武村正義
武村 正義(たけむら まさよし、1934年(昭和9年)8月26日 - )は、日本の政治家、自治官僚で現在は政治評論家。
八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。政界引退後は龍谷大学客員教授、徳島文理大学大学院教授を務めた。
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来歴・人物
生い立ち
滋賀県蒲生郡玉緒村(八日市市、現東近江市)の農家に生まれた。滋賀県立八日市高等学校を経て、名古屋大学工学部に入学し、その後、再受験して、東京大学に編入学。教育学部を卒業後、東京大学新聞研究所を経て経済学部に学士入学、経済学部を卒業。
1962年、自治省に入省。西ドイツ留学で西ドイツ連邦、州政府の成り立ちなどを見聞。さらに帰国後、愛知県、埼玉県に出向。埼玉県総務部文書課長として、自治体行政を経験することで、政治への関心を募らせていった。田中角栄のお抱え官僚の一人であったとされ日本列島改造論の代筆も担当したという。
1970年代後半~1980年代前半、滋賀県知事のかたわら龍谷大学に客員教授として教鞭をとる。その縁で龍谷大学理工学部を滋賀県へ誘致、滋賀県大津市の「びわこ文化公園都市」に理工学部と社会学部の第3のキャンパスを開く。
八日市市長
自治省を退職して、1971年に郷里の八日市市長選に立候補し当選。30歳代の若い市長として、自転車で市役所まで通勤するなど、当時から環境を意識した行動をしていた。
滋賀県知事
3年後の1974年、滋賀県知事選に立候補し、当選を果たす。滋賀県知事時代は県民との対話を重視し、住民運動を先取りした県政との高い評価を受けた。実績としては、琵琶湖の水質汚染を防ぐために、日本初の合成洗剤追放条例(正式名称「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」、1979年10月17日制定、1980年1月1日施行、参照, 通称:琵琶湖条例)や、風景条例(正式名称「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例」、1984年7月19日制定、1985年7月1日施行、参照)など、全国的に注目を集めた環境保全条例の制定が挙げられる。また、1984年8月28日~8月31日には滋賀県主催の国際会議「国際湖沼環境会議」を大津市で開催。ちなみに、この会議にはのちの滋賀県知事、嘉田由紀子が琵琶湖研究所の研究員として参加し、滋賀県立琵琶湖博物館を提唱していた。
県知事には1978年に無投票で再選。1982年に無投票で三選を果たした。日本の公選知事選挙において連続で無投票当選したのは武村が初めてである。
国政への進出
1986年7月6日の第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)に滋賀県全県区で保守系無所属で立候補し(選挙期間中に自民党公認となり)当選、国政へ進出(同区で自身が最初に知事選出馬した際の支援者たる民社党新人川端達夫も当選)。[1] 自民党では清和政策研究会(安倍派→三塚派)に所属する(本当は田中派から出馬を希望していたが同派現職山下元利が居たため、同派内の創政会会長竹下登が自身の盟友で安倍派会長安倍晋太郎に武村を紹介した)。1988年には、1期上の田中秀征(宮澤派)、当選同期の鳩山由紀夫(竹下派)、1期下の簗瀬進(河本派)らや、三塚派の若手を中心に政策集団「ユートピア政治研究会」を結成し、金のかかる政治に対する改革を訴えた。なお、このユートピア政治研究会がのちの「新党さきがけ」の母体となった。
宮沢解散と新党さきがけ結成
1993年6月18日、宮澤喜一を首班とする宮澤内閣不信任案可決に伴う衆議院の解散(いわゆる「嘘つき解散」。ただし武村自身は不信任案に対して反対票を投じており、決議の時点では造反していなかった)を機に、同年6月21日、10人の自民党議員とともに自民党を離党、「新党さきがけ」を結党し、党代表に就任。同年7月18日の第40回衆議院議員総選挙では「新党ブーム」に乗って13議席を獲得し躍進。衆院選翌日の7月19日には、知事時代から親しい関係にあった細川護煕の日本新党と、院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成し、細川とともに共同代表となる。衆院選後の政局で日本新党と共にキャスティング・ボートを握り、後藤田正晴を中心とする自民党内政治改革推進派と提携しようとするが、同年8月9日、新生党の小沢一郎代表幹事の工作によって、細川を首班とする非自民・非共産連立政権である細川内閣が誕生。武村は内閣官房長官に就任した。
