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髙見山 大五郎[1](たかみやま だいごろう、1944年6月16日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ準州 (Territory of Hawaii) マウイ島出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東関脇。身長192cm、体重205kg。本名は渡辺 大五郎(わたなべ だいごろう)、米国名はJesse James Wailani Kuhaulua(ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)、愛称はジェシー。
Contents
四股名の由来
髙見山の四股名は、初代高砂、また優勝制度確立後初の優勝力士(髙見山酉之助)が名乗るなど、高砂部屋で由緒ある出世名である。番付に載る前の初土俵の場所だけ、本名の「ジェシー」を名乗っていた。
なお、三重県と奈良県の県境に「高見山」という山があるが、2008年2月13日の朝日新聞名古屋本社版の朝刊によれば偶然の一致であるという。
来歴
砲丸投げ等の投擲競技を経てアメリカンフットボールに打ち込む。高校時代に交通事故で足腰を負傷して1年間歩行不能になるほどの重傷を負い、後遺症が残った。[2]1964年(昭和39年)、当時明治大学相撲部長だった滝沢寿雄らの紹介で師匠高砂(元横綱前田山)に5年間衣食住を保障するとスカウトされ、同年2月22日来日、羽田空港に現れた高見山は初めて体験する冬の寒さに「いけない。間違ってシベリアに来てしまった」と震え上がったという[3]。同年3月場所にて初土俵を踏んだ。入門決定前、ハワイ州兵として6年契約した内10か月しか在勤していない事が問題になったが、当時のバーンズ州知事が「日本とハワイの関係がよくなるんだから、君は向こうで頑張ってこい」とすんなり許可を出した。5月場所4日目には対戦相手の吉瀬川が何もせずに土俵から逃げ出したが「逃げ出し」は決まり手に出来ずに仕切り直しとなった[4]。ある時、大きな足に合う足袋がなかったため靴下で代用したというエピソードがある[5]。新弟子時代にはちゃんこの味に馴染めず初めは少しだけ汁をすくって食べるのが精いっぱいであり、中でも白身魚が大嫌いであった。なかなか食が進まない様子を見かねた当時のおかみは、ある時丼を取り上げて高見山の分のちゃんこを食べてしまうという荒療治を敢行したこともある。結局ちゃんこに完全に慣れるまでに1年を要したといい、ケチャップをかけて食べることでやっと問題なく食べられるようになったという。ちなみに日本食で気に入っているのはとんかつである[6]。若い頃は心労が溜まってもすることがなく(パスポートは親方が預かっているため許可がなければ帰国できなかった)、慣れない力士生活に苦労が絶えなかった。入門から1年後、ベトナム戦争に際して徴兵検査を受けたが当時160kgほどあったため体重超過で不合格となり相撲の道を断たれずに済んだ[7][8]。
入門当初は体が固く、股割りの稽古の際に涙し、その時に言ったといわれる「目から汗が出た」は名言となり[3]、様々なドラマやお笑い番組で模倣された。なお相撲教習所への通所は特例で免除されており、その代わりに部屋で高砂からのマンツーマン指導を受けていた[9]。1966年(昭和41年)には扁桃腺の手術を受けたが翌日から稽古を再開し、このとき執拗な喉輪攻めを受けたために声帯を痛め、独特のかすれ声になった(医師からは、手術をすれば元の声に戻ると言われたが、長い期間リハビリを行わなければならないため、今の所手術は受けていない)。元々は美声で知られ、歌も上手かったという。幕内昇進後に高見山はハワイに帰省したが、現地の空港で声も耳も潰れた高見山を見たハワイの人々は愕然としたといい、そのこともあってハワイからは新弟子が期待できなかったという[10]
