山本周五郎
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。
Contents
年譜
- 1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる[1]。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)[2]。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある。[3])[4]。本籍地は北巨摩郡大草村(韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている[5]。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[6]。
- 1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生する。大水害では甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受け、周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父の伊三郎、祖母の「さく」、叔父の粂次郎、叔母の「せき」を失っている[7]。大水害後、一家は北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。
- 1910年(明治43年)
- 7歳で東京府北豊島郡王寺町・豊島の豊島小学校に入学した。8月10日、荒川が氾濫し住居が浸水し大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌1911年(明治44年)学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校2年に転学した。父は繭の仲買を営んでいた。また、輸入用麻製真田紐の巻き取り、生糸の仲買、小口金融業、小料理店甲子屋の経営、三業組合書記などの職を転々とした[8]。
- 1911年(明治44年)
- 4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした[9]。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。
- 10月20日 - 脳溢血で母・とく死去。
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 東京虎ノ門に転居。
- 1930年(昭和5年)
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- 『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。当時の大衆雑誌『キング』は「1928年(昭和3年)」140万部と雑誌界の首位にあった[11]。
- 5月 - 「だだら団兵衛」執筆、それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵ものや冒険活劇を書いていた[12]。
- 1934年(昭和9年)
- 6月26日 - 中風で父・逸太郎死去。
- 1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった[13]。
- 博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった[14]。
- 1942年(昭和17年)39歳
- 『婦人倶楽部』に各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3回(「松の花」*「梅咲きぬ」*「箭竹」、全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、後の4回(すべて実在の人物で世にほどほどに知られている人物)は他の作家が担当した。『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣っている[15]。
- 1943年(昭和18年)40歳
- 第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[16][17][18]。周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]。
- 1945年(昭和20年)
- 5月4日 - 膵臓癌で妻・きよい死去(享年36)。
- 1946年(昭和21年)
- 1948年(昭和23年)
- 春 - 旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。
- 1959年(昭和34年)
- 『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
- 1961年(昭和36年)
- 文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
- 1967年(昭和42年)
ペンネームの由来
