サンフランシスコ・ジャイアンツ
テンプレート:MLBのチーム サンフランシスコ・ジャイアンツ(英語: San Francisco Giants、略称:SF)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州サンフランシスコにあるAT&Tパーク。
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概要
メジャーリーグ屈指の名門球団であり、20世紀初頭のジョン・マグロー監督時代の黄金期、ウィリー・メイズらが活躍した1950年代までにワールドシリーズ優勝を5回果たしている。サンフランシスコ移転後には2010年、2012年、2014年に優勝を達成。リーグ優勝通算23回、ワールドシリーズ進出20回はともにナショナルリーグ最多である。1993年から2007年まではバリー・ボンズが在籍し、通算、シーズン双方の本塁打記録を更新している。
同地区の強豪であるドジャースとは宿敵といえる関係で、前身のニューヨーク時代から現在に至るまで激しい優勝争いを繰り広げている。1958年に共に西海岸に移転してからは、ドジャースは1988年までにワールドシリーズを5度制覇しながら、その後は2017年まで25年以上リーグ優勝すらない状態が続いていたのに対し、ジャイアンツは西海岸移転前から半世紀以上ワールドシリーズ制覇から遠ざかっていたが、2010年代に入ってからは3度ワールドシリーズ制覇を達成している。両チームの対戦はメジャー屈指の人気カードで、いつも満員御礼となる。本拠地のAT&Tパークではジャイアンツファンによる“BEAT LA”(ロサンゼルスを叩け)の合唱がいつも聞かれる。
日本人初のメジャーリーガーである村上雅則が在籍したことで知られ、2002年には新庄剛志が在籍し、日本人初のワールドシリーズ出場を果たしている。他には日系3世のアトリー・ハマカー、日系4世のトラビス・イシカワ、日本人ハーフで沖縄県出身のデイブ・ロバーツらが所属していた。
NPBの読売ジャイアンツはこのチームから名前とユニフォームを採用している。1935年に前身である大日本東京野球倶楽部がアメリカに遠征した際、対戦チームの監督だったフランク・オドールから、ニックネームがあったほうが良いと提案され、強豪チームだったジャイアンツの愛称を取り、「東京ジャイアンツ」と名乗ったのが由来である。
本拠地であるAT&Tパークは、2000年の開場以来3度も名前を変えているが、これはネーミングライツを持つAT&Tが買収、合併のたびに企業名を変更しているためである(パシフィック・ベル→SBC→AT&T)。
2005年にはメジャーリーグ球団として最初の『10000勝』に到達している(2017年シーズン終了時点で11015勝9513敗)。
球団の歴史
球団創設
球団は1882年に、ニューヨークの資産家ジョン・B・デイと、ジム・マトリーによって創設された。二人は当時プロの野球リーグに加わらない独立系のチームだったニューヨーク・メトロポリタンズを所有しており、マンハッタンを本拠地とする球団経営に成功を収めていた。同年メトロポリタンズはナショナルリーグとアメリカン・アソシエーションの両リーグから加盟の誘いを受けるのだが、この時デイらは密かに両方のリーグに対し、加盟の受け入れを二重に打診していた。その後二人はナショナルリーグで1882年に解散したトロイ・トロージャンズのフランチャイズ権を買取り、新たなチーム「ゴッサムズ」(Gothams:「ゴッサム」はニューヨーク市の別の呼び名)を設立、メトロポリタンズをアメリカン・アソシエーションへ、ゴッサムズをナショナルリーグへ加盟させた。メトロポリタンズとゴッサムズは同じポロ・グラウンズを本拠地とし、当時ポロ・グラウンズにはダイヤモンドが2面設置されて、グラウンドを二つに仕切って試合を行っていた。