パン・アメリカン航空から送られた化粧廻しに掲げられた「Go for broke」(当たって砕けろ。元々はハワイ出身者も数多く在籍した第2次世界大戦時の米軍日系人部隊のスローガン)のとおり、ぶちかまして一気に前に出る破壊力抜群の取り口で知られた。「見る、立つ、出る。大丈夫ネ!」を口癖にするほど、立合いから相手をよく見て立つことを心がけた。これは師匠・高砂親方の方針も大きいと言われ、入門時から常に「ジェシー、プッシュ、プッシュ(組まずに押せ)」と指導していた。
元々力士としてではなく「外国人」として注目を浴びていた高見山は、幕下時代になると注目が薄れ「もう、そろそろつらくなって逃げ出すんじゃないか」とまで言われた[6]が、初土俵から3年後の1967年(昭和42年)3月場所で新十両に昇進し、初の外国出身外国籍の関取となる[11]。十両昇進時点で既に永住を決断していた[6]。当時の十両は層が薄かったため、神風正一や浅香山(元小結・若瀬川)、東富士は異口同音に「3、4場所、遅くても年内に幕内に昇進する」と予想[6]。十両昇進時に掲載された記事では、将来の三役、打倒・大鵬を果たすと期待され、当時より師匠の高砂から「今どきの日本人の若者と比べれば、彼のほうがずっと日本人的な考え方をしている」と評された[6]。その期待に違わず、翌1968年(昭和43年)の1月場所で新入幕を果たして史上初の外国出身外国籍の幕内力士となる。同年3月場所では4日目に佐田の山を立合いのぶちかましからの激しい突っ張りで突き出して佐田の山に引導を渡す金星[12]、9月場所でも柏戸から金星を挙げた。1969年(昭和44年)11月場所で小結に昇進。その後小結と平幕の往復が続く。1971年(昭和46年)に師匠・高砂親方が亡くなると「ボスが死んで意欲も失った」と廃業も考えた。しかし、師匠夫人ら周囲に励まされて現役続行を決意する。
1972年(昭和47年)7月場所では13勝2敗の好成績で史上初の外国出身力士による幕内最高優勝を遂げる。10日目には、1敗の高見山と3敗の貴ノ花の勝負があり、熱戦の末、高見山の圧力をしのいだ貴ノ花が、左四つからの上手投げに仕留めて1差となった。表彰式では当時の米国大統領リチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた[3][13]。翌場所には外国出身で初の関脇に昇進。大関貴ノ花との対決は弁慶と牛若丸のそれに譬えられ人気を博し、高見山も大関昇進が期待されたが果たせなかった。よく稽古をつけてくれた大関前の山の引退が出世を止めた一因といわれる。足腰の脆さゆえに投げられると弱かったが負傷は少なく、長い現役生活に繋がったと評されている。連続出場記録が怪我のために途絶えた1981年(昭和56年)9月場所では「親方からは記録より体が大事だと言われたが、ワシには体よりも記録の方が大事だった」という言葉を残している。
なお、1975年5月1日の日刊スポーツでは「高見山がプロレスに転向する」という内容の記事が掲載されこれが一騒動に発展した。当時30歳を超え、引退の可能性がある人気力士であり、ハワイの有力プロモーターと契約していた事実が報じられたばかりか「ホノルルに高見山レスリングジムを開設」と詳細が語られたため反響が大きくなってしまった。これに対して高見山は一貫してプロレスラー転向を否定し続け、引退後の2008年5月21日には同じく日刊スポーツの紙上で「私はプロレスに行くつもりはなかったですね。でも実はね、サインはしました。引退した後、もしプロレスに行くならマネジメントさせてほしいという契約。その人たちが、あんまりしつこかったから」と当時の騒動について弁明していた。
1983年11月場所12日目の大潮戦で負傷し途中休場、左ヒジの変形関節症と捻挫後遺症により、1984年1月場所8日目から途中休場して十両に陥落したが、1968年1月場所に新入幕して以来、16年間、97場所にもわたる幕内在位は、当時の大相撲最長記録[14][15]。また、のべ12個の金星を獲得し、一時は現役力士の最多記録だった[16]。金星のうち7個は輪島から獲得している。また、輪島とは19勝24敗(不戦勝1個を含む)とほぼ互角だった。
