糠部郡
糠部郡(ぬかのぶぐん)とは、かつて陸奥国にあった郡。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。
歴史
かつて奥六郡の北には郡は置かれなかったが、延久蝦夷合戦の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡、津軽鼻和郡が建郡された。 建郡の時期は文献がないため不明だが、清原真衡の時代という説と藤原清衡の時代(奥州藤原氏)という説がある[1]。
文治5年(1189年)藤原清衡が滅びると奥州は源頼朝の支配下に入り、関東御家人への恩給が行われたが、糠部郡に関する記録はない。
当郡の支配関係が記録に見えるのは、寛元4年(1246年)北条時頼が「陸奥国糠部五戸」の地頭代職に左衛門尉平(三浦)盛時を補任したことが初めてである。
糠部郡 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
南 門 | 一 戸 | 三 戸 | 五 戸 | 七 戸 | 八 戸 | 九 戸 | 宇曽利郷・ 中浜御牧・湊 | ||
1220_ | |||||||||
1230_ | |||||||||
1240_ | |||||||||
1250_ | 三浦盛時 | ||||||||
1260_ | |||||||||
1270_ | |||||||||
1280_ | |||||||||
1290_ | |||||||||
1300_ | |||||||||
1310_ | |||||||||
1320_ | 安藤宗季 | ||||||||
1330_ | 北条泰家 | 横溝弥五郎入道 横溝六郎三郎入道 |
工藤四良左衛門入道 浅野太郎 |
根溝新五郎入道 会田四郎三郎 大瀬次郎 |
三浦時継 | 工藤右近将監 結城朝祐 |
工藤三郎兵衛尉 工藤係四郎・経光 工藤義村 |
北条茂時 | 安藤高季 |
1340_ | 足利尊氏 | 横溝祐貞 横溝重頼 |
中条時長 横溝孫次郎 |
南部師行他預 工藤景資 岩沢大炊六郎入道 |
三浦時継 | 伊達行朝 伊達宗政 南部政長 結城親朝 |
南部師行 伊達光助 |
結城親朝 | |
1350_ | 南部政長 | ||||||||
1360_ | 南部信光 |
元弘4年(建武元年 1334年)陸奧国府の北畠顕家は南部師行に対して信濃前司入道(二階堂行珍)の代官を久慈郡に入部させよと命じており、平泉藤原氏の時期から、現在の久慈市域(九戸郡の一部)とほぼ一致する郡域が古代閉伊郡から分離独立したものとみられ、鎌倉末期には糠部、岩手、久慈、津軽四郡など北条氏所領群の一角をなしていたと推定される。
寛永11年(1634年)糠部郡は、北郡、二戸郡、三戸郡、九戸郡に分割された。
九ヵ部四門の制
糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制がしかれていた。 糠部郡を一から九までの「戸」(あるいは部)にわけ、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われる。
一説には南部氏の領地になった順番とも言われるが、四門九戸の制がしかれた時期が鎌倉期以前ともされているので、必ずしも事実とは思われない。 他に、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸を差すとする説もある。
「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。 戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと『吾妻鏡』にある[1]。
四戸を除き、一戸から九戸は現在でも地名として現存し、一戸町、二戸市、九戸村が岩手県に立地し、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市は青森県に立地しており、北門は現在の上北郡、下北郡にその名を留めている。
「戸」(へ)のつく現存地名
県 | (旧)郡 | 市町村 | 位置 | |
---|---|---|---|---|
1 | 岩手県 | 二戸郡 | 一戸町 | 地図 |
2 | 岩手県 | 二戸郡 | 二戸市 | 地図 |
3 | 青森県 | 三戸郡 | 三戸町 | 地図 |
5 | 青森県 | 三戸郡 | 五戸町 | 地図 |
6 | 青森県 | 上北郡 | 六戸町 | 地図 |
7 | 青森県 | 上北郡 | 七戸町 | 地図 |
8 | 青森県 | 三戸郡 | 八戸市 | 地図 |
9 | 岩手県 | 九戸郡 | 九戸村 | 地図 |
- 四戸については、青森県八戸市の櫛引と言う説がある。その根拠は、同地にある櫛引八幡宮のかつての別名が「四戸八幡宮」であったことである。一方、青森県三戸郡五戸町浅水または同町志戸岸(いずれも浅水川沿岸)との説がある。四戸がない、もしくは消滅した理由として、「四」は「死」を連想するからとも言われる。浅水の語源は「朝を見ず(=死)」であるという。もし仮に五戸町浅水が四戸であったとすれば、旧陸羽街道沿いに一戸から五戸までが番号順に並ぶことになる(六戸も五戸と接しているが街道沿いではない。無論、陸羽街道の成立は後世のことである)。
- 「十戸」にあたる地名が、「十和田」「遠野」であるとする説も存在する。また、青森県下北郡大間町の奥戸(おこっぺ)が「最も奥の戸」であるという説もある(一般にはアイヌ語とする説が有力)。殊に「遠野」については、近年の研究で「とおのへ遠野」と呼ばれていたことが明らかとなり、糠部に宗家としてあった「根城南部氏」が遠野へ領地を移されたことから一つの説とされている。しかし、一戸から九戸までの数字は順番であり数量ではない。もし「十戸」があったとすれば、それは十番目を意味する「じゅうのへ」であって、数量を意味する「とお」ではないため、元々「十戸」は無く、場所も離れている「十和田」「とおのへ(遠い戸の意)遠野」説には無理があるとされている。秋田県鹿角郡十和田町(現鹿角市)や青森県南津軽郡浪岡町(現青森市)にも「十和田霊泉」と呼ばれる箇所があり、いずれの「戸」とも接していない。
- 青森県から岩手県にかけての地域には、一戸から九戸の苗字も存在する(必ずしも南部氏由来とは限らない)。こちらは「四戸」もある。
脚注
関連項目
参考文献
- 『浪岡町史 第一巻』 青森県南津軽郡浪岡町(現 青森市)、2000-3-15。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『角川日本地名大辞典 3 岩手県』 角川書店、1985-3-8。ISBN 4-04-001030-2。
- (有)平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』 平凡社、1990-7-13。ISBN 4-582-91022-X。