島津氏
島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」[1])を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。
Contents
概要
初代島津忠久が薩摩国・大隅国・日向国の3国(初期には越前国守護にも任じられた)の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として将軍家と閨閥も築き、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となり、大正以降は皇室と深い縁戚関係を結ぶに至る。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来明治に至るまで家を守り通すことに成功した。また、越前、信濃、駿河、若狭、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、江州島津氏と呼ばれている。
出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人
島津姓については、清和源氏を本姓とし、忠久が源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。
同じく九州の守護に任じられた大友能直と島津忠久に共通していることは、共に後の九州を代表する一族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の妾であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している[注釈 1]。
その他の出自に係る説について
忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説が有力である。
歴史
鎌倉時代
源頼朝より薩摩・大隅・日向の守護職に補任された忠久は、初期の鎌倉幕府内では有力な御家人であったが、まもなく比企能員の変に連座し、大隅・日向の守護職を剥奪されて、以後島津氏は鎌倉時代を通して薩摩1ヶ国の守護職を相伝した。
忠久の嫡子島津忠時は承久の乱で幕府方の武将として相当の武功を挙げ、若狭守護職と各地の地頭職を得た。また乱の際に使用した太刀は「綱切」と号されて、源氏の白旗、忠久の大鎧と共に島津氏の当主が所用すべき重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は越前国守護職に補せられている。1227年(安貞元年)、忠久の死去に伴い忠時が2代目を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして後藤氏に交替している。
忠久以降の島津氏は幕府の有力な御家人の常として当主は鎌倉に住し、現地における実際の差配は一族・家人を派遣し、これに当たらせていたが、3代・島津久経が元寇を機に下向して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。
南北朝時代
やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代の1342年(南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。
その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に幕府に対して申状を送っている[2]。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。前述のように島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお「島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した」という史実とは異なる認識[3]を定着させることになる[4]。
貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、3男の島津師久と4男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久(奥州家)が水島の陣にて武家方である九州探題・今川貞世の少弐冬資謀殺(水島の変)に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久(総州家)もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。
しかし、共通の外敵を持つ間は固い団結を誇った島津両家も、その外敵が消え去った後は、互いが最も脅威となる存在となった。
室町時代初期 中期