常々「40歳まで相撲をとりたい」「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と語っていたが、1984年(昭和59年)5月場所、40歳まであと1ヶ月のところで力尽き、引退を表明する。両国国技館で相撲をとる夢も果たせなかった。引退宣言は場所中に唐突に行われたため[17]、相撲ファン以外も驚かせマスコミで大きく取り上げられた。同場所千秋楽の最後の一番(玉龍戦)は黒星だったが、満員の観衆から大声援を受け、花道を引き揚げる際には花束も贈呈された。引退に際して「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と力強く語った。
引退後も協会に残ることを希望して現役中の1980年(昭和55年)に日本国籍を取得。日本名は渡辺大五郎(夫人の姓と四股名を合わせたもの)。引退後は年寄・東関を襲名。後に審判委員を務めた。
中国・韓国(朝鮮)など東アジア圏の出身者を除けば、外国出身者として当時最も上位で活躍した力士であり、後の各国出身力士、特にハワイ勢(すなわちポリネシア勢)の活躍の道を開いた。アメリカ人らしい陽気さと巨体を持つのと同時に、異境での辛い修行に耐え忍ぶ古来の日本人のような生き方も広く知られ、相撲ファン以外にも絶大な人気があった。独特の長いもみあげなど特徴ある容貌も人気で、テレビCMに出演するなど土俵の外でも活躍した。弟弟子になる小錦を自らスカウトし、自分の弟子である曙を横綱まで育てるなど、大相撲の国際化にも大きく貢献した。ハワイ出身の関取としては、この他に大喜を育てた。最近は、高見盛の師匠としても知られ、師弟2代で角界の人気者となった。東関部屋師匠としては「礼儀正しくきちんと挨拶できる力士」「相撲は攻撃相撲」「お客さんを大切にする」というモットーを掲げていた[18]。
2009年(平成21年)6月15日、日本相撲協会を定年退職した。かつての人気力士の定年とあって、テレビの情報番組などで大きく特集が組まれ、現役時代の映像も多く流された。同年5月場所限りで現役を引退した弟子の潮丸が、師匠の退職と同時に「東関大五郎」を襲名し、東関部屋を継承した。その際に「もう一度ハワイの力士を育てたい」と語った。
定年退職後も単発でテレビ出演を行っている。
2017年のインタビューでは、テレビで東関部屋の力士を応援する一方、スポーツジム通いも日課、とされている。本人はそのインタビューで「プールに入ったり、自転車こいだり。体重が130キロ台に減りました。ジムのサウナでよく話しかけられます。『テレビで名前出てたよ』って。今でも覚えてもらっているのは光栄なこと。相撲をしてきてよかったって思いますよ」とコメントしている[19]。
引退時点では他に戦前・戦中生まれの力士は一人も存在せず、高見山が戦前・戦中生まれの最後の力士だった。ただし、日本人(日本出身)だけに限れば牧本英輔が戦前・戦中生まれの最後の力士ということになる。
エピソード
- 入門当初から師匠の高砂親方(前田山)をボスと呼んでいた。前田山の死後は高砂を継いだ兄弟子の朝潮(3代目)をボスと呼んだ。
- 入門して間もない頃、高砂親方が元横綱男女ノ川を部屋に案内した際、男女ノ川は脳卒中で不自由な体ながら高見山に対して「頑張れよ」と激励したが、高見山は双葉山より前の横綱に声かけられて緊張したと語っている[9]。
- 1977年9月場所9日目には、支度部屋で「明日は横綱(北の湖)戦ですね」と記者に聞かれると高見山「明日は蹴手繰りね」とふざけてみせ、北の湖も負けじと「じゃあ、オレも蹴手繰りでもやろうかなあ」と冗談を飛ばす。翌日高見山は本当に蹴手繰りにいってしまった(勝負は北の湖が掬い投げで制した)。
- 高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)が、昭和天皇より「髙見山がなぜ辞めたのかね」「髙見山は残念だったろうな」との下問を受けた。そのことを後に森が髙見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという[20]。
- NHK大相撲中継では英語での解説も務める(衛星第2テレビ放送)。
