1954年の野球
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競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セントラル・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
優勝 | 中日ドラゴンズ | 86 | 40 | 4 | .683 | - |
2位 | 読売ジャイアンツ | 82 | 47 | 1 | .636 | 5.5 |
3位 | 大阪タイガース | 71 | 57 | 2 | .555 | 16.0 |
4位 | 広島カープ | 56 | 69 | 5 | .448 | 29.5 |
5位 | 国鉄スワローズ | 55 | 73 | 2 | .430 | 32.0 |
6位 | 大洋松竹ロビンス | 32 | 96 | 2 | .250 | 55.0 |
パシフィック・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
優勝 | 西鉄ライオンズ | 90 | 47 | 3 | .657 | - |
2位 | 南海ホークス | 91 | 49 | 0 | .650 | 0.5 |
3位 | 毎日オリオンズ | 79 | 57 | 4 | .581 | 10.5 |
4位 | 近鉄パールス | 74 | 63 | 3 | .540 | 16.0 |
5位 | 阪急ブレーブス | 66 | 70 | 4 | .485 | 23.5 |
6位 | 高橋ユニオンズ | 53 | 84 | 3 | .387 | 37.0 |
7位 | 東映フライヤーズ | 52 | 86 | 2 | .377 | 38.5 |
8位 | 大映スターズ | 43 | 92 | 5 | .319 | 46.0 |
日本シリーズ
個人タイトル
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
タイトル | 選手 | 球団 | 成績 | 選手 | 球団 | 成績 |
最優秀選手 | 杉下茂 | 中日 | 大下弘 | 西鉄 | ||
最優秀新人 | 広岡達朗 | 巨人 | 宅和本司 | 南海 | ||
首位打者 | 与那嶺要 | 巨人 | .361 | L.レインズ | 阪急 | .337 |
本塁打王 | 青田昇 | 洋松 | 31本 | 中西太 | 西鉄 | 31本 |
打点王 | 杉山悟 渡辺博之 |
中日 大阪 |
91点 | 山内和弘 | 毎日 | 97点 |
最多安打 | 与那嶺要 | 巨人 | 172本 | L.レインズ | 阪急 | 184本 |
盗塁王 | 吉田義男 | 大阪 | 51個 | 鈴木武 | 近鉄 | 71個 |
最優秀防御率 | 杉下茂 | 中日 | 1.39 | 宅和本司 | 南海 | 1.58 |
最多勝利 | 杉下茂 | 中日 | 32勝 | 宅和本司 田中文雄 |
南海 近鉄 |
26勝 |
最多奪三振 | 杉下茂 | 中日 | 273個 | 宅和本司 | 南海 | 275個 |
最高勝率 | 杉下茂 | 中日 | .727 | 西村貞朗 | 西鉄 | .815 |
ベストナイン
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||
---|---|---|---|---|
守備位置 | 選手 | 球団 | 選手 | 球団 |
投手 | 杉下茂 | 中日 | 西村貞朗 | 西鉄 |
捕手 | 広田順 | 巨人 | C.ルイス | 毎日 |
一塁手 | 西沢道夫 | 中日 | 川合幸三 | 阪急 |
二塁手 | 箱田弘志 | 国鉄 | 森下正夫 | 南海 |
三塁手 | 宇野光雄 | 国鉄 | 中西太 | 西鉄 |
遊撃手 | 広岡達朗 | 巨人 | L.レインズ | 阪急 |
外野手 | 与那嶺要 | 巨人 | 大下弘 | 西鉄 |
渡辺博之 | 大阪 | 関口清治 | 西鉄 | |
杉山悟 | 中日 | 山内和弘 | 毎日 |
オールスターゲーム
