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- カザフスタン共和国
- Қазақстан Республикасы(カザフ語)
Республика Казахстан(ロシア語) - 国の標語:なし
公用語 | カザフ語、ロシア語 |
---|---|
首都 | アスタナ |
最大の都市 | アルマトイ |
独立 - 日付 | ソビエト連邦より 1991年12月16日 |
通貨 | テンゲ (KZT) |
時間帯 | UTC +4 ~ +6(DST:なし) |
ISO 3166-1 | KZ / KAZ |
ccTLD | .kz |
国際電話番号 | 7 |
カザフスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、カザフ語: Қазақстан Республикасы)、通称カザフスタンは、中央アジアの共和制国家である。北をロシア連邦、東に中華人民共和国、南にキルギス、ウズベキスタン、西南をトルクメニスタンとそれぞれ国境を接する[2]内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。
Contents
国名
正式名称はカザフ語で、Қазақстан Республикасы(Qazaqstan Respublikasy; カザクスタン・リスプブリカスィ)、ロシア語で、Республика Казахстан(Respublika Kazakhstan; レスプーブリカ・カザフスタン)。
公式の英語表記は、Republic of Kazakhstan。通称、Kazakhstan。
日本語の表記は、カザフスタン共和国。通称、カザフスタン。漢字による当て字は香佐富斯坦。
国名は、カザフ人の自称民族名 Қазақ(Qazaq; カザク)と、ペルシア語で「~の国、~の多い所」を意味する -stān/-estān; スタンの合成語である。「スタン」に関しては、モンゴル語の「部族」を意味する「ястан (ヤスタン)」に由来するという意見もある。カザクは、テュルク語で「独立不羈の者」「放浪の民」を意味する。
2014年2月6日、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は周辺の同じく「スタン」を国名に持つ旧ソ連諸国との差別化により、国際的な認知度をアップさせるため、国名を変更する考えと共に新たな国名の候補として「カザフエリ(カザフ語でカザフ人の土地を意味する)」を挙げたと報じられたが[3]、6月にはエルラン・イドリソフ外相がそのような動きを否定している[4]。
歴史
イッセドネス人、アリマスポイ人
古代ギリシアのヘロドトスやアリステアスらによる歴史書では、伝承ではあるものの、最古のカザフステップにイッセドネス人やアリマスポイ人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す民族であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいたスキュタイ人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原)にいたキンメリア人を追い出すこととなった。[5]
スキュタイ人、マッサゲタイ
古代ギリシアのヘロドトスによる『歴史』によれば、もともとアジアの遊牧民であったスキュタイ人がマッサゲタイに追われてアラクセス河を渡河し、当時のキンメリア地方(現在の南ウクライナ)に移ったという。アケメネス朝のキュロス2世がヤクサルテス川を越えて中央アジア征服に及んだ際、マッサゲタイの女王トミュリスに殺され、征服は失敗に終わった。
サカイ、ソグディアノイ
古代ローマの地理書にはサカイ、ソグディアノイといった民族が記されている。サカイはスキュタイと同じ遊牧民族であり、ペルシアの史料ではサカと呼ばれ、アケメネス朝の属民であった。アレクサンドロスの侵入時もその存在が確認でき、ヤクサルテス川(シル・ダリヤ)をはさんで対峙した。ソグディアノイは後にシルクロード交易の担い手となるソグド人として有名であるが、この頃はアケメネス朝やアレクサンドロスの属民として歴史に登場する。[6]