- 角界では珍しくギャンブルが大嫌いであり、現役時代も一切ギャンブルに手を出さなかった。パチンコを起因とする債務で引退した弟子の高見藤の会見の際に「私の大嫌いなギャンブルにのめり込んだ」と発言した。高見山はアメリカ国籍時代に市民権を持つ米国と住民票のある日本の分の税金を二重払いしていた経験を持ち、このことから金に関する厳しさを学んだ。[21]だが1967年3月場所前に行われたインタビューでは「趣味は?」と記者に聞かれ「パチンコ。とても面白いネ。最近覚えた。よく行くヨ」と答えている[6]。1972年頃には麻雀もやっていたが、これがギャンブルの方であるのか健康麻雀の方であるのかは不明[5]。
- 塩を撒くとき、申し訳程度の量しか撒かなかったため、当時のその様子を表わす川柳として「高見山 塩の値段を 知っており」というものが残っている[22]。
- 長男の渡辺弓太郎は、小学校時代に力士の道を断念。中学卒業後単身渡米し、スポーツ・エージェントの道へ進んだ。2003年(平成15年)、松井秀喜の入団に合わせるかのように米メジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースに入り、ヤンキースタジアム運営部職員として活躍。サンケイスポーツ紙は2007年1月、弓太郎が阪神タイガースからポスティングシステムにより入団した井川慶の通訳を務めると報じた。
- 従兄弟に元中日ドラゴンズ投手のフレッド・クハウルアがいる。
- 十両時代に好きであった芸能人は勝新太郎。その頃に「どんなタイプの女性が好きか?」と聞かれた際には、園まりと吉永小百合が好きと答え、逆にブリジット・バルドーやエリザベス・テイラーは嫌いであった[6]。
- プロレスラーの藤波辰爾とは現役時代から親交があり、新日本プロレスの会場にもよく観戦に訪れていた。
- 横綱・大鵬と対戦した経験のある最後の現役力士だった。ただし、大鵬とは11回対戦したものの1度も勝てなかった。
- 引退時、小学館の学習雑誌は急遽・読みきり漫画の「日本一の人気力士・高見山」を掲載した(後に、単行本化された)。引退の翌年(1985年)には、引退までの半生を描いたテレビドラマ「どすこい!大五郎 髙見山物語」(フジテレビ)が放送され、髙見山(正確には東関)も自身の役で出演(主演)している。髙見山夫人は丘みつ子が演じた。
- 1972年、『変身忍者 嵐』(毎日放送)32話「妖怪三十一面相!!」に、力士姿でゲスト出演した。
- 1972年7月場所3日目に行われた高砂部屋同僚座談会では、4代高砂の方針により関取は東京場所でも地方場所でも関取用の大部屋で寝起きするということが明かされた。東京場所では独身者に限って専用の大部屋で過ごすようであり、その座談会で富士櫻は「東京へ帰ったら、俺とジェシー、30畳のところで二人きりだものね」と寂しがっていた[5]。
- 1972年7月場所で初優勝した際、当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンから祝電が発せられたことは有名だが、髙見山によると「当時はアメリカ大統領選挙の年でね、祝電は(共和党候補の)ニクソン大統領だけでなく、民主党候補だったジョージ・マクガヴァンからも発せられていたんですよ」と語り、自身の快挙がアメリカ大統領選挙の熾烈な争いの渦中でもあったことを明かしている[23]。
- 後に横綱となる愛弟子、曙をスカウトしたのは、故郷ハワイでの『髙見山の新弟子探し』のテレビ番組の企画に乗っかる形で、地元の後援者から紹介されたものだったという[23]。
- 「若い頃は山手線に乗って時間を潰し、寂しさを紛らわせた」というエピソードが知られているが、これは事実ではない。本人によれば、当時は両国駅から(山手線が通る)秋葉原駅までの行き方も知らなかったという[24][3]。
- 現役時代の1976年5月に母のリリアンを53歳で亡くしている。髙見山にとって、この時が最も悲しかったと語っている。立場上高砂親方(元横綱・朝潮)夫妻にだけは母の死をすぐに打ち明けたが、本場所が始まる直前だったことから周囲への影響を避けたいと場所が終わるまでは口外しないように頼んでいた。この時葬儀に出席できない心境を「ハワイでは親が死んだ時や悲しんでいる時に子は故郷に帰りそばにいてやるもの、でも今そんなことはできない。日本の『つらい悲しい時でも故郷を思い精進する気持ち』を大切にする。」と言っていた。母の供養を果たすべく臨んだ5月場所では小結として15日間相撲を取り続け、勝ち越して終えている(毎日新聞の記事より)。
