筑紫哲也 NEWS23
『筑紫哲也 NEWS23』(ちくしてつや ニュース・ツー(トゥー)・スリー、英称:TETSUYA CHIKUSHI NEWS 23)は、1989年(平成元年)10月2日から2008年(平成20年)3月28日まで、TBS系列(JNN)で平日(祝日含む)23時台に生放送されていた、平日最終版の報道番組および筑紫哲也の冠番組である。これ以降も『NEWS23』ブランドは継承されている。
キャッチフレーズとして、「真夜中のニュースランド」(番組初期)が存在していた。
Contents
放送開始の経緯
TBSの平日ニュース最終便は、1987年(昭和62年)10月から22時台にニュース番組(『JNNニュース22プライムタイム』、1988年(昭和63年)10月からは『JNNニュースデスク』)、23時台後半に『JNNスポーツチャンネル』、翌日0時台に『情報デスクToday』を編成。
1989年10月改編で22時台ニュース番組から撤退。21時以降のTBSの平日のテレビ編成の見直しと兼ねて、23時台のニュース番組新設の際に筑紫哲也をメインキャスターに迎えた『筑紫哲也ニュース23』を開始した。
TBSは以前から、テレビの出演経験の豊富な筑紫にニュース番組のキャスターを打診していた。1975年に大阪準キー局とのネットチェンジが行われるまで、TBSとNET(現テレビ朝日)は腸捻転と言われた関係にあり、TBSと朝日新聞の関係はもともと深かった。また、番組開始の4年前に開始したテレビ朝日『ニュースステーション』のキャスターがTBS出身の久米宏だったこともあり、筑紫のニューヨーク転勤をはさんで円満に筑紫のキャスター起用が決まった。
番組名に使われている数字「23」は放送時間の由来もあるが、野球のボールカウント(SBO方式)におけるフルカウントこと「ツーストライク スリーボール」の略称の由来もあり、読みは「にじゅうさん」や「トゥエンティースリー」ではなく「ツースリー(トゥースリー)」の読みになった。これは当時視聴率が低迷していたTBSの平日最終版ニュースの「起死回生」にかけた[1]。
筑紫は番組スタート当時の雑誌インタビューや自らの著書『ニュースキャスター』などで「『君臨すれども統治せず』の編集長」と自らの立場を説明していたが、オウムビデオ問題を機にTBSの社長人事にまで影響を及ぼした。
1996年3月25日、坂本堤弁護士一家殺害事件の契機となったとされるTBSビデオ問題では、内部調査の結果として一貫して否定していたTBS側が、一転して事実を認めて謝罪したことを受け、筑紫が番組コーナー『多事争論』内で、マスメディアが視聴者との信頼関係の上で存在していることに触れながら、「TBSは今日、死んだに等しいと思います。……今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言した[2]。この発言は大きな波紋を呼んだが、筑紫はその後10年以上にわたってキャスターを務めた。しかし、この問題が発覚して以降、裏番組である老舗の『NNNきょうの出来事』(日本テレビ)や2年前の1994年に始まった同じく裏番組である後発のニュース番組『ニュースJAPAN』(フジテレビ)に視聴者が流れ、一時は視聴率が急速に低下した。
番組の変遷
初期(1989年10月 - 1997年9月)
1989年10月2日、TBSにおける夜のワイド編成の報道番組の原型となった『ネットワーク』以来となる深夜帯での1時間半に及ぶワイド編成の報道番組として放送開始。
出演者は、筑紫哲也、浜尾朱美・池田裕行を中心に進行。スポーツキャスターの初代は野球解説者の小林繁。
初期は2部制を採った。第1部で報道局とスポーツ局が制作するニュースと特集、スポーツニュースを放送、23:50もしくは翌日0:20からのローカル枠[3] を挟み、23:55もしくは翌日0:22からの第2部では社会情報局(TBSビデオ問題後の社内改革で廃止)が主に制作する特集を放送。ただし当時、番組は第1部と第2部という呼び方の他、「報道」「スポーツ」「情報」の3つから成る、という表現もしており、当初はテレビ雑誌の番組表では23:30から「スポーツ23」という表記がみられたが、第1部内の時間分けはだんだん曖昧になっていった。
第2部はアシスタントを阿川佐和子、三崎由紀、有村かおり、後期は渡辺真理が務めた。ニュース部分を報道局担当パートに集約させたため、いわゆる「企画枠」として、インタビューからドキュメントまで幅広く扱った。そのため、いわゆる硬派のジャーナリズムを標榜する第1部とは対照的に第2部はワイドショー(マガジン)的要素の強いものだった。
第2部は『情報デスク』時代から「任意ネット=ローカル」枠で、ネットしない放送局があった。当初は第1部の終わりに(第2部のエンディング曲のインストルメンタル版をBGMに)筑紫もしくは浜尾が「今日のニュースとスポーツをお伝えしました」と締め、第1部でネットを終える局への挨拶代わりにしていたが、2部ネット局が増えるにつれて簡素になっていった。ただし特番等で全局が1部で終了する場合は同じBGMできちんと締めていた。
この頃の新聞のラ・テ欄表記は「筑紫哲也ニュース23」であった。
中期(1997年10月 - 2006年9月)
1997年9月29日にリニューアル。筑紫と1996年10月から出演していた佐古忠彦に加え、草野満代・進藤晶子の4人となる。金曜以外の第2部を廃止(若者向け情報バラエティ『ワンダフル』をスタートさせる)。オープニングテーマ曲が坂本龍一作曲のものに刷新されて、Nスタジオのセットや番組ロゴ・グラフィックデザインもリニューアルし、新聞表記も「ニュース23」(初期のロゴから英語の「NEWS23」となったまま)から「NEWS23」となった。
リニューアルに合わせて、30分遅れの金曜を通称「金曜版ニュース23」とし、第2部を「金曜深夜便」と改称。1999年からは金曜日のテーマ曲をピアノアレンジ違いとしている。
