立川談志
7代目(ただし自称5代目)立川 談志(たてかわ だんし、1936年〈昭和11年〉1月2日 - 2011年〈平成23年〉11月21日)は、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家。落語立川流家元。本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。
古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談、漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。初高座は新宿末廣亭における『浮世根問』。
自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は「あの町この町」「木賊刈」(とくさがり)。5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。
参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官(三木内閣において36日間)、サイバー大学客員教授などを歴任した。
Contents
来歴
入門〜真打昇進
1936年1月2日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。終戦後は結婚まで鵜の木に居住していた。
1952年、東京中学校卒業。先輩に安藤鶴夫、牧伸二がいる。同年4月、東都高等学校を中退後、16歳で5代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。1954年3月、二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席のほかに日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
1962年、3月に入門が5年遅い古今亭朝太(後の3代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い5代目三遊亭圓楽にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、立川談志を襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から5代目柳家つばめも真打に昇進した。
なお、小ゑんが立川談志の5代目を自称した経緯は次の通り。明治時代の寄席で人気を博していた4代目が初代を称しており、小ゑんの先代にあたる6代目がそれに倣って4代目と称していたようなので、小ゑんは5代目というのは語呂が良く、さらに師匠5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、5代目を名乗ることになったという[1]。
『笑点』立ち上げ
1966年5月15日、『笑点』(日本テレビ)が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。後に、『笑点』放送100回記念放送では桂歌丸と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。
初代メンバーの1人で後に司会を務めることとなった5代目三遊亭圓楽が『いつみても波瀾万丈』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという[2]。落語ではなく敢えて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという[3]。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた[3]。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ。」[3]との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『金曜夜席』で、隔週金曜深夜に放送された番組であった。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、後にどちらとも談志に統一された[注釈 1]。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。笑点の司会では、持ち前のブラックユーモアを生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた[2]。しかし視聴率が伸び悩み、またこれに伴い、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、最終的には暫時的な新レギュラー期間を挟んで、談志自身が降板を余儀なくされた[2][4]。なお、歴代笑点の司会者で(就任時点で)落語協会に所属していた人物は、現在まで談志のみである。
談志は降板後も特別番組の時には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置き、そのまま他界した。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという[5]。
一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあったためか、2001年 - 2003年頃には『特冊新鮮組』(竹書房の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年の元日に日本テレビで放送された『同名番組』とはまったく関係がない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の『談志の遺言』(TBSラジオの番組)には「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。
政治活動
1969年、第32回衆議院議員総選挙に東京8区から無所属で出馬するも落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。
同年、ニッポン放送にて、月の家圓鏡(現:8代目橘家圓蔵)と木魚を叩きながらナンセンスなやりとりをするラジオ番組『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、1973年まで放送された[6](のちに、舞台やテレビ番組などで、何度も「再現」している)。
1971年、第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬、初当選。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党に入党した(本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた佐藤栄作が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという)。国会質疑ではNHK受信料問題などを取り上げた。
1975年12月26日、三木内閣の沖縄開発政務次官に就任するが、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と返したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対し、退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院決算委員会を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして、自民党も離党した。この時、親交がある石原慎太郎[注釈 2]から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。