- 定年退職の際に「一番の思い出は曙が横綱になったことかな。師匠としては最高の瞬間だったし、今でも誇りに思う」と語った。
- 2009年に開かれた定年を祝う会では、麻生太郎首相(当時)とバラク・オバマ大統領(当時。ハワイ出身)から祝電が届いた。[25]
- 髙見山の定年退職を受け、アメリカ合衆国下院は2009年6月15日に彼の日本相撲界への貢献と日米親善に尽くした功績を称え、本会議で異例の感謝決議を行った[26][27]。
- 2009年10月に第57回菊池寛賞の受賞が発表された。スポーツ関係者の受賞は2001年のイチロー以来。大相撲関係者の受賞は史上初。また同年12月にはスポーツ功労者に選ばれた。
- SF小説『銀河英雄伝説』に登場するフョードル・パトリチェフのモデルである。
- 利き腕は左だが(現役時代は左四つ。最近の例では、高見盛引退相撲での止め鋏を左手で入れていた)、塩は右手で撒いていた。
- 2012年4月28日に行われた「高砂一門ファン感謝イベント」では、立派な白髭をたくわえてトークショーに出演。以後、高見盛引退関連で白髭姿が広く知られるように。
- 2013年12月19日、両国国技館で地元の幼稚園児ら約700人が招待された相撲協会主催の「クリスマスお楽しみ会」でサンタクロース役を務め、子供たちにプレゼントを手渡した。八角広報部長(元横綱北勝海)は「みんながボランティアでやってくれた。サンタは、高見山さんしかいないでしょう。来年以降も続けていきたい」とコメントした。[28]
初の外国人関取として
髙見山は初めての外国人関取、それも一般日本人とは異なる人種の力士として注目された。そのため、外国人差別を受けた、との見方がなされたこともある。例えば「相撲は国技だから外国人を受け入れるべきではない」との評論がたびたびマスコミに顔を出し、彼自身もそのような手紙などを受け取ったことがある。また「親方株取得は日本国籍を有する者に限る」との制約がなされたのは、彼を閉め出そうとするものであったという見識もあった[29]。ただし彼自身はこれを一切認めず、多少はそのような反感めいたものがあったことは認めながらも、それらを例外的なものとし、「外人差別は一切感じなかった」と述べている。
主な成績
- 通算成績:812勝842敗22休(通算勝星:歴代12位、通算敗北:歴代3位) 勝率.491
- 幕内成績:683勝750敗22休(幕内勝星:歴代10位、幕内敗北:歴代2位) 勝率.477
- 現役在位:122場所
- 幕内在位:97場所(歴代3位。現在1位は大関・魁皇、関脇・旭天鵬にも抜かれた)
- 三役在位:27場所 (関脇8場所、小結19場所)
- 通算連続出場:1425回(歴代4位)
- 通算出場:1654回(歴代4位)
- 幕内連続出場:1231回(歴代1位)
- 幕内通算出場:1430回(歴代3位。現在1位は旭天鵬)
- 横綱対戦人数:11人(歴代1位)
- 三賞:11回
- 殊勲賞:6回(1972年7月場所・11月場所、1974年3月場所・7月場所、1976年1月場所、1977年9月場所)
- 敢闘賞:5回(1968年1月場所・9月場所、1974年7月場所、1981年3月場所・7月場所)
- 金星:12個(歴代2位。佐田の山1個、柏戸1個、北の富士1個、琴櫻1個、輪島7個、北の湖1個、安芸乃島に抜かれた)
- 幕内最高優勝:1回(1972年7月場所)
- 各段優勝
- 序二段優勝:1回(1964年7月場所)
- 序ノ口優勝:1回(1964年5月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1964年 (昭和39年) |
x | (前相撲) | 西序ノ口11枚目 優勝 6–1 |
東序二段71枚目 優勝 7–0 |
西三段目22枚目 5–2 |
西幕下92枚目 5–2 |
1965年 (昭和40年) |
西幕下66枚目 2–5 |