その後デイとマトリーは収益の大きいゴッサムズの経営に注力するようになり、1885年にメトロポリンタンズから選手をゴッサムズに移籍させた。この頃チームの名称を「ジャイアンツ」(Giants、巨人)に改称した。チーム名の由来は、当時ゴッサムズの監督を務めていたマトリーがフィラデルフィア・フィリーズとの試合での勝利に興奮し、ロッカーで「お前らが大きく見える」と叫んだという説と、かつて2人の長身選手がいたからという説がある。ジャイアンツは二人あわせてシーズン76勝を挙げたこともあるティム・キーフ、ミッキー・ウェルチの二枚看板で、1888年と1889年にナショナルリーグ2連覇を果たした。
リトルナポレオン
オーナーが交代した1890年代は成績を落としたが、20世紀に入った1902年にリトルナポレオンことジョン・マグローを選手兼任監督に招き、強豪チームの仲間入りを果たす。1904年には初のナショナルリーグ優勝を果たすが、マグローはボストン・ピルグリムス(後のボストン・レッドソックス)との対戦を拒否し、ワールドシリーズは中止となった。当然ながらこれには非難が集中し、オーナーのジョン・ブラッシュはシリーズ規約を自ら提案する事を余儀なくされた。翌1905年にもリーグ優勝し、ワールドシリーズでは全身黒色のシリーズ用ユニフォームを身にまとい、クリスティー・マシューソンの3完封の活躍でコニー・マック率いるフィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)を4勝1敗で下し、初のシリーズ制覇を果たした。1908年には優勝争いをしていたシカゴ・カブスとの一戦でフレッド・マークルが二塁ベースを踏まずにベンチへ引き上げてしまい、カブス側のアピールによりサヨナラ勝利が取り消され、これがもとでリーグ優勝を逃すという事件も起こっている。
マシューソン等が活躍した1910年代前半と1920年代前半に黄金期を迎え、1911年からは3年連続リーグ優勝したが、ワールドシリーズではいずれも敗れた。1921年からも4年連続リーグ優勝し、内最初の2年は当時の本拠地ポロ・グラウンズを間借りしていたニューヨーク・ヤンキースを破り世界一に輝いたが、レッドソックスから移籍してきたばかりの世紀の強打者ベーブ・ルースを徹底的に四球攻めにしたのが最たる勝因だった。しかし、観客動員数は驚異的なペースで本塁打を量産していたルース所属のヤンキースに大きく水をあけられ、これに業を煮やしたマグローはヤンキースにポロ・グラウンズからの立ち退きを命じ、翌1923年にはルースの建てた家、ヤンキー・スタジアムでもヤンキースと対戦したが、前2年のようなルース対策は効かず、軍配はルースが3本塁打を打ったヤンキースに上がり、3連覇はならなかった。
そして、1927年シーズンにはマグローはフランキー・フリッシュと衝突し、セントルイス・カージナルスの主軸打者、ロジャース・ホーンスビーとのトレードで放出したが、フリッシュがカージナルスの4度のリーグ優勝(内2回は世界一)に貢献したのに対し、ホーンスビーはチームメイト、特に遊撃手・ドク・ファレルに対して、「ショートがいなければ、ジャイアンツは優勝できるのに」と公言するなど軋轢が絶えず、結局1年限りでボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)に移籍する等明らかに失敗したトレードだった。これによりジャイアンツの黄金期は終わる事となり、世界大恐慌がようやく収まろうとした1932年にマグローは勇退した。しかし、翌1933年の第1回オールスターでもナショナルリーグ監督を務め、間もない1934年2月にこの世を去る事となる。
「世界を変えた一打」と「ザ・キャッチ」
その1933年にはマグローに代わってビル・テリーが選手兼任監督を務め、9年ぶりにリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは、ワシントン・セネタース(現在のミネソタ・ツインズ)を破って世界一となった。その後、メル・オット、カール・ハッベル等が頭角を表してきた1936年からも2年連続してリーグ優勝を果たす。しかし、ルー・ゲーリッグ、ジョー・ディマジオ等「新殺人打線」を看板したヤンキースとのワールドシリーズでは、いずれもその軍門に下った。そしてこれが第二次世界大戦前最後の優勝となった。
