ウラジオストク
ウラジオストク Владивосток | |
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位置 | |
ウラジオストクの位置。ルースキー島(中央の赤い部分)の対岸、ピンクの部分がウラジオストク。の位置図 ウラジオストクの位置。ルースキー島(中央の赤い部分)の対岸、ピンクの部分がウラジオストク。 | |
座標 : 東経131度55分北緯43.117度 東経131.917度 | |
歴史 | |
建設 | 1860年 |
旧名 | 海参崴 |
行政 | |
国 | ロシア |
連邦管区 | 極東連邦管区 |
行政区画 | [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Primorsky|border|25x20px|テンプレート:Country alias Primorskyの旗]] 沿海地方 |
市 | ウラジオストク |
地理 | |
面積 | |
市域 | 561.54 km2 |
標高 | 40 m |
人口 | |
人口 | (2010年現在) |
市域 | 592,069人 |
自治体コード (OKATO) : 05 401 | |
公式ウェブサイト : www.vl.ru |
ウラジオストク(ロシア語:Владивосток ヴラヂヴァストーク、IPA:[vlədʲɪvɐˈstok]、;ラテン文字表記の例: Vladivostok、漢語: 海参崴)は、ロシアの極東部に位置する都市で、沿海地方(プリモールスキイ地方、Приморский край)の州都である。
Contents
名称
ウラジヴァストークという語(Владивосток。他にカナ音記としては、ヴラジヴォストーク、ヴラヂヴォストーク、ウラディヴォストークなど)は、「ヴラジ- (влади)」と「ヴォストーク (восток)」から成っており、「ヴォストーク」は「東」を意味し[1]、「ヴラジ-」は「領有・支配する、物件を自由に使う、制御する」を意味する動詞「владеть (ヴラヂェーチ)」から来ている。この名称は「東方を支配する町」を意味するが、その通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市であった[2]。これは、ロシアの古い都市ウラジーミル(公・大公の名に由来)に範を取った名称であるためであり、ほかにも同時期に作られたウラジカフカス(カフカースを支配する町)などがある[3]。
日本語では文献により様々な表記が見られるが、代表的なものとしてはウラジヴォストーク、ウラジオストック、ヴラヂヴォストーク(ソビエト科学アカデミーによる公式な日本語表記)などが挙げられる。
上述の通り、本来のロシア語での造語としてはウラジ・オストク(ヴラディ・ヴォストーク)が正しいのであるが、かつての日本ではウラジオ・ストクと解され、明治時代以降浦塩斯徳(又は浦潮斯徳)と当て字された。通称は「浦塩(浦潮)/ウラジオ」と略され、気象通報でも以前は「ウラジオ」と呼称されていたが、現在は「ウラジオストク」と呼称されている。
中華民国(台湾)と中華人民共和国では「ナマコの入り江」を意味する中国(清帝国)領時代の名称、海参崴(満州語:ᡥᠠᡳᡧᡝᠨᠸᡝᡳ、転写:haišenwei、繁体字: 海參崴、简体字:海参崴[4])と呼ぶのが一般的である。
地理
ウラジオストク市は沿海地方南部のピョートル大帝湾の南にある。日本海に突き出したムラヴィヨフ・アムールスキー半島(長さ30km、幅12km、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーに由来する)南端部の北緯43度7分、東経131度51分に位置し、ロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれる軍港都市。人口は594,701人(2002年国勢調査)。
丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっている。街の中心部は金角湾の奥にある。南には東ボスポラス海峡をはさんで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かぶ。
気候
亜寒帯冬季少雨気候(冷帯夏雨気候)である。
- 年平均気温: +4.6℃
- 1月の平均気温: -12.6℃
- 8月の平均気温: +19.6℃
- 年間降水量は823.9mm(以上の4項目は1971 - 2000年平均)。
- 真夏の気温: +18 - +28℃