南北朝の内乱を分割継承という形で乗り切った両島津氏であったが、打倒すべき共通の敵を失った今、互いを脅威とみなし対立を深めた。やがて7代・島津伊久(総州家)とその嫡子・島津守久が不和となり、総州家内部で内紛が勃発すると、7代・島津元久(奥州家)がこれを調停し、恩義を感じた伊久より薩摩守護職と島津氏重代の家宝を譲られ、表面上は両島津氏は再統一された。後に室町幕府にも相続が安堵された[注釈 2]。しかし、総州家が滅亡したわけではなく、両家の対立は残ったままであった。なお、この元久の頃より守護所が鹿児島の清水城へ移り、本格的に鹿児島の街が開府した。
守護職が奥州家の元に統合された島津氏だったが、元久が嗣子無く没すると、島津一族の筆頭であった伊集院頼久が自身の子息を本家当主に据えようと画策する。これを察知した元久の弟・島津久豊は元久の位牌を奪って8代当主となった。これにより伊集院氏との対立が深まり、また伊集院氏に総州家が助勢したため、またも領国内に内紛(伊集院頼久の乱)が起こったが、最終的に久豊は伊集院氏を降し、また総州家を滅ぼすことに成功。島津氏の守護領国制を完成させた。
9代・島津忠国の代になると、島津氏は守護大名として確立し、比較的安寧な時期が続いたが、大小の内紛は散発していた。特に忠国の弟である島津用久(好久・薩摩守)が声望を増したため、兄弟間の対立が起こった(なお、内紛の鎮圧に失敗した忠国が家督を一旦用久に譲ったものの、その後忠国が当主への復帰を図ったとする説もある[5])。この争いは中央で6代将軍・足利義教との権力闘争に敗れた大覚寺義昭を討った忠国に幕府が味方したため、好久が降伏し、忠国の勝利に終わった。この際に忠国は好久に薩州家を立てさせ、ある程度の譲歩をしている。忠国と好久の対立は解決されたものの、家中の掌握には失敗して家臣の反抗を招き、事実上の引退に追い込まれた[6]。
10代・島津立久の時代には応仁の乱が勃発し、島津氏は東軍に属した(但し派兵せず)。11代の島津忠昌は桂庵玄樹を招聘して薩南学派を起こすなど学問を好んだが、領国内の一族・国人が立て続けに挙兵したため、世を儚んだ忠昌はついに自害して果てた。その後も12代・島津忠治、13代・島津忠隆が継承したが、いずれも早世したため、国内の島津氏一族・国人、大隅の肝付氏、日向の伊東氏を押さえることは叶わず、守護家の島津氏は全く弱体化してしまっていた。
室町時代末期
室町時代末期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。
やがてその島津一族の中から伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭して他家を圧倒した。
忠良の子の貴久は一時期薩摩大隅守護家の14代忠兼(後の勝久、12代忠治・13代忠隆の弟)の養子として迎えられる。しかし勝久は実久に誑かされ、守護復帰を目論んで貴久との養子縁組を解消した。ただし、近年の研究では傍流から当主になった勝久と重臣達の確執の存在や勝久に反発する重臣達の中には貴久や実久を擁立する動きがあったこと、実久が一時期守護家当主及びに薩摩大隅守護として迎えられて国内をほぼ掌握していた時期が存在したことが明らかになっている[7]。
その後、勝久は実久により薩摩を逐われて、母方の実家である大友氏を後ろ盾として頼み豊後国へと亡命する。
伊作忠良・貴久親子は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。前述の研究では、この際に実久が重臣達の擁立によって勝久に代わって守護に就任した事実は消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。
戦国時代から安土桃山時代へ
15代貴久(伊作氏出身)は内城を築き、修理大夫に任ぜられた。また、嫡男(後の義久)に将軍義輝より偏諱を受けている。貴久の嫡男である16代・島津義久の時には、日向の戦国大名である伊東氏を駆逐し、島津氏による三州の再々統一を成し遂げた。
1578年(天正6年)の耳川の戦いにおいて、九州探題の大友氏に勝利する。以降、大友は衰退の一途を辿り始め、それを証明するかのように、大友が菊池氏より守護職を簒奪していた肥後国より名和氏と城氏が島津氏へ誼を通じてくる。義久は天草五人衆を従属させると、宇土半島の阿蘇氏勢力を駆逐し名和・城両氏への支援路を確保、北上への足掛かりを築いた。更に1581年(天正9年)には人吉の相良氏を降伏させた。
また1584年(天正12年)の沖田畷の戦いでは、大友衰退後に九州北西部に強大な勢力を誇っていた肥前龍造寺氏を撃ち破り、九州最大の戦国大名へと成長した。龍造寺氏を破ったことで、大友から龍造寺に鞍替えしていた肥後豪族も島津方に転じ、残る肥後北中部の阿蘇氏と、その被官である甲斐氏の拠点を陥落させた(豪族としての矢部・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興)。島津軍が瞬く間に快進撃を行えたのは、鉄砲の存在と、それを実戦で培い磨き上げた巧みな鉄砲戦術が大きかったと考えられる。
義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)とともに、九州統一を目指し、一時は豊後・豊前の一部を除く九州のほぼ全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。