1940年代に入ると、チームの勢いにも次第に陰りが見え始め、1942年にはテリーに代わってオットが選手兼任監督に就任する。しかし人望はあったものの、温厚でお人好しだったオットではチームをまとめきることができず、成績が上がることはなかった。1948年のシーズン途中でオットは監督を辞任、代わってレオ・ドローチャーがチームを率いる。ドローチャーはシーズン途中までライバルであるブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)で監督を務めていたが、それをジャイアンツが引き抜く形となった。ドローチャーはオットとは対照的に、非常に強気な人物として知られ、後に自伝で「お人好しで野球が勝てるか」と暗にオットのような采配を批判している。
戦後初のリーグ優勝はウィリー・メイズがデビューした1951年だった。この年はドジャースと最後までリーグ優勝を争い、3回戦制のプレイオフ第3戦で、ボビー・トムソンが逆転サヨナラ本塁打を放って優勝を決めるという劇的なもので、この本塁打は「その一打が世界を変えた(Shot Heard 'round the World)[1]」とまで言われ、球団史に残る一打となった。しかしワールドシリーズではまたもヤンキースに敗れ、同年限りでの引退を発表していたディマジオに有終の美を飾らせる格好となった。
3年後の1954年、公式戦103勝したヤンキースをさらに8勝上回ったクリーブランド・インディアンズとのワールドシリーズを戦う。第1戦でメイズが史上名高い美技「ザ・キャッチ」で勝ち越しの危機を救うと、直後ダスティ・ローズが代打サヨナラ本塁打を打ち、先勝した勢いに乗って4連勝でインディアンズを下し、5度目の世界一に輝いた。
ニューヨークからサンフランシスコへ
1958年にはサンフランシスコに移転した。これは観客数の不振に悩むオーナーのホーレス・C・ストーンハムが、西海岸の球団増加を企図するウォルター・オマリーの呼びかけに応じたものである[2]。移転後しばらくはシールズ・スタジアムを本拠地として使用していたが、小規模な球場にもかかわらず観客動員はニューヨーク時代を大きく上回った[3]。1960年4月12日に新本拠地キャンドルスティック・パークが完成した[3]。
1962年にはドジャースとのプレーオフを制してリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは再びヤンキースと対戦したが、本拠地サンフランシスコの天候不良で4日もブランクが開き、リズムが狂ったのか、最終戦で破れ、惜しくも世界一はならなかった。1960年代にはメイズの他、打撃陣ではオーランド・セペタ、ウィリー・マッコビー、ボビー・ボンズ、投手陣ではゲイロード・ペリー、フアン・マリシャル等の好選手が現れ、また村上雅則が日本人初のメジャーリーガーとして1964年から2年間プレーしたが、しばらく優勝から遠ざかってしまう。
1965年から1968年まで、ドジャースやカージナルスに優勝を阻まれ、4年連続でリーグ2位。1969年には東西地区制が導入され、ナショナルリーグ西地区所属となったが、この年も地区2位に終わっている。1971年には初の地区優勝を飾るものの、リーグチャンピオンシップシリーズでピッツバーグ・パイレーツに敗れた。1970年代の優勝はこれのみで、以降は負け越しのシーズンが多くなり、1980年代に入っても低迷が続くこととなる。1982年にはボビーの息子、バリー・ボンズをドラフト指名したが、契約金で折り合わず、彼のジャイアンツデビューはしばらく先の事となる。1985年にはチーム史上初めてシーズン100敗を記録してしまい、前年に続き2年連続で地区最下位に沈んでしまった。
ライバルのドジャースとは対称的に低迷が続いたが、1986年にウィル・クラーク等が台頭してくると復活の兆しを見せ、翌1987年のカージナルスとのリーグ優勝決定戦では惜しくも敗れたが、選手に自信が戻った。1989年にはオークランド・アスレチックスとのベイブリッジシリーズが展開されたが、途中サンフランシスコ地方を襲った大地震により、10日間以上も中断されるハプニングが起こった。本拠地での仕切りなおしの第3戦では救援活動に従事していた人達が始球式を努めたが、4連敗を喫し、アスレチックスの軍門に下った。
