七将

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七将(しちしょう)は、豊臣秀吉子飼いの猛将7人を指す。一般的には、

以上7人のことであるが、資料によっては蜂須賀家政阿波徳島城主)、藤堂高虎(伊予宇和島城主)も加わる。

なお、後述する「石田三成襲撃事件」の前後処理にあたって、徳川家康の書状に記されているのは加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎の七名である。

石田三成襲撃事件

七将の三成邸襲撃

秀吉の死後、豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立が表面化する。五大老の一人前田利家は二派の調停に努めたが、1599年慶長4年)閏3月3日に死去してしまい、以後両派の関係を仲裁するものがいなくなったため、さらに両派の確執が増した。

朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成派に恨みを抱いていた武断派は、大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。しかし三成は豊臣秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れた。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られていたとする指摘もある[1]

三成の伏見逃亡

七将は屋敷に三成がいないと分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、佐竹邸にも加藤軍が迫った。そこで三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に、自身の屋敷がある事を活かして立て篭もった。 このとき三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだという逸話が、多くの史書や論書において記載されているが[2]、同時代資料の『慶長見聞書』や『板坂卜斎覚書』には見られない。この逸話の初見は、元禄末年から宝永初年頃に大道寺友山が記した『岩渕夜話』である[2]。ただし友山は享保年間に記した『落穂集』において、伏見の三成の屋敷に戻ったと記している[2]参謀本部編纂の『日本戦史 関原役』では「(佐竹義宣が)三成を擁し伏見に還り家康に投ず」と記述されている[2]。この記述は「三成は(佐竹義宣に伴われて)伏見の家康の保護下におかれた」とも解釈できる文章であり、徳富蘇峰は『関原役』においてこの記述を踏襲し、「(佐竹義宣が)家康に託した」と記している[2]。。一方で、七将に対し家康が出した書状に「此方ぇ被罷越候」という記述があることから、家康邸に三成がやってきたのは史実だという主張もある。笠谷和比古はこれに対し、「此方ぇ被罷越候」は七将らの行動を指すものだとしている[2]

家康の調停と三成の失脚

翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否した。家康はその代わり三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定の見直しする事を約束し、次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせた。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られることになり、家康の評価も相対的に高まることになったと評価されている[3]

この約1年半後の1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは、七将は東軍の中核となって戦った。

なお、佐和山での別れ際に、三成は豊臣秀吉からの拝領品である、当時、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗を秀康に譲った。江戸時代、武士の間で「石田三成」の名を口にすることは憚られたが、秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したという。

脚注

  1. 水野伍貴「前田利家の死と石田三成襲撃事件」、『政治経済史学』557号、2013年
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―」、『日本研究』22集、2000年
  3. 宮本義己「徳川家康の人情と決断―三成"隠匿"の顚末とその意義―」、『大日光』70号、2000年

関連項目