ペンネーム「山本周五郎」の由来として(他のペンネームとして、俵屋宗八[21]・俵屋宗七・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿・甲野信三を用いた)、自身の出世作となった『須磨寺附近』(『文藝春秋』1926年[昭和元年])を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した説がある[22]が、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも洒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。そのため、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。講談社には時代小説を書くと決めていたらしく、山本周五郎のペンネームだけを使った[23]。
作風
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた[24]。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
『婦人倶楽部』連載の「日本婦道記」で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった、直木賞を受賞辞退した裏には、一説に賞を主催する文藝春秋の菊池寛との不和が挙げられる。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったこと、が挙げられる[25]。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、審査員だった吉川英治の評(「書く物として『名婦伝』のごときは至難の業のほうである」)を許せなかった可能性もある。周五郎は9年掛けて「よじょう」(1952年)でついに恨みを晴らすのである[26]。功績を記念し、1988年より新潮社などにより山本周五郎賞[27]が発足した。
人物
- 趣味は、映画鑑賞、読書、酒を飲みに行くこと。
- 好きな作家は、ストリンドベリー、ハウプトマン、トルストイ、サローヤン。
- 好きな酒は、ワイン、ウイスキー。
- 好きな食べ物は、肉類(洋食系)、チーズ、蕎麦。
- 一日に60本ぐらい煙草を吸っていた。
- 周五郎は、文壇とは縁が薄い。交友関係も狭い。少数の友人、編集者と「濃い」人間関係を維持した作家である[28]。
- 担当した雑誌編集者は数多いが、その中では、博文館の雑誌『少年少女譚海』の編集者で後に名物編集長として知られた井口長次(『桃太郎侍』の山手樹一郎の本名)、朝日新聞社の担当記者だった木村久邇典などが知られる。特に木村は山本没後は生涯にわたり多くの評伝・作品研究を20冊あまり著し、『全集』(新潮社)、『全集未収録作品集』(実業之日本社)を編み、埋もれた作品を発掘、新潮文庫で再刊等を行った。
逸話
- 山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
- 尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
- 若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
- 山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
- ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。
- 代表作『樅ノ木は残った』執筆の前年まで睡眠薬のアドルムを常用していた。アドルムは坂口安吾も常用していて中毒になっている。夫人が心配すると「自分は大丈夫だ。自分の精神を自分で制御できる者は、薬の中毒やアルコール依存症にはならない。要するに、薬やアルコールに飲まれてしまうような、心の弱い者が中毒患者になるのだ」と答えた。
- 山本は人間の心理描写に卓越する反面、人嫌いで人付き合いを極端に制限し、仕事場への訪問客にもめったに面会せず、座談はうまいのに講演は断り、園遊会には出席せず、文学賞と名のつくものはことごとく辞退した。
- 山本の生活は規則正しく、51歳から晩年まで自宅から停車場3つ離れた仕事場で自炊していた。午前3時に起床、就寝は午後8時。朝食前に行水をし、後始末に雑巾がけをした。この作業に1時間半ほどかかった。午前10時まで仕事をし、散歩をして午前11時に昼食。ざるそばのつゆに生卵を入れた。午後4時まで仕事をし、夜は原稿をかかず、朝は3時に起きて朝食の準備をした。
- 日本酒より洋酒を好み、晩酌を欠かさなかった。夜はかなりの量を食べたが、ご飯はあまり食べず、「ふろあがりののんびりした体に、めしを詰め込んでげっぷをしながらでは、創造的精神ははたらかない」というのが持論であり、「この国の広大な平野から、でき得るだけでいい、稲田を追放しよう」と述べ、米を嫌っていた。編集者のひとりは「先生が亡くなられたら、お米がすごくうまいんです。もうストップをかける人がいないと思うと、つい食がすすみます」と本音を言ったという。
- 嵐山光三郎は「米は、たぐいまれなる栄養食であり、米を主食とする日本型食生活が日本人を世界最長寿にしたのであるけれど、このころは、それを言う人は少なかった。カロリーの高いものを食べすぎた結果、周五郎は63歳で死んだのである」と評している。
主な作品
小説
- 廣野の落日 (1920年)