参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。
政治思想的には保守寄りであった。在任中は日本共産党議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(後の林家彦六)(ただし、共産党のイデオロギーに共感したわけではなく、本人は判官贔屓としている)と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である(ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。談志も、国会の決算委員会で国鉄問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている[8])。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。
その反面、元社会党衆議院・参議院議員上田哲の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、医師・作家のなだいなだの提唱した老人党に賛同、談志・西丸震哉と「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。
落語立川流創設
1978年、6代目三遊亭圓生ら三遊派が落語協会脱退。落語協会分裂騒動となる。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお不透明な部分が多い。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多数説(5代目圓楽は著書で、新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)だが、反響の大きさに慌てる談志の姿が目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとの説もある。川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたという。金原亭伯楽の著書にも同趣旨が記述されている。
1983年、落語協会真打昇進試験制度運用をめぐり、当時落語協会会長であった師匠・小さんと対立。同年、落語協会を脱会し、落語立川流を創設して家元となる。
1992年、瀬戸内海のホホジロザメが人を襲う事件があり、当時、明治大学替え玉受験疑惑で芸能活動謹慎中であったなべおさみと「シャークハンター必殺隊」を結成、鮫のぬいぐるみのついた野球帽をかぶって現地入りし、現地の人たちから顰蹙を買い罵声を浴びた。1995年、新潟県西蒲原郡岩室村夏井(現:新潟市西蒲区夏井)に田んぼを持つ。「談志の田んぼ」と称し、以降、田植えと稲刈りをほぼ毎年行い、年によっては岩室温泉での落語会も行った。
1997年、食道癌を外科手術により摘出。以降の人生を癌との戦いに費やすことになる。1998年9月、食道癌(一説には喉頭癌ともいわれている)の手術を受ける。
1999年、長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した。後日、その客がその高座の主催者を相手取り、「落語を聴く権利を侵害された」として民事訴訟を起こすも、請求は棄却された。
2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、立川流の前座門弟、立川キウイ、立川談修、立川志加吾(現雷門獅篭)、立川談号(現雷門幸福)、立川談大、立川談吉を破門。その後2003年5月に破門者の復帰試験を実施した。
メディアへの再登場
2004年、TOKYO MXにて、野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』を開始。番組は2008年まで続いた。同番組は2007年6月からYouTubeでも公式に視聴することが可能となっている。同番組の共演者である吉村作治との交流が深まったためか、吉村が学長を務めるサイバー大学では客員教授を務めた。受け持ち科目は共通科目の「落語と文化・文明論」であった。
2005年4月、NHKラジオ第1放送にて、ラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(『おしゃべりクイズ疑問の館』の枠で月一回放送)が放送開始され、番組レギュラーを毒蝮三太夫、山藤章二、松尾貴史、その他ゲストとともに務めた。
2007年10月6日、爆笑問題の太田光とともに『立川談志・太田光 今夜はふたりで』に出演。番組は2008年3月30日まで続いた。以前は2005年10月6日から、ナイターオフシーズン(10月 - 3月)に放送されていた『おとなの時間割「談志の遺言」』(TBSラジオ火曜21時 - 22時)に出演していた。また過去に、文化放送で放送された『立川談志 最後のラジオ』にも出演していた。
2007年に入ってからテレビで再びコメントを求められるようになり、『筑紫哲也NEWS23』に出演、「私の多事争論」で病欠の筑紫哲也をサポートしてみせた。『情報プレゼンター とくダネ!』では、直接ではないものの5代目柳家小さんの孫・柳家花緑と共演している(花緑の受け持ちコーナー「温故知人〜天国からのメッセージ」で生前親交のあった横山ノックを取り上げた際、ゆかりの人物としてVTR出演した)。
2008年3月9日、NHK BShiで『立川談志 きょうはまるごと10時間』放送。以前放送された『わが心の旅』『HV特集 71歳の反逆児・素顔をドキュメント』、毎日放送(MBS)『情熱大陸』を含む、インタビューや密着ドキュメント、『居残り佐平次』の高座などが放送された。
闘病と死
2008年5月、喉にポリープの疑いがあると診断され、検査を受ける。6月3日、自宅からほど近い日本医科大学付属病院に一泊二日の検査入院したが、「20日間は入院が必要」と医師に言われる。6月18日、退院。入院の間は病院から落語会やテレビ収録に行っていたという。この頃以降、高座でもそれ以外でも発声が極端に苦しくなり、力がなくしわがれた聞き取りづらい声に変わっていった。
10月14日、喉頭癌を発病したことを『サライ』大賞授与式で告白。癌の発病箇所は声門であり、声帯摘出以外に完治の見込みはなかった。
2009年8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の糖尿病治療であると発表していたが、実際は癌により発声が困難になったためと推測される。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。同年12月1日、NHKラジオ第1放送公開収録番組『新・話の泉』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。その後も体調は好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、12月28日、休養期間を約3か月延長すると発表する。
2010年3月2日、6代目三遊亭円楽襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。パーティーで同席した桂歌丸は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んだ[9]。
同年4月13日には8か月ぶりに高座に復帰し『首提灯』を披露するも、11月に声門癌再発を確認。この時は声帯摘出手術を本人が拒否した。12月には『芝浜』ほか3席を熱演したが、「3席もった喉と体に素直に感謝しています」といつもの談志節は鳴りを潜め、落語家としての無上の喜びを打ち明けた。