- 真冬の気温: -14 - -24℃
降雪は、山間部では10月末から、沿岸部では11月末から始り、市内では降雪は少ない。冬は北風が強く、日本海を低気圧が通ると風、ときには雪も強まり、天気が荒れる。緯度では札幌と同緯度に位置するが、沿岸都市でもあるにもかかわらず1月の平均気温は-12.6℃と冬季の気温は非常に低くなっており、これは日本で最も寒い陸別町の1月の平均気温-11.4度よりも低い(平均最低気温は陸別町が-20.2度と5度ほど低い)。その一方で、夏季は好天の日には暑くなることがあるがハバロフスクなどの内陸の地域市に比べると日較差はさほど大きくなく過ごし易い。夏や秋には台風が上陸することもある。
ウラジオストクの気候資料 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 5.0(41) | 9.9(49.8) | 15.2(59.4) | 22.7(72.9) | 29.5(85.1) | 31.8(89.2) | 33.6(92.5) | 33.0(91.4) | 30.0(86) | 23.4(74.1) | 17.5(63.5) | 9.4(48.9) | 33.6(92.5) |
平均最高気温 °C (°F) | -8.0(17.6) | -4.1(24.6) | 2.2(36) | 9.9(49.8) | 14.8(58.6) | 17.8(64) | 21.2(70.2) | 23.3(73.9) | 19.8(67.6) | 13.0(55.4) | 3.1(37.6) | -5.2(22.6) | 9.0(48.2) |
日平均気温 °C (°F) | -12.3(9.9) | -8.5(16.7) | -1.8(28.8) | 5.1(41.2) | 9.8(49.6) | 13.6(56.5) | 17.6(63.7) | 19.8(67.6) | 16.0(60.8) | 8.9(48) | -0.9(30.4) | -9.0(15.8) | 4.9(40.8) |
平均最低気温 °C (°F) | -15.3(4.5) | -11.6(11.1) | -4.8(23.4) | 2.0(35.6) | 6.7(44.1) | 11.2(52.2) | 15.8(60.4) | 17.7(63.9) | 13.2(55.8) | 6.0(42.8) | -3.8(25.2) | -11.9(10.6) | 2.1(35.8) |
最低気温記録 °C (°F) | −31.4(-24.5) | −28.9(-20) | −22.0(-8) | −8.1(17.4) | −0.8(30.6) | 3.7(38.7) | 8.8(47.8) | 10.1(50.2) | 2.2(36) | −9.7(14.5) | −23.0(-9) | −28.1(-18.6) | −31.4(-24.5) |
降水量 mm (inches) | 14(0.55) | 15(0.59) | 27(1.06) | 48(1.89) | 81(3.19) | 110(4.33) | 153(6.02) | 151(5.94) | 116(4.57) | 57(2.24) | 28(1.1) | 18(0.71) | 818(32.2) |
降雪量 cm (inches) | 11.5(4.53) | 12.1(4.76) | 9.8(3.86) | 5.7(2.24) | 0.0(0) | 0.0(0) | 0(0) | 0(0) | 0(0) | 0(0) | 4.5(1.77) | 15.8(6.22) | 59.4(23.39) |
% 湿度 | 58 | 58 | 60 | 67 | 75 | 89 | 91 | 87 | 77 | 65 | 60 | 60 | 70.6 |
平均降水日数 | 2.7 | 3.0 | 3.9 | 6.8 | 7.9 | 10.8 | 11.3 | 10.2 | 7.3 | 5.5 | 4.2 | 2.6 | 76.2 |
日照時間 | 176.7 | 184.8 | 217.0 | 192.0 | 198.4 | 129.0 | 120.9 | 148.8 | 198.0 | 204.6 | 168.0 | 155.0 | 2,093.2 |
出典#1: pogota | |||||||||||||
出典#2: HKO |
民族構成
ロシア人とウクライナ人が大多数を占めるものの、ベラルーシ人やアルメニア人などもいる。その他、近年の建設ラッシュに合わせ、北朝鮮や中央アジア各地からの労働者が建設業などに携わっている。かつては日本人が6,000人ほど在住していたが、2011年現在、外務省へ届け出ている在留邦人は104人[5]に過ぎない。
