工藤公康
工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県豊明市出身の元プロ野球選手(投手)。福岡ソフトバンクホークス第20代監督(現職)。
現役時代は14度の優勝、11度の日本一を経験[1]。西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた[2][3]。日本シリーズ通算最多奪三振記録を保持する[4]。
2012年 - 2014年の3年間、野球解説者・野球評論家として活動し、2015年からは福岡ソフトバンクホークスの監督(第20代)として指揮を執っている[5][6]。
長男に俳優の工藤阿須加、長女にプロゴルファーの工藤遥加がいる[7][8]。
経歴
プロ入り前
名古屋電気高校(現・愛知工業大学名電高校)時代は山本幸二とバッテリーを組み、1981年の第63回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4-0)。チームをベスト4に導いた。
同年のドラフト会議では、熊谷組への就職を発表しプロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武ライオンズが6位で強行指名した。その後、説得に応じ入団となった(当時のマスコミには、「6位指名ながら、1歳上で1位指名の伊東勤より高額の契約金・年俸」と推定されていた)。
入団時の経緯については、管理部長の根本陸夫が主導してドラフト指名し、入団にこぎつけたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつであると長年伝えられていたが、ドラフト会議時の根本は工藤の指名について反対の立場で、指名を強く進言したのは当時西武監督に就任したばかりの広岡達朗だった[9]。
西武時代
入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から“坊や”とかわいがられ、中継ぎで起用された[10]。同年は27試合の登板で1勝1敗、防御率3.41の好成績を残した。広岡からは厳しい指導を受け大きな影響を受けた[11][12]。この年のパ・リーグプレーオフに登板し、第2戦では勝利投手になっている。なお、前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。
1983年は中継ぎメインでの起用だったが2試合に先発した。入団3年目の1984年はわずか9試合の登板に終わった。広岡に命じられアメリカの1A・サンノゼ・ビーズへ留学しメジャーリーグの野球を見たことが転機となり、帰国して宮田征典の指導を受け主力投手となった[13]。
1985年からは本格的に先発に転向した。この年は8勝3敗ながら、初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。
1986年はプロ初となる2桁勝利となる11勝を挙げた。また完投数も10を記録した。日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2Sを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。
1987年は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率とベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。
1988年は開幕戦は完封勝ちも、その後は打ち込まれる試合が続き、6月に二軍落ちした。一軍復帰後は調子を取り戻し、10勝10敗1セーブだったが、11完投を記録し、これで3年連続2桁完投を記録した。1989年は調子を落とし、4勝8敗2セーブの成績で終わり、中継ぎで登板することもあった。最終的な登板数は33だった。
1990年は故障離脱があり、9勝を挙げたものの、1984年以来となる投球回数100未満でシーズンを終了した。1991年シーズンに自己最高の16勝を上げ復調し、最高勝率を獲得。1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
1993年のシーズンは15勝3敗、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。
1994年も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことからFA権を行使。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍した。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。
ダイエー時代
1995年、移籍後の初登板は古巣西武との開幕戦の先発で、この試合は大乱打戦で工藤も4回を投げ8失点だったが試合はダイエーが勝利したため負けは免れた。シーズンでは6月に1ヶ月ほど故障離脱はあったものの、チームトップの12勝を挙げたが、チームは不振で自身初のBクラスを味わった。
1996年は2年連続の開幕投手を務め29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げ、初の最多奪三振のタイトルを獲得。一方、リーグ最多の15敗を喫した。
1997年は2年ぶり2桁勝利となる11勝を挙げたが一軍定着後初となる完投0でシーズンを終えた。
1998年は2年ぶりに開幕投手を務めたが故障離脱があり、7勝に留まった。しかし、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位(しかし前年の成績はオリックスが上だった為開幕権はオリックスになった)に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。
1999年は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封したこの試合で自身の日本シリーズ通算奪三振数を86に伸ばし、稲尾和久が持っていた記録(84)を塗り替えた。[14]中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーは4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。オフにFA宣言し、一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが[15]、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が決定。4年契約を辞退し、単年契約を結んだ[16]。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。
2008年に『週刊ベースボール』のインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。 結果的に日本を選んだのは、相談した野茂英雄に「迷っているなら、それは日本に残りたいということ。一度でも迷ったら海は渡らないほうがいい」と助言を受けたからだという[17]。
移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った[18]。
巨人時代
移籍1年目の2000年は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年2001年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わった。
2002年は9勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献する。日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、8回2失点8奪三振の好投。チームはそのまま勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばした。2003年は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23の成績で終わった。
2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でプロ入り初本塁打を記録、41歳、プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。ただ、打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率4点台ながらも4年ぶりの2桁勝利を挙げた。
