桃井直常
桃井直常 | |
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時代 | 鎌倉時代・南北朝時代(室町時代) |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天授2年/永和2年6月2日(1376年6月27日)? |
幕府 | 室町幕府伊賀・若狭・越中守護、引付頭人 |
主君 | 足利尊氏→直義→直冬→基氏→義詮 |
氏族 | 源姓桃井氏 |
桃井 直常(もものい ただつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信、直弘。子に直和、直知、橋本直安、直久、直政、康儀、直藤、正雲禅師(高岡国泰寺住持)、養子:直弘
桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。
諱の読みについて
諱(実名)である「直常」の読みは、『太平記』関係の書物や『本朝百将伝』(画像参照)など、後世の創作物では「なおつね」とされることもあるが、『若狭国守護職次第』[1]中に「桃井駿河守忠常」、『若狭国今富名領主次第』[1]中に「桃井駿河守忠経」と、いずれも誤記ではあるものの、「ただつね」と読んでいたことが窺え[2]、『国史大辞典』でも森茂暁が「直常の訓みは『若狭国守護職次第』によって「ただつね」とするのが妥当と考えられる」との見解を示している[3]。また、関東において足利方として活動していた茂木知政(茂木氏)の軍忠状に「桃井兵庫助貞直」なる人物が建武4年(1337年)9月18日付で副状を記している[4]が、その花押が同5年(1338年)7月4日付の書状[5]中の直常の花押と同一であることから、貞直と直常は同一人物であり、建武4年9月18日から翌5年7月4日の間に「貞直」から「直常」に改名したことが判明している[6]。阪田雄一によれば、この間建武5年2月28日に、伊勢から奈良へ入った北畠顕家の軍を奈良般若坂の戦いで破ったにも拘わらず、高師直にその軍功を無視されたので、対する足利直義党への旗幟を明らかにし、それに伴って直義(ただよし)の偏諱を賜って改名したといい[7]、前述のように当時の史料で「ただつね」と読まれていたことはこのことを裏付けるものと言える。尚、「直」の読みについては、弟たちや息子たちにも同様のことが言える。
生涯
直常の生年は不詳、足利尊氏に従い、延元元年/建武3年(1336年)頃に下野上三川城、箕輪城を拠点に戦い、延元2年/建武4年(1337年7月)には高師冬らと常陸関城で北畠顕家ら南朝勢と合戦したことが史料上の初見である。 延元3年/暦応元年(1338年)正月23日の青野原の戦いにも加わり、同年に若狭守護となり、延元4年/暦応2年(1339年)武蔵国榛沢郡横瀬郷(深谷市)に赤城山多門院福應寺(別名福王寺)を朝恵僧都に開山する。
興国元年/暦応3年(1340年)頃に伊賀守護、ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任された。越中に庄ノ城、千代ヶ様城、布市城、津毛城を築き、越中支配の拠点とした。越中守護補任前後には上野国新田荘に所領を持っていたとみられ、正木文書(新田岩松文書)内の観応元年(1350年)12月23日付、『高師直奉書』に岩松直国の安堵状に世良田右京亮に続いて桃井刑部大輔名で直常の名前が史料にみえる。
正平5年/観応元年(1350年)に観応の擾乱が起きると、直常は直義派の有力武将として北陸から入京して翌正平6年/観応2年(1351年)の打出浜の戦いで尊氏・高師直らを追い、引付頭人に補任された。しかし尊氏と直義の抗争が再発し、再び上野国に戻り、勢多郡苗ヶ島城(赤城山)麓を拠点に尊氏方と戦い、(出身地桃井庄は一族で尊氏方である桃井義盛の所領の為、拠点にできなかったとみられる。また近隣勢力、榛名山神社も尊氏方の為、赤城山に勢力を持った。)
正平6年/観応2年(1351年)正月15日には直義に属して越中の兵を率いて近江坂本に至り京都に入り足利義詮と戦う。また上野国に戻り直義方の長尾大膳長景とともに上野国那波庄(伊勢崎市名和)近辺で尊氏方の宇都宮氏綱・益子貞正・山上氏らに敗れ信濃国に徹兵した。尊氏に降伏した直義が翌年鎌倉で没すると、直常は行方不明となる。