標準時
この地域は、ウラジオストク時間の標準時を使用している。時差はUTC+10で、夏時間はない。2011年3月までは冬時間がUTC+10で夏時間がUTC+11であったが、同年3月からは夏時間を標準時とする形で夏時間制が廃止された。しかし2014年10月から通年UTC+10となった。
歴史
石器時代
2万年前に日本から運ばれた隠岐産の黒曜石などが発掘されている[6]。
ロシア帝国時代
19世紀までは清国の支配地域で満州の一部であったが、1860年に北京条約によって沿海州一帯を清から獲得したロシア帝国が沿海州の南部に建設した。
イザベラ・バードの朝鮮紀行によれば、1860年に測量を開始、1863年にオークやマツの大木を切り払い仮設小屋を建て始めた際には野生のアムールトラによる被害が出た。1878年にニコラエフスクから海軍施設を移設すると人口は増加し、1897年にはロシア人のほか朝鮮人、中国人などの民間人を含め25,000人規模の都市となった[7]。1880年以降、黒海沿岸オデッサとの間に義勇艦隊が定期航路を開設し、農業移民を運んだ[8]。
19世紀末、日本海を通じての太平洋への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする不凍港[9]として極東における重要な港町に位置づけられ1878年にニコライエフスクから海軍が移駐、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊がおかれた。これは、のちに強化されてウラジオストク巡洋艦隊となった。ウラジオストクには造船所やドックが建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた。
日露戦争時には、ウラジオストク巡洋艦隊は通商破壊に活躍し、黄海海戦ののち旅順艦隊の残存艦はウラジオストク巡洋艦隊に合流した。日露戦争後はその構成艦船の主要なものがほとんどバルト海へ帰還し、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小された。1905年までに中国領満州のハルビンを経由してモスクワとウラジオストクを繋ぐシベリア鉄道(一部、東清鉄道)が建設された。1912年に日本とウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(1914年からは東京駅) - 金ヶ崎駅(後に敦賀港駅に改称)で運行される(ボート・トレイン)。
ソ連時代
ロシア革命後、ウラジオストクには、日本、イギリス、アメリカの干渉軍が進駐した(シベリア出兵)。1920年 - 1922年の間、極東共和国の支配下にあり、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、9万7千人から41万人までに増加した。1922年10月25日、最後の干渉軍部隊が撤収し、ウラジオストクは赤軍の支配下に入った。市の人口は、10万8千人にまで減少した。
1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストクを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。ソビエト連邦時代の1938年には沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに軍港として重視されるようになった。
その後、第二次世界大戦(十五年戦争(日)・大祖国戦争(ソ))の時代を過ぎて冷戦期に入った後には、以上のような国際都市という性格から豹変することとなる。1958年からソ連の崩壊する1991年までごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市だった。この間、東のナホトカが外国貿易港の機能を代行していた。
ロシア連邦時代
ソ連崩壊後は、閉鎖都市指定が解除された。民間旅客航空会社のウラジオストク航空が誕生し、日本の新潟空港、富山空港、関西国際空港、北九州空港、成田国際空港との間に定期便が就航していたが、サハリン航空と合併してオーロラとなった。2017年10月現在、ウラジオストクから日本への直行便は週10便ある。オーロラの成田-ウラジオストク便が週3便、S7航空の成田便が週4便、関西空港便が週3便[10]である。
2012年9月にはルースキー島でロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となった。APEC終了後に極東連邦大学がその会場の建物に移転した。