西幕下84枚目 6–1 |
西幕下44枚目 3–4 |
東幕下48枚目 5–2 |
西幕下30枚目 5–2 |
東幕下14枚目 3–4 |
1966年 (昭和41年) |
東幕下17枚目 1–6 |
東幕下41枚目 3–4 |
西幕下46枚目 5–2 |
西幕下29枚目 5–2 |
東幕下16枚目 5–2 |
西幕下9枚目 5–2 |
1967年 (昭和42年) |
西幕下2枚目 5–2 |
東十両18枚目 10–5 |
東十両13枚目 10–5 |
東十両6枚目 9–6 |
東十両2枚目 8–7 |
東十両筆頭 10–5 |
1968年 (昭和43年) |
東前頭9枚目 9–6 敢 |
東前頭4枚目 5–10 ★ |
東前頭6枚目 8–7 |
西前頭2枚目 7–8 |
西前頭3枚目 8–7 敢★ |
西前頭筆頭 4–11 |
1969年 (昭和44年) |
西前頭6枚目 6–9 |
西前頭8枚目 9–6 |
西前頭3枚目 7–8 |
西前頭3枚目 6–9 |
東前頭5枚目 9–6 |
西小結 8–7 |
1970年 (昭和45年) |
西小結 8–7 |
東小結 4–11 |
西前頭5枚目 11–4 |
東小結 5–10 |
西前頭3枚目 6–9 |
東前頭5枚目 8–7 |
1971年 (昭和46年) |
西小結 4–11 |
東前頭3枚目 6–9 |
西前頭3枚目 9–6 |
西小結 8–7 |
東小結 8–7 |
東小結 8–7 |
1972年 (昭和47年) |
東張出小結 6–9 |
東前頭3枚目 6–9 |
東前頭7枚目 8–7 |
西前頭4枚目 13–2 殊 |
西張出関脇 5–10 |
西前頭筆頭 9–6 殊★ |
1973年 (昭和48年) |
西関脇 8–7 |
西関脇 4–11 |
西前頭4枚目 8–7 |
西小結 3–12 |
西前頭4枚目 9–6 |
東前頭筆頭 5–10 |
1974年 (昭和49年) |
西前頭4枚目 8–7 |
西前頭筆頭 10–5 殊★★ |
西関脇 8–7 |
西関脇 11–4 殊敢 |
東関脇 6–9 |
東前頭筆頭 7–8 ★ |
1975年 (昭和50年) |
東前頭2枚目 6–9 ★ |
東前頭5枚目 8–7 |
東前頭3枚目 10–5 |
西小結 5–10 |
西前頭4枚目 11–4 ★ |
東小結 8–7 |
1976年 (昭和51年) |
東小結 9–6 殊 |
東関脇 7–8 |
西張出小結 8–7 |
東小結 5–10 |
東前頭4枚目 8–7 ★ |
東前頭筆頭 8–7 |
1977年 (昭和52年) |
東張出小結 5–10 |
東前頭3枚目 6–9 ★ |
東前頭7枚目 9–6 |
西前頭2枚目 9–6 |
東小結 9–6 殊 |
東張出関脇 3–12 |
1978年 (昭和53年) |
東前頭6枚目 9–6 |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭3枚目 6–9 ★ |
西前頭6枚目 10–5 |
東前頭筆頭 5–10 ★ |
東前頭6枚目 9–6 |
1979年 (昭和54年) |
西小結 2–13 |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭5枚目 8–7 |
東前頭筆頭 3–12 |
西前頭10枚目 10–5 |
西前頭2枚目 3–12 |
1980年 (昭和55年) |
西前頭11枚目 8–7 |
西前頭6枚目 8–7 |
東前頭3枚目 6–9 |
西前頭4枚目 7–8 |
西前頭5枚目 7–8 |
東前頭6枚目 6–9 |
1981年 (昭和56年) |
東前頭11枚目 8–7 |
東前頭7枚目 9–6 敢 |
東前頭3枚目 6–9 |
西前頭7枚目 10–5 敢 |
東前頭筆頭 0–2–13[30] |
東前頭11枚目 9–6 |
1982年 (昭和57年) |
東前頭5枚目 8–7 |
東前頭2枚目 5–10 |
東前頭8枚目 10–5 |
東前頭筆頭 8–7 |
東小結 5–10 |
東前頭4枚目 4–11 |
1983年 (昭和58年) |
東前頭9枚目 9–6 |