康居、奄蔡
紀元前2世紀から4世紀にわたり、中国の歴史書には康居や奄蔡といった遊牧民族が記されている。康居は初め、東の匈奴、南の大月氏といった強国に臣従していたが、1世紀になると、栗弋国,厳国,阿蘭聊国といった諸国を支配下に入れるほど強盛する。奄蔡は西方史料のいうアオルソイに比定されたり、後に阿蘭と改名したことから、アランに比定されたりするが、記録が少なく、康居と同族であること以外わかっていない。[7]
悦般、エフタル
悦般はモンゴル高原から追われた北匈奴が行き着いた地で建てた国であり、その場所は康居の北にあったとされる。言語・習俗は高車と同じであり、周辺民族の中でも清潔であったという[8]。
この悦般がのちのエフタルであるとする説もある[9]。エフタルはその出自が不明で、アルタイ山脈から南下してきたとも、バダフシャンにいたともいわれている[10]。エフタルはインドではフーナ(hūna)と呼ばれ、ペルシアではヘプタル(heptal)、中国では嚈噠,挹怛とも呼ばれ、中央アジアにあってその周辺国に侵入し、戦争をおこなった。
西突厥
6世紀、エフタルの国家は突厥とサーサーン朝の挟撃に遭って滅ぼされ、中央アジア全土は突厥の領土となった。突厥は582年に東西に分離し、カザフ草原は西突厥が支配することとなる。西突厥は内紛が相次ぎ、一時は唐の支配下に入って共にアラブ・イスラーム勢力と戦うも、741年には王族である阿史那氏が滅び、その帝国はそれぞれの部族に分散してしまう。9世紀から12世紀にかけては西突厥の構成民族であった突騎施(テュルギシュ),カルルク,オグズ,キマク,キプチャク,カンクリ,ハザール,ペチェネグなどが割拠した。
カラハン朝、カラ・キタイ
カラハン朝はテュルク系初のイスラーム王朝であり、その母体はウイグルともカルルクとも言われている[11]。東西の文化が融合したことで、文化面では大いに発展し、「カラハン朝トルコ語」と呼ばれるアラビア文字を使って記されるテュルク語の文語が生まれてユースフ・ハーッス・ハージブの韻文作品『クタドゥグ・ビリグ』(幸福になるための智恵)や、マフムード・アル・カーシュガリーのテュルク諸語の語彙を集めた辞典『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク』(テュルク諸語集成)が登場し、テュルク・イスラム文化の先駆けとなった[12]。カラハン朝は1041年に東西に分裂し、12世紀初頭には耶律大石率いる契丹軍によって征服され、カラ・キタイ(西遼)の属国となった。
モンゴル帝国
カザフ草原の西の大部分はテュルク系のキプチャクの領土であり、東の大部分はカラ・キタイの領土であった。カラ・キタイは1211年にナイマンのクチュルクによって乗っ取られるが、まもなく東の遊牧民族を統一したチンギス・カンのモンゴル軍によって征服され、1236年にはキプチャクもバトゥ率いるモンゴル征西軍によって征服され、中央ユーラシアの遊牧民騎馬民族は全てモンゴル帝国の支配下に入ることとなった。
モンゴル第2代皇帝オゴデイが没すると、1242年にバトゥはヴォルガ川下流のサライに都を置いて、カザフ草原(当時はキプチャク草原と呼ばれた)を中心とする自立政権ジョチ・ウルスを築いた。
カザフ・ハン国
15世紀末、ジョチ・ウルスの東部(現在のカザフ草原)において、ウズベクと呼ばれる遊牧集団からアブルハイル・ハンが頭角を現し、ウズベク・ハン国を建国させる。一方でケレイとジャニベクの2人によって率いられた遊牧集団カザフがウズベク・ハン国より分離する。アブルハイル・ハンの死後、カザフの集団は分裂状態に陥ったウズベクの集団を吸収し、カザフ・ハン国を形成、アブルハイル・ハンの孫にあたるムハンマド・シャイバーニー・ハンによって率いられたシャイバーニー朝と対立する。カザフ・ハン国はカーシム・ハン(在位:1511年 - 1518年)の時代に強盛となり、対外戦争をおこない、周辺国から恐れられた。
18世紀になると、カザフ・ハン国は政治的統一を失い、東部の大ジュズ(Ұлы жүз)、中部の中ジュズ(Орта жүз)、西部の小ジュズ(Кіші жүз)という3つの部族連合体に分かれて草原に居住するようになる。
