谷川和穂

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谷川 和穂(たにかわ かずお、1930年7月21日 - 2018年6月8日[1])は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、法務大臣第49代)、防衛庁長官第41代)などを歴任した。「谷川和」の戸籍上の正式表記は旧字体の「」。

父は衆議院議員を務め、広島東洋カープの設立に尽力した谷川昇

来歴

広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。

1958年脳出血により急逝した父・谷川昇の地盤を引き継ぎ、第28回衆議院議員総選挙旧広島県第2区から無所属で立候補。全国最年少の27歳で初当選を果たした(当選同期に金丸信安倍晋太郎倉成正斎藤邦吉らがいる)。当選後、自由民主党に入党するが、1960年第29回衆議院議員総選挙では次点で落選。谷川の選出選挙区であった旧広島2区は、自民党の池田勇人1976年以降は娘婿の池田行彦)や中川俊思(1976年以降は娘婿の中川秀直)、増岡博之松本俊一日本社会党森井忠良ら大物議員がひしめく全国有数の激戦区であり、谷川も1960年の落選以来、計3回の落選を経験している。

1963年第30回衆議院議員総選挙では、池田勇人に次ぐ得票数2位で返り咲きを果たした。1966年文部政務次官に就任。同年10月、フランスパリで開催された第14回ユネスコ総会日本政府代表を務める。1976年の第34回衆議院議員総選挙では2度目の敗北を喫したが、1979年第35回衆議院議員総選挙では一転してトップ当選を果たす。

1982年第1次中曽根内閣防衛庁長官に任命され、初入閣を果たした。しかし、翌1983年12月の第37回衆議院議員総選挙では現職の閣僚でありながら次点で落選し、3度目の敗北を喫する。1986年第38回衆議院議員総選挙では、再びトップ当選で返り咲いた。1989年宇野内閣法務大臣に任命され2度目の入閣を果たしたが、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが発覚。自民党は第15回参議院議員通常選挙で惨敗し、宇野内閣はわずか69日で退陣に追い込まれたため、谷川も法相を退任した。

1996年第41回衆議院議員総選挙では比例中国ブロック単独4位で立候補し、11回目の当選を果たす。1997年、前年の河本敏夫の引退に伴い、新政策研究会(河本派)番町政策研究所に名称が改められ、谷川は代表世話人に就任。番町政策研究所は谷川や坂本三十次らによる集団指導体制を経て、2000年高村正彦が会長に就任した。2002年例外的に夫婦の別姓を実現させる会に参加。2003年第43回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界から引退した。

引退後は高村派顧問、全国保護司連盟会長、社団法人日本交通計画協会会長イニシアティブス・オブ・チェンジ顧問[2]等を務めた。

2018年6月8日1時27分、心不全のため山梨県北杜市の病院で死去[1]。87歳没。2018年6月26日の閣議で正三位に叙すると決めた。なお生前に勲一等旭日大綬章を受けている[3]

人物

脚注

  1. 1.0 1.1 元衆院議員の谷川和穂氏が死去、87歳 - 中国新聞アルファ 2018年6月8日
  2. IC役員名簿
  3. 故谷川和穂氏に正三位 - 日本経済新聞 2018年6月26日

 


議会
先代:
坂本三十次
日本の旗 衆議院文教委員長
1979年 - 1980年
次代:
三ッ林弥太郎
先代:
松沢雄蔵
日本の旗 衆議院法務委員長
1972年
次代:
中垣國男
公職
先代:
高辻正己
日本の旗 法務大臣
第49代:1989年
次代:
後藤正夫
先代:
伊藤宗一郎
日本の旗 防衛庁長官
第41代:1982年 - 1983年
次代:
栗原祐幸
名誉職
先代:
石橋政嗣
最年少衆議院議員
1958年 - 1960年
次代:
海部俊樹

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