正平10年/文和4年(1355年)になると、直常は直義の甥で養子の足利直冬を擁立して如意嶽に陣して山崎に戦い、京都に入り洛中を占拠した。
正平17年/貞治元年(1361年)6月には信濃より越中に至りよしみの兵を集めて加賀の富樫介を攻める。以後も信濃・越中で合戦を続けたが、勢力の衰退は避けられず、鎌倉へ下向して鎌倉公方足利基氏の保護を受けた。
正平22年/貞治6年(1367年)、基氏が没すると直常は出家、上洛して足利義詮に帰順した。そして斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い、弟の直信が越中守護に補された。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)、斯波義将の幕政復帰と共に直信は越中守護を解かれ、直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。この期間にも南朝に帰順している。
正平24年/応安2年(1369年)4月12日に能登に入り、吉見氏頼の族将、頼顕、伊予入道らと戦う。
建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受けて飛騨から越中礪波郡へ進出し、幕府方の越中国守護斯波義将、加賀国守護富樫昌家、能登守護吉見氏頼らと婦負郡長沢(現在の富山県富山市長沢)で直常方の長沢氏(土岐)一族らと共に合戦を行ったが大敗。さらに五位荘(富山県高岡市)の戦いでも敗北し、同年8月に飛騨国へ撤兵、消息不明となった。
終焉の地
伝承として直常終焉の地の候補がある。
- 元播磨隠棲説=(上野国群馬郡桃井郷周辺)
- 吉岡町史、榛東村史に同様に紹介されている。
- 群馬県吉岡町には元播磨という地名があり、直常が居たという。地元に伝わる話として正平21年(1366年)9月、越中国で斯波義将との戦いで大敗し再起叶わず故郷上野国に戻り地元の旧領桃井荘に隠棲した。
- または越中に移った際に引き払った際の屋敷跡と伝わる。現地付近には三国街道沿い側に桃井塚(伝桃井直常墓)と呼ばれる古い墓石2基がのこり、墓石にみだりに触れたりすると何かしらの祟りや災いがあるとのことで地元住民に恐れられ丁重にまつられている。
- 直常墓として信憑性が高いと考えられる。ただ現在周辺が住宅や耕作地になり遺跡は残っていない。
- 松倉城病死説=(越中国下新川郡松倉郷鹿熊)
- 魚津市史に紹介されている。
- 富山県魚津市山中には松倉城という城があり、地元に伝わる話として年(1366年)9月、越中国で斯波義将との戦いで大敗し松倉城に逃れてこちらで病死した。その後斯波義将によって城は落城したという。こちらでは直常の墓は残っていない。(魚津古今記)
- また戦国時代、大永年間に上野国金山城主横瀬宗虎の客将となっていた河内国から来た楠掃部(入道成観)という武士が滞在していた時に横瀬城主家臣らからの話を聞いて著した、新田家臣祖裔記という古文書には新田氏の子孫の動向をしるしその中に南朝方になった桃井氏についての記述があり直常は越中国松倉城で病死した旨を記載している。
- 岩瀬城自害説=(越中国婦負郡西岩瀬)
- 富山県立図書館蔵の西岩瀬郷土史、四方郷土史話(布目久三著)に富山藩士野崎氏が越中国の伝承を編纂した文書『喚起泉達録』内に紹介されている。現在城跡には海禅寺というお寺が立っている。(富山市西岩瀬定籍)
- 周辺には耕作地と墓地になっており遺跡はない。
- ここ岩瀬城に越中守護斯波義将との戦いに敗れた直常が逃れてきてこの城も攻めたてられて力及ばず直常嫡子権太郎直政、四男康儀、桃井縫殿助庸治・鬼一十郎泰弘・岩瀬城主小出景郡らと枕を並べ自害し火をかけた。
- この際に直常子の直久は城から脱出し直常の首を持ち去り放生津(射水市)に逃げて、向かいの山に葬った。のちここが『柳井院』(りゅうせんいん)と呼ばれた寺が実在した、とあるが関連する史跡が残っておらず信憑性は低い。
