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海部 俊樹(かいふ としき、1931年(昭和6年)1月2日 - )は、日本の政治家。勲等は桐花大綬章。
衆議院議員(16期)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。
国際天文学連合 (IAU) 会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、トヨタ自動車元副社長の小野茂勝の従弟である。
来歴・人物
生い立ち
1931年(昭和6年)名古屋市で写真館を経営する家の6人兄弟の長男として生まれる。1943年旧制東海中学(現・東海中学校・高等学校)に入学する。旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)に落ちて挫折を味わった。学校では学徒動員で飛行機の部品作りに携わる。少年航空隊に応募するも、入隊予定の1945年10月を前に終戦となる[1]。旧制中央大学専門部法科卒業後は中央大学法学部に進んだ。新制早稲田大学第二法学部法律学科に編入学。中大在学時は中央大学辞達学会に、早大在学時は早稲田大学雄弁会に所属した。1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念する[1]。
衆議院議員
1960年11月20日の第29回衆議院議員総選挙で旧愛知県第3区から全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。自民党青年局部長、1965年には自民党青年局長となり、青年海外協力隊の創設に力を注ぎ[1]、生みの親の一人として知られている。 初当選以来、河野金昇が幹部を務めていた三木派に所属し、三木武夫の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。三木が総裁選で田中角栄に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。ただし、引退後の回想録『政治とカネ』で「三木もそれなりに買収工作をやっていた、金を貰った議員がみんな三木に入れていれば結果は変わっていた」と海部自ら暴露している。
三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。
1966年に労働政務次官、1972年に衆議院議院運営委員長、1973年に自民党人事局長、1974年に自民党副幹事長などの要職を歴任する[1]。
1974年には、三木武夫内閣の官房副長官に就任する。官房長官の井出一太郎の代わりにランブイエサミットの調整を行い、1975年スト権スト問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当する[1]。 典型的な文教族であり、福田赳夫内閣と第2次中曽根内閣で2度文部大臣を務めている。文部大臣時代の業績として、「共通一次試験」の導入が挙げられる。
自由民主党総裁
宇野宗佑が第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。リクルート事件で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「時計の針を進めず、戻さず」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門会(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた(派閥の長である河本敏夫も総裁候補の一人だったが、高齢などのため見送られ、河本は海部を支える姿勢を明確にした)。
自由民主党総裁選挙では海部の他に林義郎と石原慎太郎も出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自由民主党総裁に選ばれた。
内閣総理大臣
就任
参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。海部は初の昭和生まれの首相でもある。
海部が首相に就任した頃は、いわゆるリクルート事件などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり(リクルート・パージ)、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。
第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚する。海部はすぐさま山下を更迭し、環境庁長官森山真弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させ(後任の環境庁長官は志賀節)、各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。結果、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導く[注釈 1]。
党内基盤
党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなかった。中小派閥である河本派の幹部である海部が総裁選に勝利したこと自体、元首相の竹下が自派の頭数をもって海部を押し上げたに過ぎなかった。例えば第1次海部内閣の発足時にあたっては、首班指名の1時間後にまず党三役が決定、即座に小沢一郎新幹事長らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進め、隣の応接室で待たされる海部は一切関わることはなかった。そのあと首相官邸に海部と三役が移動して正式の組閣を小沢らの人選そのままに進み、首班指名からわずか5時間で新閣僚名簿が発表された[2]。
石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の小沢一郎からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され[注釈 2]、金竹小が海部以上に強い影響力を持っていた。
皇室
。
外交
1991年、小沢主導により湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供する。当初、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、保守層からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」などと罵られ、左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と強く批判されるなど、左右の知識人から強い批判を浴びた。停戦後、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。