ボンズの登場
1993年にピッツバーグ・パイレーツからFAとなっていたバリー・ボンズを獲得。ゴッドファザーだったメイズを尊敬していた彼は背番号24を譲ってもらう意向だったが、既に永久欠番となっていたため受け入れられず、父ボビーがつけていた背番号25を着ける事となった。ボンズは初のシーズン40本塁打を記録する等期待に違わぬ活躍を見せ、チームも当初は西地区を独走していたが、ブレーブスの追い上げをくらい、ボンズはパイレーツ時代に続いてまたもブレーブスにワールドシリーズ出場を阻止される事となる。ウィル・クラークとのコンビは同年限りで彼がテキサス・レンジャーズに移籍したため1年で解消となったが、1997年にはジェフ・ケント(ただし、犬猿の仲だった)とコンビを組み、コンスタントに成績を残す。そんなボンズの体格が突然巨大化したのは本拠地をAT&Tパーク(旧名称パシフィックベルパーク)に移した2000年シーズン以降で、2001年シーズンはマーク・マグワイアのシーズン本塁打記録を破ったが、ドジャースとのその試合では打ち負け、またもワールドシリーズ進出はならなかった。
新庄剛志が移籍した翌2002年シーズンはワイルドカードから久々にリーグ優勝した。チーム内ではその唯我独尊的言動で浮いていたボンズとも好関係だった新庄は日本人としては初のワールドシリーズ出場選手となったが、同じくワイルドカードから勝ち上がり出場したアナハイム・エンゼルスに惜しくも敗れた。その後も本塁打・四死球数を伸ばしていったボンズは2004年9月17日のサンディエゴ・パドレス戦でついにベーブ・ルースの通算本塁打記録を抜いたが、薬物疑惑スキャンダルに見舞われる事となる。翌2005年には故障でシーズンの大半を欠場、バリー・ジトを迎えた2007年シーズンにハンク・アーロンのメジャー通算本塁打記録を破る事が注目され、8月7日に本拠地のワシントン・ナショナルズ戦でついに塗り替えた。
しかし、この頃は「メジャーリーグの中のシニアリーグ」と揶揄されるほど高齢のベテランばかりのチームとなっていると指摘されるなど、2005年以降は3シーズン連続負け越し、2007年にはついに3地区制シーズン(1993年~)では1996年以来11年ぶりとなる4位以下に落ちてしまった。また、シーズン中の9月21日(現地日付)には、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針などにより、来期以降のボンズとの契約を延長しない意思を彼に伝え、ジャイアンツを退団する事となった。
3度の世界一
ボンズの退団により再スタートを切った2008年、メジャー2年目となるティム・リンスカムが、防御率2.62、18勝5敗、265奪三振という成績を収め、最多奪三振とサイ・ヤング賞に輝くなど、大ブレイクを果たす。他にもリンスカムと同世代のマット・ケインやパブロ・サンドバルなどの若手選手もレギュラーとして好成績を収めた。この年は72勝90敗と前年に続き負け越してしまった。
2009年はリンスカム、ケインを2枚看板とした投手陣がリーグ2位となるチーム防御率3.55を記録するなど、投手陣がチームを引っ張り、88勝74敗と5年ぶりに勝ち越してシーズンを終えることとなった。
2010年は、新人王を獲得したバスター・ポージーの活躍やマディソン・バンガーナーの台頭などもあり、7年ぶりのナショナルリーグ西地区優勝、8年ぶりのワールドシリーズ進出を果たし、4勝1敗でテキサス・レンジャーズを下して1954年以来56年ぶり6度目、サンフランシスコ移転後は初となるワールドシリーズ制覇を果たした。
2011年はポージーの故障離脱もあり、西地区2位に終わり、ポストシーズン進出はならなかった。