1998年4月からは月曜から木曜の放送開始時間が6分繰り上がり、22:54開始のフライングスタートとなった。
リニューアル当初、佐古は1999年9月まで月曜日から木曜日の出演だった。1999年10月より、全曜日出演となる。同時にスポーツキャスターが進藤晶子から小倉弘子に交代。
2000年からの3年間、2月に年間テーマを基にした5日連続特番を放送。その日のニュースは手短に伝え、さらに放送時間を30分拡大して放送した。
2004年10月からは月曜日の放送を拡大し、第2部復活版ともいえる企画「マンデープラス」を開始。同時にスポーツキャスターが小倉弘子から久保田智子に交代する。
2005年3月28日から、TBSが日中の報道・情報系生ワイド番組のリニューアルに伴い、「NEWS23」もタイトルロゴ、テーマ曲を1997年秋以来7年半ぶりに、スタジオセットを5年ぶりに新しいものに変更した。天気予報も全曜日で気象予報士でタレントの山田玲奈が務めた(2004年4月から2005年3月までは金曜日のみ気象予報士の真壁京子が務めてきた)。
末期(2006年9月 - 2008年3月)
2006年9月25日、筑紫以外の出演者のリニューアルを行う。フリーランスの膳場貴子と山本モナに加え、高野貴裕がスポーツキャスターを担当。また、これまでは金曜日に限りオープニングの音楽がピアノバージョンだったが、このリニューアルをもって金曜日のオープニングはピアノではなく他の曜日と同じアレンジとなっている。
しかし、出演者の離脱・休養・加入が相次ぐ。(詳しい経緯は後述)。リニューアルしたその週に、山本モナが写真週刊誌『フライデー』に不倫報道を報じられ、翌週から出演を見合わせ、そのまま降板となる。これを受けて、12月に出水麻衣・岡山裕子が加入、2007年3月に三澤肇が加入する。
一方、筑紫は2007年5月から病気治療のために入院することになった。筑紫は入院中も音声メッセージによる出演を行い、10月には5ヶ月ぶりにスタジオから出演。以後は不定期の出演となる。
筑紫の不在を受けて、2007年12月3日から後藤謙次(元共同通信社編集局長)がメインキャスターに就任。筑紫は「スペシャルアンカー」として、大きなニュースがある場合のみ出演する事となった。
後藤が就任した後も暫しの間『筑紫哲也 NEWS23』のまま放送したが、2008年3月28日放送の筑紫出演回で「来週からの番組リニューアルで、タイトルから私(筑紫)の名前が消えます。ただ、体力の許される範囲・番組にプラスになると思える範囲内で番組には関わりたい」と挨拶。2008年3月31日より、番組名から筑紫の名前を外して、単なる『NEWS23』となった。
出演者
- メインキャスター・サブキャスター・スポーツキャスター・天気キャスター
期間 | メイン | サブ | スポーツ | 天気 | サブ (第2部) | |||||
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月 - 木 | 金 | 月 - 水 | 木 | 金 | ||||||
1989.10.02 | 1991.03.29 | 筑紫哲也 | 浜尾朱美 | 池田裕行 | 小林繁1 | (女性サブが担当) | 阿川佐和子2 | |||
1991.04.01 | 1992.04.03 | 木村美穂 | 三崎由紀 | |||||||
1992.04.06 | 1992.10.02 | 木場弘子 | ||||||||
1992.10.05 | 1993.03.31 | 香川恵美子 | ||||||||
1993.04.01 | 1996.09.27 | 有村かおり | ||||||||
1996.09.30 | 1997.09.26 | 池田裕行 佐古忠彦 |
渡辺真理 | |||||||
1997.09.29 | 1999.09.24 | 草野満代 | 佐古忠彦3 | 進藤晶子 | (廃止) | |||||
1999.09.27 | 2000.03.31 | 小倉弘子 | ||||||||
2000.04.03 | 2001.01 | 小倉弘子4 | 草野満代4 | |||||||
2001.02 | 2004.03.26 | 小倉弘子 | ||||||||
2004.03.29 | 2004.09.24 | 草野満代 | 真壁京子 | |||||||
2004.09.27 | 2005.03.25 | 久保田智子 | ||||||||
2005.03.28 | 2006.09.22 | 山田玲奈 | ||||||||
2006.09.25 | 2006.12.01 | 膳場貴子 | 高野貴裕 | (日替わり)5 | ||||||
2006.12.04 | 2006.12.28 | 出水麻衣 | 岡山裕子 | |||||||
2007.01.09 | 2007.03.02 | 出水麻衣 | 岡山裕子 | |||||||
2007.03.05 | 2007.11.30 | 膳場貴子 | 三澤肇6 | |||||||
2007.12.03 | 2008.02.01 | 筑紫哲也7 後藤謙次8 | ||||||||
2008.02.04 | 2008.03.28 | 出水麻衣9 | 膳場貴子9 | 岡山裕子 | ||||||
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- ナレーター
『筑紫』時代は一貫して柳志津男がニュース・特集企画のナレーションを担当。スポーツニュースは時期の詳細は不明であるが、真中了(水曜まで)と八戸優(木曜・金曜)が担当した。
- 「サッカー23」解説者
- 中西哲生(スポーツジャーナリスト)
- 小倉隆史(TBS・BS-i(現:BS-TBS)サッカー解説者。日本代表関連の話題で不定期に出演していた)