ロシア政府はAPEC開催に備える形で、ルースキー島連絡橋の建設やウラジオストク国際空港の改修を行うなど、ウラジオストクに対して総額約6000億ルーブル(1兆6500億円)の莫大な投資を実施した[11]。現在ルースキー島はリゾート地化を目的として大規模な開発が進められており、リゾートホテルなどが出来ている。
産業
主な産業は造船業と漁業、軍港関連産業である。ソ連崩壊後は日本などからの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっている。経済的にはインフラ整備の遅れが問題になっていたが、2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施され、急速に整備が進んだ。
現在は自動車産業を積極的に誘致している。2009年12月にソラーズがロシア極東地区初の自動車工場として操業を開始したほか、マツダやトヨタ自動車など外資系メーカーの進出も進んでいる。また、ガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設が計画されている。
ロシア極東部への外国投資を促すのが主目的の国際会議「東方経済フォーラム」が、2015年から毎年9月にウラジオストクで開かれている。
交通
道路
市外への主要道路には、北方面にM60幹線道路(ウラジオストク - ハバロフスク、別名: ウスリー幹線道路)の起点になっていて、この道路はシベリア横断道路(ノヴォシビルスクなどを経てモスクワとサンクトペテルブルクへ)の最東端になっている。また東方面にナホトカへの道路、南方面へハサンへの道路(さらに北朝鮮の国境を経て清津へ)もある。
鉄道
美しい駅舎を構えるウラジオストク駅はシベリア鉄道の東方の始発駅である。長距離列車の行き先はハバロフスク、モスクワ、近距離ではナホトカ。 旧東清鉄道が、ウスリースク駅・グロデコヴォ駅・綏芬河を経由して、中華人民共和国の黒竜江省ハルビンを結ぶ。
2012年7月下旬にウラジオストク駅とウラジオストク国際空港を54分で結ぶアエロエクスプレスが運行を開始した。空港からウラジオストク駅へは、2016年時点で7:57〜17:30までに5本、ウラジオストク駅から空港までは7:21〜18:00までに5本ずつしかなく運行本数が少ないため注意が必要。
航空
ウラジオストク国際空港が、市の中心部から北に50kmほどのアルチョーム市 にあり、ロシア国内主要都市と日本(成田空港、関西空港)、韓国(ソウル、釜山、大邱)、中国(北京、天津、上海、香港など)、北朝鮮(平壌)、タイ(バンコク、プーケット)に就航している。韓国へはLCCも就航している。
- 航空便は2008年頃には日本との直行便は最大で4都市(新潟・富山・大阪/関西・北九州)・週10便前後も運航していたが、2011年には1都市(東京/成田)・週2便へまでに減少してしまった。その後は2012年のAPEC開催を契機に、成田空港との間にS7航空の直行便が就航。
2017年春からは東京/成田はオーロラ航空も参入して毎日1往復、大阪/関西はS7航空のみが週1往復となった。(2018年5月25日より再開)新潟へは夏期のみ就航。
船舶
軍港で有名なウラジオストク港は商港としても重要であり、各地への航路が開かれている。 現在は韓国資本のDBSクルーズフェリーが韓国東海市経由で鳥取県境港の間にフェリーを月に2回 - 5回運航している。 かっては日本への定期旅客船として、富山県高岡市の伏木港との間にルーシ号が就航していたが、2009年12月で運行を休止した。
市内公共交通
バスが多数運行されているほか、金角湾を望む鷲の巣展望台には、市民の足としてのケーブルカーが敷設されている。以前はウラジオストク市電(路面電車)、トロリーバスも広い路線を有していたが、2009年7月に市長が路面電車の全廃を表明。2018年4月現在はミンヌイ・ゴロドク電停(Минный городок)とサハリンスカヤ電停(Сахалинская)を結ぶ1路線が観光用として残すのみとなっている[12]。またトロリーバスもフタラヤ・レーチカ駅及びバスターミナルのそばにある停留所発着の2系統のみとなっている。 シベリア鉄道もウラジオストク市内は区間ローカル列車が運転され(エレクトリーチカ)、市内交通の一翼を担っているが、本数は多くない。
名所・観光地
- スヴェトランスカヤ通り・・・ウラジオストク随一の繁華街
- アドミラーラ・フォーキナ通り
- グム・オールド・コートヤード
- 鷲の巣展望台
- 黄金橋