18世紀初め、ジュンガルが襲来したため(アクタバン・シュブルンドゥ)、1730年代から1740年代に小ジュズと中ジュズは、ロシア帝国に服属を表明し、その傘下に入った。1820年代になると、カザフのハンは権威を喪失しており、ロシア帝国による直接統治を受け入れていた。同じころ、残る大ジュズもロシア帝国の統治を受け入れる。こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、アクモリンスク州,セミパラチンスク州,セミレチエ州,ウラリスク州,トルガイ州,シルダリア州の6州に区分され、その東半分は1891年にステップ総督府の管轄下に置かれた。(セミレチエ州は1897年にトルキスタン総督府へ移管)
カザフ・ソビエト社会主義共和国
ロシア革命では、北部は白軍の支配下に入りアラシュ自治国(1917年 - 1920年)、1920年に南部は赤軍の支配下に入りソビエト連邦の構成下においてキルギス自治ソビエト社会主義共和国が誕生(首都はオレンブルク)、1925年にはカザフ自治ソビエト社会主義共和国(1925年 - 1936年)が樹立された(1929年に首都がアルマトイになる)。
1936年12月5日にカザフ・ソビエト社会主義共和国(1936年 - 1991年)に昇格した後、ソビエト連邦の共産党政権のコントロール下に置かれた。領内にはソ連の核実験の中心地としてセミパラチンスク核実験場が、宇宙開発の中心となるバイコヌール宇宙基地が作られた。
カザフスタン共和国
ソビエト連邦崩壊後の1991年12月16日に、カザフスタン共和国として独立し、1991年12月21日に独立国家共同体(CIS)に加盟した。
2006年2月、野党「アク・ジョル」の共同議長アルティンベク・サルセンバエフは運転手とともに、アルマトイで射殺体で発見された。5人の国家保安委員会のメンバーが、サルセンバエフの殺害に関わっているとして逮捕された。バウルツァン・ムハメドツァノフ内務大臣によると、犯人は1人当たり2万5千ドルを受け取っているという。警察官1人も殺人に関わったとして逮捕されている。カザフスタンでは、反対派のアルマトイ前市長のザマンベック・ヌルカディロフも射殺体で発見されている。
2007年8月18日の議会選挙では、与党「ヌル・オタン」が、比例代表制による全98議席を獲得、その他9議席を大統領直属の国民評議会が指名するため、与党が107議席をすべて独占することとなった。5月には憲法改正が行われており、改正によってナザルバエフ初代大統領に限り、3選禁止の規定が除外されている。
地理
カザフスタンはユーラシア大陸の中心に位置しており、世界第9位の広大な国土面積(アジアでは、中国、インドに次いで第3位)を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。但し、国土の大部分はサルイイシコトラウ砂漠やキジルクム砂漠などの砂漠や乾燥したステップで占められている。地形は大きく3つに分類されており、中国国境やアルタイ山脈を含むカザフ高原、中部のカザフステップ、西部のカスピ海沿岸低地である。西部低地はウラル山脈より西側でヨーロッパに属する。国の南部は東西にわたり砂漠が発達し、アラル海の縮小に表されるように灌漑が重要な課題である。アラル海東方にはロシアが租借するバイコヌール宇宙基地がある。カスピ海にはマンギシュラク半島が突き出しており(マンギスタウ州)、アクタウは唯一の不凍港を擁する。
行政区画
カザフスタンは以下の14州(Oblys)に区分されている。
- 州
- 北カザフスタン州
- アクモラ州
- パブロダール州
- コスタナイ州
- カラガンダ州
- 東カザフスタン州
- アルマトイ州
- ジャンブール州
- 南カザフスタン州
- クズロルダ州
- アクトベ州(アクチュビンスク)
- 西カザフスタン州
- アティラウ州
- マンギスタウ州
- 政令指定地区
- アスタナ - 首都
- アルマトイ - 最大の都市
- バイコヌール
主要都市
ロシア租借地
