高師直
高師直 | |
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 正平6年/観応2年2月26日(1351年3月24日) |
幕府 | 室町幕府初代執事、武蔵・上総守護職 |
主君 | 足利尊氏 |
氏族 | 高氏 |
高 師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将[1]。足利尊氏時代に執事をつとめた[1]。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。
家系
源氏の棟梁、源義家の庶子と云われる高階惟章(実際は乳母弟か)が、義家の三男義国と共に下野に住したことに始まる。以来高氏と称して、足利氏の執事職を代々つとめた。
生涯
足利尊氏の側近として討幕戦争に参加し、建武の新政においては、師泰と共に窪所・雑訴決断所の奉行人に任じられている[1]。
建武2年(1335年)、尊氏が後醍醐天皇に中先代の乱を機に離反すると、尊氏に従って鎌倉へ下向し[1]、建武3年(1336年)2月に九州へ逃れた時にも従い、5月の湊川の戦いでも共に戦うなど[2]、終始尊氏の補佐に務めた。
延元3年/建武5年(1338年)、尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、将軍家の執事として[1]絶大な権勢を振るった。高氏の一族で、侍所や恩賞方の要職を占め、河内・和泉・伊賀・尾張・三河・越後・武蔵など数ヶ国の守護職を担った。
南北朝の動乱では、1338年に和泉石津で北畠顕家を討ち[1]、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いでは楠木正行・正時兄弟らを討ち[1]、さらには吉野山へ攻め入って焼き払い[1]、(吉野城の項を参照)南朝方を賀名生(奈良県五條市)へ撤退させるなど、主に軍事面で活躍した。
幕府内部は、将軍尊氏と政務を取り仕切る直義の足利兄弟による二頭制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき[1]、幕府を二分する権力闘争へと発展していく。やがて、直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって執事職を解任された師直は、師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃する。さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲し、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。しかし、一説にこの騒動は、師直と尊氏の示し合わせによるものといわれる。
直義の出家後、師直は尊氏嫡子の義詮を補佐して幕政の実権を握る。正平5年/観応元年(1350年)、直義の養子の足利直冬討伐のために尊氏と共に播磨へ出陣するが、この際に直義は京を脱出して宿敵南朝(後村上天皇)に降参、さらに南朝・直冬と共に師直誅伐を掲げて挙兵した(観応の擾乱)。正平6年/観応2年(1351年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直兄弟の出家を条件に和睦するが、師直は摂津から京への護送中に、復讐のために怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって武庫川畔(現兵庫県伊丹市)において、師泰、師世ら一族と共に、殺害された[1]。 なお、師直・師泰兄弟だけでなく高氏一族の多くがここで殺害されてしまった。13歳に過ぎなかったといわれる師直の子・師夏まで犠牲となった。もう一人の子・師詮はこの時は行動を別にしていたらしく難を逃れたが、正平8年/文和2年(1353年)に起こった南朝勢との戦いで命を落とした。これにより、代々足利家に筆頭重臣として仕え、尊氏の一連の決起においても軍事面で実行部隊として重役を担い、幕府成立後も足利将軍家を支えて要職を歴任していくかにみえた高氏は、室町幕府初期に政権中枢から姿を消してしまうこととなった。
物語での描写
古典『太平記』には、師直は神仏を畏れない現実主義的な人物であるとの逸話が幾つか記されている。特に天皇家の権威に対しても、「王(天皇)だの、院(治天の君)だのは必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」と発言したことが記されている[3](ただし、この発言については師直本人の言葉として直接記録されたものではなく、反師直である上杉重能・畠山直宗に協力した僧の妙吉による直義への発言中にあるもので、これも讒言である可能性がある[4])。ただし、このような態度は師直に限られたことではなく、他の幕府高官にも天皇家の権威をさほど重んじない人間は少なくなかった[5][6]。一方で師直は真如寺 (京都市)の整備に尽力した一面もあった。