2011年3月6日、川崎市・麻生市民館麻生文化センターでの「立川談志一門会」にて、咳き込みながら『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を披露。これが談志にとって生涯最後の高座となった。3月21日に入院し、翌日に手術が行われた。ストレス性胃潰瘍と公表していたが、実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、この手術で声を失うことになった[10]。本人の希望で4月18日に退院後は自宅で療養する[11]が、以降のすべての仕事をキャンセルしたと発表し、現実に後述の『週刊現代』の連載の執筆を除き、その死まで一切仕事は行わなかった。
5月21日の『立川キウイ真打昇進記念パーティー』は演芸関係者だけではなく一般参加者の募集も行われ、事務所の「すべての予定のキャンセル」発表後も談志出席のまま告知が続けられていた。さらにキウイも問い合わせに対し「師匠からは出席の返事をいただいています。」と回答していたため、パーティへの出席の期待は高かった。しかし談志は会場に姿を見せず、「(5月2日に死亡したとされる)ビンラディンの喪に服するため」との欠席理由が発表された[注釈 3]。続くキウイの真打披露興行(6月30日・7月19日)にも登場が告知されていたが、会場に足を運ぶことはなく、弟子の真打昇進記念パーティー・興行を欠席した唯一の例外となった。ただし、談志は5月のパーティーと7月の真打披露興行の数日後にキウイのアルバイト先であり、かつ自身の行きつけの店でもある東京・銀座のバーに足を運び、直接キウイにメッセージを送っている[13]。
自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院[14]。10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて喉頭癌のため死去[15]。75歳没。
没後の反応
談志死去の報は、最期まで談志の世話をしていた立川談吉[16]を除き、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えられなかった。家族および談吉のみで通夜・告別式(密葬)を挙行し、11月23日に落合斎場にて荼毘に付され、家族は2日の間、談志の死を一門を含む誰からも隠し通した。23日に所属事務所である談志役場(息子・慎太郎の会社)が死の事実をプレス・リリースしたが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ[17]や立川談慶[18]ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュースなどで談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが複数出た。
一方、死の直後からTwitterやWikipediaなどに情報のリークがあり、落合斎場にも到着時には報道陣が集まっていた。しかし、談吉は自身のブログやTwitterで談志と無関係の話題を記述し、情報操作を試みた。
談志の死去を受けて、11月23日、8代目橘家圓蔵と林家木久扇が日本テレビのニュース番組『news every.』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『金曜夜席』当時からの友人である桂歌丸、上方落語界長老の3代目桂米朝も逝去を悼むコメントを発表した[19]。弟弟子で落語協会会長の柳家小三治は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ[20]。また、談志に憧れて落語家の道を志した上方落語協会会長の桂三枝(現:6代桂文枝)も談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。
葬儀の際、談志が生前かわいがっていたライオンのぬいぐるみ「ライ坊」が談志とともに荼毘に付されたという情報が流れた。このため、ライ坊が原因で破門騒動[注釈 4]に巻き込まれた立川志らくは、24日放送の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にて大いに嘆き、高田文夫が大笑いする一幕があった。しかし、その後談吉が明かしたところによると、荼毘に付されたのは別のクマのぬいぐるみであり、ライ坊は無事だった。
墓所は文京区向丘の浄心寺本郷さくら霊園で、墓石の正面には談志の筆による「立川談志」の名が、側面には生前自ら考えた戒名「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」が刻まれている[22]。生前から公開していた戒名が原因で受け入れてくれるお寺が見つからなかったといい、納骨が行われたのは2012年12月2日だった[23]。生前からの希望により遺骨の一部が海に散骨されたが、直後に魚が集まってきて撒かれた遺骨を食べてしまったという[24]。長女の松岡ゆみこは、談志が生前埋葬を希望していなかったことを受け、遺骨の一部を手元で保管している[25]。
2014年、長女・ゆみこが、談志の長年の住まいであった練馬区の自宅のリフォームを『大改造!!劇的ビフォーアフター』(朝日放送)に依頼し、リフォーム後は志らく夫妻が住むことになった[26]。
2013年にはNHK BSプレミアムで、過去のドキュメンタリー映像や弟子のインタビューと木皿泉脚本によるドラマ(青年期を小出恵介、壮年期を中山秀征、全盛期と晩年を田中泯が演じた)を組み合わせた『人生、成り行き』が放送された。また、2015年には立川談春のエッセイを題材にしたドラマ『赤めだか』がTBSで放送され、ビートたけしが談志を演じた。
人物
落語家として
落語家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。談志の落語で特筆すべき点は、師匠から受け継いだ型を大事に伝承する古典落語において、「己を語る」独自の型を発明したことである。現代に生きる人々の価値観や美意識を内容に投入し、噺の途中で「このストーリーのここがおかしい」「こういう人情は違う」と、談志の意見や解説、哲学が入る。故に「客は『噺』ではなく、『談志』を聴きにくる」と言われたほどである。その芸を邪道とする意見も少なくなかったが、熱心なファンを獲得し続けた。山藤章二は「落語の伝統の部分だけで生きていれば間違いなく平成の名人として落語史に名を連ねただろう」と述べている。
楽屋ネタや同業者をネタにする噺家は少なくないが、談志もまた、生前は敵味方・先輩後輩関係無く、同業者にネタにされた。落語『地獄めぐり』では、地獄に来た落語家を並べ立てるくだりにおいて、「立川談志……あれ、あいつまだ生きてんじゃなかったか……ああ小さく書いてある、えーと『近日来演』」(まもなく死んで地獄に来る、というオチ。オリジナルは3代目桂米朝の『地獄八景亡者戯』で、本来は演者の名前が入る)というネタが出てくる。
落語そのものについては、「落語とは、人間の業の肯定である」との見解を常々表明していたが、晩年は「イリュージョン」という独自の域に達したと自認していた。志らくおよび談笑は、イリュージョン落語について以下の特徴を挙げている[27]。
- (落語は、マクラも含めて)己れ(=談志)の感覚でしゃべるもの
- 登場人物が談志と被っている
- 落語ではなく談志という人間が面白い
晩年の談志は、太田光との対談で「テツandトモとラーメンズが最近の芸人では面白い」と発言し、それに対して太田は「テツandトモは正統派の面白さだが、ラーメンズは師匠(談志)の言うイリュージョンの面白さだと思う」と答えていた。
5代目小さんとの関係
師匠5代目柳家小さんとは口論になることが多かったが、基本的に関係は悪くなかった。真打昇進試験に弟子が合格できず、その当時会長であった小さんとは方針が合わないとして落語立川流を設立、これにより建前上「破門」される。談志の著書によれば、その後も何度か互いの芸を貶したり、どちらが先に死ぬかなどと口論したり、取っ組み合いの喧嘩もしているそうだが、基本的には二人の間で自然と収まった。