自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。
六四天安門事件後、ヒューストンの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた[3]。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相に制裁解除を迫られていた[4]。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという[5]。当時の同盟国アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は事件後も議会と対立してまで中国への最恵国待遇を更新するばかりかボーイング[6]や人工衛星の輸出を許可[7]するなど制裁全面化に消極的でかつて米中連絡事務所所長も務めた親中派であり、ブレント・スコウクロフト補佐官を北京に派遣して秘密交渉を行っていたこともあってサミットで海部に同調した[8]。
内閣総辞職
政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされ、第2次海部改造内閣は内閣総辞職に追い込まれた。
在任中は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営はままならなかったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており[9]、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった[10]。
首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。
自民党離党と復党、政界引退
1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し、自由改革連合を結成して代表に就任、新進党を結党して初代党首となる。
新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。
保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。
2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で岡本充功に敗れた[11]。信念から重複立候補をしなかったため落選し[12][注釈 3]、同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り[13]、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。
政界引退後
政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務める。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務める。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版した。
2011年、桐花大綬章、名誉愛知県民章を受章。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与される[14]。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励した。2014年からは中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載している。
主な役職
- 世界連邦運動協会会長
- 日本ソフトテニス連盟会長
- 日本ティーボール協会会長
- 大正琴協会理事長
- EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問
- 地球環境行動会議 (GEA) 最高顧問
- 中央政策研究所最高顧問
- 教育美術振興会会長
- 公益財団法人中部日本書道会名誉会長
エピソード
中国訪問
南京事件については「大虐殺説」肯定論者である。2010年に中国の招待で訪中した際に南京大虐殺論争に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。
ネクタイ
水玉模様のネクタイがトレードマークである。これは、三木内閣の官房副長官時代、スト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬことから、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていたことを視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである(討論番組そのものでは当時公共企業体等労働組合協議会事務局長であった富塚三夫に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは喪服用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。
弁論
旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。当時は単独講和反対を主張する等左翼的な自説を主張していたという[15]。
29
- 1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。
- この時29歳であったことから「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していたためこの言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会などの挨拶におけるネタにしていた。
- ところが、初当選から29年後の1989年、諸々の条件が重なり、偶然ではあるものの、海部は公言通り総理大臣に就任した。
- 総理就任から一ヶ月後、大相撲で通算勝ち星記録を更新した横綱・千代の富士貢に国民栄誉賞を授与したが、この直前、大相撲九月場所で千代の富士は29回目の優勝を達成しており、かつ授与式が行われたのも9月29日であった。
ヒューストン・サミット
1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信された。
海部によれば、以下のようなやり取りがあったという。
