ジャズ

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ジャズ: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に派生した音楽形式。西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート[1]シンコペーションスウィングコール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーションポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされている。

その表現形式は自由なものだった。また、初期からポール・ホワイトマンやビックス・バイダーベックらの白人ミュージシャンも深くかかわり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもあった。演奏技法なども急速に発展した。20世紀後半には世界の多くの国々で、ジャズが演奏されるようになった。

歴史

1920年代 - 1940年代

ファイル:Bolden band.gif
Buddy Bolden, 1905年頃
ファイル:Art Blakey08.JPG
Art Blakey, 1985年

ジャズは西洋音楽アフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアルブルースラグタイムの要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘルサハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の民族音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ラグタイムの有名ミュージシャンにはスコット・ジョプリンがいた。

ニューオーリンズが発祥の地[2]とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀に入ると、コルネット奏者のバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博し、今日では「初代ジャズ王」と呼ばれているが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない[3]

1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初の商業用レコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。

初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づくものといえよう。当初は独学でジャズを創作していった者も少なくなかったが、ジャズと音楽理論が融合するようになっていったのは、ジャズが黒人社会に広く普及し、古典的なヨーロッパの音楽理論を取得したアフリカ系黒人ミュージシャンがジャズに反映させていく時点からである。アメリカの禁酒法時代に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった[2]第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた[2]

1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。この背景には、人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールの存在があった[2]。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになり、特に代表的なバンドリーダーの一人であるルイ・アームストロングの存在は、ジャズとヴォーカルとの融合という側面(アームストロングはトランペット奏者でありながら自ら歌も歌った)において重要な役割を果たした。

一方で保守層やファシズム政権等では、「黒人音楽」であり「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。アドルフ・ヒットラーのナチ党に支配されたナチス・ドイツ時代には反ジャズが政府の公式な見解となり、シュレーゲ・ムジーク(独: Schräge Musik、直訳:「斜めの音楽」比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は盛んに行われていた。また宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた[4]

その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求める(あるいはスウィング・ジャズに反発する)ミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない[3]

1950年代 - 1960年代

ビバップの創始者であるチャーリー・パーカーディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクらは多くの録音を残し、1950年代には、クール・ジャズウエストコースト・ジャズハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コール、メル・トーメ、リー・ワイリー、ペギー・リー[5]らの歌手も、この時期活躍した。

1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[6]

1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ[7]という言葉が広まっていった[8]。また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディ、サラ・ボーン、カーメン・マクレエ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナシモン、アニタ・オディ、らも活躍した[9]。白人歌手のヘレン・メリル、ウテ・レンパーらも人気を集めた。

1960年代前半には、ブラジル音楽ボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み[10]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、『リカード・ボサノヴァ』が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルバー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。

1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギターハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、『ビッチェズ・ブリュー』を大ヒットさせる。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。

1970年代 - 1980年代

70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョン[11]と呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナー、ラリー・カールトン、アルディメオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、グローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な課題の表れでもあった。

1990年代 - 現在

1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムース・ジャズがその1つである。また、一人の演奏家が様々なスタイルでの演奏を行なうことも多く、時には一回の演奏会で様々なスタイルでの演奏を行なうこともある。ブラッド・メルドーザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズバージョンの演奏を行なったりしている。前衛的なジャズも伝統的なジャズも継続されている。

またハリー・コニック・ジュニア[12]等の歌手はポップスにジャズの要素を加えただけで「ジャズ・ミュージシャン」と呼ばれたり、ダイアナ・クラールノラ・ジョーンズカサンドラ・ウィルソンカート・エリングジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスやロック形式の音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも近年登場している。

フュージョンは1970年代に人気のピークを迎えたが、電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニージョン・アバークロンビージョン・スコフィールドロバート・グラスパー・エクスペリメント、エスペランサ・スポルディング等に受け継がれている。

各国でのジャズ史

ヨーロッパのジャズ史

戦前日本のジャズ史

戦前には舶来音楽として、ジャズとコンチネンタル・タンゴ、アルゼンチン・タンゴなどが日本に渡来していた。大正時代末期には、黒人バンドが来日してジャズを演奏した。ブルジョワ階級の子弟、菊地滋弥(政治家の息子)は、ジャズ・レコードを日本に持ち込んだ。戦前日本のジャズは、二村定一が1928年にジーン・オースチンのマイ・ブルー・ヘブン[13]を「青空」としてカバーしたころから始まる。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。ディック・ミネは「ダイナ」を発表し、榎本健一がパロディ・ヴァージョンでカバーした。志村道夫は服部良一作曲の「流線型ジャズ」を1935年(昭和10年)に出した[14]。社会一般の情勢では都市の学生やモボ、モガ、富裕層が中心で、農村には普及していなかった。1932年の第一回ラジオ意識調査にあるように、日本人の多数は浪花節を好んだ。ジャズは好きな番組の順位では『最下位だった』。 (浪花節とその周縁については兵藤裕己『<声>の国民国家・日本』日本放送出版協会〈NHKブックス〉 2000年に詳しい)戦前ジャズは軍部の弾圧により、きわめて短い期間でいったん終焉を迎えた。