東前頭2枚目 4–11 |
西前頭7枚目 8–7 |
東前頭2枚目 5–10 |
西前頭7枚目 6–9 |
東前頭11枚目 8–5–2[31] |
1984年 (昭和59年) |
東前頭8枚目 1–7–7[32] |
西十両3枚目 4–11 |
西十両12枚目 引退 2–13–0 |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
メディア活動歴
テレビCM出演
その人気振りから、朝潮(師匠と弟弟子、どちらの朝潮かは不明)からCM横綱と呼ばれるほど、多数のCMに出演した。
- 大同薬品工業 栄養ドリンク 「ハイクロンA」
- 松下電器産業 携帯型テレビ「トランザム」のCM。スーツ姿で帽子を被りタップダンスを踊りながら「トランザム!!」と叫ぶ。同時期の「第28回NHK紅白歌合戦」にて、紅組出場歌手恒例のアトラクションであったラインダンスにも同様の衣装で参加。スーツは退職を前に相撲博物館に寄贈した。ちなみにこのCMは、松下電器の体格の良い社員が小さな携帯テレビを持ってる姿をCM制作者が面白がり、そのまま映像にしたという。
- 丸八真綿 彼のしゃがれ声で発する「マルハッチ!」「二倍二倍!二枚二枚!」のキャッチフレーズは一躍ブームに。子供たちからタレントまで、彼の声マネは物真似のスタンダードになった。
- 1990年放送のテレビ朝日系「地球戦隊ファイブマン」30話ではこの二倍二倍!のセリフとポーズが敵である初代艦長シュバリエと銀河戦隊ギンガマンによって演じられたのみならず、四倍四倍!というパロディまでもが登場した。
- 定年を祝う会開宴前の記者会見で、「列席者が予想の倍になった。」とコメントした際、記者に促される形ではあったが、「ああ二倍ね。…二倍二倍になったネ。」と付け加えて場を和ませた。
- このCMの中には幼少時代の持田香織が出演しているものがある。
- 日本船舶振興会(現:日本財団)および日本防火協会 火の用心や敬老などを呼びかけるCM。バスドラムを叩きながら登場。チンパンジーや子供達、山本直純、当時の振興会会長である笹川良一(高見山後援会会長でもあった)と出演。同CMは夕方のゴールデンタイムに多く放映され、CMソングは各曜日ごとのバージョンが製作された。
- 永谷園 「お茶づけ海苔」「お好み焼きの素」「ミルクセーキの素」「わかめスープの素」のCMに出演。2000年代には弟子の高見盛が「お茶づけ海苔」のCMに出演して、師弟2代の快挙となっている。
- 富士通 ワープロ「オアシス」のCM。
- ダイエー
- 樋屋製薬 「樋屋奇応丸」
- 日本特殊陶業 「NGKスパークプラグ」
- チトセ 「くるぴたデスク」
- 中外製薬 「中外胃腸薬」
- P&G 「全温度チアー」
- 日清食品 「チルドシリーズ ソース焼そば・ラーメン」※現役引退後
- 生長の家 ※現役引退後
またTVではないが、部屋の大先輩・東富士の経営する消費者金融会社「ファイナンス・フジ」のCMにも出演していた。
テレビドラマ出演
- 変身忍者 嵐 第32話「妖怪三十一面相!!」(1972年、毎日放送 / 東映)
- TVオバケてれもんじゃ 第5話「高見山直伝! 強い女の子に勝つ方法」(1985年、フジテレビ / 東映)
レコード
- スーパー・ジェシー(1977年)
- ジェシー・ザ・スーパーマン(1979年)
著書
- 『わしの相撲人生』虫明亜呂無訳 朝日イブニングニュース社 1979
- 『大相撲を100倍愛して!!』グリーンアロー・ブックス 1983
- 『高見山大五郎物語 辛抱と努力』吉森みき男まんが 小学館入門百科シリーズ 1983
- 『あたってくだけろ! 高見山の泣き笑い土俵人生』スコラ 1984
関連書籍
- 平林猛『にっぽん人高見山大五郎』講談社 1981
- 渡辺加寿江『ジェシーふり向かないで 夫・高見山大五郎とともに』主婦と生活社 1984
- 北出清五郎『人生負けても勝っても 高見山大五郎物語』小学館 1984
脚注
- ↑ 番付上では、高見山の「高」は「髙」(はしご高)である。ちなみに高見盛の「高」ははしご高ではない。なお高砂の「高」ははしご高(“髙砂”が本当)である。