政令指定地区バイコヌールはロシア連邦がカザフスタンより年間1億1500万USドルの契約で町全体を租借し、事実上の行政区として扱っている。これは、同市にある、ソ連時代の1955年に建設されたバイコヌール宇宙基地がロシアにとって今なお重要な宇宙開発施設であることに起因する。このためバイコヌールの行政権はロシアが握っており、例えば市長は、ロシア大統領が推薦し、カザフスタン大統領が承認することで任命される。また、ロシアの法律が適用され、通貨もカザフスタンのテンゲではなくロシアのルーブルが流通している。この租借契約は1994年に合意され、2050年まで続く見込みである。
政治
カザフスタンの国家元首は、直接選挙により選出される任期5年の大統領である。大統領は、政府を組閣し、閣僚、最高裁判所長、検事総長、国立銀行総裁を任免し、国民投票を実施し、非常事態を導入する権限を有する。1992年5月から軍最高司令官であり、同年7月からは国家保安委員会が直属している。1993年12月、最高会議は解散させられ、1995年3月、憲法裁判所は1994年3月実施の選挙が違憲であったとの決定を下した。その後は議会不在のままである。
建国以来、ヌル・オタン(輝く祖国党)が単独過半数を占めており、事実上の一党独裁体制である。
首相は、議会の同意により大統領が任命する。閣僚は、首相の提案により大統領が任命する。政府は、大統領の任期満了と共に総辞職し、新大統領により組閣される。閣僚の70%は人口の約65%を占めるカザフ人。
立法府は、下院(マジリス)と上院(セナト)の二院制である。下院は定数107議席。うち98議席が比例代表制による直接選挙で選出され、9議席はカザフスタン民族会議により選出される。カザフスタン民族会議とは大統領諮問機関であり国内にある民族団体おおよそ全部を包括している[13]。議席を得るには、7%障壁を超える必要がある。上院は定数47議席。各州、旧首都、首都の地方議会から2名ずつ選出され、15名は大統領が個人的に任命する。1995年3月には、民族間関係を調整するカザフスタン民族総会が設置されている。上院が6年、下院が5年に延長された。
大統領
ソビエト連邦カザフ・ソビエト社会主義共和国共産党第一書記・同共和国大統領(それぞれ1989年、1991年に就任)からそのまま1991年12月にカザフスタン共和国大統領に就任したヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が、独立以来一貫して大統領の地位にあり、強力なリーダーシップを発揮している。1995年4月に大統領の任期を延長し、2000年12月までとしたが、同年8月には、新憲法草案が国民投票にかけられ、圧倒的賛成で可決された[14]。この1995年憲法はカザフスタンを大統領制国家であると規定し、大統領に大幅な権限を与えた。そして、最高会議を廃止して二院制議会を新設し、1995年12月に議会選挙を実施したが、反対派はほとんどボイコットした。1998年10月に憲法改正が行われたが、大統領の任期は5年から7年に延長され、65歳までとされていた候補者の年齢制限が撤廃された。2007年には議会がナザルバエフを終身大統領とする議決を行うが、本人はこれを拒否した。
主要政党
与党:ヌル・オタン(輝く祖国)。
野党:アク・ジョル(明るい道)、カザフスタン共産党。
治安
2016年6月5日、アクトベ市内の銃砲店や警察施設が攻撃されるテロ事件が発生。治安部隊との間の銃撃戦で、6名が死亡、10名が負傷した。このテロ事件を受け、治安当局はアクトベ市のテロの脅威度を「赤」(3段階中最高位)に設定した。また,アクトベ市を除くカザフスタン全土を「黄」(3段階中1番目)にした[15]。6月12日、カザフスタン当局はアクトベ市のテロの脅威レベルを「赤」から「黄」に引き下げ、カザフスタン全土がテロの脅威レベル「黄」となった[16]。8月14日、カザフスタン国家保安委員会はテロの脅威レベル「黄」を2017年1月15日まで延長した[17]。
メディアの検閲
インターネットは2014年時点で国民の70.8%に普及している。「マスメディアに関する法律」が変わりインターネットはマスメディアと法的に定められた、これによりフェイスブックやツイッター等のSNS、インターネット掲示板での言動は新聞、テレビと同等の物となった。亡命者が政権批判をするブログサイト[18]は国内からアクセス不可であり政府の視点とは異なるニュースチャンネルも規制がかけらている。NGOのフリーダムハウスはカザフスタンを「部分的自由」と評価を下している[19]。
軍事