しかしまもなく、1587年(天正15年)に大友義鎮の奏請による豊臣秀吉の九州征伐を受け、木食応其の仲介のもと降伏する。本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡は交渉の結果、安堵される。
江戸時代
関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るも、武備恭順の態度を取り所領安堵を認めさせることに成功する。以降、薩摩藩として、幕藩体制に組み込まれることとなる。又、分家により佐土原藩が開かれた。大坂の役では2回とも戦闘に参加せず、豊臣秀頼が薩摩へ落ち延びたという噂が流れた。江戸時代初期に琉球に侵攻して奄美群島を領有し、琉球王国を支配下に置いた。幕藩体制下にあっては、宝暦治水に代表される幕府の弱体化政策など圧迫を受ける一方で、徳川綱吉養女・竹姫が島津継豊の後妻として嫁いで以降は、寔子(11代将軍・家斉正室)、敬子(篤姫)(13代将軍・家定正室)と将軍家と婚姻を通じ、縁戚関係をも深めること度々であった[注釈 3]。武家でありながら、将軍家御台所を2人出したことは異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため、継嗣問題などへ介入されることがなく、幕府との関係は友好的かつ安定的に推移した。
幕末に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した(集成館事業)。参預会議の失敗で薩摩藩はそれまで推進してきた公武合体や公議政体などの幕府改革路線(島津幕府)を捨て、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら、遂に外様で反徳川の毛利氏と薩長同盟を結び、倒幕の中心となる。
明治以降
相馬氏、相良氏、宗氏、南部氏と並び、鎌倉時代以来、明治まで、700年ちかく渡り同一の国・地域を治め続けた世界でも稀有な領主である。 明治に至り、島津忠義の本家と、実父島津久光が維新後自ら分家した玉里家の2家に公爵が授爵される。他、有力分家に昭和天皇第五皇女子清宮貴子内親王が嫁した日向佐土原島津家(幕末時2万7000石、伯爵)がある。その他多数の分家が男爵に任爵された。
昭和天皇の皇后香淳皇后は島津忠義の七女・俔子の娘で今上天皇の母方の祖母でもあり、今上天皇の妹の清宮貴子内親王も島津家に降嫁しており、今上天皇からは皇室と深い縁戚関係にあることが語られている[8]。
系譜
- 太字は当主。実線は実子、点線は養子。[ ]は、その氏の祖を意味する。
島津忠久1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠時2 | [越前家] 忠綱 | 忠直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[山田氏] 忠継 | 久経3 | 高久 | 忠康 | 忠佐 | [阿蘇谷氏] 久時 | 忠経 | 久氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山田忠真 | 忠宗4 | [伊作家] 久長 | [給黎氏] 給黎宗長 | 忠継 | [町田氏][注釈 4] 町田忠光 | [伊集院氏] 伊集院俊忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞久5 | [和泉氏] 和泉忠氏 | [佐多氏] 佐多忠光 | [新納氏] 新納時久 | [樺山氏] 樺山資久 | [北郷氏] 北郷資忠 | [石坂氏] 石坂久泰 | 宗久 | 久俊 | [恒吉氏] 久行 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[川上氏] 川上頼久 | 宗久 | [総州家] 師久6 | [奥州家] 氏久6 | 光久 | 氏忠 | 親忠 | 久氏 | 忠武 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊久7 | [碇山氏][注釈 5] 碇山久安 | 元久7 | 久豊8 | 久義 | [西氏] 親久 | 十忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