ある新年会では、小さんの客を気に入らなかった談志が、その客に酒や膳の上のものを片っ端からぶつけて帰ったが、小さんは「客がワルイ」と談志を庇ったという。また、喧嘩にしても小さんは「本気でやれば、俺の方がよっぽど強い」と、談志の自由に頭を締めさせていた(小さんは剣道7段、徴兵だったが軍人経験もある)。5代目小さんの生前、孫である柳家花緑との座談では「(小さん)師匠に『(落語)協会に戻って来い』と頭を下げられたら困る。それを断ることは日本教に反する」と語り、小さんに対する意識を垣間見せた。
また、談志は小さんの妻である生代子夫人から可愛がられており、夫人が死去した際には葬儀委員長を務めた。
奇しくも、小さんと談志の誕生日は、同日(1月2日)である。
上方の噺家である3代目桂べかこの3代目桂南光襲名披露パーティーでは、偶然、談志と5代目小さんが南光の楽屋で鉢合わせになり、口論となった。その時楽屋にいたべかこの大師匠3代目桂米朝が、両者の口論を制止したこともある。
落語における「大名跡」の価値を評価しており、「いずれ、オレは小さんに、5代目圓楽は圓生に、志ん朝は志ん生になるべき」と『現代落語論』で書いている。そのため、本来の実力からは自身の弟弟子であった10代目柳家小三治が継ぐべきとしていた「小さん」を、先代の息子である3代目柳家三語楼が襲名したことを批判した。
手塚治虫との関係
手塚治虫の熱烈なファンで親交も深かった。手塚が知人の有名人に「一言出演」を依頼したアニメ映画『千夜一夜物語』にモブキャラの声優として友情出演し、 手塚の没後に製作された『ジャングル大帝』では名前のある役(密猟者ハムエッグ)として出演した[注釈 5]。また、ブラック・ジャックの文庫本にもメッセージを寄せている。「世の中で天才というのは手塚治虫とダヴィンチだ」と語り、手塚治虫が使っていたベレー帽を宝物にしていた。
政治家を辞めたのも、「手塚治虫に言われたから」とのこと。
音楽活動
自身は無類の歌謡曲ファンで、青春時代は歌声喫茶に通いつめた。晩年には『談志絶唱 昭和の歌謡曲』という本を出版もした。ディック・ミネ、田端義夫、三橋美智也などのファンでもありほとんどの曲を歌えるほどで、落語家になってからはミネとは交流もあった。
談志自身が企画し司会を務めたテレビ番組『笑点』のテーマソングである。談志31歳の頃の作品。すべての歌唱パートを談志が受け持つ。「笑点グループ」のメンバーは上記のとおりの6人であるが、サビの部分のバックコーラスのみの担当である。
談志と当時の『笑点』メンバーが日劇での三橋美智也ショーのゲストとして招かれ、この曲を披露したことがある。談志と三橋が友人だったからでもある。当時、有楽町・日劇は最高のステータスを誇る劇場であったが、三遊亭歌笑を除く落語家とはもともと無縁のところだった。反対に、日劇に併設された日劇ミュージックホールには、談志は非常に若い二ツ目時代からレギュラー出演していた。泉和助やE・H・エリックらとコントを演じていたほか、洋装で立ったまま喋るスタンダップ・コメディを披露していた。しかし、談志とメンバーが対立して大喜利メンバー全員が降板した1969年以降、この曲は一切放送に使用されなくなった。
その後、『笑点音頭』は企画盤のうちの一曲として、複数のレコード会社からCD化された。
性格
- ハスキーな声でシニカルかつマイペースに振る舞い、時に有言不実行ぶりをはばからないなど、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主であった。1980年代以降は髭をたくわえるようになり、さらに頭にヘアバンドを巻くようになった。高座以外、特にテレビ出演時には色付きメガネを着用することも多かった。晩年になると髭は剃ることが多かったが、ヘアバンドとメガネは愛用し続けた。頬やあごをなでたり掻いたりする癖がトレードマークで、よくものまねされるポーズとなっている。
- 評価できない人物に対しては正直に罵倒混じりの辛辣な批評を飛ばし、高座では差別用語も遠慮無く連発するなど、タブーを物ともしない過激な毒舌家として有名だが、一方では自他共に認めるフェミニストであり日和見主義でもある。そのタブーを物ともしない姿勢として特に有名なのが吉本興業批判で、自著では初代桂春団治が晩年に非業の死を遂げた例を挙げて「あそこ(吉本興業)の使い捨て体質は戦前から(創業時からの伝統)なんだよ」と批判していた。これに対し、談志の著書で名指しで批判されたことがある元吉本興業社長中邨秀雄は『私の履歴書』の中で「談志は芸に対しては謙虚な男」と述べ、談志の芸への姿勢を評価している。およびに、中邨と談志は、若手のころからの付き合いがあり、当時、中邨が談志にアドバイスしたことを談志は、覚えており、それを守り続けていったという。また、同書にて、談志が何度か、吉本の劇場である花月に足を運び、そこで、気になる芸人を細かく観ていたという。また、談志自身も花月にて、独演会を開いたことがあった。弟子がよく語るところによれば、「芸人100点、人間0点(人格は最低だが芸は最高)」。
- 自他共に認める無鉄砲なまでの冗談・いたずら好きであり、洒落か本気か分からない行動による武勇伝は極めて多い。エピソードの一つとして、リポーターやナレーション業で知られる神太郎が付き人だった時の話がある。地方興行の折、夜中に突如「トランプを買ってこい!」と無理難題を押しつけられたが、機転を利かせた神はバーへ行き、バーテンダーからトランプを調達して、談志を唸らせたという。一方で「芸人という消費文化の担い手である以上、真っ当に働くな」との趣旨で「泥棒しろ、ただし、俺の家は駄目だぞ」と弟子に発言したこともあるという。『談志・陳平の言いたい放だい』では、北朝鮮の話になると談志は必ずと言っていいほど「キム・ジョンイル、マンセー!」と叫んでいた。
- 肉が好物であるため、弟子はしくじった際に機嫌をとるために高級肉を談志宅へ持ち込むことがある。談志の自宅には多数の冷蔵庫があり、賞味期限が切れた食材は弟子に食べさせる。戦中・戦後の貧しい時代が青春時代であったために食に対するこだわりも多く、特に食べ物を粗末することを嫌い、前日残った食材を朝の味噌汁に入れたり、カレーに入れたりする(家族は前日残った刺身を翌日のカレーに入れて食べさせられていた)。楽屋にも手作り弁当を持参し、楽屋弁当は用意させなかった。
- かなりの資産家であると同時に、吝嗇(りんしょく:ケチ)でもある。生前は「10億円の預金がある」とも発言していた。落語立川流では上納金制度を導入したが、これは飲み屋でそのスジの人から「師匠の所は、モノを教えるのに金はとらないのかい?」と言われたことがきっかけだという(『驚きももの木20世紀』より)。
- 大変な洋画好きであり、『談志・陳平の言いたい放だい』(TOKYO MX)でも洋画解説コーナーが設けられていた。取り上げられるのは主に黎明期から黄金期にかけてのハリウッド映画やフランス映画で、中でもMGMミュージカルを好んだ。『今夜は最高!』(日本テレビ)にゲスト出演した際には、好きなミュージカル映画である『雨に唄えば』のパロディを展開した(談志はジーン・ケリーに扮した)。敬愛する映画監督はビリー・ワイルダー。好きなスターはフレッド・アステアで、アステアが亡くなった日の晩には泣き通したという。
- 5代目圓楽によると「案外気の小さいところがある」という。実際、「志ん朝が真打に昇進する時には本人に『強次(志ん朝の本名)、昇進を辞退しろ』と直談判に行ったが、自分(5代目圓楽)の時には人にボロクソ言ったわりに直接言いには来なかった」「自民党の大物政治家たちと同じテーブルに座っているのをみて『圓楽の馬鹿はああいうところに座ってる』と言っておきながら自分はそこに座ろうとはしなかった」などといったエピソードを著書で紹介されている。
- 弟子たちに理不尽な要求をしたり、何度も土壇場で仕事をキャンセルするなど、自由奔放なイメージが強いが、その印象とは裏腹に弟子入り志願者を門前払いにしたことはなかったとされる。また、金銭面での理由を除けば、破門者もほとんど出していないという。また、暴言や罵倒が多い一方で暴力を嫌っており、弟子には手を挙げたことがないと立川志らくが証言している[28]。
自殺の危惧