「 | とにかく、暑くてね。屋外で記念写真を撮影した時ですが、カナダのマルルーニー首相(当時、以下同)が、「アメリカは田舎だから、暑くてたまらない。カナダはこんなに暑くない」なんて、言っておるんですよ。冗談の好きな男でね。撮影のために並んだら、「暑い、暑い。俺はぶっ倒れる」なんて言うんだ。私はちょうど、マルルーニーの左隣にいましてね。あっち側(マルルーニー首相の右隣)はサッチャー英首相だった。だから「カナダが倒れたら、日本は支えきれないぞ。あっち側に倒れろ、鉄の女になんとかしてもらえ」と言ったんですね。これが、ブッシュ米大統領、サッチャー英首相、マルルーニー加首相の爆笑を誘った[16]。 | 」 |
アニメのモデル
首相就任中の1991年に放映されたテレビアニメ『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』に登場するゲストキャラクター「海辺(うみべ)首相」のモデルとなっている。ちなみに、海辺首相の口癖は「幹事長とも相談しますが」であり、当時の自民党幹事長小沢一郎との力関係を揶揄したパロディとなっている。
バラエティ番組
首相退任後、バラエティ番組『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』に夫婦で出演した。
ニックネーム
若年の頃から三木武夫を政治家として尊敬して親交を持ち、三木睦子からは息子のように可愛がられた。睦子から「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がテレビなどで報じられるうち、いつしか視聴者の間でも「俊樹ちゃん」が愛称として定着した。
きんさんぎんさん
記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田きんと蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていた。海部はきんの葬儀委員長を務めている。
長渕剛
長渕の曲「親知らず」の歌詞の中に、ミハイル・ゴルバチョフ、サッダーム・フセイン、ジョージ・H・W・ブッシュと共に登場する。
千代の富士
総理として国民栄誉賞を授与した千代の富士との因縁もあってか、1990年5月26日には大相撲夏場所14日目を国技館の貴賓席で観戦した[注釈 4]。2016年7月31日に千代の富士が逝去した際には弔電を送っている[17]。
家族・親族
- テレビプロデューサー、アニメプロデューサーの海部正樹は長男。
- 祖父の海部昂蔵は尾張徳川家の家令、御相談人を務めた。
- 天文学者の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、シンコーホーム詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の海部俊一は従弟。
- 名古屋コーチンの生みの親として知られる、旧尾張藩士の海部壮平・海部正秀兄弟は遠い親戚(壮平・正秀の姉の曾孫)。
略歴
- 1948年 - 旧制東海中学(現・東海中学校・高等学校)卒業。
- 1951年 - 旧制中央大学専門部法科卒業、法務省に事務官として入省。
- 1952年 - 河野金昇代議士の秘書をしながら新制早稲田大学第二法学部法律学科3年次に編入学、在学時は雄弁会に所属する(副幹事長に就任)。
- 1954年 - 早稲田大学第二法学部法律学科卒業、法学士号取得。
- 1956年 - 早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学。
- 1960年11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。
- 1966年8月1日 - 労働政務次官(第1次佐藤内閣第3次改造内閣)。
- 1974年12月9日 - 内閣官房副長官(三木内閣)。
- 1976年12月24日 - 文部大臣(福田赳夫内閣)。
- 1985年12月28日 - 文部大臣(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。
- 1989年8月10日 - 第76代内閣総理大臣。
- 1990年
- 2月28日 - 第77代内閣総理大臣。
- 12月29日 - 第2次海部改造内閣発足。
- 1991年
- 1994年
- 1998年1月 - 新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」)。
- 1999年1月 - 自由党に入党し、党最高顧問に就任。
- 2000年4月 - 保守党最高顧問。
- 2002年12月 - 保守新党最高顧問。
- 2003年11月 - 保守新党解党に伴い自民党復党。二階派最高顧問に就任。
- 2009年8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙に17回目の当選を目指して出馬するも、民主党の岡本充功に敗れ落選。同日政界引退を表明。
- 2011年 - 桐花大綬章を受章[18]。名誉愛知県民章を受章。
著書
- 「政治とカネ 海部俊樹回顧録」(新潮新書、2010年11月20日)
演じた俳優
脚注
注釈
- ↑ 自民党は単独で275議席を獲得し、さらに保守系無所属の11議席を足して286議席となり、過半数を上回った。
- ↑ 田崎史郎「小沢一郎との訣別」『文藝春秋』1994年10月号より。小沢の数々のオフレコ発言を明かした同記事で「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」という小沢の発言が初めて明るみになったが、これは、1982年の自民党総裁選挙で田中派が中曽根康弘を支持した時の小沢のコメントであり、海部を指したものではない。だが、海部を指した発言と誤って伝えられることがあり(田原総一朗『テレビと権力』〈講談社、2006年、p.267〉、淺川博忠『「新党」盛衰史 新自由クラブから国民新党まで』(講談社文庫・2005年、p.229)など)、海部自身も後年の回想録で自分を指した発言と勘違いしたことを書いている(海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』新潮新書、2010年、po.101-102)。
- ↑ ただし、当時78歳の海部は自民党の定年制により特例として定年制を適用除外されない限り重複立候補出来ない。首相経験者が特例として定年制適用除外になったのは2000年の中曽根康弘・宮澤喜一が最後で、二人とも比例単独候補であった。
- ↑ 現職総理の国技館での観戦は岸信介以来であり、その後も小泉純一郎が貴賓席で観戦している。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹著 2010年 新潮社
- ↑ 奥島, pp. 234-235.
- ↑ “戦後の中日ハイレベル交流を振り返る (5)”. 人民網. . 2016閲覧.