"「1954年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」"
高校野球
- 第26回選抜高等学校野球大会優勝:飯田長姫(長野県)
- 第36回全国高等学校野球選手権大会優勝:中京商業(愛知県)
大学野球
- 第3回全日本大学野球選手権大会優勝:明治大
社会人野球
メジャーリーグ
"「1954年のメジャーリーグベースボール」"
- ワールドシリーズ
- ニューヨーク・ジャイアンツ(ナ・リーグ) (4戦全勝) クリーブランド・インディアンス(ア・リーグ)
できごと
- 東急フライヤーズが東急電鉄関連会社の東映に球団経営を委託し「東映フライヤーズ」となる。
- セ・リーグの観客動員数が初めて400万人を突破し、1試合あたりの平均観客動員数が初めて1万人を越える[1]。中日は初の観客動員100万人突破、前年の巨人に続く日本プロ野球史上2球団目[2]。
- セ・リーグ6球団の2軍リーグ戦となる新日本リーグが結成され、関西ファーム・リーグから大阪タイガースと中日ドラゴンズが脱退している。
- 全米女子プロ野球リーグはこの年のシーズンが最後となっており、最後の優勝チームはカラマズー・ラッシーズ。
1月
- 1月14日 - 名古屋ドラゴンズは社名を「中部日本野球協会」、球団名を「中日ドラゴンズ」とそれぞれ改称[3] 。これはそれまで共同出資・資本参加し、西暦奇数年に主導経営していた名古屋鉄道が1953年のシーズンを最後に資本解消したことに伴う。
- 1月30日 - 中日は株主総会で会長の干田憲三が辞任、後任に小山龍三が就任[3]。
2月
- 2月4日 - パシフィック・リーグに高橋ユニオンズの新規加盟が認められ、8チーム参加となる[4]。
- 2月5日 - 日本プロ野球コミッショナーの福井盛太は日本に勤務するアメリカ軍の兵士と選手契約することの自粛を要請[5]。
3月
- 3月21日 - 大阪タイガースの小山正明がオープン戦の対中日ドラゴンズ戦において、日本プロ野球初のオープン戦でのノーヒットノーランを達成[6]。
- 3月27日 - 高橋の球団初のシーズン公式戦の対阪急戦(阪急西宮球場)が行われ、3対5で高橋が敗れている[7]。
4月
- 4月7日 - 選抜高等学校野球大会の決勝戦が阪神甲子園球場で行われ、長野県の飯田長姫が福岡県の小倉に1対0で勝利し、初優勝。
- 4月11日 - 大阪は対中日戦(中日球場)でセ・リーグタイ記録の1試合10盗塁[8]。
- 4月27日 - 大洋松竹ロビンス対読売ジャイアンツ戦(西京極球場)で、この日まで11連敗の洋松が9回裏2死まで4対0とリードされていたが、巨人の広岡達郎の悪送球による出塁をきっかけに1点を入れ、さらに2死満塁として洋松の青田昇が巨人の笠原正行から日本プロ野球史上初の通算2本目となるサヨナラ満塁本塁打でサヨナラ勝利[9]。
5月
6月
- 6月2日 - 平和台球場における初のナイター試合西鉄ライオンズ対南海戦が行われ、1対0で西鉄が勝利している[12]。
- 6月8日 - 国鉄スワローズの金田正一が対洋松戦で日本プロ野球タイ記録の15奪三振と、7連続三振のセ・リーグ新記録を達成[13]。
- 6月12日 - 高橋の田村満は対西鉄戦(川崎球場)の8回に日本プロ野球最多の1イニング7与四球[14]。
- 6月13日 - 川崎球場における初のナイター試合、高橋対西鉄戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は5対0で高橋、第2試合は3対2で西鉄が勝利している[12]。
- 6月12日 - 【MLB】ミルウォーキー・ブレーブスのジム・ウィルソンが対フィラデルフィア・フィリーズ戦でノーヒットノーランを達成、スコアは2対0。
- 6月16日 - 近鉄パールス対東映フライヤーズ戦において、7回裏に近鉄の多田文久三の一塁後方へのフライのインフィールド判定を巡って紛糾、1時間23分の中断後、試合は4対2で東映が勝利したが近鉄は無効試合として提訴。連盟は近鉄の言い分を半分認めて、8月10日に多田の打席から打ち直すことで再開することとなった。この試合は4対1で東映が勝利している[15]。
7月
- 7月3日 - オールスターゲーム第1戦(阪急西宮球場)が行われ、オールスターでは初めてのテレビ中継がNHKテレビにおいて放送される。