守久 | [相馬氏] 忠朝 | 久照 | 仲翁守邦 | 忠国9 | [薩州家] 用久 | [豊州家] 季久 | [羽州家][注釈 6] 有久 | [伯州家][注釈 7] 豊久 | 勝久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久世 | [相州家] 友久 | 立久10 | 久逸 | [桂氏] 勝久 | [迫水氏] 忠経 | 守棟 | [喜入氏] 忠弘 | 頼久 | 教久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久林 | 運久 | 忠昌11 | 頼久 | 忠誉 | 犬安丸 | 久逸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠良 | 忠治12 | 忠隆13 | 勝久14 | 善久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貴久 | [垂水家] 忠将 | [宮之城家] 尚久 | 貴久15 | 忠康 | 久孝 | 忠良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[佐土原家] 以久 | 忠長 | 義久16 | 義弘17 | [日置家] 歳久 | [永吉家] 家久 | 良久 | 藤野秀久 | [亀山氏] 亀山忠良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彰久 | 忠興 | 久元 | 久保 | 忠恒18 | [佐志家] 忠清 | 忠隣 | 豊久 | 忠仍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久信 | 久雄 | 久富 | 光久19 | [加治木家] 忠朗 | 常久 | 忠栄 | 忠昌 | 東郷重経 | 東郷重頼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠高 | 久寿 | 久武 | 綱久 | [岩崎家] 久房 | 久慶 | 久雄 | [本城氏] 本城忠辰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟久 | 綱貴20 | 久季 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠雅 | 吉貴21 | [花岡家] 久儔 | 忠直 | 禰寝清純 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久柄 | 継豊22 | 貴儔 | [重富家] 忠紀 | 久亮 | 貴澄 | [今和泉家] 忠卿 | 忠温 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠持 | 宗信23 | 重年24 | 久峰 | 入来院定勝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠徹 | 小川久徳 | 久業 | 重豪25 | 久徴 | 久邦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠施 | 小川久抹 | 忠寛 | 宮原義敬 | 寔子 | 斉宣26 | 奥平昌高 | 忠厚 | 有馬一純 | 黒田長溥 | 南部信順 | 久典 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠亮 | 大村純雄 | 啓次郎 | 斉興27 | 忠公 | 忠剛 | 松平勝善 | 久福 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠麿 | 健之助 | 大村純英 | 斉彬28 | 池田斉敏 | [玉里家] 久光 | 忠冬 | 久敬 | 忠敬 | 敬子 (篤姫) | 久徴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久範 | 忠義29 | 久治 | 珍彦 | 忠欽 | 忠済 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠韶 | 久永 | 忠重30 | 忠備 | 忠弘 | 久範 | 忠承 | 久大 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠範 | 禎久 | 忠秀31 | 晃久 | 矩久 | 斉徳 | 忠広 | 久正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠敬 | 修久32 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
歴代当主
- 1 島津忠久 薩摩・大隅・日向・越前などの守護。島津荘より島津を称す。在鎌倉。
- 2 島津忠時 初名は「忠義」。薩摩守護。鎌倉将軍の近侍として仕える。
- 3 島津久経 初名は「久時」。薩摩守護。島津氏で初めて薩摩に入国する。元寇で活躍。
- 4 島津忠宗 薩摩守護。島津氏の薩摩入部を進める。
- 5 島津貞久 薩摩・大隅・日向守護。足利尊氏に属し活躍。三州守護職を回復する。
- 6 島津師久 薩摩守護。貞久3男。兄系島津氏(総州家)の初代。
- 6 島津氏久 大隅・日向・筑後守護。貞久4男。弟系島津氏(奥州家)の初代。
- 7 島津伊久 薩摩守護。師久長男。兄系島津氏(総州家)2代。重代の家宝を元久に譲る。
- 7 島津元久 初名は「孝久」。薩摩・大隅・日向守護。氏久長男。弟系島津氏(奥州家)2代。家督を統一する。
- 8 島津久豊 薩摩・大隅・日向守護。氏久次男。島津氏の守護大名化を確立させる。