- 日本婦道記 (1942年)- 「日本婦道記」を企画、命名したのは『婦人倶楽部』編集部。それが評判になって定着していった[29]。独立した作品を集めて単行本にしたもの。『日本婦道記』自体にも二種類ある。1943年(昭和18年)講談社(当時は大日本雄弁会講談社)版『小説 日本婦道記』と1958年(昭和33年)新潮文庫版『小説 日本婦道記』である。収録作品は同じでない。後者は周五郎自身が作品を選定したといわれている。今ではこれが底本とされている。竹添敦子は、女性を主人公にした周五郎の連作(シリーズもの)と捉えている[30]。底本とされている新潮社文庫(1956年10月)には、「松の花」「梅咲きぬ」「節竹」「不断草」「藪の陰」「糸車」「尾花川」「桃の井戸」「墨丸」「萱笠」「風鈴」の11編が収められている[31]。
- 柳橋物語 (1946年)
- 寝ぼけ署長 (1948年)
- 栄花物語 (1953年)
- 正雪記 (1953-54年、1956年)
- 樅ノ木は残った (1954-58年)
- 赤ひげ診療譚 (1958年)
- 天地静大 (1959年)
- 五瓣の椿 (1959年)
- 青べか物語 (1960年)
- 季節のない街 (1962年)
- さぶ (1963年)
- 虚空遍歴 (1963年)
- ながい坂 (1966年)
全集
- 『山本周五郎全集』(全13巻、講談社、1963年 - 1964年)
- 『山本周五郎小説全集』(全33巻・別巻5、新潮社、1968年 - 1970年)
- 『山本周五郎全集未収録作品集』(全17巻、実業之日本社、1972年 - 1982年)
- 『山本周五郎全集』(全30巻、新潮社、1981年9月 - 1984年2月)
- 『山本周五郎長篇小説全集』(全26巻、新潮社、2013年6月 - 2015年2月)
- 『山本周五郎探偵小説全集』(全6巻・別巻1、作品社、2007年 - 2008年)、末国善己編
日記
- 『青ベか日記』(大和書房、1971年、内容は1928年8月12日~1929年9月20日の戦前期の日記、のち新潮文庫・光文社知恵の森文庫)
- 『山本周五郎 愛妻日記』(角川春樹事務所、2013年、内容は1930年1月14日~1941年12月7日の間)
- 『山本周五郎 戦中日記』(角川春樹事務所、2011年、内容は1941年12月8日~1945年2月4日の間、のちハルキ文庫)太平洋戦争中の全文を一挙収録[32]。
関連書籍
- 『山本周五郎』(上・下、アールズ出版) 木村久邇典
- 『わが山本周五郎』(文藝春秋、のち文春文庫) 土岐雄三
- 『わが師 山本周五郎』(第三文明社、のち集英社文庫) 早乙女貢
- 『山本周五郎最後の日』(マルジュ社、2009年) 大河原英与(文藝春秋の編集者)
- 『周五郎伝 虚空巡礼』(白水社、2013年) 齋藤愼爾
- 『泣き言はいわない』(新潮文庫、改版2009年)
- 『周五郎流 激情が人を変える』(NHK生活人新書、2003年)高橋敏夫
- 『山本周五郎のことば』(新潮新書、2003年)清原康正編
- 『山本周五郎で生きる悦びを知る』(PHP新書、2016年)福田和也
- 『また明日会いましょう 生きぬいていく言葉』(河出書房新社、2018年)
- 『文藝別冊 山本周五郎 背筋を伸ばす反骨の文士』(河出書房新社、2018年)
関連作品
映画
- 青空浪士(1937年、監督:押本七之輔)
- 恋愛剣法(1938年、監督:寺門静吉)
- 腰本吉弥組(1938年、監督:菅沼完二)
- 喧嘩主従(1938年、監督:益田晴夫)
- 粗忽評判記(1939年、監督:小坂哲人)
- 暁雲武蔵ケ原(1941年、監督:佐伯幸三)
- 修道院の花嫁(1946年、監督:田口哲)
- 江戸は青空(1958年、監督:西山正輝)
- 町奉行日記 鉄火牡丹(1959年、監督:三隅研次)
- 暴れん坊兄弟(1960年、監督:沢島忠)
- 椿三十郎(1962年、監督:黒澤明) - 『日日平安』が原作。
- ちいさこべ 第一部(1962年、監督:田坂具隆)
- ちいさこべ 第二部(1962年、監督:田坂具隆)
- 青べか物語(1962年、監督:川島雄三、脚本:新藤兼人) - 舞台の時代設定を戦前から高度経済成長期の直前に変更している。
- 青葉城の鬼(1962年、監督:三隅研次)
- 道場破り(1964年、監督:内川清一郎)
- 続・道場破り 問答無用(1964年、監督:菊池靖、松野宏軌)
- 無頼無法の徒 さぶ(1964年、監督:野村孝) - 『さぶ』が原作。
- 五瓣の椿(1964年、監督:野村芳太郎)
- 赤ひげ(1965年、監督:黒澤明) - 『赤ひげ診療譚』が原作。
- 冷飯とおさんとちゃん(1965年、監督:田坂具隆) - 『ひやめし物語』、『おさん』、『ちゃん』が原作。
- なみだ川(1967年、監督:三隅研次) - 『おたふく物語』が原作。
- 斬る(1968年、監督:岡本喜八)
- どですかでん(1970年、監督:黒澤明) - 『季節のない街』が原作。
- いのちぼうにふろう(1971年、監督:小林正樹) - 『深川安楽亭』が原作。
- 初笑いびっくり武士道(1972年、監督:野村芳太郎) - 『ひとごろし』が原作。
- ひとごろし(1976年、監督:大洲斉)
- 雨あがる(2000年、監督:小泉堯史)
- どら平太(2000年、監督:市川崑) - 『町奉行日記』が原作。
- かあちゃん(2001年、監督:市川崑)
- 海は見ていた(2002年、監督:熊井啓)