- ↑ “Japan May Go Its Own Way on Economic Aid to China : Sanctions: Tokyo argues that Beijing should not be isolated from the world community. Kaifu will see Bush on Saturday.”. ロサンゼルス・タイムズ (1990年7月6日). . 2016閲覧.
- ↑ サーチナ2010年5月25日配信のインタビュー記事
- ↑ “U.S. GRANTS BOEING A WAIVER TO SELL JETLINERS TO CHINA”. ニューヨーク・タイムズ (1989年7月8日). . 2016閲覧.
- ↑ “PRESIDENT WAIVES SOME CHINA CURBS”. ニューヨーク・タイムズ (1989年12月20日). . 2016閲覧.
- ↑ “COLUMN ONE : China Taps Into World Coffers : The story of Beijing's successful run on the World Bank is a tale of persistence (by China), of avarice (in Western Europe and Japan) and of intrigue (by the Bush Administration)”. ロサンゼルス・タイムズ (1992年10月30日). . 2016閲覧.
- ↑ 読売新聞世論調査
- ↑ 八幡和郎『歴代総理の通信簿』 PHP新書
- ↑ 連続16選の海部元首相が落選 民主前職に敗れ、愛知9区共同通信2009年8月30日
- ↑ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』,新潮新書,2010,p180
- ↑ 首相経験者の落選、46年ぶりYOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日
- ↑ 馬英九総統が海部俊樹・元首相と会見台北経済文化代表処ホームページ 2012年3月9日
- ↑ 永川幸樹早大雄弁会 : それぞれの人生劇場
- ↑ サーチナ2010年5月21日配信のインタビュー記事
- ↑ 巨人前監督・原氏、千代の富士さん告別式で思い出語った「我々の世代では大ヒーロー」スポーツ報知(2016年8月8日6時0分)
- ↑ 大綬章受章者
参考文献
- 奥島貞雄 『自民党幹事長室の30年』 中公文庫、2005年9月25日。ISBN 4-12-204593-2。
- 海部俊樹 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』 新潮社、2010年12月。ISBN 4-10610394-0。
関連項目
外部リンク
- 海部俊樹オフィシャルホームページ(公式サイト)
- 海部俊樹オフィシャルブログ(公式ブログ)
公職 | ||
---|---|---|
先代: 宇野宗佑 |
内閣総理大臣 第76・77代:1989年 - 1991年 |
次代: 宮澤喜一 |
先代: 永井道雄 松永光 |
文部大臣 第96代:1976年 - 1977年 第106代:1985年 - 1986年 |
次代: 砂田重民 藤尾正行 |
先代: 橋本龍太郎 |
大蔵大臣 第95代:1991年(兼任) |
次代: 羽田孜 |
先代: 梶山静六 |
内閣官房副長官(政務担当) 1974年 - 1976年 |
次代: 鯨岡兵輔 |
議会 | ||
先代: 田沢吉郎 |
衆議院議院運営委員長 第31代:1972年 - 1973年 |
次代: 佐々木秀世 |
党職 | ||
先代: 結成 |
新進党党首 初代:1994年 - 1995年 |
次代: 小沢一郎 |
先代: 結成 |
自由改革連合代表 1994年 |
次代: 新進党へ |
先代: 結成 |
高志会代表 1994年 |
次代: 新進党へ |
先代: 宇野宗佑 |
自由民主党総裁 第14代:1989年 - 1991年 |
次代: 宮澤喜一 |
先代: 宇野宗佑 |
自由民主党国会対策委員長 第21代:1976年 |
次代: 安倍晋太郎 |
先代: 宇野宗佑 内藤誉三郎 |
自由民主党青年局長 第6代:1966年 第8代:1968年 - 1972年 |
次代: 内藤誉三郎 西岡武夫 |
名誉職 | ||
先代: 谷川和穂 |
最年少衆議院議員 1960年 - 1963年 |
次代: 橋本龍太郎 |
日本国歴代内閣総理大臣 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第75代 宇野宗佑 |
第76・77代 1989年 - 1991年 |
第78代 宮澤喜一 |
||||||
テンプレート:内閣官房副長官
テンプレート:衆議院議院運営委員長