平成研究会

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平成研究会
略称 竹下派
前身 木曜クラブ田中派)
設立年 1987年(昭和62年)7月4日
設立者 竹下登
種類 自由民主党の派閥
本部 全国町村会館西館
位置 東京都千代田区永田町
メンバー 自由民主党所属国会議員
会長 竹下亘
関連組織 木曜クラブ(二階堂G)
改革フォーラム21羽田派)
予算 242,021,860円[1]
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平成研究会(へいせいけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥木曜研究会系)。旧称は経世会(けいせいかい)。略称は平成研

通称、竹下派竹下登派→小渕派→橋本派→津島派→額賀派→竹下亘派)。自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会佐藤派)・木曜クラブ田中派)の流れを汲む保守本流集団。

沿革

竹下登派時代

1985年2月7日、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力を持ち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登・金丸信らを中心に木曜クラブ(田中派)内に勉強会として創政会を結成。田中の激しい巻き返しに遭うが、27日に脳梗塞を発症した田中は政治活動ができなくなり、竹下の優勢が固まった。これを受けて創政会は4月に解散され、反対派や中間派の取り込みが図られた。その後、あくまで田中派の枠組みを守ろうとする木曜クラブ会長の二階堂進らを切り離す形で、1987年7月4日に大半の木曜クラブ所属議員を糾合する新派閥の経世会が結成された。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取った。

金丸の長男と竹下の長女の結婚、田中の地元新潟県の建設会社福田組会長の娘2人を小沢一郎と竹下の異母弟亘にそれぞれ嫁がせるなど、閨閥を当初は重視していた。田中派時代より郵政族の牙城として君臨し、自民党政権時代の大半の郵政相のポストを独占し続けた。

竹下は、中曽根康弘裁定により自民党総裁内閣総理大臣に就任、金丸が会長となる。竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、「経世会支配」と呼ばれた。リーダーによる鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。

竹下派の有力幹部は永田町のTBRビルに事務所を構えていたが、高級官僚や米国高官が総理大臣官邸よりも、TBRビルを優先して訪問していた様は、首相による権威の低下と経世会支配の象徴とされた。

元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における影の権力者として君臨。これを受けて最高権力者の竹下との関係が悪化した。特に、金丸子飼いの小沢一郎自民党幹事長辞任後に経世会会長代行に就任し、金丸の庇護のもとに辣腕をふるったことは竹下に近い議員の反発を買う。

1992年佐川急便事件で金丸が衆議院議員を辞職し会長も辞任。不測の事態により派内で後継争いが発生した。この抗争は親小沢対反小沢の構図となったが、衆院は数が拮抗していたものの、実権を取り戻したい竹下が参院は反小沢でまとまるよう青木幹雄に指示したため、半ば強引に竹下子飼いの小渕恵三が会長に就任した。小沢はこれを不服として羽田孜による改革フォーラム21(羽田・小沢派)を結成して分裂。分裂後は、それぞれ党内第四・第五の派閥に転落したが、羽田・小沢派は1993年6月に離党して新生党を結成、細川護煕を首相とする非自民連立政権を樹立した。

小渕派時代

細川・羽田内閣と非自民党政権が短期間で崩壊、村山内閣が成立し自民党が与党に復帰すると、小渕派も次第に勢力を回復した。1995年の総裁選で竹下は派閥幹部の橋本龍太郎の擁立を決定。総裁就任後、1996年1月の村山内閣退陣をうけ、後任の総理大臣に就任した。その間、党内の派閥解消運動や、小派閥転落で事務所維持費が厳しくなったため、田中派時代より入居していた砂防会館から経世会の看板を下ろし、平成政治研究会に改称した。その後、平成研究会に改称。

1998年7月の参議院議員選挙で敗北すると、竹下は即座に総理総裁職を橋本から派閥会長である小渕へ交代するよう指示。後継の会長には綿貫民輔が就任した。この決定を不服として、梶山静六は派閥を退会して独自に総裁選に出馬。竹下は小泉純一郎を出馬させて三つ巴の形を採り、それまで「一致結束・箱弁当」と呼ばれた小渕派が初めて綻びを見せた。この頃から、派閥のアキレス腱として小渕派の後継者が不在であることが囁かれ始める。将来をつなぐはずだった若手のほとんどが小沢・羽田らと共に自民党を離党したためである。

橋本派時代

2000年に小渕、竹下が相次いで死去。7月に綿貫が衆議院議長に就任し派閥を離脱したため橋本が後任の会長に就任した。しかし、実質的に派閥の実権を握っていたのは、野中広務青木幹雄であった。