- 7月7日 - 広島カープの白石勝巳が対国鉄戦において、日本プロ野球史上初の通算1500試合出場を達成。
- 7月10日 - 阪急の梶本隆夫が対近鉄戦の6回、山本静雄、多田文久三、山下登に対し、日本プロ野球史上初の3者連続3球三振を記録[16]。
- 7月10日 - 国鉄の金田正一が対中日戦(中日)で日本プロ野球通算1000奪三振[13]。
- 7月11日 - 【MLB】ニューヨーク・ジャイアンツのドン・ミューラーがサイクル安打を達成。
- 7月15日 -西鉄の大下弘が対阪急戦(平和台)においてサイクル安打を達成、サヨナラ本塁打での達成は史上初[17]。
- 7月24日 - 後楽園で行われた国鉄対大洋松竹ロビンス戦が4回途中、停電のためノーゲームとなる。
- 7月25日 - 大阪対中日戦(大阪球場)において、球審の判定に対する大阪側の抗議をきっかけに観客がグラウンド内に乱入して中断。再開後に、退場を宣告されていた藤村富美男が打席に入ろうとしたため再び紛糾して観客が乱入。収拾がつかない事態となり、鈴木龍二セ・リーグ会長の指示で没収試合となる。31日に大阪の松木謙治郎監督と藤村に出場停止処分と罰金、金田正泰に戒告処分。この処分で藤村は連続試合出場記録が1014でストップ。
- 7月25日 - 巨人の川上哲治が対広島(前橋)戦においてサイクル安打を達成。
8月
- 8月 - 都市対抗野球大会の2回戦、川崎市のトキコの岡本教平が、対鐘淵化学戦においてノーヒットノーランを達成。スコアは1対0。
- 8月7日 - 近鉄の山下登が対高橋戦(中日)でノーヒットノーラン達成。
- 8月8日 - 中日の西沢道夫が8月3日から日本プロ野球新記録の5試合連続の猛打賞[18]。
- 8月9日 - 都市対抗野球大会の決勝戦が後楽園球場で行われ、八幡市の八幡製鉄が東京都の全藤倉に5対2で勝利し、17年ぶり2回目の優勝。
- 8月15日 - 巨人の広岡達朗が対国鉄戦ダブルヘッダー(浜松)において、2試合連続初回先頭打者本塁打を記録[19]。
- 8月15日 - 西鉄対南海戦(平和台)において、西鉄14安打、南海15安打の両軍毎回安打試合を記録。試合は6対4で西鉄が勝利[20]。
- 8月16日 - 南海の木塚忠助が対西鉄戦(平和台)において、日本プロ野球記録の1カ月ランニング本塁打2本を記録[21]。またこの試合では3回裏、白崎泰夫が登板するが初球を大暴投し、打者との対戦終了しないままに1球で交替。審判や記録員なども終了しないままに投手交替出来ないことに気づかないまま、南海が5対4で勝利している[22]。
- 8月19日 - 南海の宅和本司が対毎日オリオンズ戦において、延長10回2死までノーヒットノーランを続けるものの、呉昌征に初安打を許し、試合も1対0で毎日が勝利している。
- 8月22日 - 全国高等学校野球選手権大会の決勝戦が甲子園で行われ、愛知県の中京商が静岡県の静岡商に3対0で勝利し、 17年ぶり5度目の優勝。
- 8月26日 - 大映が対西鉄戦に敗れ球団記録を更新する14連敗。
9月
- 9月21日 - 南海が対西鉄戦(大阪)に4対3で勝利し日本プロ野球記録の18連勝達成。
- 9月22日 - 8月22日の対東映戦より18連勝中だった南海が対西鉄戦(大阪)で2対7で敗れ、1カ月ぶりの敗戦で連勝が止まる[23]。
10月
- 10月2日 - 【MLB】ワールドシリーズ第4戦が行われ、ニューヨーク・ジャイアンツがクリーブランド・インディアンスに勝利し、21年ぶり5度目の優勝。
- 10月4日 - 中日の杉山悟が対大阪戦(大阪)で日本プロ野球通算150本塁打[24]。
- 10月10日 - 中日の杉下茂が対洋松戦(大阪)で日本プロ野球通算150勝[25]。
- 10月11日 - 西鉄が対阪急戦(平和台)に勝利し、球団初のパ・リーグ優勝達成。
- 10月14日 - 中日の杉下茂が対巨人戦(中日)で与那嶺要から球団史上初の日本プロ野球通算1000奪三振[25]。
- 10月25日 - 国鉄の金田正一が対洋松戦(後楽園)で日本プロ野球通算100勝[13]。
11月
- 11月7日 - 日本シリーズ第7戦が行われ、中日が西鉄に勝利し、4勝3敗で初の日本一達成。