カザフスタンは、旧ソ連軍中央アジア軍管区の部隊を継承した。
現在のカザフスタン共和国軍は、一般任務軍(陸軍)、防空軍(空軍)、国境警備軍の3軍種から成る。大統領は、3軍の最高司令官であり、空中機動部隊及び空挺部隊、並びに大統領親衛隊を直轄する。軍政単位としては、南部、西部、東部及び中央の4個軍管区が設置されている。一般任務軍は、2個軍、2個師団、5個旅団から成り、46,800人。防空軍は、19,000人。
徴兵制度が存在し、兵役の義務は18歳からの2年間とされている。
国際関係
全般
隣国であり旧ソ連時代には同じ国であったロシア連邦が主導するユーラシア経済連合に参加して政治・経済両面で密接な関係を持つ一方、ロシア語で使われるキリル文字の廃止(後述の「言語」の項を参照)を進めるなど、過度のロシア依存は避けている。ロシア、中華人民共和国、中央アジア諸国などともに上海協力機構(SCO)に加盟し、またトルコ共和国などを含むテュルク評議会のメンバーでもある。欧米諸国や日本を含むアジア諸国とも良好な関係を築いている。中央アジア諸国連合を提唱、さらに2010年の欧州安全保障協力機構の議長国に選出されているなど、積極的に国際機構への参加を図っている。
トルコを含むイスラム諸国とロシアのいずれとも緊密な関係にあることから、首都アスタナはシリア内戦の停戦・和平に関する協議の場となっている[20]。
核不拡散への協力
ソ連崩壊後、カザフスタンは核兵器を放棄した(2006年に中央アジア非核兵器地帯条約を締結)。セミパラチンスク核実験場も閉鎖したが、ソ連時代の地上核実験による放射能汚染や健康被害の問題は依然残っている。
一方でカザフスタンは核燃料であるウランの大産出国でもあるため、核兵器開発に繋がる技術や核テロリズムに使われかねない核物質の拡散防止に積極的である。2017年8月、国際原子力機関(IAEA)は、新興国に原子力発電所用の低濃縮ウランを供給し、ウラン濃縮技術の拡散を防ぐ「核燃料バンク」をカザフスタン東部に開設した[21]。
対日関係
1991年12月28日国家承認[22]。日本とは互いに大使館を置き、2006年8月には小泉純一郎首相が、2015年10月には安倍晋三首相が訪問した。
1998年、カザフスタン政府によって実施された新首都アスタナの設計についての国際指名コンペにおいて、日本の建築家・黒川紀章案が1位に選ばれ、その都市計画案に基づき開発が続けられている。[23]
経済
IMFの統計によると、2013年のカザフスタンのGDPは2,319億ドル、一人当たりのGDPは13,508ドルであり、独立直後の経済状況に比べ、著しい飛躍を遂げている。この経済成長は、鉱物資源の輸出によるものであり、天然資源依存型である。また、一人当たりGDPが10,000ドル以上になり(2008年頃)、マレーシアに並ぶ中進国となった。
通貨はテンゲである。
石油・天然ガス
国営企業カズムナイガスが中心となって、豊富な石油・天然ガス資源を開発、輸出している。2016年11月、新たにカスピ海のカシャガン油田が商業生産を開始した[24]。
その他鉱業
カザフスタンは鉱物資源に恵まれている。例えば、採掘量が世界第10位以内に達する地下資源が9つも存在する(2002年時点)。エネルギー資源では石炭とウランが有望。輸出品目も地下資源とその加工品が7割を占める。原油(49.4%)、鉄鋼(12.0%)、銅(7.5%)という状況である。ただし、ウランは恒常的に生産量が増加しており、特に世界金融危機を経てからは伸びが著しく、2010年の間には1万7803tU(金属ウラン重量トン)を産出して世界一を記録した[25]。ウラン採掘を含む原子力分野では国営企業カザトムプロムが主要な役割を担っている。
有機鉱物資源では、石炭(7218万トン、世界第10位、世界シェア1.9%)が優位である。品質が高いため同国で産出する鉄と組み合わせて鉄鋼を生産している。燃料に向く低品質の亜炭(261万トン)は少ない。原油(3606万トン)の産出量は世界シェア1.1%に達する。天然ガスは453千兆ジュールと多くはない。
2002年時点における金属鉱物資源の採掘量、世界ランキング、世界シェアは以下の通りである。
- 亜鉛鉱(39万トン、世界第7位、世界シェア4.7%)
- ウラン鉱(3300トン、世界第3位、世界シェア9.2%)