同業の先輩である8代目林家正蔵(後の林家彦六)からは「談志は自殺するのでは」と危惧された。正蔵がそう発言したのは、談志が国会議員になったばかりの絶好調の頃であったのだが、正蔵に言わせると「談志はやることなすことが全て当たり、成功したので、現実の世の中が馬鹿馬鹿しく思えるのではないか」とのことだった。正蔵は談志本人に直接そのことを指摘しなかったが、他の多くの人物には語っていた。その1人である川戸貞吉がこの事実を本に書き、公の知るところになった。
晩年の談志は、テレビで「死ぬつもりでいたからね。(でも)自殺ができないってことになって……。本当の話だもん」と、自殺願望が抑え切れなくなっていることを告白し[29]、「談志は自殺する」という正蔵の予言について「(今から見れば)当たっている」と評した(川戸との対談にて。紀伊国屋書店第85回新宿セミナー、2007年9月16日)。公式ホームページ『地球も最後ナムアミダブツ』の「今日の家元(日記欄)」にも自殺をしたくてもできない葛藤が書き込まれたが、この危惧は現実とはならなかった。
逸話
- 今では一般化した「あわわ」「やだねえ」という言葉を流行らせた。特に「やだね〜。」の独特の言い回しは談志の代名詞となり、頻繁にものまねされた。
- 1997年に咽頭癌の手術を受ける。しかし、この時は白板症と診断され「癌もどき」と自嘲した。術後、医者から止められていたにもかかわらず、記者会見では堂々とタバコを吸った。ただし、その後は毎月定期健診に行くなどして健康には人一倍気を遣っていたという(5代目圓楽の著書による)。
- バスケットボールリーグNBAのファンとしても知られ、落語のネタにできるほどの知識を持っている。特にサクラメント・キングスとジェイソン・ウィリアムスを熱心に応援している。
- 死後に遺族が会見で明かされた戒名は、「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわ うんこくさい いえもと かってこじ)。生前に「葬儀もいらない、お経もいらない」と語り、自分で決めていた。
- 報道各紙による訃報の見出しは「談志が死んだ」であった。生前、談志は「上から読んでも下から読んでも、『談志が死んだ!』と書いてくれ」と言っていた(本人他一門の書いた文章を集めた『談志が死んだ: 立川流はだれが継ぐ』(2003年、ISBN 4062121859)という本もあった)。また、同年に死去したウサーマ・ビン・ラーディン、ムアンマル・アル=カッザーフィー、金正日と合わせ、「2011年は独裁者が死ぬ年」と言われた。
- 立川流創設後は、自らが弟子に落語の稽古をつけることは日に日に少なくなった。立川談之助曰く「弟子の噺は 立川談春以外は皆師匠とは似ていない。売れっ子になった弟子は、勝手に育って行った」とのことである[30]。
- 弟子の落語や金銭には厳しかった一方で、他の師匠のように自らの私用に弟子を使ったり、家事を弟子に任せることは少なかったという。談志曰く「お前らは俺に弟子入りしたんであって家族に弟子入りしたわけじゃない」[30]。
- 新作落語を演じた事は少なく著書の中でも「古典しかやらない。」と言う趣旨を書いている[31]。ただし新作落語自体を否定しているわけではなく、前述の文枝をはじめ、多くのいわゆる新作派の噺家とも交流があった他弟子の一部も新作落語を演じている。
- 浪曲、講談、色物等の演芸全般から映画や音楽にも造詣が深いことで知られていたが、噺家にもひいきが多い歌舞伎には無知であったという。
家族
息子は所属事務所・有限会社「談志役場」社長の松岡慎太郎。談志のマネージャーも務めていた。弟は松岡由雄(「まむしプロダクション」でマネージャーを務めた後、立川企画で社長)。
娘は銀座のクラブホステスママでタレントの松岡ゆみこ。かつての芸名は松岡まことで、一度引退したのち、談志の死去以降に現名でタレント活動を再開している。ゆみこが2011年12月に刊行した『ザッツ・ア・プレンティー』[注釈 7](本名の松岡弓子名義、亜紀書房刊)には2011年3月に気道切開手術を受けてから亡くなるまでの談志の様子が描かれている。
所属事務所
- 1965年頃 - 1967年頃
- 「現代センター」
- 1967年頃 - 1971年国会議員就任まで
- 「談志プロダクション」(談志自身が社長)
- 1971年国会議員就任 - 1983年落語協会脱会まで
- 1983年落語協会脱会 - 2000年3月末まで
- 「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟)
- 2011年現在、立川志らくのマネージメントを担当
- 「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟)
- 2000年12月13日 - 2011年11月21日
- 有限会社「談志役場」(松岡慎太郎社長=談志の息子)
演目
弟子
- 4代目桂文字助 - 談志の死後、立川流を脱退
- 柳家さん八 - 破門された後、大師匠5代目柳家小さんの門下となる
- 10代目土橋亭里う馬
- 立川左談次
- 立川談四楼
- 立川談生 - 5代目鈴々舎馬風門下に移り、鈴々舎馬桜となる
- 立川ぜん馬
- 初代立川小談志 - 5代目鈴々舎馬風門下に移り、4代目喜久亭寿楽となる
- 立川龍志
- 2代目快楽亭ブラック - 2005年に立川流を退会
- 立川談之助
- 立川談幸 - 談志の死後、落語芸術協会に移籍
- 立川志の輔
- 3代目朝寝坊のらく - 死去
- 6代目立川文都 - 2009年死去
- 立川談春
- 立川志らく
- 立川生志
- 立川雲水
- 立川志遊
- 立川談慶
- 立川談笑
- 立川キウイ
- 立川談修
- 立川談大 - 2010年死去
- 2代目立川小談志 - 談志の死後、兄弟子龍志の預かり弟子となる
- 立川平林 - 談志の死後、兄弟子談慶の預かり弟子となる
- 立川談吉 - 談志の死後、兄弟子左談次の預かり弟子となる
他の芸人、タレントへの批評
「才能」論
「お笑いに才能は絶対、必要だ」というのが談志の持論だった。もともと大阪勢の芸風と肌が合わず、上述の通り吉本興業に対しては辛辣な面があったが、『M-1グランプリ』(朝日放送系列)の第2回大会の審査員も務めている。談志の採点方法は明確であり、ファーストラウンドでは80点、70点、50点の三段階でしか採点しなかった。
江戸落語家
- 6代目三遊亭圓生
- 6代目三遊亭圓生について「昭和最後の大名人」と評価し、滑稽噺から人情噺まで通用する守備範囲の広さにはとても敵わないと述べていた[33]。談志の独演会である「ひとり会」では、圓生の十八番の演目『庖丁』に出てくる端唄「八重一重」がどうしても上手く唄えないため、圓生本人に『庖丁』の代演を依頼したことがあった。談志からの突飛な依頼に対し、当の圓生は快く引き受けたという。
- 5代目三遊亭圓楽
- 前座時代の5代目圓楽に「よぉ、ライバル!」などと声をかけたエピソードが残る[34]など若手の頃から意識する存在であり、二人会も数多く行った。ただし、笑いに関しては「俺が良いならいい。俺が妥協したら談志が談志でなくなる」と考える談志と「大衆芸能なのだからマジョリティを相手にしなければ駄目だ。もう少し折れろ」と考える5代目圓楽の間ではいつも意見が食い違っていたという[35]。5代目圓楽は「談志とは忌憚なく意見がぶつけあえる」と語っていたが、談志の方はそれが影響してか「あたしゃ圓楽が嫌いです」と公言し、「下手な落語家」の例えとしてその名を挙げていた。だが、真顔に戻ると、寄席若竹開業に対して「立派なことをしているんです」と評価している。若竹については閉鎖後には週刊誌の連載で「地主の老人を騙し巻き上げた金で若竹を作った」などと痛烈に批判した。5代目圓楽は著書で「談志より先に死にたくない」と語る一方、「『あいつより先に逝きたくはない』という存在があるからこそお互い頑張ってこられた」とも語った[36]。ただし、圓楽が死去した際には談志は追悼のコメントを出したほか、桂三枝(現:6代桂文枝)は「圓楽師匠が死んで一番悲しんでいるのは談志師匠ではないか」と当時のブログに記述した。
- 桂歌丸