2012年にはポージーが開幕から復帰。6月13日にはケインがアストロズ戦で完全試合を達成。8月には首位打者だったメルキー・カブレラが禁止薬物使用の疑いで50試合出場停止となる(その後、シーズン終了まで出場せず)も、ポージーが繰り上がりながら首位打者を獲得(と同時にカムバック賞も獲得)するなど、94勝68敗で地区優勝。ディビジョンシリーズのレッズ戦、リーグチャンピオンシップシリーズのカージナルス戦とも、先に相手に王手をかけられたところからの3連勝で、チーム22度目のリーグ優勝を果たした。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズではポストシーズンの勢いそのままに無傷の4連勝を飾り、2年ぶり7度目のワールドシリーズチャンピオンとなった。ジャイアンツが4連勝でワールドシリーズ制覇をしたのは、1954年のニューヨーク・ジャイアンツ時代以来、実に58年振りの出来事だった[4]。
2013年はレギュラーシーズンではロサンゼルス・ドジャースに地区優勝を許し、勝率も5年ぶりに5割を切るなど低調なシーズンだった。
2014年もドジャースに地区優勝を攫われるが、何とかワイルドカード争いの2位を確保。敵地PNCパークで行われたパイレーツとのディビジョンシリーズ進出決定戦に勝ち、ディビジョンシリーズでは2年ぶりに東部地区を制覇したワシントン・ナショナルズに、リーグチャンピオンシップシリーズでは中部地区を制覇し2年振りの顔合わせになったカージナルスにいずれもAT&Tパークでの最終戦[5]で決着をつけ(ディビジョンシリーズは3勝1敗、リーグチャンピオンシップシリーズは4勝1敗)、2年ぶり23回目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではアメリカンリーグのワイルドカードから勝ち上がったカンザスシティ・ロイヤルズと対戦し、4勝3敗で球団史上8度目、過去5年間で3度目となるワールドチャンピオンになった。
2015年はドジャースが負けても首位に付けない時期があり、4月30日に行われたアトランタ・ブレーブスとの第2戦から6月16日のインターリーグシアトル・マリナーズ戦にかけてはホームで勝てず泥沼の9連敗。ニューヨーク・ジャイアンツ時代以来75年ぶりにホームで9連敗を喫してしまった。9月29日の地元でのドジャース戦に敗れてドジャースに地区3連覇を許し、西地区2位に終わり、2011年以降、2年続けてポストシーズンに出場できないというジンクスの打破はまたしてもならなかった。
2016年は5月に月間21勝8敗の快進撃を見せるなど、オールスターブレイクの7月10日時点においては、4月・5月の2か月間で35勝15敗のロケットスタートを見せ、最終的にこの年メジャー最多の103勝を挙げたシカゴ・カブスをも凌ぐ、メジャーベストの57勝33敗という成績をマークしていた。ところが、後半戦は一転して30勝42敗のスランプに陥り、一時は最大8ゲーム差をつけていたドジャースに逆転を許し、地区4連覇を許してしまう。さらに、10月1日にポストシーズン進出を決めたニューヨーク・メッツに第1ワイルドカード[6]の座も奪われてしまった。それでも、シーズン最終戦となった10月2日の地元でのドジャース戦に勝利し、第2ワイルドカードは確保。2年ぶりのポストシーズン進出を決めた。敵地シティ・フィールドで行われたニューヨーク・メッツとのワイルドカードゲームでは0対0で迎えた9回表にコナー・ガレスピーの3ランで得た3点をバンガーナーが4安打完封で守りきり、ディビジョンシリーズに進出。続くシカゴ・カブスとのディビジョンシリーズは、敵地リグレー・フィールドで連敗してカブスに王手をかけられるも[5]、本拠地に戻った第3戦では、延長13回にジョー・パニックのサヨナラ打で勝利をおさめ、続く第4戦も先発のマット・ムーアが8回までカブス打線から10三振を奪い、2失点に抑える好投を披露し、8回を終えて5-2とリード。このまま2勝2敗のタイに持ち込んで第5戦に望みを繋げるかと思われたが、悪夢は9回に待っていた。2番手のデレク・ローがクリス・ブライアントにレフトへのヒットを打たれると3番手の14年目のベテランハビエル・ロペスが3番のアンソニー・リゾにフォアボールを与える。4人目のセルジオ・ロモが無死1塁2塁の場面で4番のベン・ゾブリストにレフトへのツーベースヒットを打たれ5-3と1点を返される。5人目のウィル・スミスが代打のウィルソン・コントレラスにセンターへの2点タイムリーヒットで同点に追いつかれセーブ失敗となる。負の連鎖は止まらず、無死1塁で6番ジェイソン・ヘイワードはスミスの正面に転がるバント。