- 金鉱(27トン、世界シェア1.1%)
- 銀鉱(892トン、世界第9位、世界シェア4.5%)
- クロム鉱(102万トン、世界第2位、世界シェア17.6%)
- コバルト鉱(300トン)
- 鉄鉱(870万トン、世界シェア1.5%)
- 銅鉱(49万トン、世界第10位、世界シェア3.6%)
- 鉛鉱(4万トン、世界シェア1.4%)
- ニッケル鉱(3000トン)
- ボーキサイト(438万トン、世界第9位、世界シェア3.0%)
- マンガン鉱(44万トン、世界第8位、世界シェア5.4%)
このほか、非金属鉱物資源として、硫黄(210万トン、世界第7位、世界シェア3.6%)とリン鉱石(1万7000トン)を採掘している。
エキバストス第一発電所のような電力事業も鉱業の傘下である。
農業
社会
家族
カザフ人は父系の出自を大きなアイデンティティとしている。父系の氏族、「ルゥ」に帰属を持ち44の主要なルゥがある。このルゥは民族の成立以前からあるものもある。結婚後もルゥは変わることはない。ソ連時代は家父長制度であると批判されたが集団化抗議による家畜屠殺、それに伴う膨大な餓死者(一説には220万人)も発生し集団化は見直されルゥを元にした組織となった[26]。
交通
旧ソ連の一部であったカザフスタンの鉄道は1520mm広軌であるために今でも頻繁に国際列車が運行され、ソ連時代からのエレクトリーチカや客車が各国で使用されており、旧ソ連政府の影響により電化率は高い。カザフスタンの1520mmと中国の1435mmとの間で軌間変換をするために、カザフスタン鉄道は新型車両としてスペインのタルゴの軌間可変車両を導入した。しかし、近年カザフスタンでは2006年より標準軌 (1435mm) への改軌や新線建設の計画が進み、4年ほどで建設が終わるとされていたが、現在は標準軌の計画は既に挫折している。[27]
国民
国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められており、そのため人が住めるところは少なく、人口の大半は首都と一部の地域に偏在している。2015年の人口は1760万人程度であり、2010年の統計では、世界第61位となっている。
住民
- 構成はカザフ人が66.48%、ロシア人が20.61%、ウズベク人が3.11%、ウクライナ人が1.64%、ウイグル人が1.45%、タタール人が1.15%、ヴォルガ・ドイツ人が1.03%、その他3.92%(2016年)となっている[22]。
- ソ連時代の名残りにより、国内では現在もロシア語風の姓名を用いる世帯が多い。また、以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降多くのロシア人が転出し、カザフ人の割合が徐々に増加し逆転した[29]。さらにカザフスタン政府が在外カザフ人の帰還を進めており、1991年から2014年1月1日までに94万4500人のカザフ人が移住してきている。在外カザフ人は本国のカザフ人と比べよりカザフ文化を受け継いでいるが、それは本国はソ連時代にロシア化が進んだ為である[30]。しかし、それに反してソ連時代の名残りが根強い為、本国のカザフ人同様に人名にはロシア語風の姓名を用いる割合が非常に高いことが特徴ともなっている。現在、ロシア人はロシアへの移住により減少傾向にある[31]。
言語
- 憲法ではカザフ語が国家語、カザフ語とロシア語が公用語と定められている。カザフ語は国語とされるが、カザフスタンにおいてカザフ語を話すことができるのは全人口の64.4%に過ぎない。一方、ロシア語はロシア系のみならずに、ソ連時代から95%の住民が使用しており、異民族間の交流語として、カザフ語と同様の地位を与えられている。取り分け都市部においてはロシア語を母語とし、カザフ語を全く話せないカザフ人も多いなどカザフ語よりもはるかに広く使われているのが実情である。