- 『笑点』放送開始当初のメンバーの中で、桂歌丸だけが唯一きちんとリアクションの取れる噺家であると評価していた。『笑点』降板後も「『笑点』の(当時の)メンバーはろくに挨拶に来ねぇ。来るのは、歌さんくらいだ」と語り、歌丸も東京スポーツでのインタビューで「談志さんが恩人(なら、5代目圓楽さんは友)」と語るほど関係は良好だった。2人とも同年齢で、『笑点』初期には一緒に漫才を披露したこともある。
上方落語家
上方落語に関しては、もともとはそれほど造詣が深くなく、東京で上方落語を演じていた2代目桂小文治の落語を聞いても何を言っているのかも分からなかったが、2代目三遊亭百生に出会い、その面白さを認識した。若手の頃に志ん朝と仕事で来阪した際、空き時間にたまたま6代目笑福亭松鶴の『らくだ』を聞いて、2人とも打ちのめされるほど感動したという。5代目桂文枝を好きな大阪の落語家の1人として挙げていて、二人で落語会も開催していた。
- 3代目桂米朝
- 3代目桂米朝とは若手時分より大阪や東京での米朝独演会に参加し、「兄貴」と呼ぶ(入門は米朝が1947年、談志が1952年)など友好関係を築いた。後年は「米朝さん」と呼ぶなどして敬意を表していた。米朝の人間国宝認定については「(米朝は)滅亡寸前の上方落語の中興の祖なので、認定も当然だ」と述べている。
- 6代桂文枝
- 6代桂文枝(前名:桂三枝)の「創作落語」に対する評価は高く、「(柳家)金語楼を質、量とも超えた」「(三枝の創作落語は)池の波紋ではなく、川の流れになった」と絶賛している。なお、2代目快楽亭ブラックが談志に破門された際、一時三枝一門に転じていたという縁もあった。談志はこの件で三枝に恩義を感じ、晩年まで二人会を開くなど交流があった。三枝は、談志の死去に際しての記者会見で「(談志は)憧れだった。師匠に認められたくて一生懸命にやってきた」と語った後、涙ながらに「亡くなったことをウソだと思いたい」とコメントした。
- 6代桂文枝の襲名に当たり、文枝は落語家では談志のみに相談した。談志は三枝の名前を大きくしたことを理由に襲名には否定的だったが、最終的に文枝は襲名を決意。談志はこれに対し「三枝のバカヤロー」と書いたFAXで応えた。[37]
- 2代目桂枝雀
- 2代目桂枝雀の「笑いは緊張の緩和」であるとの見解(「緊緩理論」)を支持していたが、当の枝雀の芸に対しては「好きになれない」と低い評価を下していた。しかし晩年それは誤りだったとし、さらに「自分の提唱したイリュージョンを枝雀はやっている。枝雀は米朝(枝雀の師匠)そっくりにできて、次の米朝になれて、それが嫌ならイリュージョンもできたのに……」と語った[38]。さらに、志ん朝の死後「(志ん朝は)さっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに……。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」などと談志独特の表現でその死を悼んでいる。
芸人・喜劇役者
- アダチ龍光
- 手品師のアダチ龍光については、マジシャンとしての技術もさることながら、社会現象に対するリアクションとセンス、それを喋る話芸のすべてが素晴らしく、寄席演芸の最高の芸人と評価した。高座でも「アダチ龍光にヒザ替りをつとめてもらうことが、私の名誉であり、真打の格だ」「引田天功がどう華麗に鳩を出そうが、アダチ龍光の芸には敵わない」と褒めちぎるほど、惚れるだけ惚れまくった芸人だったと述べていた[39]。
- 爆笑問題
- 爆笑問題がデビューしたての頃、太田光の持つ才能をすぐに見抜いて高評価した談志は、太田に対し「天下、獲っちゃえよ」と応援すると同時に「(相方の)田中だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなかいないもんだ」と述べ、田中が太田にとって欠かせない存在であることを説いた。しばしば「太田は俺がよそで作った子供だ」とも発言した(太田の実父は、もともと、談志を嫌っており、これを聞いて、少し不安になったという逸話を太田が語っている)。
- ビートたけし
- ツービートを真っ先に「面白い」と最初に認めたのが縁で、ビートたけしと交流を持った。双方とも洒落のきつい性格のため、癌から生還した際、「あのじじい、またくたばりぞこないやがって(笑)」とたけし流のエールを送った。破門騒動の折、談志と一門が『ビートたけしのオールナイトニッポン』にゲスト出演した際には、「なぜ破門されたか」ではなく「これからどんなことをやっていくのか」と談志に問いかけ、たけしなりの気遣いを見せていた。また、この放送では意図的に放送禁止用語を連発した。2010年9月、談志は『新潮45』でのたけしと爆笑問題・太田との鼎談で「たけしが落語家になってくれりゃつくづくよかった」とも発言している。
- 藤山寛美
- お互い売れ出した1960年代、関西に藤山寛美というすごい芸人がいるという話を聞いて松竹新喜劇の舞台を見に行ったところ、舞台上で寛美が壁によじ登っていた。その姿を見て「登れェー」と談志が叫んだところ、寛美はずり落ちて観客の爆笑をさらう。この一件で、談志は寛美の芸を評価するようになった。寛美が亡くなった際には「通天閣が無くなったようだ」と偲んだ。
- 上岡龍太郎
- 横山ノック同様、談志は、上岡龍太郎を「大阪の芸人の中で、一番知能指数が高い」と高評価しており、上岡も談志を尊敬している間柄である。
文化人
- 手塚治虫
- 手塚治虫と生前に親交があり、「天才とはレオナルド・ダ・ヴィンチと手塚治虫のことをいう」と評した。また、マンガの「神様」と呼ばれた手塚から自身の芸が認められていたことを明かしている。2005年にNHK教育テレビ『知るを楽しむ 「私のこだわり人物伝」』に出演し、「談志が語る手塚治虫」(全4回)で手塚と作品について語った(番組テキストも出版された)。
主な出演
テレビ番組
- まんが学校(1964年 - 1967年、NHK) - 司会
- 家元ショー・ダダダダッ!談志ダッ!!(1989年10月5日- 日本テレビ)
- 落語のピン(1993年4月 - 9月、フジテレビ)
- そんなに私が悪いのか!?(2000年 - 2001年、テレビ朝日) - レギュラー
- 談志・陳平の言いたい放だい(2004年 - 2008年、TOKYO MX)
- 続・言いたい放題(TOKYO MX)
タイトル 放送日 言いたい放だい2008大晦日スペシャル 2008年12月31日
映画
- 落語野郎 大脱線(1966年) - 無職文吉 役
- 落語野郎 大馬鹿時代(1966年) - 立野談四郎 役
- クレージーの怪盗ジバコ(1967年) - 工員 役
- 悪党社員遊侠伝(1968年) - 杉原省二 役
- 昭和元禄ハレンチ節(1968年) - 吉村唯 役
- まっぴら社員遊侠伝(1968年) - 清川 役
- 極道社員遊侠伝(1968年) - 西原三郎 役
- 猛烈社員 スリゴマ忍法(1969年) - 影山係長 役
- 喜劇 いじわる大障害(1971年) - 立山談次 役
- 喜劇 大誘拐(1976年) - 川島 役
- 出張トルコ また行きます(1978年) - 立原談吾 役
- 快楽昇天風呂(1979年) - 大臣 役
- 愛染恭子の未亡人下宿(1984年) - 風呂屋 役
- 絶倫海女しまり貝(1985年)
- 落陽(1992年) - 青空床屋 役
- 団鬼六 人妻蟻地獄(1995年)
- 週刊バビロン(2000年) - 麻雀屋の主人 役
- 理由(2004年) - 宝井辰雄 役
- 歓喜の歌(2008年) - 小野寺 役
- スクリーンで観る高座 シネマ落語&ドキュメンタリー「映画 立川談志」(2013年1月12日) ※ドキュメンタリー映画
- オース!バタヤン(2013年5月) ※ドキュメンタリー映画
劇場アニメ
ラジオ番組
- 談志・円鏡 歌謡合戦(1969年 - 1973年、ニッポン放送)
- 立川談志 最後のラジオ(2001年4月8日 - 2002年10月6日、文化放送)[41]
- 新・話の泉(2005年4月 - 、NHK第1)[注釈 8]
- 談志の遺言(2005年10月 - 2007年3月、TBSラジオ)
- 立川談志・太田光 今夜はふたりで(2007年10月6日 - 2008年3月29日、TBSラジオ)
CD
- 席亭 立川談志の「ゆめの寄席」CD全集(1999年、竹書房)