橋本は、2001年4月、森総裁の後任の自民党総裁選挙に出馬したが、小泉純一郎に大敗した。田中派以来、「一致結束・箱弁当」と呼ばれる鉄の団結を誇ったが、小泉政権成立以降、総裁候補が不在のままとなり求心力が低下した。また、角福戦争以来の怨念を抱く小泉首相からは、「抵抗勢力」と位置付けられて目の敵にされ、小泉政権では2003年9月まで橋本派は党執行部から外された。橋本派が党執行部ポストに就任できなかったことは過去を遡ると田中派時代の三木政権1974年 - 1976年)以来25年ぶりのことであり、橋本派の影響力低下を物語った。

2003年の自民党総裁選挙において、反小泉の急先鋒であった野中が独自候補の擁立を主張したものの、青木幹雄や村岡兼造が小泉支持を表明したために野中は完全に孤立。総裁選のさなかに野中はこれを理由に議員引退を表明する事態となった。派内からは笹川尭熊代昭彦など複数の会員が公然と出馬意欲を示すなど大きく混乱したが、最終的に藤井孝男を擁立。派内の支持をまともに得られない中で藤井は落選し、小泉が再選された。その後の小泉政権下の党役員人事では2003年9月から2004年9月まで額賀福志郎が政調会長に、2004年9月から2006年9月まで久間章生が総務会長に起用され、久々に党三役ポストを得た。

2004年日歯連闇献金事件が浮上し、野中広務や青木幹雄が立ち会う形で橋本龍太郎が1億円の小切手を受け取り、政治収支報告書に闇献金として処理していた疑惑が浮上(この疑惑では村岡兼造元官房長官在宅起訴され有罪)。2004年7月30日、橋本は責任をとる形で会長を辞任。派からも離脱し、2005年の衆院解散で政界を引退した(その翌年に死去)。その後、綿貫民輔元衆議院議長、次いで保利耕輔自治大臣国家公安委員長の会長就任の声が上がるも、両者共に固辞した。

さらに、郵政国会での郵政法案の対応を巡り2005年の第44回衆議院議員総選挙で綿貫・保利ら法案反対組が非公認となり、党内第一派閥の座を森派(現・細田派)に明け渡した。

津島派時代

会長不在の状態が続いたが、第3次小泉改造内閣が成立した4日後の2005年11月4日、会長に津島雄二が就任。2003年9月の自民党総裁選以来、派内で続いている衆院と参院のわだかまりの解消が大きな課題であった。また、衆議院幹部の多くが、1993年以降の政界再編の中で離党後に復党した「出戻り」(ほとんどが小沢一郎率いる新進党からである)や「外様」議員(鳩山邦夫2010年に2度目の離党)・笹川堯石破茂船田元など)となり、生え抜きは額賀などの少数派となった。会長の津島も元は旧宮澤派出身の出戻り組であった。

もともと経世会分裂とその後の嘘つき解散において、船田元・鳩山邦夫などの将来を担うと目された議員が離党ないし派閥離脱し(その後大半が復党したが、鳩山邦夫は再度自民党を離党、船田元は落選した)、"NYKK"の一人といわれた中村喜四郎(現在は無所属)がゼネコン汚職事件で失脚するなど、人材が不足する中で藤井孝男鈴木宗男額賀福志郎が「御三家」とみなされるようになった。しかし、鈴木が2002年に不祥事で失脚し、離党と橋本派離脱を余儀なくされたほか、藤井も2005年の郵政政局で離党・落選した(藤井は2007年の参院選で当選し、復党と同時に再入会をしたが、2010年に再離党し新党たちあがれ日本を結成)。

このため最後まで残った額賀福志郎を総理総裁候補として育ててゆく方向であるという見方が強くなったが、久間章生や青木幹雄が総裁選のたびに額賀擁立に賛同しないなど、自他共に認める総理総裁候補とは言い難い状況であった。また、鳩山邦夫は派閥復帰後も麻生太郎(宏池会系)の盟友として活動し、派としての行動の統一がとれなかった。さらに、郵政造反組で復党した議員の多くが他派閥に移籍するか無派閥となっており、面倒をみる幹部が不在となった。

2007年第21回参議院議員通常選挙では、片山虎之助参議院幹事長をはじめ、武見敬三厚生労働副大臣、青木幹雄参議院議員会長の地元島根県選出の景山俊太郎など、議員立候補者が次々に落選し、参議院においても町村派に次ぐ第2派閥に後退した。

2008年福田康夫総裁の辞意表明を受けた自民党総裁選で、麻生太郎や与謝野馨に支持表明する派閥幹部が出る中、若手や中堅を中心に石破茂を擁立し、石破が総裁選に立候補したが5位で敗れた。