2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録(当時)を更新。2005年8月26日の対阪神戦では最年長2桁勝利記録(当時)を更新した。2017年現在では、最年長200勝を含め、いずれも山本昌が記録を更新している。この年の工藤は11勝を挙げたが、規定投球回には到達できなかった。
2006年はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかし、6月 - 7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩痛も発症し、登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志、山口鉄也、木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。
横浜時代
2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明した。1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。
マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー・青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。
2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。しかし開幕当初は不安定な投球が目立ち3連敗で自ら二軍行きを志願し調整、5月11日の対広島戦の9回に9年ぶりのリリーフ登板で一軍復帰。5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。
同じ年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[19]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。開幕当初は打ち込まれ二軍落ちも経験したが、再昇格以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。
2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム対湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。
2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎の若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。
西武時代(第2次)
2009年11月14日、工藤が「家族会議の結果、西武にお世話になる事に決めた」と明言、16年ぶりに古巣に復帰することになった。デビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用。帆足は「(背番号47は)元々、工藤さんの番号」と返還の意向を見せたが、工藤本人が「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞[20]。11月16日、背番号は「55」と発表された[21]。
2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実動年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの一発を浴び、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団[22]。
西武退団後・引退表明
西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した[23]。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという[24]。
7月、秋にメジャーリーグのトライアウトを受験するつもりである旨表明した[25]が、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。
2011年11月22日のスポーツ報知の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた[26]。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNAに新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった[27]。工藤はこの時鹿取義隆と達川光男の入閣を要求したが、高田繁GMにより却下されている[28]。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した[29]。工藤の引退後は、中日の山本昌が日本プロ野球で最年長の選手となった(満50歳の2015年のシーズンで引退)。1988年限りで球団売却された阪急ブレーブス・南海ホークスから勝利した経験のある最後の現役選手でもあった。
2012年4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立った[30]。工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている[31]。
引退後
2012年からは、日刊スポーツ評論家や文化放送『ライオンズナイター』の解説者として活動[32]。テレビ朝日の『報道ステーション』にも、日本ハムの監督に就任した栗山英樹の後任扱いで、プロ野球担当キャスターとして定期的に出演している[33]。
また、2011年まで栗山が務めていた朝日放送の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道』『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当する[34]。
2013年7月19日、自身のブログで筑波大学大学院に合格したことを発表[35]。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久・吉井理人とともに入学した[36]。
福岡ソフトバンクホークス監督時代
2014年11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治球団会長同席の下に就任記者会見を行った[5][37][6]。投手出身のホークスの監督は杉浦忠以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王がダイエー/ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが[38]、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった[5][37]。交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定[39][40]。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ[41]。福岡移転後最速でマジック38が点灯し[42]、9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた[43]。9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める[44]。クライマックスシリーズファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった[45]。 10月29日の日本シリーズ第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテが締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした[46][47][48]。
2016年は最大11,5差を逆転されて2位に終わった。野手総合巡回コーチに関川浩一を起用したが、試合中の作戦面やブルペンとの連携、また選手の昇降格などで試行錯誤を繰り返した[49]。関川は一年で解任された。 2017年は参謀役に達川光男をヘッドコーチに招聘し、森浩之を作戦兼バッテリーコーチを抜擢しベンチを強化した[50]。2位西武に13.5ゲーム差をつけてのリーグ優勝。 CSは楽天に4勝2敗、日本シリーズはDeNAに4勝2敗で日本一になった。