- かつて、毎週月曜日(原則)に、主として前週末に行われたヨーロッパ各国のサッカーリーグ戦などについて解説していたが、久保田が降板した2006年9月以降は行われなかった。
番組末期の出演者の変遷・出来事
- 2006年9月29日、この日発売の写真週刊誌「フライデー」(2006年10月13日号)で、山本モナと民主党衆議院議員の細野豪志との不倫が報じられた。山本は翌週10月2日放送分から「体調不良による休養」として出演を見合わせ、10月23日付けで番組を降板した。山本降板以降、後述の三澤の加入まではスポーツキャスターの高野がニュースコーナーにも出演した。
- 12月4日、出水麻衣(TBSアナウンサー・2006年入社、月 - 木曜担当)と岡山裕子(名古屋テレビ出身のフリーアナウンサー・気象予報士、金曜担当)が加わる。ただし2名とも天気コーナーのみ担当として出演。出水は同年同月のみ『チャンネル☆ロック!』との兼ね合いにより水曜までの出演で、木・金曜は岡山が担当した。
- 2007年3月5日、三澤肇が加入。三澤は近畿広域圏の系列局・毎日放送(MBS)の記者(アナウンサーとして入社)で、MBSからの出向。
- 5月14日、「多事争論」のコーナーをオープニングで行い、そこで筑紫自身から初期の肺がんであることを公表。筑紫は闘病・休養に入ることとなり、出演を見合わせる。筑紫のコラム「多事争論」の頻度は減り、声だけの出演となった。
- 5月15日、筑紫がいないことを前提に、膳場・三澤体制での『NEWS23』がスタート。
- 8月28日と29日、膳場と三澤がMBSの報道局デスクやスタジオ(通常『VOICE』(関西ローカルの夕方ニュース)を放送しているスタジオ。三澤は同番組の初代メインキャスターでもあった)から、番組全編を放送。高野は唯一東京のスタジオで留守番(プロ野球など世界陸上以外のスポーツニュースを伝えた)。この2日間の天気予報は、膳場が大阪から伝えた。8月25日から9月2日まで開催されていた「世界陸上大阪大会」をMBS・TBS系列が独占放送していたことにちなむ(膳場・三澤はそれぞれ世界陸上に湧く大阪の実情を取材)。この時、出水は同大会のミックスゾーン(インタビュアー)担当だったことから、長居陸上競技場から出演。
- 9月10日から14日、膳場が夏休みをとり、三澤が膳場の代役を1週間務めた。出水・岡山が共に全曜日にわたって出演。サブキャスターの役割は月・火曜が出水、水 - 金曜は岡山が担当。天気予報については、岡山が金曜に加え、出水が担当していた月・火曜も担当した(出水は水・木曜を担当)。ニュース原稿は基本的に出水と岡山が交互に伝えた。
- 10月8日、筑紫が復帰。「これまで通り毎日来ることはできないかもしれない」「大きいニュース(政局が動いた場合や大事件・事故)がある時に駆けつける形になる」とも語っており、以降、不定期出演という形となった。また、抗がん剤の影響で髪も抜け落ち、戻りつつある(筑紫は、発展途上という言葉に置き換えて伝えた)が、付け毛をしていることも明かした。
- 10月16日、筑紫が「環境スペシャル地球破壊3!中国編!"巨龍発熱"」で復帰後2度目の出演(この日は普段ネットしないMBSが月曜第2部をネット)。
- 10月23日、筑紫の出演が不安定な事情や、筑紫の意向もあり、新メインキャスターを後藤謙次(共同通信社元編集局長)が担当することが発表された。
- 11月5日、小沢一郎の民主党代表辞意表明(のちに撤回)を受けて筑紫が3度目の生出演。関連して、11月8日には筑紫が録画出演し、小沢との1対1のインタビューを行った。
- 11月23日、筑紫が滋賀・石山寺より復帰後4度目の生出演。
- 12月3日、後藤がメインキャスターとして最初の出演。なお就任当初、金曜は取材日に充てるため出演せず、大きなニュースがある場合のみ出演という形を取った。
- 2008年2月1日、高野が翌週から『イブニング・ファイブ』を担当することになったため番組を降板。
- 2月4日、出水と岡山の担当が変わり、出水がスポーツキャスター、岡山が天気予報を担当することになった。なお、出水は日曜日に『J-SPO』(2006年10月から担当)の生放送があり、本番組に全曜日出演することになると週6日勤務となり、TBS内の労使協定に反する過重勤務となるため(もっとも同年春以降この協定はうやむやになった)、『J-SPO』の方の都合が付くまで月 - 木曜のみの生出演とし、しばらく金曜のみ膳場がスポーツコーナーを兼務した(出水が取材VTRに出演することもあった)。かつてのスポーツ担当の小倉が日曜日の『大好き!東京ゲスト10』→『サンデー・ジャポン』に出演していた2000年4月から2001年1月も同様で、この期間のみ金曜日は草野が担当した。
- 3月28日、筑紫が出演し、「多事争論」の中で番組名に自身の名前を冠した最後の放送となることを明かす。
代役について
筑紫の休暇や出張、療養などで休みの時は、初期は黒田清、しばらくは嶌信彦、秋山豊寛らが代理を務めていた。末期は休暇の場合、前述の嶌をはじめとした文化人や評論家が日替わりで登場するようになったが、キャスターというよりはコメンテーター的ポジションであり、「多事争論」以降の番組後半からは登場しなかった。実質上の代理は浜尾や草野らのサブキャスターが務め、2006年9月以降および、筑紫闘病・休養中は膳場が担当。
- 池田が不在の時には、当時TBSアナウンサーの岡崎潤司が担当することもあった。
- 佐古は降板後も国会からの中継報告などで度々登場していた(他の時間帯にも登場)。2007年11月7日は約1年ぶりにスタジオにも登場した。
- スポーツニュースの代役は浜尾・草野が担当した。2007年は不明。
年間テーマ
1991年から2008年までは、その年の年間テーマを掲げ、シリーズ特集を組むことがあった。2008年は後藤謙次がメインキャスターだった時期だが、筑紫は『地球破壊』シリーズでアイスランド取材を行っている。
- 1991年:日本が危ない!