細川政権
細川政権のキーパーソンに一躍浮上した武村は、対国民的には「ムーミンパパ」の愛称を認知させることでソフトなイメージを出すことに成功。政治改革やコメ自由化などで細川政権を閣内から支える一方で、閣外の意思決定機関「与党代表者会議」を主宰する小沢と対立することで自分を際だたせることに成功するなどしたたかな政略を見せたため、欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島になぞらえ、三木武夫以来の「バルカン政治家」とも称された。細川は当初、連立内閣を小沢と武村のバランスに立って運営していたが、次第に小沢に傾斜する。官邸主導の政治を目論む武村は、与党代表者会議を牛耳る小沢や公明党書記長の市川雄一の一・一ラインと激しく対立した。また細川が消費税を廃止し、新たに税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税」構想を唐突に発表した際、武村が「過ちを改めるにしくはなし」と発言し細川との間は急速に冷却化していった。岩上安身[2]や小池百合子[3]は、両者の亀裂が生じたのは、アメリカ合衆国(クリントン政権)が武村を北朝鮮と親しい政治家であると見て、細川に更迭するよう圧力を掛けた結果であるとしている。1994年4月8日、細川政権の崩壊直後、「さきがけ日本新党」は解消され、日本新党と新党さきがけの合流は構想倒れに終わった。
羽田内閣
細川退陣表明から20日後の4月28日発足の羽田孜を首班とする羽田内閣の成立に当たっては、閣外協力に転じ、院内会派「改新」には参加しなかった。
村山自社さ政権
この間、水面下で野党・自民党、および連立から離脱した社会党と交渉を重ね、同年6月24日に自社両党と連立を組み、翌日6月25日、羽田内閣は総辞職。
6月30日、村山富市を首班とする自社さ連立内閣(村山内閣)を成立させる。武村は大蔵大臣に就任し、1995年の村山改造内閣でも留任する。同年11月において、大蔵大臣として「日本財政危機発言」を行う[4][5][6]。このとき日本の国債発行残高は458兆円(IMF数値)であった。
政界再編のキーマンであった武村が連立政権で蔵相に就任したことは違和感なく受け入れられたものの、バブル崩壊の後始末を巡って深刻化する金融情勢に、必ずしも財政政策や金融政策に精通しているわけではなかった武村は実効性のある対策を打てなかった。
1995年9月、大蔵相在任中ながらフランスの核実験再開及び核実験実施に対するタヒチでの抗議デモに参加した。
新党さきがけの党運営については、やがて党代表幹事だった鳩山由紀夫との間で、社会党との新党、「社さ新党」構想をめぐり対立が表面化。1996年8月28日、代表を辞任。1ヶ月後の9月28日には鳩山、菅直人、簗瀬らが新党さきがけを離党し、民主党を結成。民主党の結成に際しては新党さきがけ全体での合流を希望したが、鳩山らは「排除の論理」でこれを拒否した。8月28日の代表辞任後井出正一が後任の代表となるが、新党さきがけは閣外協力の形で自民党政権を支えたものの、党勢の退潮に歯止めが効かず埋没(同年の第41回衆議院議員総選挙で自民党が躍進し、また社さ両党が議席を半減させたことも大きな一因だった)。1998年5月31日、代表に復帰。同年6月、自民党との連立を解消し、環境政党としての再出発を表明、同年10月、党名を「さきがけ」に改称し事実上解党する。1999年(平成11年)-7月、衆院本会議で国旗及び国歌に関する法律に賛成票を投じた。
政界引退とその後
2000年、腹部大動脈瘤破裂で倒れたが、一命を取りとめた。同年6月25日の第42回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し、武村の健康問題を批判した小西哲(自民)の前に落選。2001年3月10日、さきがけを離党し民主党に入党した。7月23日に小西が死去し、それに伴う10月の衆議院補欠選挙では立候補に意欲を見せるも、病気の悪化などがあり立候補を断念。事実上の政界引退となった。