- 9 島津忠国 初名は「貴久」。薩摩・大隅・日向守護。島津氏を守護大名として安定させる。
- 10 島津立久 薩摩・大隅・日向守護。応仁の乱では東軍に属す。
- 11 島津忠昌 初名は「武久」薩摩・大隅・日向守護。学問を好むが、国内騒乱を病んで自害。
- 12 島津忠治 薩摩・大隅・日向守護。忠昌長男。
- 13 島津忠隆 薩摩・大隅・日向守護。忠昌次男。
- 14 島津勝久 初名は「忠兼」。薩摩・大隅・日向守護。忠昌3男。薩摩守実久の横暴に苦しむ。後に豊後国へ逃亡。同地で客死。
- 15 島津貴久 薩摩・大隅・日向守護。勝久の養子。島津忠良の嫡子、9代忠国の玄孫。争乱の薩摩を統一する。
- 16 島津義久 初名は「忠良」・「義辰」。薩摩・大隅・日向守護。貴久の嫡男。三州を統一し、一時九州統一目前に迫るなど島津氏の全盛期を築く。
- 17 島津義弘 初名は「忠平」・「義珍」。肥後守護代。貴久の次男。家督を継いでないとするが、「尚古集成館」では17代としている(後述)[9]。
- 18 島津家久 初名は「忠恒」。初代鹿児島藩主。義久の養子、義弘3男。鹿児島城を築く。
- 19 島津光久 初名は「忠元」。2代鹿児島藩主。鹿児島に仙巌園を造園する。
- 20 島津綱貴 初名は「延久」。3代鹿児島藩主。島津綱久の嫡男。光久の嫡孫。
- 21 島津吉貴 初名は「忠竹」。4代鹿児島藩主。霧島神宮の社殿を造営する。
- 22 島津継豊 初名は「忠休」。5代鹿児島藩主。徳川綱吉の養女・竹姫を娶り、江戸将軍家と縁戚関係になる。
- 23 島津宗信 初名は「忠顕」。6代鹿児島藩主。継豊の長男。
- 24 島津重年 初名は「久門」。7代鹿児島藩主。継豊の次男。宝暦治水など幕府の普請に苦しんだ。
- 25 島津重豪 初名は「久方」・「忠洪」。8代鹿児島藩主。娘が徳川家斉の正室となり高輪下馬将軍の異名をとる。
- 26 島津斉宣 初名は「忠尭」。9代鹿児島藩主。近思禄崩れにより失脚。
- 27 島津斉興 初名は「忠温」。10代鹿児島藩主。藩政改革を推し進める。お由羅騒動によって失脚する。
- 28 島津斉彬 初名は「忠方」。11代鹿児島藩主 開明的な幕末の名君として知られる
- 29 島津忠義 初名は「忠徳」・「茂久」12代鹿児島藩主 斉彬の養子。島津久光の嫡男。27代斉興の孫。維新後、公爵となる。
- 30 島津忠重 公爵。海軍少将。
- 31 島津忠秀 水産学者。
- 32 島津修久 照国神社宮司。近衛文麿の孫にあたる。細川護煕はいとこ。
17代目当主について
義弘を第17代当主とする史料の初出は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』と考えられている[注釈 8]。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ「義弘=17代当主」という認識が定着していった。また秀吉の九州征伐後、義久に大隅を、義弘に薩摩をそれぞれ蔵入地として宛がったことも義弘が当主であるという認識を補強する材料となった(島津=薩摩という印象から、「薩摩を与えられたのだから当主なのだろう」という見方ができる)。
しかし1980年代に入ってから、島津家当主の証しである「御重物」の研究が西本誠司によって進み[10]、当主の地位が義久から忠恒に直接譲られていることが判明すると、義弘は17代当主ではなかったという学説が山口研一や福島金治ら多くの研究者に支持されるようになった[7][11]。以降、義弘は「当主であった説」と「当主ではなかった説」が並列するようになった。
なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では系図重視の観点から義弘を第17代当主と認定していたが、2004年に尚古集成館文化財課長で鹿児島大学法文学部非常勤講師の松尾千歳も義弘は当主ではないとする論文を発表して[12]、尚、現在も続く当の島津本宗家および当の尚古集成館自体は2016年の現在も義弘を17代当主としている[9]。
また、島津氏の家督継承に関しては、室町時代中期に島津忠国が一時期に弟の用久(持久)に家督を譲っていたものの最終的に家督を取り返したとする新名一仁の説[5]や戦国時代に島津勝久を追放した薩州家の島津実久が宗家重臣の支持を受けて家督を一時継承したとする山口研一の説[7]が出されており、島津本宗家および尚古集成館の見解とは異なる変遷像が描かれつつある。
島津氏族
島津氏の系統には以下がある。
- 庶流(江戸期以降)
被官の格分け
島津家の被官は、その家格により三つに呼び方が分けられていた。
一番格上は御一家(ごいっか)と称される島津の有力庶家で、薩州家・伊作家・相州家などに加え、北郷家と樺山家などもこれに類された[13]。また、6代氏久が子の元久に対し、「宗家と御一家の間に身分の上下は無く、特に和泉・佐多・新納・北郷・樺山の各氏は御教書を与えられた家であり、上下はないと心得るよう」言い含めており、少なからず元久の代まではそのような関係が続いていたようである[13]。