総裁選後、鳩山邦夫を中心にした戸井田徹吉川貴盛馬渡龍治田村憲久河井克行の通称「鳩山5人組」も分派行動をとり始めた。鳩山が総務大臣を更迭された際には、集団離脱が懸念された(第45回衆院選で戸井田、吉川、馬渡は落選)。

2009年7月19日、会長の津島雄二第45回衆議院議員総選挙の直前になって不出馬・政界引退を表明した。同選挙で自民党は結党以来初となる衆議院第一党の座を明け渡す大敗北を喫し、平成研も改選前の45議席から1/3以下となる14議席へ勢力を激減させた。

額賀派時代

2009年9月8日、津島雄二の引退と総選挙の結果を受けて臨時総会が行われ、会長代理の額賀福志郎がそのまま会長に就任した。

総選挙後、政界再編や新党結成などを主張していた鳩山邦夫が離党し、派閥解消を唱える石破茂が2011年に政調会長を離任後に派閥を離脱するなど所属議員の数が減少を続け、党内第三派閥に後退。

2012年第46回衆議院議員総選挙で自民党大勝の影響から49議席まで勢力を広げ、党内第二派閥に復活。

竹下亘派時代

額賀の就任以降、指導力に派内で長らく不満がくすぶり続けたが、2018年1月に参院幹事長の吉田博美を中心に派内の参院議員が集団離脱を盾に額賀の退任を要求。額賀はこれに持ちこたえられず3月に退任を表明し、後任に創設者の竹下の弟である竹下亘を指名した[1]。4月に竹下が会長に就任、これにより、26年ぶりに竹下派が復活した。会長代行には衆院議員の茂木敏充と参院議員の吉田を据えることで、茂木を総理総裁候補として選出。

年表

歴代会長

創政会-経世会-平成研 歴代会長
1 竹下登 1985年 - 1987年
2 金丸信 1987年 - 1992年
3 小渕恵三 1992年 - 1998年
4 綿貫民輔 1998年 - 2000年
5 橋本龍太郎 2000年 - 2004年
- 空席 2004年 - 2005年
6 津島雄二 2005年 - 2009年
7 額賀福志郎 2009年 - 2018年
8 竹下亘 2018年 -

現在の構成

役員

会長 会長代行 副会長 事務総長 事務局長 最高顧問
竹下亘 茂木敏充
吉田博美
船田元
野村哲郎
山口泰明 大塚高司 額賀福志郎

衆議院議員

額賀福志郎
(12回、茨城2区
船田元
(12回、栃木1区
茂木敏充
(9回、栃木5区
三原朝彦
(8回、福岡9区
小渕優子
(7回、群馬5区
新藤義孝
(7回、埼玉2区
竹下亘
(7回、島根2区
山口泰明
(7回、埼玉10区
渡辺博道
(7回、千葉6区
秋葉賢也
(6回、宮城2区
加藤勝信
(6回、岡山5区
西銘恒三郎
(5回、沖縄4区
金田勝年
(4回・参院2回、秋田2区
大塚高司
(4回、大阪8区
木原稔
(4回、熊本1区
渡嘉敷奈緒美
(4回、大阪7区
橋本岳
(4回、岡山4区
原田憲治
(4回、大阪9区
平口洋
(4回、広島2区
若宮健嗣
(4回、東京5区
池田道孝
(3回、比例中国
井野俊郎
(3回、群馬2区
笹川博義
(3回、群馬3区
新谷正義
(3回、広島4区
鈴木貴子
(3回、比例北海道
鈴木憲和
(3回、山形2区[3]
津島淳
(3回、青森1区
中谷真一
(3回、比例南関東
野中厚
(3回、埼玉12区
鈴木隼人
(2回、東京10区
古川康
(2回、比例九州)
佐藤明男
(1回、比例北関東
百武公親
(1回、比例北関東)
三浦靖
(1回、比例中国

(計34名)

参議院議員

尾辻秀久
(5回、鹿児島県
関口昌一
(4回、埼玉県
吉田博美
(3回、長野県
二之湯智[4]
(3回、京都府
野村哲郎
(3回、鹿児島県)
松村祥史
(3回、熊本県
石井準一
(2回、千葉県
石井浩郎
(2回、秋田県
石井みどり
(2回、比例区
佐藤正久
(2回、比例区)
佐藤信秋
(2回、比例区)
牧野京夫
(2回、静岡県
青木一彦
(2回、鳥取・島根県
岩井茂樹
(2回、静岡県)
宇都隆史
(2回、比例区)
福岡資麿
(2回、佐賀県
渡辺猛之
(2回、岐阜県
島田三郎
(1回、島根県
堂故茂
(1回、富山県
元榮太一郎
(1回、千葉県)
山下雄平
(1回、佐賀県)

(計21名)

脚注

関連項目