- SABU 〜さぶ〜(2002年、監督:三池崇史) - 同年のテレビドラマの再編集劇場公開版。
- 椿三十郎(2007年、監督:森田芳光) - 『日々平安』が原作。1962年のリメイク。
テレビドラマ
- ながい坂(1968年、関西テレビ)
- 樅ノ木は残った(1970年、NHK大河ドラマ、脚本:茂木草介)
- 赤ひげ(1972年、NHK、脚本:倉本聰ほか、主演:小林桂樹) - 『赤ひげ診療譚』が原作。
- ぶらり信兵衛 道場破り(1973年 - 1974年、フジテレビ、パイロット版の脚本:倉本聰) - 『人情裏長屋』が原作。
- 夫婦旅日記 さらば浪人(1976年、フジテレビ) - 『雨あがる』が原作。
- 着ながし奉行(1981年、フジテレビ) - 『町奉行日記』が原作。
- 栄花物語(1983年、フジテレビ)
- 町奉行日記(1992年、フジテレビ)
- その木戸を通って(1993年、フジテレビ) - 監督・市川崑 初のハイビジョン作品。2008年公開。
- 大江戸風雲伝(1994年、NHK) - 『栄花物語』が原作。
- 柳橋慕情(2000年、NHK) - 『柳橋物語』、『ちゃん』、『嘘アつかねえ』、『人情裏長屋』、『一両千両』が原作。
- 五瓣の椿(2002年、NHKドラマ、脚本:中島丈博)
- SABU 〜さぶ〜(2002年、名古屋テレビ、監督:三池崇史) - 『さぶ』が原作。
- 初蕾(2003年、TBS、脚本:宮川一郎) - 生誕百周年記念番組。
- 子連れ信兵衛(2015年、NHK BSプレミアム) - 『人情裏長屋』が原作。
- 山本周五郎人情時代劇(2016年、BSジャパン)
- 山本周五郎時代劇 武士の魂(2017年、BSジャパン)
ほか多数
舞台
- こんち午の日/季節のない街/ ながい坂/さぶ / 柳橋物語 / 梅咲きぬ/つゆのひぬま/夜の辛夷/赤ひげ / わたくしです物語/青べか物語//かあちゃん/地蔵/ひとごろし/裏の木戸は開いている/おたふく物語 ほか(前進座)
- 夢ごころ (名鉄・東宝提携特別公演 / 名鉄ホール)
- 川霧の橋 (1990年 / 宝塚歌劇団月組) - 『柳橋物語』『ひとでなし』が原案
- 小さな花がひらいた(1971年・1981年・1982年・1991年・1992年・2011年 / 宝塚歌劇団花組・星組) - 『ちいさこべ』が原案
- いのちある限り(1978年 / 宝塚歌劇団雪組)- 『野分』『釣忍』が原案
- 落葉のしらべ (1972年 / 宝塚歌劇団雪組) - 『落葉のとなり』が原案
- 白い朝 (1974年・1997年 - 1998年 / 宝塚歌劇団月組・花組) - 『さぶ』が原案
- 沈丁花の細道 (1984年 / 宝塚歌劇団月組)- 『半之助祝言』が原案
- TRUTH (1999年・2005年 / 演劇集団キャラメルボックス)- 『失蝶記』(日日平安収録)が原案
- 五瓣の椿 (2005年6月4日 - 6月28日 / 明治座)
- まつさをな (2007年 / 演劇集団キャラメルボックス)- 『みずぐるま』(おさん収録)が原案
- 赤ひげ (2008年1月 / 劇団俳優座)
- おたふく / ゆうれい貸屋 (演劇倶楽部『座』)
- さぶ(劇団俳小)
- おたふく物語(2016年9月公演 明治座 主演:藤山直美)
オペラ
- 松とお秋(2004年、「周五郎の世界」東京文化会館小ホール 2006年、NPOみんなのオペラ/江東文化センター 2010年12月4日、大中恩作品の会/津田ホール / 脚色:岡村喬生、作曲:大中恩) - 『嘘アつかねえ』『ほたる放生』(「日日平安」収録)が原案
漫画
脚注
- ↑ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
- ↑ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
- ↑ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』、同編集部編、新人物往来社、2012年、p.298
- ↑ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
- ↑ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.8
- ↑ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』、同編集部、新人物往来社 2012年、p.298
- ↑ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
- ↑ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』同編集部編、新人物往来社、2012年、p.299
- ↑ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』同編集部編、新人物往来社、2012年、p.299
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 99ページ
- ↑ 『キング』は、「天皇制ナショナリズム、それも、モダニズムと立身出世・修養主義を加味した新しいナショナリズムを思想的主柱とし(中略)批判力に乏しい民衆を意のままにファシズムに動員した先導者、ファシズムへの地ならしをした極めて保守的なジャーナリズム」との評価もある(竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 101ページ)