スウィングジャズは踊る音楽であった。人々はスウィング用のダンスのほかにタンゴ、ワルツを踊った。1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。1943年1月には情報局と内務省により「米英音楽作品蓄音機音盤一覧表」が全国の関係団体、具体的には警察関係、飲食店組合、音楽団体に配布されジャズレコードの演奏禁止となり、更にレコードの自発的提出、治安警察法第十六条の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図った(出典は倉田喜弘「日本レコード文化史」) 小川隆夫『証言で綴る日本のジャズ』(駒草出版)では、瀬川昌久、北村英治は、押し入れの中でこっそり聴いていたと証言している。最終的には日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会による軽音楽改革により、実質的にジャズの演奏は禁止となった(音文については戸ノ下達也『音楽を動員せよ』(青弓社)に詳しい)。この弾圧下にあって、ジャズメンの活動は各種の慰問団、対敵謀略放送などの活動もおこなった。

ジャズメンとジャズ歌手の重要人物として、二村定一服部良一淡谷のり子ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子中野忠晴ベティ・稲田、井田一郎、東松次郎、レイモンド・コンデらがいる。重要ではない人物として、コロムビア・ナカノ・リズムボーイズ、渡辺良、フランシスコ・キーコ、飯山茂雄、山口豊三郎、森山久、水島早苗、ハット・ボンボンズらがいた。

1923年大正12年)4月に日本で初めてのプロのジャズバンドが神戸で結成された[15][16]宝塚少女歌劇団オーケストラ出身の井田一郎をリーダーとする「ラッフィング・スター・ジャズバンド」(「井田一郎とラッフィング・スターズ」)である。戦前に発売された国産ジャズレコードの中には著しくレベルの低いものも多数見受けられた。歌手としては二村定一、淡谷のり子、バートン・クレーンディック・ミネ川畑文子中野忠晴ベティ・稲田らが、ボーカルグループではコロムビア・ナカノ・リズムボーイズやアメリカのボードヴィルの影響を受けたあきれたぼういずがそれぞれ、都会人の一部の人気を集め、作曲家としては服部良一がジャズの要素を用いた曲を生んだ。

太平洋戦争中は禁令 [17]や自主規制などでジャズは鳴りを潜めたが、学生や軍人の中でも密かにレコードを聴いて楽しむ者も少数いた。

戦後日本のジャズ史

戦後の日本には米軍基地が置かれ、ジャズを筆頭とするアメリカ音楽は大々的に日本へと入ってきた。戦後の日本のジャズの最も早い例には、ニューパシフィックジャズバンドであり、テナーサックスの名手として知られた松本伸がいた。戦後の進駐軍と彼等が運営したクラブ、クラブを運営する側がサポート(調達)したサービスの一つに音楽があり、日本人立ち入り禁止(Off Limit )の空間もあったという(東谷護『進駐軍クラブから歌謡曲へ』)。このクラブに出演する人間の出演料は日本側の終戦連絡事務局、1949年6月からは特別調達庁より出ていた。各軍政部が日本側に要求を出した結果、日米間で問題になり特別調達庁(SPB )が演奏家の格付審査を行った。

戦後は、服部良一が作曲したブギウギ笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。つづいて、江利チエミジョージ川口ティーブ釜萢ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである[18]。また、神戸や阪神間の学生を中心にデキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。

鈴木章治とリズムエース、北村栄治らも音楽活動を始めた。1956年穐吉敏子が、1962年渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学[19]1963年には松本英彦モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。

1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった[20]

1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行富樫雅彦日野皓正菊地雅章山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里ジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身のフリー志向の原点だと述べる[21]

1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン志向が強くなり、国鉄(現JR中央線沿線(西荻窪吉祥寺八王子など)を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂プロデューサーが「中央線ジャズ」という言葉を提唱[10]

21世紀に入ってからも、山中千尋矢野沙織寺久保エレナ上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔小曽根真らが活躍している。

主なスタイル/ジャンル

過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。

何がニューオーリンズ・ジャズであり、何がディキシーランド・ジャズであるかという明確な合意はないが、初期の様に黒人によって演奏されるのがニューオーリンズ・ジャズ、白人によって演奏されるのをディキシーランド・ジャズと区別するのが一般的である。

アーティスト

参照: ジャズ音楽家の一覧

著名なジャズ評論家

ジャズが演奏された著名な場所

著名なジャズクラブ

  • ヴィレッジ・ヴァンガード(1935年-、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、モダンジャズを牽引した名店。
  • ミントンズ・プレイハウス(1938年-1974年、ニューヨーク)テナーサックス奏者ヘンリー・ミントンが開店。ビバップの発祥の証しとなる「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」1941年でのセッションレコードで有名。2006年再開店。
  • バードランド(1949年-1965年、ニューヨーク)マンハッタン地区にあったビバップ・モダンジャズの黄金時代を牽引した名店。1986年再開店。
  • プリザベーション・ホール(1960年代-、ニューオーリンズ)ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体の名店。
  • ブルーノート(1981年-、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、世界各国にレストランをチェーン展開。ブルーノート・レコードとは無関係。