- 政府はメディアを通してカザフ語の普及を図り、政府機関等では積極的に使用されているものの効果は現れておらず、その為 現地政府は外国映画にカザフ語での吹き替えを義務付ける文化法改正法案を議会で審議している。法案が通ればカザフスタンはロシア系住民が約30%であり、ロシア以外では最多であるカザフスタンで今後ロシア映画が原語で上映出来なくなる可能性がある。なお、カザフ国内ではカザフ語において旧ソ連が独立して以降同じ中央アジアであるウズベク語やトルクメン語が行ったようなキリル文字からラテン文字への切り替えを進めており、ナザルバエフ大統領は2025年までの完了を命じている[32]。当然ながら、カザフ語と共に公用語である国内では最も広範囲に使われているロシア語はキリル文字表記のままであり、公用語から除外されるわけではない。
宗教
教育
- 義務教育は6歳からの8年間と定められている。国民の識字率は国民全体の98.4%となっている。
- なお、カザフスタンは中央アジアにおいて国立大学の数が非常に多く、国際学校も豊富に揃っていることが特徴である。
文化
カザフ人は高度に発達した遊牧民としての文化があった。 8世紀、アラブ人が当時のカザフスタンに当たる地域のカザフ人と交流するようになると、この地はイスラム教の影響を受けるようになった。
現在は旧ソ連領中央アジアの中でもっとも文化的にヨーロッパ化された国と言える。ロシア語話者も多く、イスラム教徒であっても戒律を厳格に守る者は少ない。
食文化
文学
音楽
世界遺産
- カザフスタン国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元旦 | ||
3月8日 | 国際婦人デー | ||
3月22日 | ナウルズ(新年) | ||
5月1日 | 民族同調記念日 | ||
5月9日 | 戦勝記念日 | 1945年にナチス・ドイツがソ連などの連合国に対して無条件降伏した日。これはソ連時代から引き継いでいるものである | |
8月30日 | 憲法記念日 | ||
10月25日 | 共和国の日 | ||
12月16日 | 独立記念日 | 1991年にカザフスタン共和国がソビエト連邦に対する主権宣言を採択した日 |
スポーツ
一般的な競技
- 1991年の独立時よりアジアオリンピック評議会に加盟している。独立後初の大型国際大会となった1994年アジア競技大会では中華人民共和国、日本、大韓民国に次ぐ金メダル数で第4位となり、以降の夏季アジア競技大会では金メダル数4位の座を維持。1996年アジア冬季競技大会で日本、韓国を上回る14個の金メダルを獲得したように、アジアでの競技レベルは全般に高い。2011年にはアスタナおよびアルマトイで冬季アジア競技大会が開催された。OCA憲章の改定前には東アジア競技大会に2度参加したこともある。
サッカー
- 地理的にはアジアに属し、カザフスタンサッカー協会は独立当初はアジアサッカー連盟(AFC)に加盟したものの、2002年1月1日をもってAFCを脱退し、欧州サッカー連盟(UEFA)に加入した。その為、FIFAワールドカップや欧州選手権の本大会・予選を通じてUEFAに加盟の有力国と対戦する機会が多い。またカザフスタンの国内リーグ優勝チームはUEFAチャンピオンズリーグ予選に出場できる。
ロードレース (自転車競技)
- 2006年6月から、首都アスタナの名義で国際自転車競技連合が主宰するUCIプロツアーに出場する資格を有するチームのスポンサーになった。資金はカザフスタンの主要5企業が出資している。スペインで開かれるブエルタ・ア・エスパーニャでは、カザフスタン人のアレクサンドル・ヴィノクロフが2006年度の総合優勝、アンドレイ・カシェキンも総合3位となった。"「アスタナ・プロチーム」"
ラグビー
- 2015年大会までラグビーワールドカップ出場は果たせていないが、アジア五カ国対抗では2009年と2010年の2度準優勝を果たし、2011年のワールドカップ予選の最終プレーオフまで進んだ。女子はワールドカップの常連となっている。
脚注
注釈
- ↑ 現地では[кореец](ロシア語で「高麗人」の意)と呼ばれている。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.
- ↑ “Kazakhstan”. Britannica ∣language=英語. . 2018閲覧.
- ↑ 田中洋之 (2014年2月8日). “カザフスタン:国名変更へ…スタン取り近隣諸国と違いPR”. 毎日新聞. オリジナルの2014年2月22日時点によるアーカイブ。 . 2017-3-6閲覧.
