身延町
身延町(みのぶちょう)は、山梨県の南西部に位置する南巨摩郡の町。日蓮宗総本山の身延山久遠寺の門前町。千円紙幣E号券、五千円紙幣D号券にある本栖湖の逆さ富士は、身延町の中ノ倉峠から撮影された写真がモデルである。
Contents
地理
隣接している自治体・行政区
地名
郵便番号の区分で記している。
旧中富町北部 (切石・西嶋) |
旧中富町南部 (原・曙) |
旧下部町北西部 (久那土・市之瀬) |
旧下部町南西部 (下部温泉・常葉) |
旧下部町東部 (古関・本栖) |
旧身延町西部 (下山・身延山) |
旧身延町東部 (身延駅・大島) |
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大塩 | 飯富 | 市之瀬 | 岩欠 | 大磯小磯 | 相又 | 大崩 |
上田原 | 伊沼 | 一色 | 上之平 | 大山 | 粟倉 | 大島 |
切石 | 江尻窪 | 切房木 | 大炊平 | 折門 | 梅平 | 大垈 |
久成 | 遅沢 | 久保 | 下部 | 釜額 | 大城 | 帯金 |
下田原 | 中山 | 熊沢 | 常葉 | 川向 | 大野 | 上八木沢 |
手打沢 | 梨子 | 車田 | 波高島 | 北川 | 小田船原 | 下八木沢 |
寺沢 | 福原 | 樋田 | 桃ケ窪 | 清沢 | 門野 | 角打 |
西嶋 | 古長谷 | 三沢 | 湯之奥 | 芝草 | 下山 | 椿草里 |
日向南沢 | 宮木 | 嶺 | 瀬戸 | 杉山 | 樋之上 | |
平須 | 八日市場 | 山家 | 大子 | 清子 | 丸滝 | |
矢細工 | 中之倉 | 波木井 | 身延 | |||
夜子沢 | 根子 | 光子沢 | 和田 | |||
八坂 | 横根中 | |||||
古関 | ||||||
水船 | ||||||
道 |
歴史
古代の律令制下では富士川左岸が巨摩郡川合郷、富士川東岸は八代郡川合郷に比定される。平安時代後期には甲斐国各地で荘園が成立し、大野近辺には『玉葉』安元2年(1176年)条に見られる施薬院領・飯野牧が成立する。
鎌倉時代には、飯野牧内の波木井郷に甲斐源氏の一族加賀美氏の分流である南部光行の子・波木井実長が居館を構える。実長は同地の地頭になり、南部氏の河内支配の一端を担った。また、下山郷には加賀美氏の一族である秋山光行の兄・光季の子・下山光重が、帯金には同じく加賀美氏の一族とされる帯金氏が入部するなど、町域では加賀美一族の影響が強い。鎌倉期の文永11年(1274年)には波木井実長の庇護のもと日蓮が草庵を構え、日蓮の草庵から発展した身延山久遠寺は甲斐・駿河方面における日蓮宗の拠点となり、波木井実長ら南部一族も帰依した。
南北朝時代には南部氏が奥州に入府し、河内地方には甲斐守護・武田氏の一族である穴山氏が入府する。戦国時代には守護武田氏の勢力が衰え、甲斐国内では武田氏と有力国人勢力との抗争が行われるが、穴山氏も河内地方における有力国人として台頭する。穴山氏は信友期に武田氏に臣従し、本拠を南部から下山に移転し、下山館を築いて河内支配の本拠とした。下山は下山館を中心とした城下町(下山城下町)が形成され、河内路(近世の駿州往還)の宿場が設けられ交通の要地としても機能した。
その後、穴山氏は信君期に領国化された駿河江尻領を任され支配領域が拡大し、下山は引き続き穴山領の中心として機能する。天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して信君は織田方に帰属し離反するが、上方にいた信君は同年6月の本能寺の変に際して一揆に襲われ横死する。本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生すると、三河国の徳川家康は家臣の岡部正綱を甲斐へ派遣し、下山において菅沼城を築城された。穴山氏は家康の庇護のもと信君の子・勝千代が継承するが、天正15年(1587年)に勝千代が死去し、穴山氏の河内支配は終焉を迎えた。
その後、支配領主は徳川氏、豊臣大名と変遷し、近世には巨摩郡西河内領の13か村、八代郡東河内領の11か村が成立する。全村が幕府直轄領、甲府藩領を経て、享保9年に甲斐一国が幕府直轄領化されると在方は三分代官支配となり、町域は上飯田代官支配、後に市川代官支配となる。このころは身延山久遠寺の門前町が発達し、多くの参詣者が訪れた。
山間部の河内地方は米麦栽培が乏しく農間余業が行われ、町域でも紙漉や楮・三椏栽培が行われた。富士川流域の大野には大野堤防が所在する。大野堤防は石積の堤防で、慶安2年以前に水害により破損し、本遠寺と関係の深い紀州徳川家により修築されたと考えられている。
沿革
- 1875年(明治8年)1月 - 巨摩郡身延村・波木井村・梅平村・大野村が合併して身延村となる。
- 1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法の施行により、身延村が南巨摩郡の所属となる。
