松永光
松永 光(まつなが ひかる、1928年11月23日 - )は、日本の政治家、弁護士。公益財団法人日本武道館会長(第8代)。勲章は勲一等旭日大綬章。
衆議院議員(10期)、大蔵大臣(第104代)、通商産業大臣(第52代)、文部大臣(第106代)、衆議院予算委員長・建設委員長等を歴任した。
来歴
長崎県南高来郡南串山村(現雲仙市)生まれ。1947年に東京都立九段中学校を卒業し、中央大学法学部法律学科に進学。その後、早稲田大学第二法学部法律学科に編入し、1951年に卒業した。同年、司法試験に合格し、1954年に福岡地方検察庁検事に任官。しかし翌1955年に退官し、弁護士開業。そのかたわら養父・松永東の秘書を務め、東の死後、1969年の第32回衆議院議員総選挙に旧埼玉1区から自由民主党公認で出馬し、初当選した(当選同期に森喜朗・小沢一郎・羽田孜・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・村田敬次郎・江藤隆美・浜田幸一らがいる)。以後、10期連続当選。当選後は中曽根派に所属し、渡辺美智雄が継承した後も渡辺派に所属。引退するまで、中曽根派・渡辺派の系譜である志帥会に所属していた。
法務政務次官や通商産業政務次官を務めた後、1984年、第2次中曽根第1次改造内閣で文部大臣に任命され、初入閣した。1989年、第1次海部内閣で通商産業大臣に就任。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、埼玉1区から出馬。新進党公認の浜田卓二郎らを破り、10選。
1997年、衆議院予算委員長に就任。翌1998年、第2次橋本改造内閣において、大蔵省金融検査官による汚職事件で監督責任を取り辞任した大蔵大臣・三塚博の後任に起用された。三塚の後任の大蔵大臣候補には梶山静六や森喜朗、亀井静香ら派閥領袖や党の実力者たちの名前が挙がっていたが、不良債権問題をはじめ当時の大蔵省には難題が山積しており、また相次ぐ汚職への対処も期待され、検察官出身の松永に白羽の矢が立てられた。同年7月の第19回参議院議員通常選挙の敗北に伴い、橋本龍太郎首相は退陣し、松永も大蔵大臣を退任した。1999年11月、勲一等旭日大綬章受章。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では埼玉1区で民主党公認の武正公一に敗れ、落選。2003年の第43回衆議院議員総選挙では、新設された埼玉15区から出馬するも、民主党公認の高山智司に敗れ、政界を引退した。
政界引退後は選挙にこそ出馬していないものの、候補者の応援は行っており、落選中の2001年には、さいたま市長選挙で旧大宮市長の新藤享弘を支援した(新藤は旧浦和市長の相川宗一に敗れ、落選)。松永は一貫して「反・相川」の姿勢を貫いており、2005年のさいたま市長選では中森福代を支援したが、中森は現職の相川に敗れた。2009年のさいたま市長選でも、衆議院議員を辞職して出馬した中森を支援し、中森は落選したものの、現職の相川も清水勇人に敗れ、落選した。また、自身のかつての選出選挙区である埼玉1区では、後継候補の金子善次郎(保守新党→自民党)を支援していた。
代議士時代を含め、政界引退後も弁護士の業務は継続して行っている。2012年には、東京都知事の石原慎太郎による尖閣諸島購入計画に際し、埼玉県内に居住する尖閣諸島の地権者の代理人を務めた。
家族・親族
- 松永東 養父。衆議院議長(第45代)、文部大臣を歴任。
- 松山千恵子 義姉(松永東の実娘)。埼玉県初の女性代議士。厚生政務次官・郵政政務次官を歴任。
- 松山義雄 義兄(千恵子の夫)。弁護士。埼玉県副知事。元衆議院議員。
- 舟橋功一 千恵子の娘・浩子の夫。弁護士。元埼玉県議会議員。元川越市長。
- 舟橋一浩 功一・浩子の長男。前埼玉県議会議員。
関連項目
外部リンク
議会 | ||
---|---|---|
先代: 深谷隆司 |
衆議院予算委員長 1997年 - 1998年 |
次代: 越智通雄 |
先代: 村田敬次郎 |
衆議院建設委員長 1982年 - 1983年 |
次代: 浜田幸一 |
公職 | ||
先代: 橋本龍太郎 |
大蔵大臣 第104代:1998年 |
次代: 宮澤喜一 |
先代: 梶山静六 |
通商産業大臣 第52代:1989年 - 1990年 |
次代: 武藤嘉文 |
先代: 森喜朗 |
文部大臣 第106代:1984年 - 1985年 |
次代: 海部俊樹 |