続いて御内(みうち)と呼ばれる譜代被官・直属被官であり、初代忠久に従い九州へ下向した者、南北朝時代までに被官化された中小在地領主、若しくは御一家・国衆の庶家で、独立した所領を持たず被官となった者などがこれに類された[13]。
続いて国衆(くにしゅう)または国方(くにかた)と呼ばれる者で、郡司や地頭などの国人領主を指す。土持氏や伊東氏もこれに類されていた[13]。
公式署名に見える「姓」
公式文書署名は、島津家当主が足利尊氏の猶子となる室町時代初頭では「惟宗朝臣○○」、戦国時代から新田流源氏を名乗るまでは、近衛家の庶流として「藤原朝臣○○」と署名していた。江戸時代に入り徳川家の「松平」の名字を与えられ以後、幕府の公式文書等では「松平薩摩守(変動有)○○」と書かれる(江戸時代中期以降、内部の公式文書等においては「源朝臣○○」と署名した)[注釈 9]。
家紋
島津氏の定紋に使用された図案は、島津十文字(筆文字の十文字)、「丸に十の字」、「轡十字」 などがある。いずれも十文字紋であり、轡紋や久留子紋とは区別される。替紋に「島津牡丹」(近衛家より拝領)や「五三桐」を使用する。また、『蒙古襲来絵詞』には十文字の上に鶴丸紋を描いた、島津久経の幟が描かれている[15]。信濃島津氏の長沼家の「轡十字」については「轡」として『米府鹿子』に載る。
十文字の起こりについては諸説あり、2匹の龍を表したとするもの(『島津国史』)[16]、奥州合戦の際、初代・忠久へ源頼朝が2本の箸を取って十字を作り、これを島津の紋にさせたとするもの(『西藩野史』)[16]、鎌倉時代に中国の呪符の影響で、災いから身を守り福を招くため十字を切る風習があり、それを家紋とした。(『日本紋章学』)[16]などがある。
室町中期に編纂された『見聞諸家紋』には島津十文字が掲載されているが、江戸時代初期の『寛政重修諸家譜』に掲載されている丸に十字(轡十字)の図案や「丸に十の字」の図案が定紋として使用されている。「関ヶ原合戦図屏風」(津軽家本)には島津十文字を描いた義弘の旗が描かれているが、豊久の旗には轡十字が描かれていることから歴史研究家の大野信長は、関ヶ原の合戦が行われたこの時期が筆文字の十文字から轡十字への変遷時期だと推測している[17]。 余談だが、フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に来た際、島津が「白い十字架」を使用していたことに驚いた、という記録がある[18]。
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轡十字(『寛政重修諸家譜』に載る、薩摩島津家の定紋)
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島津十文字(『蒙古襲来絵詞』『見聞諸家紋』に載る)
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替紋の「五三桐」
島津氏縁故社寺・菩提寺
脚注
注釈
- ↑ 板垣兼信は年貢未進・違勅の罪で円勝寺領遠江国雙侶荘(静岡県榛原郡金谷町志戸呂)の地頭職を解任され、隠岐国へ配流された(『吾妻鏡』建久元年9月17日条)。伊勢国治田御厨の地頭に補任されながら、現地沙汰人が荘園領主である伊勢神宮と対立して処分された畠山重忠は、「現地に良い眼代(代官)が得られないならば、(新恩の)領地を戴くべきではない」と述べている(『吾妻鏡』文治3年10月4日条)。
- ↑ 島津氏は室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは、4代将軍義持の治世1410年(応久17年)に元久が相続安堵の謝辞為の上洛一度限りである。これは数ヶ国を擁する大守護大名としては異例のことであった。
- ↑ ただし、近衛家養女として将軍家へ嫁いだため、島津家から直接御台所となったのではない。
- ↑ 子孫は一時期、「石谷氏」を名乗る。町田久倍の代より町田に復姓。正徳年間より庶流は「梅本氏」を名乗るよう主命が降る。
- ↑ 後に一時「姶良氏」を称するが寛文11年(1671年)に復姓。姶良氏は平姓姶良氏も存在する。
- ↑ 6.0 6.1 後に無嗣断絶するも、東郷氏流高城氏の者が継いで、「大島氏」を名乗る。
- ↑ 7.0 7.1 伯州家3代・忠常は没落し、北郷氏を頼ると子孫は「志和地氏」を名乗る。伯州家の家督は忠常の叔父・忠衡が継ぐも、孫の代に無嗣断絶。それを喜入季久の次男が継いで以降は「義岡氏」を名乗る。
- ↑ ただし、西本誠司は「島津義弘の本宗家家督相続について」の脚注中で元和2年(1616年)に建立された加治木町(現・姶良市)の精矛神社(かつての義弘居館)内の経塚の碑文(現在破損)に「島津十七代藤原義弘」と署名していたと伝えられる件を指摘し、慶長16年(1611年)に兄・義久が没すると義弘自らが「島津家第17代」と名乗るようになり、家中もこれに異議を挟めなかった可能性を示している。
- ↑ ただし、「源」署名は室町時代中頃より藤原姓と平行して使用の形跡がある[14]。
出典
- ↑ 『名家・名門の秘密』 講談社〈セオリーMOOK〉、2009。
- ↑ 『島津家文書』312号
- ↑ 新名 2015, p. 38・59-60.