- 1992年:年間テーマなし
- 1993年:乱
- 1994年:論
- 1995年・1996年:脱
- 1997年:年間テーマなし
- 1998年:壊
- 1999年:それから
- 2000年:こころ
- 2001年:幸福論、世界が変わった日(9月12日 -、アメリカ同時多発テロの発生による)
- 2002年:新・幸福論(2001年に放送した2つのテーマの仕切り直し)
- 2003年:Go!Slow スローで行こう
- 2003年・2004年:この戦争の正体(イラク戦争に伴う)
- 2005年:翔
- 2006年:変
- 2007年:破、がんを生きぬく(この期間に筑紫ががんを患っていることが判明)
- 2008年:地球破壊
多事争論
筑紫が好きな言葉である福澤諭吉の言葉を拝借したコラムコーナーで、1992年10月5日開始。90秒、筑紫の私的な意見や感想を述べた。テーマは筑紫がフリップに毛筆で書いて掲示した。1997年9月から1998年9月まではフリップを用いず、大型モニターにテロップで筑紫直筆のタイトルと関連する映像が映し出され、その前に筑紫自身が立って話すというスタイルをとっていた。筑紫が事実上メインキャスターを退いた2007年5月からはあまり放送されなくなり、入院・療養中の2007年6月から同年9月までは音声のみで出演した。
『TBSビデオ問題』では、当時のTBS社長・磯崎洋三が過ちを認めた1996年(平成8年)3月25日の記者会見の後、その日の「多事争論」にて筑紫は「TBSは今日、死んだに等しいと思います」「過ちに対して(中略)つまり、その後の処理の仕方というのが殆ど死活に関わるということを、これまでも申し上げてきました。その点でもTBSは過ちを犯したと私は思います」「今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言し[4]、「身内に甘い」と評されるテレビ業界にありながら、TBS局内で自身の報道番組から身内に対して痛烈批判をした。
筑紫が夏休みで番組を休んだ場合、各日のゲストコメンテーター(嶌信彦や岸井成格、東京大学の姜尚中教授など)が「多事争論」コーナーで意見を述べている。コーナー開始前の小映像もそれぞれその日のコメンテーターが登場するものである。2007年7月には、「私の多事争論」と題して、落語家の立川談志が出演した。
筑紫哲也の多事争論は番組公式サイトにて、後日RealPlayerにて映像のネット配信がなされた日本初・当時としては『先駆的』な取り組みをしたコーナーであった(なお、『23』のハイライト配信は2001年から)。いわゆる「ブロードバンドインターネット接続」が当時それほど普及しておらず、日本のテレビ放送局ではTBSが自社のニュースサイトでニュース映像を公開していた。ただし、多事争論開始当初からしばらくの間は映像は無く、テキストで書いてあったのみ。
2006年頃からTBSニュースバードでもこのコーナーのみで0時30分、1時30分(月曜と金曜深夜は2時30分も)からの放送で放映されていた(2008年3月まではEPGにはタイトルが掲載されていたが、当該枠は最新ニュースとスポーツニュースを送っていた。主要ニュースとスポーツはこの番組からの再構成である。同4月以後は「みっどないとバード」=0時から4時半までのゾーン総称になっている)。
異論!反論!OBJECTION
第1部と第2部の合間にあったローカルニュース枠で放送されていた街頭インタビューコーナー。ひとつのトピックをもとに街頭インタビューを行い、賛成、反対、それ以外などさまざまな意見を織り交ぜて紹介した。スポーツコーナーでパロディを放送したことがあり、全国化を果たした形となった。2部制終了後は多事争論とセットで全国枠での放送となっていたが、月曜日の第1部エンディングと「マンデープラス(のちの月ONE)」の間のローカル枠での放送という番組初期と同じ時間となり、一部地域では視聴できなかった。「月ONE」廃止後とともに消滅。ただし、NEWS23になった後、2014年の最終放送と2017年10月の放送で一時的に復活した。
第2部
月曜から木曜までは「第2部」に特集が放送されてきた。『情報デスクToday』から引き続き社会情報局が制作を請け負ったが、TBSビデオ問題による廃止により報道局が引き継いだ後、1997年9月29日、バラエティ番組『ワンダフル』開始に伴い終了した。
初期の第2部のネット局に関しては、前身となる『情報デスクToday』のネット局が少なく、当初は毎日放送(MBS)やRKB毎日放送(RKB)などを中心に放送しない局が多かった。山陰放送は、「〜Today」はネットしていたが本番組になって第1部のみに変更された。その後、第2部が評判を呼び、徐々にネット局が広がった。筑紫は山陰放送が2部ネットを開始した直後の1991年10月の米子での講演で、「第2部をネットしないと講演依頼も受けない、と言ってきた」と発言し、自らネット拡大に努めていたことを明かした。ただし、MBSだけは一貫して第1部のみ放送する体制を続けた。
金曜深夜便
金曜第2部はローカルニュースとCMを除くと10分間と短く、1997年10月『ワンダフル』開始後も唯一の第2部として継続。正式に「金曜深夜便」となり、筑紫降板後も2009年3月まで続いた。
文化(カルチャー)で際立つ人選を行うことがある。1999年忌野清志郎がパンク・ロックに編曲した『君が代』が国旗国歌法制定と合わさり発売延期騒動となった際、バンドを率いて『君が代』を披露。2007年には銀杏BOYZがスタジオ生演奏、『光』を披露した。
インリン・オブ・ジョイトイや、鳥肌実も登場した。
マンデープラス
2004年10月改編を機に月曜のみ第2部が復活。マンデープラスと読むが、表記上は『月+』、2006年秋から『MONDAY+』とした。23:55から翌日0:25までの30分、ドキュメンタリーを放送した。
主なコーナー
- フラッシュニュース
- 名称は「NEWSラウンドアップ」→「NEWS INDEX」。2008年3月まで担当していたナレーターの柳志津男と女性キャスターが交互に伝える。第1期のタイトル「NEWSラウンドアップ」は事実上『情報デスクToday』の「フラッシングToday」の後継枠である。
- 第1期(筑紫・浜尾)末期にあたる1996年からの金曜版はゆったりした進行を意識し、その日のニュースは冒頭にフラッシュニュースで伝えるのみとした。
- 1998年4月にフライングスタート開始した際、放送時間が重複していた『NNNきょうの出来事』を参考にし、フラッシュニュースから始まり、特集予告などを挟み、オープニングCGが流れてキャスターの挨拶という順序をとった(およそ1か月)。
- スポーツ
