39 利剛40 信誉 信房 信真 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┓ | 信民 利恭41 信方 麻子 利克 信順 (信誉養子) ┏━━━┫ | ┃ ┃ 利祥42 利淳43 信孝 信克 栄信 | 利英44 ┃ 利昭45 | 利文46
南部氏家臣団
戦国時代
脚注
- ↑ 1.0 1.1 『青森県史』資料編 中世1
- ↑ 糠部五郡とは糠部郡、岩手郡、閉伊郡、鹿角郡、津軽郡 (陸奥国)のことだとされているが、これらは後の16世紀半ば南部氏領の最大版図とほぼ同域であり、豊臣政権から領地安堵してもらうことと津軽地方を押領している大浦(津軽)為信が惣無事令に違反する逆徒と訴えていることについて、歴史的にも正当性があるように南部家伝を捏造したと考えられている。
- ↑ 『岩手県史』第2巻 中世篇 上
- ↑ 南部藩 参考緒家系図 第3巻(国書刊行会) 解題 南部重直の家臣大政策 加藤章 P.575
- ↑ 南部孫次郎を南部系譜では茂時に、嫡家系譜では7代当主の南部信長にしている。
- ↑ <太平記>では南部太郎とする場合や、南部二郎、又は南部三郎などと定かでない。
- ↑ この後、新田義貞らの反足利勢力の一翼として、後醍醐天皇の比叡山への御幸に従いながら足利方に捕らえられ禁殺されたとされているが、南部氏系譜によって記載する系譜と不記載がある。
- ↑ 『盛岡南部氏物語』の嫡家系譜では、義行をして恵性の北条軍として分倍河原の戦いに出陣して戦い、敗れた恵性を奥州に案内した南部太郎としている。
- ↑ 『陸奥南部一族』など
- ↑ 『太平記』 第14巻より
- ↑ 『太平記』第14巻より
- ↑ 同年の足利尊氏の供奉の列に波木井南部氏の波木井長氏の子と見える波木井政氏の名もある。
- ↑ この軍勢に南部信政が従軍した『八戸根城と南部家文書』より。
- ↑ 『太平記』15巻より
- ↑ この説は『南部史要』も採用している。
- ↑ 『八戸根城と南部家文書』1P166より
- ↑ 『八戸根城と南部家文書』P167より
- ↑ 『八戸根城と南部家文書』P169より
- ↑ 『太平記』第19巻
- ↑ 『同じく南部史談会誌』などによれば、この派遣軍の中には南部信長兄弟が従い奥州に還ったとしている。
- ↑ 八戸根城と南部家文書 p.253
- ↑ 八戸根城と南部家文書 p.256
- ↑ 八戸根城と南部家文書 p.256
- ↑ 新潮社版<太平記>では高階弾正惟宗の息としている。
- ↑ これは足利氏と結んだ甲斐南部氏と区別するための太平記作者の配慮か?
- ↑ 新潮社版<太平記>では南部常陸守としているが、太平記注釈書の<参考太平記>では南部常陸介とする。
- ↑ 河西氏の先祖南部元時や、奥氏の南部清政、仙洞田氏の南部重清
- ↑ 南部実政以降の伊勢南部氏系図が載る系図纂要の形式から家の系図を名のある系図に結びつける手法が採られているようなので、実政以降南部頼村までは参考系図程度に見るべきだろう。むしろ実政より波木井実長の跡としたほうが合っているし、今後の伊勢南部氏の研究対象となるだろう。
- ↑ <太平記>の巻.26の記述の中で、同一人物とみられる南部遠江守・同次郎左衛門尉をして、南遠江守・同次郎左衛門尉とする記述がある。
- ↑ …京都よりの信長書状『八戸根城と南部家文書』。
- ↑ 平山(2011)、p.79
- ↑ 丸島(2015)、p.545
- ↑ 丸島(2015)、p.545
- ↑ 丸島(2015)、p.545
- ↑ 丸島(2015)、p.545
- ↑ 丸島(2015)、p.545
- ↑ 天正20年(1500年)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) なお糠部郡は寛永11年(1634年)に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された
- ↑ 千葉優 2003, pp. 59.