- ↑ 新名一仁 「南北朝期島津奥州家の日向進出-その過程と歴史的意義-」『南九州の地域形成と境界性-都城からの歴史像-』 地方史研究協議会 編、雄山閣、2010。(改題所収:新名 2015, 「南北朝期島津奥州家の大隅・日向進出とその論理-奥州家独自の領有観形成-」)
- ↑ 5.0 5.1 新名一仁「嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-」、『史学研究』235号、2001年。(改題所収:新名 2015, 「嘉吉・文安の島津氏内訌」)
- ↑ 新名一仁 「室町期島津氏〈家中〉の成立と崩壊-南九州における戦国的状況の出現過程-」『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会企画部 編〈日本史史料研究会論文集2〉、2012。(改題所収:新名 2015, 「室町期島津氏〈家中〉の成立と再編」「室町期島津氏の解体過程」)
- ↑ 7.0 7.1 7.2 山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」、『青山学院大学文学部紀要』28号、1986年。(所収:新名 2014)
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成15年)”. . 2017閲覧.
- ↑ 9.0 9.1 “島津家系図”. 尚古集成館. . 2016閲覧.
- ↑ 西本誠司「島津義弘の本宗家家督相続について」、『鹿児島県中世史研究会報』43号、1986年。(所収:新名 2014)
- ↑ 福島金治「戦国期島津氏の起請文」、『九州史学』88・89・90号、1987年。
- ↑ 松尾千歳 「島津義久の富隈城入城とその時代―義久家督をめぐる諸問題―」『隼人学』 志学館大学生涯学習センター・隼人町教育委員会編、南方新社、2004。
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 『都城市史 通史編 中世・近世』 都城市史編さん委員会 編、2005。
- ↑ 村川浩平 「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』 近代文芸社、2000。
- ↑ 高澤等 『家紋の事典』 東京堂出版、2008。
- ↑ 16.0 16.1 16.2 『島津家おもしろ歴史館』 尚古集成館、1991。
- ↑ 大野信長 『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』 学習研究社、2009。
- ↑ “薩摩・島津家の歴史”. 尚古集成館. . 2012-3-27閲覧.
関連書籍
- 『島津家文書』(東京大学史料編纂所)
- 『島津史料集』 人物往来社〈戦国史叢書6〉、1989-06。
- 三木靖 『薩摩島津氏』 人物往来社〈戦国史叢書10〉、1972。
- 『戦国九州軍記』 学習研究社〈歴史群像シリーズ12〉、1989-06。ISBN 4051051498。
- 『裂帛 島津戦記』 学習研究社〈歴史群像シリーズ戦国セレクション6〉、2001-08。ISBN 4056025959。
- 吉永正春 『九州戦国合戦記』 海鳥社、2006-07。ISBN 4874155863。
- 新名一仁 編 『薩摩島津氏』 戎光祥出版〈中世西国武士の研究 第一巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-103-5。
- 新名一仁 『室町期島津氏領国の政治構造』 戎光祥出版〈戎光祥研究叢書3〉、2015年。ISBN 978-4-86403-137-0。
関連項目
外部リンク
- 島津氏系譜 (日本語)
- 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 惟宗氏【1】 (日本語)