- ↑ 高見山大五郎著、虫明亜呂無翻訳『わしの相撲人生』(朝日イブニングニュース社)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p26-28
- ↑ 現在であれば勝負結果の踏み出しになるが、当時は勝負結果として採用されていなかった。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p60-63
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p84-87
- ↑ ベトナム戦争の徴兵はハワイ州兵の検査より体重の上限が厳しかった。
- ↑ 現役引退後に「なぜあそこまで頑張れたか?」とアメリカのテレビ局に問いかけられた際「僕は土俵に上がっていなかったら、ベトナムで戦死してたと思う。戦場の恐ろしさに比べたら、生きている事は天国だった。」とコメントしていた。
- ↑ 9.0 9.1 ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』133ページ
- ↑ 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p48-53
- ↑ 外国籍の力士としては、日系アメリカ人2世の豊錦喜一郎が初めて十両になっている。
- ↑ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p41
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p42-43
- ↑ 高見17年ぶり十両陥落へ 休場届 読売新聞 1984年1月16日朝刊 18ページ
- ↑ 魁皇が2009年(平成21年)11月場所に幕内在位98場所を達成して第1位、髙見山は第2位となった。
- ↑ 現在は安芸乃島の16個に次いで、栃乃洋とともに2位タイ。
- ↑ 現在では、場所途中に引退表明をした力士がその後も土俵に上がることは許されていない。
- ↑ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p32
- ↑ (土俵 時を超えて)50年、ジェシーの足跡 大相撲 朝日新聞DIGITAL 2017年3月11日05時00分
- ↑ 岩見隆夫 『陛下の御質問 - 昭和天皇と戦後政治』 文藝春秋、2005年、124頁。ISBN 978-4-16-767940-8。
- ↑ 日刊スポーツ 2008年05月28日
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年5月号92ページ
- ↑ 23.0 23.1 髙見山(現東関親方) 史上初の外国人力士が明かす数々の秘話 スポーツ報知 2009年4月28日閲覧
- ↑ 「東関親方45年 上 角界「開国」の先達」 日本経済新聞2009年6月10日33面。
- ↑ 「大相撲:都内で東関親方の定年を祝う会 オバマ大統領や首相からも祝電」 毎日新聞 2009年6月7日 東京朝刊。
- ↑ 「高見山」の貢献称賛 米下院が決議採択 産経新聞 2009年6月16日閲覧
- ↑ 『相撲』2014年2月号113頁には「宛名が高見山になっていた。僕はとっくに帰化して渡辺大五郎なのに。」と祝電に対して気付いたところを指摘しつつ「それにしても日本の郵政省はすごいな。何十年も前の名前なのに電報がちゃんと届く。」と感心していた様子が記述されている。
- ↑ 高見山サンタが園児とクリスマス nikkansports.com 2013年12月20日9時40分
- ↑ ホワイティング(1986)、p.124
- ↑ 左足首関節捻挫により2日目から途中休場
- ↑ 左肘関節部剥離骨折により13日目から途中休場
- ↑ 左肘関節捻挫後遺症により8日目から途中休場
参考文献
- ロバート・ホワイティング、『ガイジン力士物語 小錦と高見山』、(1989)、筑摩書房(単行本出版は1986、そのときのタイトルは『ジェシーとサリー』)
関連項目
外部リンク
- 高見山 大五郎 - 日本相撲協会