- ↑ 千葉優 2003, pp. 64-65.
- ↑ (盛岡藩初代藩主)(安信弟石川高信長男)
- ↑ (吉次郎が事故死したため、表向きは同一人物としてすり替わった)
- ↑ (公爵一条実輝の三男で婿養子、妻は利淳の長女の瑞子)
- ↑ (利昭の長兄利久の長男)
- ↑ (南部信直の実父)
- ↑ (根城南部氏第18代当主)
- ↑ (八戸直栄の娘、直政の妻、女大名)
参考文献
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- 青森県史編さん中世部会 『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』 青森県、2004-3-31。
- 青森県史編さん中世部会 『青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料』 青森県、2005-3-31。
- 青森県史編さん近世部会 『青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領』 青森県、2002-3-31。
- 青森県史編さん近世部会 『青森県史 資料編 近世篇 3 津軽2 後期津軽領』 青森県、2006-3-31。
- 青森県史編さん近世部会 『青森県史 資料編 近世篇 4 南部1 盛岡藩』 青森県、2003-3-3。
- 青森県史編さん近世部会 『青森県史 資料編 近世篇 5 南部2 八戸藩』 青森県、2011-3-31。
- 青森県史編さん近現代部会 『青森県史 資料編 近現代 2 近代成立期』 青森県、2000-3-31。
- 青森県史編さん民俗部会 『青森県史 民俗編 資料 南部』 青森県、2001-3-31。
- 青森県史編さん民俗部会 『青森県史 民俗編 資料 下北』 青森県、2007-3-31。
- 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』 岩手県、1961-3-25。
- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』 岩手県、1961-10-20。
- 『岩手県史 第5巻 近世篇 2』 岩手県、1963-1-30。
- 『岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇(その2)』 岩手県、1964-3-30。
- 『岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇(その3)』 岩手県、1965-3-30。
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- 鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで』 新人物往来社、2007-6-10。ISBN 4404034733。
- 千葉優「原敬と華族 : 南部家との関係を中心に」、『弘前大学國史研究』第115巻、弘前大学、2003年、 53-71頁、 NAID 110000322971。
- 『八戸根城と南部家文書』小井田幸哉、国書刊行会、1986年。
- 丸島和洋「南部信登」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
- 平山優『中世武士選書5 穴山武田氏』戎光祥出版、2011年
関連項目
- 南部藩
- 参考諸家系図
- 楢山氏
- 田子氏
- 福士氏
- 日蓮宗
- 戊辰戦争
- 糠部郡 - 南部氏の古くからの領地。「戸(のへ)」のつく地名が多い。
- 南部利昭 - 南部氏の第45代当主(先代当主)。前靖国神社宮司。
- 南部甕男 - 第8代大審院長。四国に移り住んだ一族の子孫とされる。
- マイルチャンピオンシップ南部杯 - 盛岡競馬場で行われている地方競馬の重賞競走。南部利昭の承諾によりレース名に「南部」が付けられた。
- 三戸氏 - 同名の氏族
- 南部氏
- 盛岡藩
- 八戸藩
- 七戸藩
- 南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上
- 通 (南部藩)
- 平成・南部藩
- 後陽成天皇
外部リンク
- 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 南部史要 (日本語)
- 岩手県庁 政策地域部NPO・文化国際課 (日本語)
- 盛岡市役所 (日本語)
- 近世こもんじょ館 (日本語)
- 青森県庁 (日本語)
- 八戸市役所 (日本語)
- 八戸市博物館 (日本語)
- むつ市役所 (日本語)
- 日本財団 図書館 (日本語)
自治体史
- 青森県上北郡七戸町 (日本語)
- 七戸町史・天間林村史 (日本語)
- 青森県東津軽郡蓬田村 (日本語)
- 蓬田村 村のあらまし (日本語)
- 岩手県岩手郡滝沢村 (日本語)
- 農民生活変遷中心の滝沢村誌 (日本語)