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 99ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 103ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 102ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 108ページ
- ↑ 1940年(昭和3年)上半期の第11回芥川賞を高木卓が辞退して、世上騒然たる物議を醸し出している。両文学賞史上、受賞辞退はこの二名だけである。(齋藤愼爾『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 294ページ)
- ↑ 「直木三十五賞『辞退のこと』」が『文藝春秋』(昭和18年9月号)に掲載された。その前文は、「こんど直木賞に擬せられたそうで甚だ光栄でありますが、自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰いました。この賞の目的にはなにも知りませんけれども、もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、そういう気がします。新しいとだけでは漠然としすぎますが、とにかくいまの清新なものがほしいという感じは誰にもあると思う。局外者がこんなことを云うのはおせっかいに類するけれども、新人と新風とを紹介する点にこの種の賞の意味があるので、もちろん在来もそうであったとは思いますが、今後もなおそういうものが選ばれてゆくことを希望したいと思います」である。(齋藤愼爾『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 280ページ)
- ↑ 某評論家は、周五郎が辞退した理由を、当時の周五郎の「主要な作品発表の舞台は、おおむね博文館系の雑誌だったために、博文館への義理立てとでも云った心情から、文藝春秋の文学賞を遠慮したのではないか。そういう律儀な性格がとらしめた、一見、佶屈たる行動」と述べているらしい(木村久爾典『山本周五郎-馬込時代』(福武書店)の第12章「直木賞を蹴る」による)(齋藤愼爾『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 296ページ)。
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 103ページ
- ↑ 回想記『夫 山本周五郎』(清水きん、福武文庫、1988年)がある。
- ↑ 最初期からのペンネームである。山本周五郎に次ぐ位置づけである。このペンネームによる随筆等もある(竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 161ページ)
- ↑ 例えば、池内紀『作家のへその緒』(新潮社 2011年、p.205)は「問われるたびに山本周五郎はそんなふうに答えた」と書いている。
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 100ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 99-100ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 151-152ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 152-153ページ
- ↑ 付録-山本周五郎賞受賞作
- ↑ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 102ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 53ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 1ページ ISBN 978-4-88164-634-2 c3095
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 14ページ
- ↑ 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 92ページ
参考文献
- 竹添敦子『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 ISBN 978-4-88164-634-2
- 齋藤愼爾『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 ISBN 978-4-560-08270-6
- 図録『曲軒・山本周五郎の世界』山梨県立文学館、1998年10月-12月
関連項目
- 神戸文学館
- 黒澤明 - 映画監督。作品の愛読者であり、『日日平安』、『赤ひげ診療譚』、『季節のない街』、『雨あがる』、『なんの花か薫る』、『つゆのひぬま』の6作品が映画化された。
- 山本周五郎賞 - 1988年に発足
外部リンク