- 1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、身延村が単独で自治体を形成。
- 1931年(昭和6年)1月1日 - 身延村が町制施行して身延町となる。
- 1955年(昭和30年)2月11日 - 下山村・豊岡村・西八代郡大河内村と合併し、改めて身延町が発足。
- 2004年(平成16年)9月13日 - 身延町・中富町・西八代郡下部町が合併し、現在の身延町が発足。町名は公募により選ばれ、南巨摩郡に属すことが県議会で決定した
人口
身延町(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
行政
- 首長名:望月仁司(もちづきひとし)2008年10月24日就任 2期
- 前町長:依田光弥(よだみつや)
経済
産業
- 主な産業
- 産業人口
姉妹都市・提携都市
国内
- その他
- 全国門前町サミット - 全国の神社仏閣を中心に発展してきた門前町を有する自治体・観光協会・商業関係者などが集まり地域活性、街作り推進のため開催する会議。
- 平成・南部藩 - 南部氏とゆかりのある自治体により結成された架空の自治体。
教育
大学
高等学校
中学校
合併時点では4校存在したが、現在は1校に集約している。
- 身延町立身延中学校(久那土中学校、下部中学校、中富中学校、旧身延中学校の4校が統廃合し、2016年に開校)
小学校
合併時点では8校あった小学校であるが、現在は3校に集約している。なお、統合にあたり旧町域にこだわらず北部、中部、南部で統合を行っている。
- 身延町立身延清稜小学校(2017年に身延町立西島小学校と身延町立久那土小学校が統合。校舎は西嶋小学校を使用。):町北部(西島・切石(静川)・久那土地区)
- 身延町立西島小学校は2010年に身延町立西嶋小学校と身延町立静川小学校が統合したため、合併後2回統合されたことになる。
- 身延町立下山小学校(2017年に(旧)身延町立下山小学校、身延町立下部小学校、身延町立原小学校が統合。校舎は(旧)下山小学校を使用。):町中部(飯富(原)・下山・常葉・古関地区)
- 身延町立下山小学校は旧身延町立身延北小学校であった。
- 身延町立身延小学校(2018年に(旧)身延町立身延小学校、身延町立大河内小学校が統合。校舎は(旧)身延小学校を使用。):町南部(梅平・豊岡・帯金・大河内地区)
- 身延町立身延小学校は旧身延町立身延西小学校、身延町立大河内小学校は旧身延町立身延東小学校であった。なお、かつて豊岡地区に身延町立身延南小学校が存在したが、身延町豊岡小学校に改名を経て(旧)身延小学校に統合されている。
交通
鉄道路線
バス
- 山梨交通・京王バス東 - 中央高速バスとしてバスタ新宿まで運行する。
- 山交タウンコーチ - 身延駅から久遠寺へ向かう。
- 富士急山梨バス - 下部温泉、甲斐常葉駅から富士山駅方面へ1日1本のみ乗り入れている。
- 身延町営バス - 身延駅と鰍沢口駅を結ぶ身延鰍沢線と中富町域と旧下部町域を中心に運行する古関甲斐岩間線、古関循環線がある。
- 早川町乗合バス - 身延駅および下部温泉駅より早川町へ向かう。
道路
- 一般国道
- 都道府県道
- 道の駅
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- 旧下部町地域
- 旧中富町地域
- 山梨県立なかとみ青少年自然の里: 和紙・陶芸の手作り体験ができる陶芸工房を備え、雨天時にも活動可能な体育館と定員数100人の宿泊施設をもつ。
- なかとみ和紙の里: 西嶋和紙の手漉き体験、全国の和紙の展示、工芸美術館、地元特産品の飲食施設の4施設で構成されている。
- ふるさと富士川まつり
- 沢奥(さおき)のおまつり
- 西島秋季例大祭
- 八日市
- 旧身延町地域
出身有名人
身延町が舞台、または登場する作品
- 『簪』
- 下部温泉の温泉宿が舞台。
- 『ゆるキャン△』
- 舞台の中心が同町にある架空の高校「本栖高校」(旧下部小学校・下部中学校跡地にあるという設定)で、主要メンバーはそこに通学している。
- その他、作中では中之倉にある本栖湖畔のキャンプ場、身延駅前などといった実在する風景やフレスポみのぶを基にした店舗などが登場する。
- ギャンブル『宝探し』にて富士山の真西というヒントから、同町の梅平地区内にある架空の新興住宅地を捜索する。
- 作中では「梅平」の地名は出てくるが、「身延」の地名は記されていない。
外部リンク
- 旧下部町
- 旧下部町誌(昭和56年編纂、1,959ページ) 身延の町誌>「旧下部町の町誌」
- 旧中富町
- 旧中富町誌(昭和46年編纂、1,709ページ) 身延の町誌>「旧中富町の町誌」
- 旧身延町
- 国土地理院 地図閲覧サービス ウオッちず 2万5千分1地形図名:切石 (北東)テンプレート:404