- ↑ “Kazakhstan will not change its name to get rid of the “stan” ending: Foreign Minister” (英語). Tengrinews. (2014年6月13日) . 2017-3-6閲覧.
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻4-13
- ↑ ストラボン『地理誌』、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』
- ↑ 『史記』(大宛列伝)、『漢書』(西域伝)、『後漢書』(西域伝)、『三国志』(裴注『魏略』西戎伝)
- ↑ 『魏書』(列伝第九十 西域)、『北史』(列伝第八十五 西域)
- ↑ 松田壽男『古代天山歴史地理学研究』
- ↑ 岩村 2007,p118
- ↑ 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』
- ↑ 小松 2005,p166-167
- ↑ カザフスタンを知るための60章 312頁
- ↑ カザフスタン国別評価
- ↑ カザフスタン:アクトベ州アクトベ市における銃撃戦の発生に伴う注意喚起外務省 2016年6月6日
- ↑ カザフスタン:アクトベ州アクトベ市における銃撃戦の発生に伴う注意喚起(更新)外務省 2016年6月15日
- ↑ カザフスタン、来年1月15日まで延長Qnewニュース 2016年8月16日
- ↑ Blogspot.com,Wordpress.com
- ↑ カザフスタンを知るための60章 253~254頁
- ↑ 「シリア和平協議 捕虜交換議題に ロシア主導」『毎日新聞』朝刊2017年11月1日
- ↑ IAEA、核燃料バンク施設完成 カザフスタンに設立共同通信2017年8月30日
- ↑ 22.0 22.1 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/data.html
- ↑ http://www.kisho.co.jp/page.php/120 カザフスタン新首都アスタナ計画
- ↑ 【点検 成長企業】カズムナイガス■カザフスタン 国営石油、巨大油田で生産量底上げ『日経ヴェリタス』2017年12月17日号、12面(アジア)
- ↑ Nuclear Energy Agency/ International Atomic Energy Agency, "The Red Book Retrospective" and "Uranium: Resources, Production and Demand"
- ↑ カザフスタンを知るための60章133~134頁,167頁
- ↑ [1]
- ↑ “日本人のほとんどが知らない中央アジアの基礎知識”. ハーバービジネスオンライン (2016年7月13日). . 2016閲覧.
- ↑ https://en.wikipedia.org/wiki/Ethnic_demography_of_Kazakhstan Ethnic demography of Kazakhstan|From Wikipedia, the free encyclopedia
- ↑ カザフスタンを知るための60章 第52章305~309頁
- ↑ カザフスタンを知るための60章308~309頁
- ↑ 【NIKKEI ASIAN REVIEWから】カザフスタン/ローマ字移行 ロシアに背「欧米追従」一部に批判『日経産業新聞』2017年7月20日アジア・グローバル面
- ↑ The results of the national population census in 2009 (The Agency of Statistics of the Republic of Kazakhstan) http://www.eng.stat.kz/news/Pages/n1_12_11_10.aspx
参考資料
- 歴史の項
- 松平千秋訳『世界古典文学全集 10 ヘロドトス』(筑摩書房、1988年、ISBN 4480203109)
- 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』(東京大学出版会、1989年、ISBN 4130260480)
- ストラボン(訳:飯尾都人)『ギリシア・ローマ世界地誌Ⅱ』(龍溪書舎、1994年、ISBN 4844783777)
- アッリアノス(訳:大牟田章)『アレクサンドロス大王東征記 上』(岩波書店、2005年、ISBN 4003348311)
- 小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』(2007年、講談社)
- 鵜山智彦・藤本透子『カザフスタンを知るための60章』 (2015年、明石書店、ISBN 978-4-7503-4062-3)
関連項目
外部リンク
- 政府等
- カザフスタン共和国政府 (カザフ語)(ロシア語)(英語)
- カザフスタン大統領府 (カザフ語)(ロシア語)(英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - カザフスタン (日本語)
- 大使館
- カザフスタン大使館 (英語)
- 在カザフスタン日本国大使館 (日本語)
- その他
- 日本カザフスタン投資環境整備ネットワーク (日本語)