ジャズクラブ以外

ジャズ喫茶

ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。

著名なジャズ・フェスティバル

三大ジャズ・フェスティバル

北アメリカ

ヨーロッパ

日本

開催終了

著名なジャズ教育機関

ジャズに関するその他の作品・関連メディア

TV・ラジオ番組

ジャズ専門衛星放送

ジャズ専門ネットラジオ局(無償配信)

ラジオ放送

地方局
ラジオ放送終了番組
テレビ放送終了番組
  • 純情きらり(NHK・朝の連続テレビ小説) - ヒロインがジャズピアニストを目指すストーリーであり、ジャズのスタンダードナンバーやジャズ風にアレンジされた唱歌などが劇中で頻繁に演じられていた。

映画

アーティスト伝記物、もしくはストーリー・音楽ともにジャズと関わりの深い作品

洋画

伝記物
記録映画
フィクション

邦画

伝記物
フィクション
ジャズのみを映画音楽にしている作品

その他

参考文献

  • 『ジャズの歴史 その誕生からフリー・ジャズまで』 Frank Tirro、音楽之友社、1993年。ISBN 4276232511。
  • 『ハーレムの黒人たち』植草甚一、晶文社(2005/5)
  • 『『コーヒー一杯のジャズ』植草甚一、 晶文社(2004/12)
  • 『ファンキー・ジャズの勉強』植草甚一、晶文社(2005/6)
  • 『ジャズの十月革命』植草甚一、晶文社(2005/4)
  • 『ジャズは海をわたる』植草甚一、晶文社(2005/7)
  • 『ジャズマガジンを読みながら』植草甚一、晶文社(2005/7)
  • 『ビリー・ホリディ物語』油井正一、大橋巨泉
  • 『ジャズ 進化・解体・再生の歴史』悠雅彦、音楽之友社、1998年。ISBN 4276370787。
  • 『新版 ジャズを放つ』細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、西島多恵子、山下泰司、黒田京子ほか多数、洋泉社、1997年。ISBN 4896912500。
  • 『知ってるようで知らない ジャズおもしろ雑学事典 ~ジャズ100年のこぼれ話~』小川 隆夫、ヤマハミュージックメディア、2001年。ISBN 4636207505。
  • 『ニューヨークJazz』小川隆夫、東京キララ社、2002年。ISBN 4380022005。

関連図書

  • 『東アジア流行歌アワー―越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)、貴志俊彦、岩波書店、2013年10月。ISBN-10: 4000291157。

脚注

  1. http://www.simplifyingtheory.com/blues-scale-blue-note/
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 斎藤真 他(監修)『アメリカを知る事典』(平凡社、1986年)pp. 210-217
  3. 3.0 3.1 岩浪洋三『これがジャズ史だ〜その嘘と真実〜』(朔北社、2008年)pp.65-68、291-292
  4. 田中まり 「第三帝国とジャズ」北陸学院短期大学紀要 32, 237-248, 2000-12-28
  5. http://www.npr.org/2008/02/13/.../nat-king-cole-the-singer
  6. 相倉久人『新書で入門 ジャズの歴史』(新潮社、2007年)pp.116-127
  7. http://www.allmusic.com/subgenre/free-jazz-ma0000002598
  8. 『フリー・ジャズ』レビュー(All Music Guide)
  9. http://www.discogs.com/Billie-Holiday-Ella-Fitzgerald...Sarah...
  10. 10.0 10.1 『音楽CD検定公式ガイドブック上巻』(音楽出版社、2007年)p.131, 220
  11. http://www.allmusic.com/subgenre/fusion-ma0000002607
  12. Chart Beat, Billboard, April 9, 2009
  13. http://www.discogs.com/.../Gene-Austin-My-Blue-Heaven/.../...
  14. http://meikyoku-pei.jugem.jp/?eid=446
  15. ジャズライブKOBE神戸とJAZZ|NHK神戸放送局(2015年8月24日閲覧)
  16. 兵庫県/神戸県民局7月のメッセージ(神戸県民局長平野正幸)(2015年8月24日閲覧)
  17. 以下の3つの基準で禁止された。1).旋律の美しさを失った騒擾的なるリズム音楽。2).余りに扇情的淫蕩的感情を抱かしめる音楽。3).怠惰感を抱かしめる様な退廃的或は亡国的なる音楽(情報局・内務省共編「出版警察報」138号、1941年7月p64)。
  18. みつとみ俊郎 『音楽ジャンルって何だろう』 新潮社〈新潮選書〉、1999年12月25日、p.40
  19. 『jazzLife』(2010年7月号)p.57
  20. 『jazzLife』(2010年7月号)p.55 ファンキー・ブームは世界のいくつかの国で起こり、フランスでのブームが最初。
  21. 『jazzLife』(2010年7月号)p.56, 57 日本のミントンズ・プレイハウスといえるのだという。

関連項目

外部リンク