また、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでを描いている。「新名将言行録」ではこれは事実としている。
『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代にあった赤穂事件を『太平記』の設定に仮託したもので、浅野長矩を塩谷判官高貞、吉良義央を師直とし塩谷判官の妻への横恋慕を発端として描いている。塩冶の「塩」は長矩の領地赤穂の特産品、高師直の「高」は義央の役職「高家」に通じる。師直と義央とは領地の三河でも繋がっている。
人物評
高兄弟は、古典『太平記』に記される逸話や後世の創作などによって「悪逆非道」の烙印を押されている。ただ、貴族の日記や太平記の描写には、師直が配下の武士の荘園の横領を認めていたなどの話が出てくるが、荘園の横領は、師直に限らず当時の武士一般に見られる行動であった。貴族や寺社勢力に対して協調的であった直義派の有力武将、斯波高経すらも興福寺の荘園横領によって、春日神木を担ぎ込まれて強訴された実例がある。また幕府内には、鎌倉幕府以来の武士層と、かつては悪党と呼ばれた人々や惣領の傘下に入ることを余儀なくされた庶子層などからなる新興武士層とが存在し、前者及び貴族や寺社などの守旧的な勢力が直義を、彼らからの圧迫を排除して在地における支配権の保障を求めた後者が師直を支持したとされている。この時代の知識階層で多く記録を残したのは貴族・寺社勢力であり、彼らに反抗する新興武士層や彼らの擁護者である足利氏に対する反感もあったと思われる。
また、師直は大規模な合戦の中で軍の機動性を発揮させるため、分捕切捨の法を初めて採用した。これは、戦功確認として斬った敵将の首を一々軍奉行に認定されるまで後生大事に持っているのではなく、近くにいる仲間に確認してもらったらすぐその場に捨てよという、当時としては画期的であると評される軍令で、師直の合理主義者的側面を証明する実例とされる。
『太平記』には、師直の心の広さを伝えていると評される逸話がある。四条畷の戦いにおいて楠木正行の軍による攻撃が始まった際、上山高元(六郎左衛門)という家臣が師直の陣中に訪ねていた。上山は鎧も持たずに師直の陣を訪れていたため、この危機を乗り切るべく、師直の鎧を一領拝借しようとした。それを見咎めた師直の配下との争いの最中に、鎧の持ち主である当の師直が通りかかった。師直は「今、師直にかわって働いてくれようとする者に、なにを鎧一領ごときを惜しもうぞ」と言い、上山にその鎧を与えたのである。この四条畷の戦いでは楠木正行率いる南朝の猛攻撃に遭い、師直は窮地に立たされた。しかしそこへ上山が突如現れ、師直の身代わりとなり討死したという。
その他
京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は伝足利尊氏として歴史教科書などでも知られていたが、近年はこれに懐疑的な見方が出てきており、画像の人物は師直[7][8]もしくは子の高師詮[9]や従兄弟の高師冬であるという説もある。
登場作品
- 戯曲
- 谷崎潤一郎『顔世』
- 小説
- 安部龍太郎「師直の恋」「狼藉なり」(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年)
- 高橋直樹「葛の楠木」「悪名」(『異形武夫』収録、新潮社、2001年)
- 伊東潤「野望の憑依者」(2014年7月 徳間書店)
- 映画
- テレビドラマ
出典
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 “【高師直(こうのもろなお)】” (日本語). 朝日日本歴史人物事典(佐藤和彦). . 2012-12-5閲覧.
- ↑ 『太平記』
- ↑ 『太平記』巻第二十六「妙吉侍者言付秦始皇帝事」
- ↑ 亀田俊和『観応の擾乱』(中央公論新社〈中公新書〉、2017年)48頁
- ↑ 『太平記』
- ↑ “【土岐頼遠(とき・よりとお)】” (日本語). 朝日日本歴史人物事典(谷口研語). . 2012-11-5閲覧.
- ↑ 藤本正行 『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、2000年、pp.164-189、ISBN 978-4-642-07762-0。
- ↑ 下坂守 「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号所収、1982年。京博公式サイトに掲載(PDF)
- ↑ 黒田日出男 『肖像画を読む』 角川書店、1998年
関連史料・参考文献
- 『太平記』
- 『梅松論』
- 東大史料編纂所『大日本史料』
- 高柳光寿『足利尊氏』
- 佐藤進一『南北朝の動乱』「室町幕府開創期の官制体系」
関連項目
- 真如寺 - 荒廃していた寺を師直が復興させている。
- 南北朝時代 (日本)の人物一覧
- 飯盛山城