護良親王

提供: miniwiki
移動先:案内検索

護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇皇子、母は源師親の娘親子北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主

名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。

生涯

延慶元年(1308年)、尊治親王(後の後醍醐天皇)の子として生まれる。

6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した[1]。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである。

正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となる。後醍醐天皇の画策で、嘉暦2年(1327年12月から元徳元年(1329年2月までと、同年12月から元徳2年(1330年4月までの2度に渡り、天台座主となる。『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であったという。

ファイル:護良親王出陣図.jpg
『護良親王出陣図』

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦する。

以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐村上義光らとともに十津川吉野高野山などを転々として2年に渡り幕府軍と戦い続けた。

しかし討幕が成った後、その功労者足利尊氏(高氏)と相容れず、信貴山奈良県生駒郡平群町)を拠点にして上洛せず尊氏を牽制した。

後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後の後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させた[2]

太平記』によると、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のために配下の僧兵を集めて辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けた名和長年結城親光らに捕らえられる。その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれたと述べられている。

その一方、『梅松論』によると、兵部卿の護良親王は後醍醐天皇の密命を受けて、新田義貞楠木正成赤松則村とともに、尊氏を討つ計画を企てた。しかし、尊氏の実力になかなか手を出せずにいた。建武元年(1334年)夏に、状況が変わらないことに我慢がならなくなった護良親王は、令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。これを聞いた尊氏も兵を集めて、備えた。その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王を捕らえて尊氏に引き渡したと述べられている。

いずれにせよ父・後醍醐天皇との不和は、元弘の乱に際し討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。失脚の前兆として、護良親王派の赤松則村が、勢力を著しく削減されていた。

翌年、北条時行を奉じた諏訪頼重による中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、頼重らに奉じられる事を警戒した直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。護良親王は前征夷大将軍であり、親王が時行に擁立された場合には宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった[3]。一方で鎌倉に置かれていた成良親王は京都に無事送り届けられていることから、直義による護良親王殺害は問題とされることはなかったと見られている。親王殺害の2日後に鎌倉は北条軍によって陥落した[4]

前述の『太平記』では、東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められたことになっており(土牢は鎌倉宮敷地内に復元されたものが現存)、直義の家臣・淵辺義博に殺害されて首を刎ねられた護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南方に弔われたと伝えられている。南方と護良親王との間には鎌倉の妙法寺を開いた日叡が生まれ、後に父母の菩提を弔った。さらに護良親王の妹が後醍醐天皇の命を受けて、北鎌倉にある東慶寺の5代目の尼として入り、用堂尼と呼ばれた。東慶寺には護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。

宮内庁が管理する墓所は神奈川県鎌倉市二階堂の理智光寺跡で、妙法寺にも墓がある。

死後

明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られ、これは地元では通称「大塔宮」(だいとうのみや)と呼ばれる(鎌倉宮最寄りのバス停留所の名は「だいとうのみや」と読むが、鎌倉宮では親王の名を「おおとうのみやもりなが」と呼んでいる)。

現在の横浜市戸塚区柏尾町には、殺害された親王の御首を、側女が密かに持ち出し洗い清め奉じたとされる、護良親王の首洗い井戸があり、近隣には、その御首を地下に葬ったと伝えられる王子神社がある。

また山梨県都留市朝日馬場にある石船神社では護良親王の首級と伝えられる首が祭られており、毎年1月15日に行われる祭礼当番引き継ぎの神事の際に開帳されている。南方(雛鶴姫)が鎌倉から逃げる際に持参し、姫も産んだばかりの王子とともにこの地で亡くなったとされる。昭和52年成城大学教授鈴木尚によって、石船神社の首級の調査が行われた。山梨県内ではこのほか、小室浅間神社(富士吉田市)境内にある桂の大木の根本に親王の首が埋葬されたとも伝えられている。

また護良親王の乳母が親王を慕い鎌倉まで赴くも、そこで親王の最期を知らされて海に身を投げたとの伝承がある。乳母の遺体は、現在の横浜野毛浦に流れ着き、海上の岩に引っ掛かっていたという。この岩は「姥岩」と呼ばれるようになり、そこに乳母の霊が安産・子育ての神「姥姫」として祀られた。現在では埋め立てにより「姥岩」は姿を消し、「姥姫」は伊勢山皇大神宮境内の杵築宮に合祀されている。

子女

護良親王の皇子は興良親王陸良親王が知られているが、両者が同一人物であるという説もある。

興良親王は『井伊之谷宮略記』によると嘉暦元年(1326年)生まれとなっている。陸良親王は『桜雲記』によると「建武元年(1334年)3月護良子陸良誕生。母源大納言師茂女」とある。

また、『井伊之谷宮略記』には「萬寿王を元服せしめ…興良親王と称せしむ。…陸良親王と改称せしめ…」とあり、同一人物に記としている。

出典・脚注

  1. なお、柳原紀光は『続史愚抄』の中で後醍醐天皇が即位した文保2年2月26日に尊雲法親王が入室したと記しているが、これは後伏見上皇の子尊胤法親王の入室記事の誤りと考えられている。
  2. ただし、陸奥将軍府の設置を後醍醐天皇の意図とする伊藤喜良の説もある。
  3. 阪田、2012年、P10
  4. 阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3) )

評伝

参考文献

  • 阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3) )

関連項目