- 11月10日 - 新日本リーグの優勝決定戦が行われ、後期優勝の阪神ジャガーズが前期優勝の読売ジュニアジャイアンツを破り、2勝1敗で優勝[26]。
- 11月24日 - 大阪の監督に岸一郎が就任。
- 11月末 - この年の夏の高校野球で全国制覇した中京商の大優勝旗の盗難事件が発生。旗は犯人不明のまま、翌年2月に学校近くの中学校の床下で発見されている[27]。
12月
- 12月11日 - 松竹が大洋松竹ロビンスの経営から撤退、大洋の単独経営となり、球団名も「大洋ホエールズ」となる[28]。また本拠地(保護地区)も大阪府(大阪球場)から神奈川県(川崎球場)に移転・変更された。
- 12月4日 - 高橋ユニオンズはチーム名を「トンボユニオンズ」に改称[4]。
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
- 10月2日 - 岡村隆則
- 10月3日 - デニス・エカーズリー
- 10月28日 - ゲーリー・レーシッチ
11月
12月
死去
脚注
- ↑ “セントラル・リーグ年度別観客動員数(1950-2012) (PDF)”. 日本野球機構公式サイト. . 2015閲覧.
- ↑ 宇佐美徹也 『日本プロ野球記録大鑑』 講談社、1993年、1077 - 1088。ISBN 4062061082。
- ↑ 3.0 3.1 『中日ドラゴンズ70年史』 中日ドラゴンズ 編、中日新聞社、2006年。ISBN 4806205141。
- ↑ 4.0 4.1 『南海ホークス四十年史』 南海ホークス 編、南海ホークス、1978年。
- ↑ 『巨人軍歴史新聞 1934-2000栄光の球団史を発掘スクープ 2000年優勝記念号』 巨人軍歴史新聞編纂委員会 編、日本文芸社、2000年。ISBN 453725016X。
- ↑ “【3月23日】1988年(昭63) オープン戦ですが…史上2人目、34年ぶりの無安打無得点試合達成”. スポーツニッポン (2009年3月12日). . 2015閲覧.
- ↑ 宇佐美徹也 1993, p. 128.
- ↑ 宇佐美徹也 1993, pp. 718 - 719, 725.
- ↑ 宇佐美徹也 1993, pp. 586 - 587, 469.
- ↑ ホークス四十年史 1978, p. 362.
- ↑ 『ベースボールマガジン』、ベースボール・マガジン社、2013年11月、 56頁。
- ↑ 12.0 12.1 宇佐美徹也 1993, p. 190.
- ↑ 13.0 13.1 13.2 “球団のあゆみ 1950年代”. 東京ヤクルトスワローズ公式サイト. . 2015閲覧.
- ↑ 宇佐美徹也 1993, p. 637.
- ↑ 『さらば大阪近鉄バファローズ 熱い心の野球ありがとう』 ベースボール・マガジン社〈週刊ベースボール別冊 冬季号〉、2004年。
- ↑ 宇佐美徹也 1993, p. 688.
- ↑ 宇佐美徹也 1993, p. 520.
- ↑ 『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2013年7月22日、 95頁。
- ↑ 【8月15日】1954年(昭29) 黄金ルーキー広岡、Wヘッダーで先頭打者本塁打スポーツニッポン 2007年8月15日
- ↑ ホークス四十年史 1978, p. 289.
- ↑ “【8月16日】1954年(昭29) イダ天・木塚忠助 今でも記録の1カ月ランニング本塁打2本”. スポーツニッポン (2009年9月8日). . 2015閲覧.
- ↑ ホークス四十年史 1978, p. 149.
- ↑ 宇佐美徹也 1993, p. 387.
- ↑ ドラゴンズ70年史 2006, p. 284.
- ↑ 25.0 25.1 ドラゴンズ70年史 2006, p. 285.
- ↑ “タイガースヒストリー 1950-1954”. 阪神タイガース公式サイト. . 2015閲覧.
- ↑ 菅谷齊 (2010年8月18日). “【取材秘話】中学校の床下で発見された大優勝旗”. J-CASTテレビウォッチ. . 2015閲覧.
- ↑ 『週刊ベースボール』2011年12月19日、 47頁。