- 小林繁時代は本番組立ち上げ以前のスポーツニュース番組『スポーツチャンネル』の名称をコーナー名として承継していたが、後にこのコーナー名は廃止され、口頭で「スポーツです」との紹介にとどまる形になった。2005年3月28日よりコーナー名として「SPORTS23」と再命名された。ただ、コーナー名の紹介はロゴ等の表示でしか確認できず、以前と同じように「スポーツです」と紹介されている。
特集企画
年間テーマ以外ではない短期集中型のシリーズ企画。話題になっているテーマに関することや現代社会を捉えるものまで多種多様。
- 終戦記念日特集
- 毎年8月15日は戦争に関するもの、日本の時代精神に問いかけるものなど、様々な特集を放送してきた。この日は第2部を放送しない地域にも放送される事がある。若者を招いて車座集会を開いた際、死生観に関する議論が殺伐とした雰囲気になった事がある。
- 阪神淡路大震災
- 1996年から2005年まで、毎年1月17日にキャスターが神戸から生中継した。1997年から筑紫・佐古がそれぞれ中継するのが恒例となり、黒田清も生前は筑紫と共に生中継に出演した。2005年の震災10年目は神戸出身のロックバンドガガガSPがライブハウスからの中継で『問題はない』を演奏した。月曜第2部「マンデープラス」にかけて放送し、普段第2部を放送しない地元・毎日放送もネット。
- おすぎと哲也の映画紹介
- 映画評論家・おすぎと筑紫による最新映画紹介。夏休み前と年末年始前の年2回放送。金曜版23の定番企画として続けられた。
- CMベストテン
- 広告批評初代編集長でコラムニストの天野祐吉が選定。1年間のCMを総括するもので、12月の金曜日に放送された。第1部で国内のCMランキングを、第2部「金曜深夜便」で国内外の珍しい・面白いCMを紹介という形が多かった。
- 争論・大争論
- 2001年に「争論」と題した筑紫司会、ゲスト2人による討論企画が放送。その後、数人のゲストを呼び「大争論」と題した企画がたびたび放送された。
- それから75日 → それから
- 2004年から「それから75日」として放送開始。元TBSアナウンサーで、現在はフリージャーナリストの下村健一が担当。大きく取り扱われていたニュースが残したもの、あの時見えなかった側面などを探る。2005年4月からタイトルから「75日」が外れ、月1回の放送となった。
レギュラー企画
- The Interactive
- テーマを基に視聴者から寄せられたメールを紹介する。草野が加入した1997年10月に始まり、草野が代読していたが、2ヶ月で終了し「OBJECTION」の復活に至る。
- コレヨモ。
- 金曜版23のローカルニュース枠の企画。オススメの一冊を紹介。2005年10月から半年間放送[5]。
- NEWS23 蛙男劇場
- 2006年6月16日から月1本のレギュラーコーナーとして開始。蛙男商会がサラリーマン層のプライムタイムである「NEWS23」の中で、時事ネタを独自の観点から鋭く風刺し、今までのアニメでは獲得できなかった層を獲得した。2006年9月29日からは隔週放送となった。2009年3月27日に3年間で終了。
その他随時著名人と筑紫による対談「筑紫録」が放送されていた。筑紫1周忌に当たる2009年11月より随時、TBSチャンネルで「筑紫哲也 NEWS23 対談特選〜時代を映す言葉たち」として放送された。
タウンミーティング
1998年11月19日のビル・クリントンアメリカ大統領訪日を契機に、国家首脳と事前に番組が選考した日本国民とのタウンミーティングが何度か企画された。元々アメリカ合衆国連邦政府がビル・クリントン大統領(当時)日本訪問の際にタウンミーティングを計画し、NEWS23に対してオファーしたものである。収録された本編にCMは一切流さない、などアメリカ流の手法がそのまま持ち込まれた。23側からは、ゲストインタビューで恒例だった5つの質問が企画された。最後に多事争論にて「本当に小渕さんに申し上げたいんですが、今度は『あなたの番』です」と、番組内で小渕恵三内閣総理大臣への出演依頼で締めたが、小渕は在任中に急逝した。
クリントン訪日の当日は、「あんな悪魔のような人(小沢一郎)とは断じて連立は組まない」と明言していた小渕内閣官房長官の野中広務が、党内外の事情から一転、「小沢先生には平伏してでも連立をお願いしたい」と公言して自・自連立が内定するなど、日本の政治情勢は混乱を極める暗たんとした状況だった[6]。フォローアップと観客にマイクを渡す役目として草野・佐古・田丸美寿々(JNN報道特集キャスター)が出演。この時、大阪市から中継で質疑が行われ、クリントン不倫疑惑について質問した。大阪は田丸一男(毎日放送アナウンサー)がフォローアップを行った。
クリントン大統領出演時の舞台裏はタウンミーティング翌日の番組で特集され、アナウンサーのロッカーも私物を残さないで空にさせたり、タウンミーティングの収録スタジオは収録に直接関係する「特別通行証」所持の社員以外は、前日から社員でも近づけなくするなど局内に厳戒態勢が敷かれた様子が放送された。アメリカ合衆国では、劇場やコンサートホール(多目的ホール)で行われる為に、放送局のスタジオで開催したのは貴重な事例である。
李明博出演の回には草彅剛が出演し、質問を行った。
放送時間
期間 | 月曜日 | 火 - 木曜日 | 金曜日 | |
---|---|---|---|---|
1989.10.02 | 1997.09.26 | 23:00 - 翌0:30(90分) | 23:30 - 翌0:35(65分) | |
1997.09.29 | 1998.03.27 | 23:00 - 23:55(55分) | ||
1998.03.30 | 2004.10.01 | 22:54 - 23:50(56分) | ||
2004.10.04 | 2008.03.28 | 22:54 - 翌0:25(91分) | 22:54 - 23:50(56分) |
新聞発表上では月 - 木曜の番組開始時間が22:54になっていたが、実際は22:56開始であった(22:54時点では、2分間CMを流していた)。
プロ野球中継の延長や、ドラマ・バラエティ番組の拡大・特番編成により、放送時間が変更される場合もしばしばあった。[7]
年末年始は特番編成の関係上、放送を休止している。代替番組として、15分間の『JNNニュース』を23:30頃に設けている。
また、(国際的な)ゴルフ中継やテニス中継(ダイジェスト・総集編含む)などで、第2部を休止した事もあった。[8]
2008年以降はNEWS23#放送時間を参照。
- 報道特番時の対応