1塁ランナーのコントレラスこそフォースアウトにするものの、ショートのブランドン・クロフォードがファーストへの悪送球で1死2塁と送りバントが成功したのと同じ状況にしてしまい、6人目のハンター・ストリックランドがハビエル・バイエズにセンター前ヒットを打たれ、継投ミスからカブスにまさかの大逆転を喰らい、5対6で敗戦。2010年以降、2年おきにワールドチャンピオンになるというジンクスもここで途切れることとなった。また、ジャイアンツは2012年のディビジョンシリーズ第3戦から2016年のディビジョンシリーズ第3戦まで、ポストシーズンで相手に王手をかけられた状況での試合もしくは一発勝負での試合において、合計10連勝というメジャーリーグ記録を樹立していたが、この記録も同時に途切れることになった[7]。
2017年はエースのバンガーナーを始めとして、先発のジョニー・クエト、ムーア、抑えのマーク・マランソンと投手陣に故障や不調者が相次ぎ、二桁勝利投手を一人も出すことができず、100敗を免れるのが精一杯という、低調なシーズンとなってしまった。
選手名鑑
現役選手・監督・コーチ
テンプレート:San Francisco Giants roster
アメリカ野球殿堂表彰者
- デイブ・バンクロフト (Dave Bancroft)
- ジェイク・ベックリー (Jake Beckley)
- ロジャー・ブレスナハン (Roger Bresnahan)
- ダン・ブローザース (Dan Brouthers)
- ジェシー・バーケット (Jesse Burkett)
- スティーブ・カールトン (Steve Carlton)
- オーランド・セペダ (Orlando Cepeda)
- ロジャー・コナー (Roger Connor)
- ジョージ・デイヴィス (George Davis)
- バック・ユーイング (Buck Ewing)
- フランキー・フリッシュ (Frankie Frisch)
- バーリー・グライムス (Burleigh Grimes)
- ギャビー・ハートネット (Gabby Hartnett)
- ロジャース・ホーンスビー (Rogers Hornsby)
- ウェイト・ホイト (Waite Hoyt)
- カール・ハッベル (Carl Hubbell)
- モンテ・アーヴィン (Monte Irvin)
- トラビス・ジャクソン (Travis Jackson)
- ランディ・ジョンソン (Randy Johnson)
- ティム・キーフ (Tim Keefe)
- ウィリー・キーラー (Willie Keeler)
- ジョージ・ケリー (George Kelly)
- キング・ケリー (King Kelly)
- トニー・ラゼリ (Tony Lazzeri)
- フレディ・リンドストロム (Freddie Lindstrom)
- アーニー・ロンバルディ (Ernie Lombardi)
- フアン・マリシャル (Juan Marichal)
- ルーブ・マーカード (Rube Marquard)
- クリスティ・マシューソン (Christy Mathewson)
- ウィリー・メイズ (Willie Mays)
- ウィリー・マッコビー (Willie McCovey)
- ジョー・マクギニティ (Joe McGinnity)
- ジョン・マグロー (John McGraw)
- ビル・マケシュニー (Bill McKechnie)
- ジョー・メドウィック (Joe Medwick)
- ジョニー・マイズ (Johnny Mize)
- ジョー・モーガン (Joe Morgan)
- ジム・オルーク (Jim O'Rourke)
- メル・オット (Mel Ott)
- ゲイロード・ペリー (Gaylord Perry)
- エド・ローシュ (Edd Roush)
- エイモス・ルーシー (Amos Rusie)
- レッド・ショーエンディーンスト (Red Schoendienst)
- デューク・スナイダー (Duke Snider)
- ウォーレン・スパーン (Warren Spahn)