- 西岩瀬海禅寺には直常形見と言われた『桃家之百夜露』という太刀と『桃花の鎧』という鎧が寺宝としてあった。直常の子孫が岩瀬近隣におり、弘治年間に越中国に能登国より畠山義則が乱入し日蓮宗を深く帰依していたため、これに反発した寺院、土豪、村が弾圧されたため、これを恐れて武蔵国蕨まで逃れたという。この際、寺宝『桃花の鎧』が持ち出された。実際に埼玉県戸田市上戸田瑞光山海禅寺(明治時代住職越谷泰俊氏)はその別れた寺と伝える。
- 長沢の戦い討死説=(越中国婦負郡長沢)
- 大山町史に紹介されている。
- 越中守護斯波義将と越中長沢での戦いにおいて敗れ子の直和が討ち死したと伝わるが実際は直常が討ち死したと。根拠としてその後史料に登場しないことなどから死んだと考えられている。またこの際、飛騨に退いたのは直和とも。
子女
- 息子
- 桃井直和
- 桃井直知
- 橋本直安
- 桃井直久:二男と伝わる。通称は大炊助。『喚起泉達録』のみに記載されている人物。実在は不詳。
- 桃井直政:直久の弟と伝わる。『喚起泉達録』のみに記載されている人物。実在は不詳。
- 桃井康儀:四男と伝わる。通称は七郎、または康儀(やすのり)。『喚起泉達録』に記載されている人物。実在は不詳だが、西岩瀬郷土史には駒市の山本氏や山北の住人田島勘解由左衛門の先祖と記される。
- 桃井直弘:直常の末弟ではあるが、養子として処遇されたと伝わる。
- 桃井直藤:六男と伝わる。。母は黒瀬時重女、通称は小次郎、主税介。子に直元。『喚起泉達録』のみに記載されている人物。実在は不詳。
- 正雲禅師:高岡国泰寺住持。
関連史跡、寺院
直常に関連する寺院は直常は毘沙門天・不動明王・薬師如来を崇敬したと伝え、主に真義真言宗、天台宗宗派寺院が多い。
富山県
- 興国6年建立、越中守護であった直常を開基と伝える。
- 開基塔に「興國寺殿仁澤宗儀大禅定門 天授二年丙辰六月二日」と刻む。(位牌には直和の法名興禅院殿正端直光禅定門、直常妻の法名法霊院殿桂月妙法禅定尼も残る。)
- 富山市牧野の五輪塔墓所(富山市指定文化財)
- 田んぼの中にある。直常の一族らの墓が5、6基のこる。墓の手前には桃井の鐘突田(かねつきだ)と呼ばれ、中世には鐘突櫓があったと伝たわる。
- 直常が、帰依、祈願寺にしている。
- 一石五輪塔板碑。
- また旧寺地には墓地があり歴代住職にまじり直常の墓と称する五輪塔があるとされていたが、旧寺地が整備されたあと行方不明のままである。
- 直常が伽藍を建立したと伝わる。
- 以前は龍高寺の塔頭であった。
群馬県
- 桃井直常と家臣主従を供養したと伝わる五輪塔と宝筐印塔が残されている。(吉岡町教育委員会指定史跡)
- 元大同寺という名で新田義貞が藤島の戦いで死んだのちその執事であった船田義昌が供養のために寺に住んだ。
- のちに善昌寺と呼ばれる。
- 足利方との戦いで亡くなった新田一族、家臣を供養した際にともに記された戒名が残る。桃井播磨守直常ー青山慈仙とある。
神奈川県
末裔
なお子供は全部で9人いたといわれており子孫がいる。
有名なものに江戸時代になってから作られた伝承によれば、直常の孫(直和の子)に当たる桃井直詮は幸若舞の創始者とも伝えられる[8]。
富山県富山市流杉の小杉氏や 富山市布市の小柴氏、桃井氏。能登守護畠山氏被官で輪島市に拠点を置いた温井氏は直常の末裔を自称したという。群馬県前橋市宮城の阿久沢氏、埼玉県戸田市上戸田の金子氏、篠氏も直常の末裔であるという。
脚注・出典
参考文献
- 阪田雄一「足利直義と桃井直常」(所収:千葉県立生浜高等学校五周年記念誌・研究紀要『生浜』、1983年)
- 『国史大辞典』第13巻(吉川弘文館、1992年)
- 富山県立富山南高等学校地歴部編 『南北朝の動乱と桃井直常』(同部、1993年)
- 阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」(所収:國學院大學地方史研究会機関誌『史翰』21号、1994年)
- 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社編、1994年)
- 東京大学史料編纂所 編 『花押かがみ 七 南北朝時代 三』(吉川弘文館、2006年)
- 佐藤和彦、錦昭江、松井吉昭、櫻井彦、鈴木彰、樋口州男共編『日本中世内乱史人名事典』(新人物往来社、2007年)
- 『大日本史料』
- 藪塚喜声造『新田一門史』(1975年)
- 石川日出鶴丸『越中石川秘史』