北条時行
北条時行 | |
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
生誕 | 正中2年11月22日(1325年12月27日)以降 |
死没 | 正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日) |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 北条氏(得宗) |
北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。
鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。
Contents
生涯
鎌倉幕府滅亡
北条高時の次男として生まれ、母は二位局。生年に関しては不明であるが、兄の北条邦時が正中2年(1325年)11月22日生まれなので[1]、それ以降ということになる。幼名は定かではなく、亀寿丸、あるいは長寿丸、勝長寿丸といった[2]。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、執権北条高時を始め北条一族は皆自害し、鎌倉幕府は滅亡したが、時行は母によって鎌倉から抜け出し、難を逃れていた。兄の邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の五大院宗繁の裏切りによって新田方に捕らえられ処刑されている。
時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄であり、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた。
1335年、北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は得宗被官(御内人)の諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた。『太平記』によれば、盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅して二位局らを困惑させている隙に時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後、二位局は悲観して入水自殺したという。
時行挙兵、鎌倉奪還
(詳細は「中先代の乱」項目参照)
建武2年(1335年)7月、成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった。
建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、7月22日には女影原(埼玉県日高市)で待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へ進軍した。
そして、ついに尊氏の弟である足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破り、7月25日に鎌倉を奪回した[3]。その2日前、直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害しているが、時行が前征夷大将軍である親王を擁立した場合には、宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった。
「中先代」
鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった。
直義と合流した尊氏は西進してくる時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび破れ退却を余儀なくされた。
そして、ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行軍は壊滅し、8月19日に諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら43人は勝長寿院で自害して果てた[4]。自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた。
時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる。
また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどしたため、後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった。
南朝への帰参
延元2年(1337年)、時行は後醍醐天皇方の南朝に帰参し、勅免の綸旨を得ることに成功した[5]。足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で自害したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を赦免され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた。
時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けている。時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている。
時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。これに対して家永遵嗣は、元々時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解している[6]。
復活と転戦、鎌倉再奪還
朝廷への帰参を果たした時行は、今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した(『梅松論』)。
南朝へ帰順した時行は東国へ向かい[7]、北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により、北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった。
顕家が戦死したことにより北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の息子新田義興の軍勢に加わるなど、足利方に執拗に挑み続けた。
正平7年/文和元年(1352年)、南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。閏2月15日に時行は新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに、上野国で挙兵した。また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵した。
閏2月18日、時行や新田義興・脇屋義治らは三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉に入り占拠した(武蔵野合戦)[8]。だが、別に戦っていた新田義宗が敗れて旗色が悪くなると、3月2日に鎌倉を脱出し、再び姿を晦ました。水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている。
最期
『鶴岡社務録』などの史料によれば、鎌倉を逃げた時行は遂に足利方に捕らえられ、正平8年(1353年)5月20日に鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。このとき、彼に付き従っていた長崎駿河四郎、工藤二郎も共に殺害された[9]。
だが、洞院公賢の日記園太暦や今川了俊の難太平記などによると、ここでも時行は脱走し、その行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある。
以上のように、1353年に処刑されたことになっているが、時行の末路については、不明瞭な点が多い。
後北条氏
北条時行の処刑からおよそ150年後、室町幕府政所執事伊勢氏の一族出身の伊勢宗瑞(北条早雲)が関東で勢力を伸ばし、息子の氏綱より北条を名乗り(北条氏綱)、足利方古河公方と対立する。足利方と対立する伊勢氏が北条を名乗ったことからも、関東において北条の名声は衰えず、求心力があったと考えられる。
戦国時代に一代にしてのし上がった、とされる小田原北条氏(後北条氏)の創始者北条早雲は、伊豆国韮山城主の北条行長の養子となり、その名跡を継いだ、とする説がある。この北条行長は時行の子である行氏(時満)の孫すなわち北条得宗家の後継者であるとされ、この名跡を継ぐことで早雲以降の子孫は「北条」姓を名乗り(後北条氏、小田原北条氏)、早雲は関東進出の正統性を得た、とする説である。また、早雲は一時期「長氏」や「氏茂」「氏盛」と名乗ったとされており、以降の子孫は「氏」の字を通字としているが[10]これは時行の子の「行氏」の字を取っており、後北条氏の鎌倉北条氏(得宗家)後継者であることを示す目的のためである、とする説がある(氏綱の元服時には宗端は今川氏の姻族・重臣であったため、「氏」は今川氏親からの偏諱という説もある[11])。『諸系譜』29巻に収録されている「横井氏系図」では「時行-時満(初名行氏。住尾張海東郡蟹江)-時盛-行長(娶伊勢貞親妹[12])-長氏[13](初名盛時、氏茂。実伊勢備中守盛定[14]男)」とされている。
伝承
- 時行は、たとえ自分が非命に倒れても、北条の血が後世に残るようにと、育った諏訪の地で大勢の巫女に手を付け、また各地を転戦する中でも地元の豪族の娘などを寝取ったりして多くの胤子を残したとする伝承がある。諏訪で育った時期は幼少期であり、実情と合致しないのであるが、ともあれ時行の落胤、末裔を称する家は多く、例えば賤ヶ岳の七本槍の一人である平野長泰[15]や、後北条氏家臣の板部岡江雪斎、幕末の思想家横井小楠もその一人である。
- 岡野氏、横井氏(子孫には横井小楠)や平野氏(尾張平野氏、子孫に平野長泰)など時行の子孫を称する家系もある。なお、近年黒田基樹は後北条氏第2代に数えられる北条氏綱の正室であった養珠院殿が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している[16]。ゆえに、あくまで可能性だが養珠院殿の子孫(子の北条氏康など)は時行の子孫であると考えることもできる。
画像集
- 勝長寿院跡.jpg
勝長寿院跡(鎌倉雪ノ下4諏訪頼重・時継親子ら43人自害の地)
- 龍口刑場跡.jpg
龍口刑場跡(藤沢市片瀬北条時行最後の地?正確な場所・逃走?諸説あり)
脚注
- ↑ (正中2年か)11月22日付「金沢貞顕書状」。『金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』38巻・29255号。
- ↑ 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』
- ↑ 阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3) )
- ↑ 『大日本史料』第6編之2、540頁
- ↑ 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』
- ↑ 家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年10月。
- ↑ 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』
- ↑ 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』
- ↑ 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』
- ↑ 当主だけの例でも北条氏綱、氏康、氏政、氏直、となる。
- ↑ 黒田基樹『戦国北条氏五代』,p.064
- ↑ 貞親は早雲の叔父にあたるとされており、貞親妹は叔母にあたる。「伊勢氏」項目参照。
- ↑ のちの北条早雲
- ↑ 盛定の妻は貞親の別の妹
- ↑ 公家の「清原氏」の子孫とも称する。
- ↑ 黒田基樹「伊勢宗瑞論」(黒田 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7)pp.16-17
参考文献
- 「北条時行」「中先代の乱」(国史大辞典)
- 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』
- 鎌倉・室町人名事典(新人物往来社)
- 北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」