- 国立アルセーニエフ記念沿海州総合博物館
- アルセーニエフの家博物館
- ニコライ2世凱旋門
- アンドレイ教会
- ワシリー・オシェプコフと嘉納治五郎の像
- 潜水艦C-56博物館
- クラースヌイ・ウィルペム軍艦
- ウラジオストク要塞博物館(Vladivostok Fortress)
- スポーツ湾
- ポクロフスキー聖堂 (ウラジオストク)
- プリモリエ・エンタテイメントゾーン・・・近郊のアルチョーム市にあるカジノを中心とした娯楽施設群
- 郊外のルースキー島:ルースキー島連絡橋、沿海州海洋博物館など
教育
大学
ウラジオストクにある大学[13]は、
- 極東連邦大学 (ロシア語: Дальневосточный федеральный университет、英語: Far Eastern Federal University)
- 極東技術大学 (Far Eastren State Technical University)
- 国立海事大学 (Maritime State University)
- 極東国立水産技術大学 (ロシア語:Дальневосточный государственный технический рыбохозяйственный университет、英語:Far Eastern State Technical Fisheries University)
- ウラジオストク国立経済公務大学 (Vladivostok State University of Economics and Service)
- 極東国立芸術大学 (Far Eastern State Academy of Arts)
- ウラジオストク国立医科大学 (Vladivostok State Medical University)
- 太平洋国立経済大学 (Pacific State University of Economics)
など
文化
ロシアを代表するロックバンド、ムミー・トローリがデビューした街としても知られる。市内にはバンドの博物館も存在する。
黒澤明監督の映画「デルス・ウザーラ」(1975年公開)や、チョナン・カン(草彅剛)主演の映画「ホテルビーナス」(2004年公開)、チャン・ドンゴン主演の映画「タイフーン」(2006年公開)、前田敦子主演の映画「Seventh Code」(2014年公開)の撮影が行われた地である。日本人カメラマン安達貴が活動の拠点にしている。[2]
舞台となった作品
- 流星の双子
- 瓶詰の地獄「支那米の袋」著者:夢野久作
日本との関係
ウラジオストクと日本の関係はウラジオストク創設の1860年以降に始まる。1871年にはウラジオストク-長崎間に電信線が開通した[14]。ウラジオストクへ移り住む日本人は中国、朝鮮などと比べると少なかった。また日露戦争が日本人の帰国に拍車をかけた。日露戦争後にウラジオストクと敦賀港に定期航路が開設されたことで日本との関係が強まっていった。こうしてウラジオストクには非常に規模の大きな日本人街が形成され、1920年頃(大正9 - 10年頃)には6,000人近くの日本人が暮らし、日本とロシアの交流は非常に活発に行われていた。当時すでにソ連体制が成立していたがウラジオストクには十分な統治が及ばず、そこへ日本を中心とした列強国による干渉戦争が始まった。シベリア出兵に参加した日本人軍人に対し、ウラジオストク在住の日本人が商売を行っていた。シベリア出兵日本軍人はパルチザンの抵抗で撤兵を余儀なくされ、ソ連政権の統治が強化されるに伴い日本人の多くが帰国の途についた[14]。ウラジオストク町には浦潮本願寺などがあり、日本人による商店や企業が多数進出していた。
しかしその後の東西冷戦期のウラジオストクは、前述のように、高度な軍機に関わる軍港として閉鎖都市であり、以上のような日露(日ソ)間の関係もナホトカに移動され、他の全ての外国人と同様、日本関係者にも一般には、ウラジオストクは訪れることあたわざる地であった。
1909年~1922年、1925年~1946年、および1993年以降、在ウラジオストク日本国総領事館が設置されている(不在期間の後者は、東西冷戦期である)。
- 現在のウラジオストク市内では、日本から輸入した右ハンドルの中古車が数多く走っており、その比率はおよそ9割以上である。また一時期には、およそ10万人が車輸入販売、修理、洗車などの中古車関連ビジネスに従事した[15]。2009年1月よりロシア政府が自国自動車産業の保護を目的とし輸入車の関税を大幅に引き上げたため、地元では大きな影響が出ている。