- 1991年2月28日第1部終盤に「イラクの米軍撤退」の報が入り、第1部をCMなしで30分延長した。CMなしだったのは、深夜のこの時間にCMに入れば自動的に番組が終了する地方局があったことを考慮したものと思われる。この日は第2部を臨時ネットした局もあり、次の番組が1時間10分遅れることとなった。
- 1995年1月17日:阪神・淡路大震災
- 長時間報道特番として早朝から放送。
- 2001年9月11日:アメリカ同時多発テロ事件
- 直前の毎日放送製作『ジャングルTV〜タモリの法則〜』放送中、世界貿易センタービルが崩壊する事件が発生。22時37分に同番組を打ち切り、「NEWS23の開始までに時間はありますが、重大な事件が発生しましたので、予定より20分早くNEWS23を始めます」と筑紫が挨拶し、予定より20分程度早いスタートとなり、12日0時50分まで放送。佐古は12日4時から再び担当。
- 翌12日は20時54分から21時30分まで特別番組を放送(この日はプロ野球中継があり、30分延長のオプションを特番に充てた)。23時24分からは90分特番として放送。
- 2005年4月25日:JR福知山線脱線事故
- マンデープラス(第2部)の枠で報道特番を放送。この日は第2部もJNN協定が適用され、毎日放送を含む全局が放送した。
- 2006年1月23日:ライブドア・ショック
- 直前の予定だった『月曜ミステリー劇場』を休止し、21時10分から報道特番を放送。キャスターを筑紫と草野が務めた。
- 2006年6月5日:村上ファンド代表逮捕
- 時間を拡大して、6日1時過ぎまで放送した。
- 2007年9月12日:安倍晋三(第1次)内閣総理大臣辞任
- 時間を拡大して、13日0時10分まで放送し、筑紫も音声越しで出演した。
- 2007年12月14日:佐世保市銃乱射事件
- 番組内容を大幅変更し、予定していたCM大賞も中止され、初めて放送が年明けに回された。また金曜深夜便枠もこのニュースに費やし(大きなニュースであったものの、毎日放送では、通常通り24時20分で飛び降りた)、当時金曜の放送に出演していなかった後藤も出演した。
- その他
ネット局
1997年9月まで続いた第2部は徐々にネット局を拡大させて最終的には毎日放送(MBS)を除く全局が放送するに至った。「マンデープラス(月+)」は中部日本放送(CBC)・チューリップテレビ・毎日放送・テレビ山口は放送しない。毎日放送は金曜の第2部もネットせず。
- 23時開始時代には青森テレビで流れるはずのないTBSの23:00.00の時報が稀に聞けた。また当時の時報をサンスターが提供していた。
- CBCは2005年9月まで「月+」を定期ネットしていた。2007年1月29日の「月+」(テーマは「屋久島移住 その夢と現実 大定年時代到来」)はCBCが制作したため、この日に限りCBCでも放送。中日クラウンズの開催週(原則としてゴールデンウィークが該当)に、同大会予選ラウンドのハイライトを放送するため「金曜深夜便」を休止。
- 山陽放送は原則「月+」「金曜深夜便」双方ともネットされるが、「月+」については不定期でローカルスポーツ中継(録画)を行なうために休止することがある。
- 1998年4月から2008年9月までフライングスタートをとり、2分間CMを放送して本編が始まっていたが、中国放送ではこの時間、自社製作番組「キラリ!広島県」を放送していた。
テーマ曲
オープニング
- 1989年10月2日 - 1997年9月26日:井上陽水
- 筑紫が井上陽水に直接会って、口説き落として依頼した。
- このテーマソングに曲名・歌詞はついておらず、2012年現在CDなどへの音源化はされていない。井上のスキャットのみで、一部の箇所はコマーシャル前のアイキャッチジングルで使われていた。
- 1997年9月29日 - 2005年3月25日:坂本龍一『put your hands up』
- 2005年3月28日 - 2008年3月28日:Bank Band with Salyu『to U』
- 2006年9月22日まで、金曜日のオープニングはピアノバージョン。
- 2006年9月25日からアレンジが変更されたものを使用。
- 筑紫や番組スタッフが聴き、メロディや歌詞の内容が番組のコンセプトに合致しているということで主題歌にしたという。
エンディング
放送開始から1997年9月までのエンディングテーマは筑紫が選び、アーティストに直接頼み込んで実現したものもある[10]。
- 1989年10月 - 1991年5月:井上陽水『最後のニュース』…後に、奥田民生によってカヴァーされた。
- その後、『ネオ・ブラボー!!』(サザンオールスターズ)、『日本の人』(HIS)、『あなたを見つめて』(小田和正)、『また明日』(佐野元春)、『いま、思い出してみて』(森山良子)、『NEWSを知りたい』(忌野清志郎&2・3’s)、『川は流れる』(加藤登紀子)「soul searching」ウォーク・ウィズ・サンダー が起用される。
- 1993年10月 - 1994年3月:中島みゆき『最後の女神』
- 1994年4月 - 1994年12月:ネーネーズ『黄金の花』
- 1995年1月 - 1995年6月:渡辺美里『シンシアリー [Sincerely]』
- 1995年7月 - 1995年9月:新井英一『清河への道』
- 1995年10月 - 1995年12月:りんけんバンド『世 世 世〜You You You〜』
- 1996年1月 - 1996年3月:石川セリ『翼』
- 1996年4月 - 1996年6月:玉置浩二『メロディ』(後に、日曜劇場『メロディ』の挿入歌として使用されている)
- 1996年7月 - 1996年9月:朝霧舞・国吉なおみ・国吉昭子『月桃』(映画『GAMA 月桃の花』主題歌)
- 1996年10月 - 1996年12月:カルメン・マキ『星の河を渡ろう』
- 1997年1月 - 1997年3月:サザンオールスターズ『平和の琉歌』
- 1997年4月 - 1997年6月:井上陽水奥田民生『手引きのようなもの』
- 1997年7月 - 1997年9月:今井美樹『私はあなたの空になりたい』
坂本龍一以降はオープニングテーマのアレンジ版を放送した。一時期、筑紫が司会し、キャンペーンにもなった『地雷ZEROキャンペーン』のテーマ曲『ZERO LANDMINE』が、エンディングにかけられたこともあった。
『ニュースステーション』との関係
『NEWS23』放送開始の4年前からテレビ朝日が放送していた『ニュースステーション』(Nステ)との間では、よく比較の対象となっていた。
『Nステ』が放送終了した2004年3月26日の『NEWS23』では、「多事争論」で「この番組(Nステ)が無かったら私たちの番組も生まれていなかっただろう、ライバルというより『同じニュースというものを追究している仲間だ』という想いが強くあります」と述べた[11]。ように互いに意識していた。