- 談志自身のCDは多数あるが、「ゆめの寄席」は談志が好きな芸人ばかりを集めて構成したCD全集である。それぞれの演者についての談志の芸談も収録されている。(協力:川戸貞吉)
CM
著書
落語口演の活字化のほか、落語に関するエッセイ的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期に著した『現代落語論』が代表作と言われるが、「落語」を分析した有名な言葉「落語は人間の業の肯定」はその後の『あなたも落語家になれる』の冒頭の一節である。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・俳優・歌手・ストリッパーなどの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。2012年7月24日、著書の集大成となる最後の書き下ろし自伝『立川談志自伝 狂気ありて』が亜紀書房より発刊された。
- 『現代落語論』(三一書房、1965年) ISBN 978-4380650079
- 『あなたも落語家になれる 現代落語論其2』(三一書房、1985年) ISBN 978-4380852299
- 『談志人生全集』
- 『立川談志独り会』(三一書房)
- 『談志楽屋噺』(文春文庫、1990年) ISBN 978-4167522018
- 『世の中与太郎で、えじゃないか 常識にあきあきしてる人へ』(青春出版社、1992年) ISBN 978-4413015783
- 『酔人・田辺茂一伝』(講談社、1994年) ISBN 978-4062068512
- 『新釈 落語咄』(中央公論社、1995年) ※のち中公文庫、1999年 ISBN 4122034191
- 『新釈 落語咄 PART II』(中央公論社、1999年) ※のち中公文庫(『新釈 落語咄その2』と改題)、2002年 ISBN 9784122040236
- 『談志 受け咄』(三一書房、1997年) ISBN 978-4380973109
- 『ナムアミダブツ 俺も間違ってると思うけど今の世の中もっと間違ってるゼ!』(光文社、1998年) ISBN 978-4334006433
- 『談志百選』(講談社、2000年) ISBN 978-4062092753
- 『食い物を粗末にするな』(講談社、2000年) ISBN 978-4062720069
- 『談志絶倒 昭和落語家伝』(大和書房、2007年) ISBN 978-4479391623
- 『談志映画噺』(朝日新聞出版、2008年) ISBN 978-4022732453
- 『人生、成り行き 談志一代記』(聞き手:吉川潮、新潮社、2007年) ISBN 978-4103069416
- 『談志の落語』(全9巻、静山社文庫、2009年 - 2011年)
- 『談志 最後の落語論』(梧桐書院、2009年)
- 『談志 最後の根多帳』(梧桐書院、2010年)
- 『立川談志自伝 狂気ありて』(亜紀書房、2012年) ISBN 978-4-7505-1213-6
晩年の著作では「原稿の校正をしない」というポリシーを表明しており、エッセイでは大幅な脱線が付き物となっている。また吉川潮などごく一部の談志が信頼していた作家を除き、基本的に評伝等の取材は「趣旨を歪曲される。」として受けなかったとされている。
また、『理解らねぇ(わからねぇ)』『出演った(やった)』など、独特の表記をする。文章内で同じ語を繰り返す際には、古典文学や民謡の歌詞を表記するのと同じく、踊り字(くの字点)を使うことを習慣としている。芸事から教養を得た人物らしい古風なこだわりと言える。晩年の連載では一人称は家元であった。
連載
- 立川談志の時事放談『いや、はや、ドーモ』 - 週刊現代(2010年5月8・15日合併号 - 2011年12月10日号)
- 時事問題を自由に論じた連載コラム。談志の生涯最後の仕事となった。談志が体調不良で活動休止した時期も例外として続き、奇しくも享年と同じ「75」回が最後の原稿になった。談志が率直に自身の病状と心境を綴った原稿もあったが、病状は公表しないという家族の意向で掲載されず、編集部もその存在を知らなかった。談志の死後、編集部は談志に敬意を表し、遺族の許可を得て、書き残されていた遺稿を発表した。その内容は以下の内容で締められていた。
「 | 誰かが昔言った。談志さんは何も言わなくていいのですよ、高座に座っていてくれればネ。昔、俺も同じことを志ん生に言ったのだ。勿論本気で言ったのだが。てめぇがそうなるとはつゆ思わなかった……。 | 」 |
関連項目
- 落語家一覧
- 落語立川流
- 免田事件
- 稲葉修
- 田辺茂一
- 徳田虎雄
- 石原慎太郎
- 毒蝮三太夫 - 談志が芸名を改名させた。毒蝮は談志の晩年、談志を呼び捨てにできる数少ないタレントであった。
- ビートたけし
- 山本晋也
- 桑田佳祐 (面識はないものの「第61回NHK紅白歌合戦」で談志が発した「ふとした病」というフレーズを借用しつつ自身が食道がんで休養したことを語ったり[43]、雑誌で『落語のピン』のDVDや[44]『笑点』を見ている事を公言しており[45]、談志からの影響や落語などを好んでいることを述べている。)
脚注
注釈
- ↑ 大喜利では圓楽は回答者に回る。のちに降板するが、しばらくして同番組の司会者として復帰する。
- ↑ 最晩年に気道切開手術を受けた後も談志は東京都知事となった石原のことを気にかけており、亡くなる2か月前に石原本人から電話があった時に談志は声が出せない状態ながら意思を伝えるために電話口の前でうなずいたり首を振ったり、しゃべろうとして咳き込んだりしていたという[7]。
- ↑ 実際には談志はこの2日前に喉に入れたカニューレから大量の出血があって緊急入院をしており、また当日の朝も高熱があったため不安定な体調を慮った息子の松岡慎太郎が「コメントだけでいい」と出席を取りやめさせたという[12]
- ↑ ライ坊に腹巻きがしてあったのを見つけた談志に対し、志らくが「風邪を引かないようにと思って」と答えたが、談春が自伝『赤めだか』で「本当は志らくがライ坊をいじめて壊してしまったため」と書いたのが原因。しかし、これは談志が「ライ坊をいじめないでくれ」と弟子たちに言ったのを談春および志らくがネタにしたものであり、談春が談志に事情を説明して騒動は収まった[21]。
- ↑ 声優としての出演には、手塚作品以外に『ドラ猫大将』などがある。
- ↑ 『笑点音頭』は、この番組で現在放送されているインストゥルメンタルのテーマミュージックとはまったく別物である。
- ↑ ディキシーランドジャズの名曲のナンバー。生前、談志は「死んだら『ザッツ・ア・プレンティ―』をかけてくれ」と語っており[32]、言葉通り出棺時にはこの曲が流されたという。
- ↑ 療養のため2010年4月より出演休止していたが、その回が最後の出演となった。
出典
- ↑ 『現代落語論』(立川談志著、三一新書刊、1965年)P163。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』105頁
- ↑ 3.0 3.1 3.2 『圓楽 芸談 しゃれ噺』(五代目三遊亭圓楽著、百夜書房刊、2006年)193頁。なお、談志は「落語がテレビ向きでない」という主張を『現代落語論』255-260頁でも行っており、その最後で「誰かテレビにおける落語の演出を考えてください。お願いします」と訴えている。
- ↑ 桂歌丸『座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生』小学館、2010年9月8日。
- ↑ 『歌丸 極上人生』(桂歌丸著、祥伝社黄金文庫刊、2015年)270頁。歌丸は「(『笑点』を)早くやめた方がいいよ」という方もいらっしゃったが、一番初めに言ったのは談志さんだった」とも述べている。
- ↑ http://www.sanspo.com/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm
- ↑ 松岡 2011, p. 288.