- ケーシー・ステンゲル (Casey Stengel)
- ビル・テリー (Bill Terry)
- モンテ・ウォード (Monte Ward)
- ミッキー・ウェルチ (Mickey Welch)
- ホイト・ウィルヘルム (Hoyt Wilhelm)
- ハック・ウィルソン (Hack Wilson)
- ロス・ヤング (Ross Youngs)
永久欠番
- 番号なし クリスティ・マシューソン (Christy Mathewson)
- 番号なし ジョン・マグロー (John McGraw)
- 3 ビル・テリー (Bill Terry)
- 4 メル・オット (Mel Ott)
- 11 カール・ハッベル (Carl Hubbell)
- 20 モンテ・アーヴィン (Monte Irvin)
- 24 ウィリー・メイズ (Willie Mays)
- 25 バリー・ボンズ (Barry Bonds)
- 27 フアン・マリシャル (Juan Marichal)
- 30 オーランド・セペダ (Orlando Cepeda)
- 36 ゲイロード・ペリー (Gaylord Perry)
- 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) - 全球団共通の永久欠番。
- 44 ウィリー・マッコビー (Willie McCovey)
日本人選手
ジャイアンツ野球殿堂
2008年に設立され、52人が殿堂入りを果たしている。
殿堂入り表彰者
傘下マイナーチーム
脚注
- ↑ 直訳は「世界が聞いた一打」。この試合はアメリカ軍のラジオ放送網で世界中に中継されていた。
- ↑ 宇佐美陽「ボールパークを巡る冒険 (2)」『SLUGGER』通巻第4号(1998年8月号)、日本スポーツ企画出版社、76頁
- ↑ 3.0 3.1 宇佐美、77頁
- ↑ “ジャイアンツ 7度目の世界一!58年ぶりの4連勝V”. スポーツニッポン. (2012年10月29日) . 2012閲覧.
- ↑ 5.0 5.1 ワイルドカードで進出したチームは、勝利数で他地区優勝チームを上回ってもディビジョンシリーズ・リーグチャンピオンシップシリーズではホームアドバンテージを得られないので、両シリーズでは常に地区優勝チームにホームアドバンテージがある。その為、2014年の場合、ディビジョンシリーズはナショナルズ・パークから、リーグチャンピオンシップシリーズはブッシュ・スタジアムからのスタート、2016年の場合も同様に、ディビジョンシリーズはリグレー・フィールドからのスタートとなった。ただし、ワールドシリーズでのホームアドバンテージ選出方法はこれとは異なり、勝利数には関係なく2003年から2016年までの間、ワイルドカード進出チームが所属するリーグが当年度のオールスターゲームで勝利していればホームアドバンテージを得ることができた。2017年からはオールスターゲームによるホームアドバンテージ選出は廃止され、ワールドシリーズ進出の2球団のうち勝率の高いチームがホームアドバンテージを得る方式に変更された。
- ↑ ワイルドカードゲームでのホームアドバンテージを得られる権利。
- ↑ 北米4大プロスポーツリーグ全体でも1959年~1967年にかけて樹立したボストン・セルティックスの11連勝に次ぐ史上2位の記録である。
関連項目
- メジャーリーグベースボール
- ナショナルリーグ
- ジャーニー - AT&Tパークでのサンフランシスコジャイアンツ戦では、8回の時点でサンフランシスコジャイアンツがリードしているときにはen:Lights (Journey song)、負けているときにはen:Don't Stop Believin'が流れる。
外部リンク
- 公式ウェブサイト (英語)
- ジャイアンツ野球殿堂サイト
ワールドシリーズチャンピオン ロースター |
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ナショナルリーグチャンピオン ロースター |
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