2004年、旭日大綬章を受章。現在は病気を克服して、かつて非常勤講師を務めていた龍谷大学にて客員教授として再び教壇に立つ傍ら、地球環境問題にも取り組んでいる。また、2009年の民主党政権誕生以降は、かつて非自民政権の中枢にいた立場から、新政権についてコメントする機会も多い。2011年には岩波書店からオーラルヒストリーによる回顧録を出版した。
政策
国家像「きらりと光る国」
武村は「小国主義(小日本主義)を主張した石橋湛山にならい、日本のあるべき姿を「小さくともキラリと光る国」と表現。新党さきがけも党のスローガンに「質実国家」「足るを知る経済」を掲げた。新党さきがけには後に『石橋湛山と小国主義』(岩波ブックレット)を著した井出正一や、2004年に石橋湛山に関する著書を発表した田中秀征も参加している。新党さきがけ参加議員には石橋湛山の主張が意識されており、新党の離合集散が繰り返される中で埋もれがちであったとはいえ「小国主義」は新党さきがけが強く打ち出していた国家像であった。この主張は中村敦夫のみどりの会議に引き継がれた。
2006年11月20日、後援者・有志により滋賀県大津市の長等山園城寺(三井寺)北院法明院庭園に、武村の政治活動を記念しその業績を称える記念碑が建立された。碑表面には「きらり」「武村正義物語記念碑」(『毎日新聞』滋賀版に84回にわたって連載された自叙伝の表題を記念)と刻まれ、裏面には武村の経歴が記されている。碑の文字は地元の書家・太田佐亨によるものである。「きらり」は武村の日本の将来像を示す象徴的表現であった。
著書
- 『水と人間』(1980年12月、第一法規出版)、ISBN 4474011880
- 『「草の根政治」私の方法』(1986年7月、講談社)、ISBN 4062028565
- 『琵琶湖から、神戸から』(高見裕一との共著、1993年7月、ほんの木)、ISBN 4938568411
- 『小さくともキラリと光る国・日本』(1994年1月、光文社)、ISBN 4334970850
- 『さきがけの志』(田中秀征との共著、1995年5月、東洋経済新報社)、ISBN 4492210725
- 『私はニッポンを洗濯したかった』(2006年1月、毎日新聞社)、ISBN 4620317500
毎日新聞「滋賀版」に連載した自叙伝「きらり武村正義物語」を単行本化。 - 『聞き書 武村正義回顧録』(御厨貴・牧原出編、2011年2月、岩波書店)-オーラル・ヒストリーでの回想。
- 『武村正義の知事力』(関根英爾著、2013年7月、サンライズ出版)、-滋賀県知事時代を振り返るオーラル・ヒストリーでの回想。ISBN 4883255115
関連項目
- 滋賀県出身の人物一覧
- 伊藤忠彦(新党さきがけ時代、1994年から1997年までの秘書)
- 宇佐美登(自民党時代の秘書。結成直後の衆議院選挙に立候補し最年少で当選)
脚注
- ↑ 当選同期には斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・園田博之・杉浦正健・中山成彬・新井将敬・石破茂・笹川堯・武部勤・井出正一・村上誠一郎などがいた。
- ↑ 「小沢一郎は、アメリカにとっては危険な政治家です」~1月14日孫崎享元外務省国際情報局長インタビュー4 * No. 221 * 2010-02-11 19:27
- ↑ 小池百合子『正論』2002年7月号 細川首相退陣の引き金は「北朝鮮有事」だった
- ↑ 三橋貴明のもう経済記事にはだまされない 『検証されない日本財政破綻論』
- ↑ 第1回 中期的な財政運営に関する検討会 議事要旨
- ↑ 第51回滋賀中部政経文化懇話会 講師に武村正義氏滋賀報知新聞 2011年11月16日
外部リンク
- 朝日新聞 - マイタウン京都 - 日曜ひろば - 元蔵相武村正義さん(72)(2006年11月13日の記事、同記事のバックアップ)
- NIKKEI NET - 武村正義氏の10年(2006年2月11日)
公職 | ||
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先代: 藤井裕久 |
大蔵大臣 第100代:1994年 - 1996年 |
次代: 久保亘 |
先代: 河野洋平 |
内閣官房長官 第56代:1993年 - 1994年 |
次代: 熊谷弘 |
先代: 野崎欣一郎 |
滋賀県知事 公選第5代:1974年 - 1986年 |
次代: 稲葉稔 |
党職 | ||
先代: 結成 井出正一→(空席) |
新党さきがけ代表 初代 : 1993年 - 1996年 第3代 : 1998年 - 2000年 |
次代: 井出正一 中村敦夫 |