評価
番組の内容については筑紫の「君臨すれど統治せず」の姿勢により、筑紫や編集担当者が関心のあるテーマを重視する傾向にあるとされ、賛否両論になることもよくあった。
肯定的評価
- 『NEWS23』でサブキャスターを務めた草野満代は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と評している[12]。
否定的評価
- 北朝鮮関連、日本人拉致事件関連の報道や捕鯨問題については慎重に、他方、日本国憲法の改正(主に護憲の立場から)、自衛隊問題、基地問題など沖縄に関するニュース、靖国神社にまつわる靖国神社問題については、時間を多く割いて報道する傾向にあると批判され続けた。
スタンス
- 田勢康弘によると、筑紫は「少数派であること、批判されることを恐れずに、多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由な風気を保つこと」を自身の報道姿勢としていた。2008年、筑紫が病床から『NEWS23』スタッフへ向けて送った手紙にこの考えが表されている[13]。
(以下、全文)
近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。
その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。
ひとつの「論」の専制が起きる時、
失なわれるのは自由の気風。
そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。
2008年夏 筑紫哲也
批判された報道内容
- 1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)に関する報道において、ヘリコプターからの中継に臨んだ筑紫が、地震による火災で燃え上がる神戸市の様子を「まるで温泉街(おんせんまち)に来ているようです。そこらじゅうから煙が上がっています」との発言が『あまりに無思慮である』とされ、筑紫も非を認めている。歌手の嘉門達夫は、自身の曲「怒りのグルーヴ〜震災編〜」でこれを取り上げている。
- 撮影取材を拒絶した被災者のグループを取り上げた際、筑紫が「被災者は感情的になっている」とコメントした。この被災者のひとりと知人であった田中康夫は、自身の著書『神戸震災日記』で、この撮影取材が被災者に無断で行われたもので、なおかつ放送しないことを約束したにも関わらず放送された、としている。ただし、この田中の指摘は事実とは異なり、取材映像は放送しておらず、筑紫が補足コメントで述べたもの。筑紫は自著の中で田中の名を挙げなかったものの、この批判を知っていたとしている[14]。
- 1997年(平成9年)9月1日、「きょうの特集」において北朝鮮に渡った日本人妻へのインタビューを放送。そこでは「日本人妻は何の不満も無く差別されずに安泰に暮らしている」という日本人妻たちの回答を流した。これについて井沢元彦は、共産圏とは言論の自由も無いわけで、筑紫がまさかそんな基本的なことすら知らないジャーナリストではない筈であり、明らかに日本人妻の本音とは違う部分を何の論評もせずに垂れ流すというのは、北朝鮮の宣伝に加担しているものであり、明らかに意図的であり偏向報道の何ものでもなかった、と筑紫とこの番組の批判をした[15]。
- 1999年(平成11年)7月15日、多事争論において東芝クレーマー事件を取り上げた際、東芝を一部上場企業と匿名で報道した上で、当事者に批判的な発言を行った[16]。また、このときインターネットを「かなり恣意的で、トイレの落書きに近い、などという酷評すらあります」と批判した発言は、インターネットを中心に批判が広がり、「便所の落書き」発言として一人歩きすることとなった。放送当日のスポンサーが東芝で、多事争論直前に東芝ダイナブックのCMが放送されたとされることも非難を大きくする要因となった。
- 2002年11月、筑紫が編集委員を務めていた雑誌「週刊金曜日」が北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみの家族(当時北朝鮮在住)にインタビューを行ない、「『はやく北朝鮮に帰ってきてほしい』との趣旨の記事を直接曽我に届け、精神的に追い詰めた」として週刊金曜日に批判が集まった。このことについて、11月14日放送の多事争論「永遠のジレンマ」で、「国の方針に水を差すような報道、取材はすべきではないという、こういう議論になりますと、自由な報道や言論というのは死んでしまって、北朝鮮と何ら変わらない国に私たちはなってしまいます」と週刊金曜日を擁護する発言をする。
- 2003年(平成15年)5月7日、番組で北朝鮮の人権問題に取り組むドイツ人医師・ノルベルト・フォラツェンのインタビューを放送したが、同日に東京国際フォーラムで行われた家族会、救う会などが主催した集会のニュースを報じなかった(この集会のニュースは他局のニュース番組はもちろん、同局の他のニュース番組でも報道されている)。TBSに対し、フォラツェンがなぜ報道しなかったのか問い質すと、TBS側から「あれはナショナリズムの集会だったから放送しなかった」と回答されたと明かし、雑誌のインタビューなどで番組とTBSの態度を非難した。
- 2003年8月15日に放送された終戦企画「終戦スペシャル・殺す、な」は、恐怖感を煽るようなBGMを多用するなど、演出手法に批判が集まった。
- 2006年(平成18年)6月29日、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝について、アメリカ合衆国共和党のヘンリー・ハイド下院国際関係委員長の「行くべきでないと強く感じているわけではない(英語: Not strongey alone.)」という発言を、字幕テロップで「行くべきではないと強く思っている」と改変して報道した。のちに字幕に正確ではない表現があったと釈明した[17]。
- 2007年6月4日、関東アマゴルフ選手権初日において、番組キャスターの膳場貴子に認めさせたラブレターを、高野貴裕が石川遼に手渡そうとしたシーンを放映したが、その一方でTBSの他番組が行なった石川選手の同伴者に対する盗聴マイク装着依頼、ヘリコプターでの会場中継強行へ批判が集まった。
- 筑紫哲也NEWS23を批判する立場からの文献
- 別冊宝島Real編集部『筑紫哲也「妄言」の研究・『NEWS23』、その印象操作&偏向報道の作られ方』 ISBN 4-7966-3848-2
- 水間政憲『ニュースキャスター筑紫哲也を斬る・このままテレビの偏向報道を許していいのか もはや中国、北朝鮮の代弁者か』 ISBN 4-8174-0549-X