- ↑ 昭和51年10月28日、参議院運輸委員会会議録7号29頁
- ↑ 仮退院桂歌丸、一番の喜びは「談志が生きていたこと」 日テレNEWS24 2010年3月2日閲覧
- ↑ 松岡 2011, pp. 10-11.
- ↑ 松岡 2011, p. 48.
- ↑ 松岡 2011, p. 115.
- ↑ 松岡 2011, p. 122,215.
- ↑ 松岡 2011, p. 298.
- ↑ “立川談志さん、喉頭がんで死去…75歳、声失い最後は筆談”. 報知新聞. (2011年11月24日) . 2011閲覧.
- ↑ 高田文夫/笑芸人編 『落語ファン倶楽部 Vol. 16 談志 だいすき』 白夜書房、2012年4月、ISBN 978-4-86191-902-2。pp.81-87。
- ↑ 立川キウイのブログの2011年11月22日の記事および23日の記事参照。
- ↑ 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の壱。後にこの発言は撤回している(立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の弐)。
- ↑ 落語家の立川談志さんが死去 サンケイスポーツ 2011年11月23日閲覧
- ↑ とんでもない人だった 柳家小三治、立川談志を悼む 朝日新聞 2011年11月30日閲覧
- ↑ 「立川志らくの怒らないでください。」、梧桐書院WEB連載 第二十席 立川談春 下 2013年11月3日閲覧。
- ↑ 「あの有名人が眠るお墓を訪ねる「心の旅」」、『フライデー2015年8/21・28合併号』、講談社、2015年8月28日、 68頁。
- ↑ 「立川談志 極秘納骨陰に墓騒動「雲黒斎の戒名はお断りの声」」、『女性自身』第2567号、光文社、2012年12月18日。
- ↑ 『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』 ニッポン放送 2012年12月13日および14日放送分
- ↑ 『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』 ニッポン放送 2013年1月21日放送分
- ↑ 天才落語家・立川談志の練馬の家を劇的リフォーム!テレビ朝日30日「大改造!!劇的ビフォーアフター」予告動画 navicon 2014年12月1日閲覧
- ↑ 高田文夫/笑芸人編 『落語ファン倶楽部 Vol. 16 談志 だいすき』 白夜書房、2012年4月、ISBN 978-4-86191-902-2。pp.28-39。
- ↑ shiraku666のツイート(936082588057313280)
- ↑ TOKYO MX 談志・陳平の言いたい放だい 2007年8月25日放送 - YouTube
- ↑ 30.0 30.1 立川談之助『立川流騒動記』ぶんがく社、2012年6月29日。
- ↑ 立川談志『談志最後の根多帳』2010年4月20日。
- ↑ 松岡 2011, p. 378.
- ↑ 『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.12
- ↑ 三遊亭 2006, p. 97.
- ↑ 三遊亭 2006, p. 213.
- ↑ 三遊亭 2006, p. 180.
- ↑ 桂三枝 妻も立川談志も「桂文枝」襲名に反対していた【桂三枝】、女性自身、2522号、2012年1月12日付、2015年5月30日閲覧。
- ↑ CD『談志百席』「家元の芸人五十選(三十三) 〜桂枝雀のこと・その1〜」「家元の芸人五十選(三十四) 〜桂枝雀のこと・その2〜」
- ↑ 立川談志『談志楽屋噺』 文春文庫、1990年3月、P.137〜P.159
- ↑ “ジャングル大帝 劇場版(1997)”. 手塚治虫公式サイト. . 2016閲覧.
- ↑ (平成24年2月1日) ユリイカ 特集「立川談志」『立川談志 最後のラジオ』全放送記録. 青土社, 209-218. ISBN 9784791702343.
- ↑ CMでは、高座にて「しゃべる自由」と発言している(合成音声)
- ↑ 桑田佳祐、『NHK 紅白歌合戦』で復活。ニューアルバム『MUSICMAN』情報も解禁バークス
- ↑ 「BRUTUS」2011年3月1日号 p.55
- ↑ 「BRUTUS」2011年3月1日号 p.43
参考文献
- 松岡弓子 『ザッツ・ア・プレンティ―』 亜紀書房、2011-12。
- 三遊亭圓楽(5代目) 『圓楽 芸談 しゃれ噺』 白夜書房、2006-07。
- 『ユリイカ 詩と批評 2012-2 特集 立川談志』(青土社、2012年2月)
- 『文藝別冊 永久保存版 立川談志 落語の革命家』(河出書房新社、2013年7月)
- 西部邁 「正気と狂気のあいだを渡った人」『生と死、その非凡なる平凡』 新潮社、2015年、145-150。ISBN 9784103675068。
外部リンク
- 立川談志ホ-ムページ 地球も最後ナムアミダブツ - 公式サイト