- 日本との地理的な近さ(東京からはソウルよりも近い)などから日本語教育が非常に盛んであり、市内の各大学や高校などでは日本語教育が行われている。また、同時にロシア語を学ぶ日本人留学生も少なくない。
2017年8月8日よりウラジオストク域内では電子ビザでの滞在が可能となり、渡航日の4日前にネット上で申請することで無料でビザ取得が可能となった[16]。
進出している主な日系企業・団体
- NHKウラジオストク支局
- 共同通信ウラジオストク支局
- 朝日新聞ウラジオストク支局
- 丸紅
- 住友商事
- 三井物産
- 島津製作所
- 商船三井
- 三菱UFJ銀行
- 北海道銀行
- 日野自動車
- トヨタ自動車
- マツダ
- ウラジオストク日本センター
姉妹都市
脚注
- ↑ 日本で知られているものとしては、宇宙船の「ボストーク」と同じ語である。
- ↑ 木村汎は著書『新版 日露国境交渉史』p.75で「ムラヴィヨフは、1860年の北京条約によって清国から割譲された海参威をウラジヴォストークと名づけた。「東方(ヴォストーク)」を「支配せよ(ウラジ)」の意味である。」と説明している。ただし、владеть の命令形は владей (ヴラヂェーイ)であり、「ウラジ」ではない。
- ↑ マックス・ファスマー『語源辞典』。
- ↑ 中華人民共和国の普通話では「ハイシェンワイ」と、中華民国の国語では「ハイシェンウェイ」と読む
- ↑ 海外在留邦人数調査統計 平成23年10月1日現在 外務省
- ↑ http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/esque/2005/No56/tokushu3.html
- ↑ イザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫p282
- ↑ 原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂、1998年、111ページ。川上俊彦著『[[[:テンプレート:近代デジタルライブラリーURL]] 浦潮斯徳]』大倉保五郎、1892年6月、43〜44頁、「第十七 義勇艦隊」。
- ↑ 少なくとも1892年現在、不凍港ではなかった。肝付兼行述『西比利亜鉄道ニ対スル日本ノ開港場ヲ論ス:港湾調査委員報告 』(金谷昭、1892年)において、海軍水路部長の肝付は、毎年12月21日より4月15日までは冬期氷結して艦船の出入りが出来ない(表示された右ページ1〜2行目)と記している。また、東邦協会会員・松浦充美著『東露要港浦塩斯徳』(東京堂、1897年、秋田県立図書館および大阪府立中央図書館所蔵)39ページ、第五「冬時浦港氷塊破砕の模様」によると、1893年にバルト海より「軍艦シラチー号を回航し来り同年冬季時結氷の初めより破砕に従事したるを始とし」たが、厳冬期には能力が不足し、軍艦・商船のための航路確保が困難であった。1897年から1898年の冬に状況が変わった(東京朝日新聞1898年1月18日3面「浦塩斯徳の繁忙」)。V.l.アガーポフ「研究ノート:露日戦争におけるウラジオ巡洋艦戦隊の作戦」堤明夫訳、軍事史学会編『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産』軍事史学41-1・2合併号、2005年6月、ISBN 4-7646-0319-5、99ページに、艦隊用の基地としてのウラジオストクの「最も不便な点は冬季における90〜120日間の港の凍結であったが、この問題は砕氷艦「ナデージヌイ(Nadezhny)」が配備されたことによって解決され、年間を通しての航行が可能となった」(出典は、Russkoe sudohodstvo, 1904. No.3(263), pp.227-28)と記されている。
- ↑ [1]
- ↑ ウラジオストクAPECサミットの施設建設業者が作業が終了 ノーボスチ通信2012年5月17日
- ↑ 消えゆく路面電車 進む線路解体 市民の中に反対の声中日新聞2009年12月15日
- ↑ ウラジオストクの大学(英語)
- ↑ 14.0 14.1 日本とウラジオストク(ロシアビザーズ) 2017年2月24日
- ↑ 信濃毎日新聞2010年5月7日より。
- ↑ 電子ビザ 在日ロシア連邦大使館
参考文献
- 木村汎 (2005). 新版 日露国境交渉史 北方領土返還への道 (角川選書). 角川学芸出版. ISBN 4-04-703386-3.
外部リンク
- ウラジオストク市公式サイト (ロシア語)
- ディスカバー ウラジオストク(日本語)
- ウラジオストク日本人会 (日本語)
- 知られざるウラジオストク ロシアNOW