- 中宮崇『天晴れ! 筑紫哲也NEWS23』 ISBN 4-16-660494-5
- 西村幸祐『反日の構造』 ISBN 4-569-63996-8 - 「第4章 拉致家族と『朝日新聞』&筑紫哲也氏の深すぎる溝」にフォラツェン医師のインタビュー記事を所収。
関連番組
- JNN票決ライブ → 選挙開票特別番組 票決!ライブ
- 乱!総選挙2005
- 乱!参議院選挙2007
- ニュースステーション
- NEWS23 → NEWS23X(後継番組)
- FNN NEWSCOM→ニュースJAPAN(裏番組)
関連項目
脚注・出典
- ↑ “NEWS23、筑紫さん死去で悲しい報告”. 日刊スポーツ. (2008年11月8日)
- ↑ News23 多事争論 3月25日(月) 「坂本弁護士事件とTBSの問題」 TBS 筑紫哲也 NEWS23 ホームページ アーカイブ。
- ↑ 月-木曜は5分で、TBSでは後に「OBJECTION」を放送した時間。金曜は2分。
- ↑ 筑紫哲也 (1996年3月26日). “News23 多事争論 3月25日(月)「坂本弁護士事件とTBSの問題」”. 筑紫哲也 NEWS23 (TBSテレビ) . 2010閲覧.
- ↑ http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/koreyomo/list2005.html
- ↑ (インタビュー)老兵は闘う 元官房長官・野中広務さん 2014年7月18日 朝日新聞デジタル・アーカイブ,(参考)[1])。
- ↑ 特に開始時間が遅くなる金曜の放送では、プロ野球中継の延長などで、放送時間が24時(もしくは24時以降)となる場合は、筑紫が冒頭で「ニュース24(ツーフォーかトゥーフォー)」と言う事もあった。
- ↑ 出典:東奥日報1993年9月及び1994年4月のテレビ欄から。
- ↑ 1996年5月17日(金)放送 「続く…」(アーカイブ)「私たちのこの『ニュース23』という番組、1局を除きましては1時間半で一つの番組を毎日構成しております。(中略)来週いっぱいは、その後半がないことになりまして、片翼で飛ぶことになります。」
- ↑ 女性自身 2008年11月25日号
- ↑ 2004年3月26日 「さようならN.S」(アーカイブ)
- ↑ 女神(2)草野満代さん オンエア3秒前まで雑談していた asahi.com
- ↑ WEB多事争論 - 筑紫哲也メッセージ
- ↑ 筑紫哲也『ニュースキャスター』集英社新書 ISBN 4-08-720145-7
- ↑ 井沢元彦『逆説のニッポン歴史観』234頁
- ↑ http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/taji/s90715.html
- ↑ “TBSがまた“超訳”小泉の靖国参拝のコメントで”. ZAKZAK (2006年7月8日). . 2007閲覧.
外部リンク
- TBS「筑紫哲也 NEWS23」公式サイト - 2008年春のリニューアル前のページ。(アーカイブ)
アーカイブページが残されているが、多事争論以外はトップページから誘導されないようになっている。
- http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/tokusyu/monthly_list.html 特集アーカイブ(1999年6月から2008年まで)
- http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/taji/solist.html 多事争論アーカイブ(1995年10月16日から2008年まで)
TBSおよびJNN系列 平日最終版のJNNニュース | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
JNNニュースデスク
(1988.10.3 - 1989.9.29) |
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NEWS23(第1期)
(2008.3.31 - 2010.3.26) |
TBSおよびJNN系列 平日スポーツニュース | ||
JNNスポーツチャンネル
(1986.4 - 1989.9) |
筑紫哲也 NEWS23
(1989.10.2 - 2008.3.28) |
NEWS23(第1期)
(2008.3.31 - 2010.3.26) |
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スポーツホットライン
【この番組までローカル枠】 |
筑紫哲也 NEWS23
(1998.4 - 2008.3) 【この番組から全国ネット枠】 |
NEWS23(第1期)
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ドラマ23
(1987.10 - 1989.9) |
筑紫哲也 NEWS23
(1989.10 - 2008.3) |
NEWS23(第1期)
(2008.4 - 2010.3) |
TBS系列 月曜 - 木曜23時台後半枠 | ||
JNNスポーツチャンネル
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筑紫哲也 NEWS23
(1989.10 - 2008.3) |
NEWS23(第1期)
(2008.4 - 2009.3) |
TBS 火曜 - 金曜(月曜 - 木曜深夜)0時台前半枠 | ||
情報デスクToday
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TBS 火曜(月曜深夜)0時台前半枠 | ||
筑紫哲也 NEWS23
【「マンデープラス」枠】 (2004.10 - 2008.3) |
NEWS23(第1期)
【「月ONE」枠】 (2008.4 - 2008.9) |
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TBS系列 金曜23時台後半枠 | ||
噂的達人
(1988.4.1 - 1989.9.29) |
筑紫哲也 NEWS23
(1989.10 - 2008.3) |
NEWS23(第1期)
(2008.4 - 2010.3) |
TBS 金曜23:59 - 翌0:35枠 | ||
筑紫哲也 NEWS23
(金曜版) (1989.10 - 2008.3) |
NEWS23(第1期)
(金曜版) (2008.4 - 2009.3) |