選手として
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 3球団で優勝と日本一を経験し、「優勝請負人」と呼ばれた[2][3]。日本プロ野球界におけるジャーニーマンの代表的な選手の一人。
現役時代、健康と肉体管理を徹底し[51]、特に栄養値の高い食事をしたり青汁を飲んだりするなど体調管理には気を遣っていたことで有名だが[12]、そうなったのは結婚してからで、それ以前は毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた[52]。それが蓄積され1988年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、1989年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し4勝8敗・防御率4.96という散々な成績で、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、妻が「夫をもう一度野球を出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった[53][54]。
1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを選択、篠塚を外角へのスライダーでセンターフライに打ち取り胴上げ投手となっている。これについて、工藤を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ、「あの涙は、本当に美しかった」と語っている。
ダイエーでは投手陣の柱として活躍すると共に、武田一浩と共に、城島健司を日本を代表する捕手に育てあげた。特にリード面に関しては、試合中にベンチ前でリードの意図について城島に問い詰める場面が度々見られたり、打たれるとわかっていても敢えて城島のサイン通りに投げて打たれ、何故打たれたのかをマウンド上で言って聞かせるなど徹底したものであった。これについて工藤は「試合の中が一番いいんです。試合が終わった後であの球はああだったこうだったと言っても、もう遅いんですよ。」と語っており、こうした体当たりの指導で城島を育てていった。城島自身も、試合後に工藤の宿泊しているホテルの部屋まで出向き、その日の配球について教えを請うなど貪欲な向上心を見せ、そうした甲斐あり城島は正捕手に定着、1999年シーズン開幕時には、工藤は城島に対して「今年一年お前の出すサインには首を振らないから、自信を持ってサインを出せ」と述べていた。ただし、9月11日の近鉄戦、ノーヒットノーランがかかった8回2死、快挙まであと4人という場面で、打者の鈴木貴久に3ボール1ストライクとなり、城島がマウンドに来て「歩かせましょう。次のバッターで勝負しましょう。ノーヒットノーラン、チャレンジしましょうよ」と言った際には、「おれはノーヒットノーランをするために、マウンドに上がってるんじゃない。勝つために上がっているんだ。今日の試合、これで勝てるんだから。いいから、座ってろ」と拒否、続く5球目を左翼スタンドに運ばれホームランとなったものの、結局、このソロ本塁打の1安打だけで勝利した。これについては、工藤本人が快挙達成よりも、勝利を望んでいたためで、四球で走者を出すことを嫌い、勝負を選んだ。「打たれた瞬間、城島はガックリしていたよ。おれは別に何も思わずに投げていた。とにかく勝つことで、ダイエーを勝てるチームにしたいとずっと思っていた」と振り返っている[55]。その年チームは球団初のリーグ優勝・日本一に輝き、日本一決定後のマウンド付近で工藤は泣きじゃくる城島と抱擁した。工藤・城島のバッテリーはシーズン終了後に最優秀バッテリー賞を受賞。
巨人移籍1年目の2000年7月14日の対ヤクルト戦では、6回まで無四球被安打1で投げ終え、唯一ピンチを迎えた7回1死ランナー1,2塁ではペタジーニ・古田敦也に対し、打席内でのわずかな目線の動きと素振りの軌道、前の打席までの結果から内角狙いと見抜き、外角低めのストレート3球勝負に出て3球三振に獲った。当時の監督であった長嶋茂雄はこのピッチングに感動し、次の試合もあるのでとこの回での交代を希望した工藤に「工藤、次の試合はいいから、この試合だけ最後まで投げてくれ。これだけのピッチングを見せられて、こんなところで俺は代えられない。ファンの方々に申し訳ない。」と目を爛々とさせて工藤を説得、意気に感じた工藤は9回を投げ切り1-0で完封勝利を挙げ、長嶋からは「2000年ペナントレースのベストゲーム」と称された。
プロ入り後はノーヒットノーランを達成することはなかった。惜しくも逃した試合として1986年7月13日、1999年9月11日のいずれも近鉄戦で前者は9回1死まで後者は8回までノーヒットノーランに抑えながら、2試合とも鈴木貴久に安打を打たれた。
人物
1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。そのため、先輩等に酷評されることもあったが、1986年の新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博、渡辺久信と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった[56][57]。また渡辺とは翌1987年ので春季キャンプの頃、テレビ朝日『ニュースステーション』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。
読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えていた。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となった。工藤は2006年に同タイトルの書籍を講談社から刊行している。横浜移籍後は横浜球団ウェブサイトにデータ・権利が引き継がれていた。
子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。
人間関係
巨人移籍後に、ダイエー時代の同僚であり公私共に親交の深かった藤井将雄が亡くなったが、シーズン中にもかかわらずスーツ姿で葬儀に参列。ダイエーのユニフォームを着た選手と共に棺を担いだ。当時藤井の本当の病状については関係者でもごく一部にしか知らされておらず、工藤は後に「本当の病状を知っていたらFA移籍はなかったかも知れない」と語っている。
横浜時代のチームメイトだった加藤康介は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている[58]。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘ぶりを讃える発言をしている。
出身校
詳細情報
年度別投手成績
1982 | 西武 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 122 | 28.2 | 22 | 0 | 21 | 2 | 1 | 29 | 1 | 0 | 11 | 11 | 3.41 | 1.50 |
1983 | 23 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 138 | 33.1 | 30 | 6 | 13 | 0 | 0 | 24 | 0 | 0 | 13 | 12 | 3.24 | 1.29 | |
1984 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 53 | 12.1 | 10 | 1 | 10 | 0 | 1 | 8 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2.92 | 1.62 | |
1985 | 34 | 14 | 8 | 0 | 1 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 554 | 137.0 | 84 | 13 | 73 | 2 | 2 | 104 | 1 | 1 | 44 | 42 | 2.76 | 1.15 | |
1986 | 22 | 20 | 10 | 2 | 1 | 11 | 5 | 0 | -- | .688 | 586 | 145.1 | 111 | 22 | 56 | 3 | 1 | 138 | 1 | 0 | 53 | 52 | 3.22 | 1.15 | |
1987 | 27 | 26 | 23 | 2 | 2 | 15 | 4 | 0 | -- | .789 | 899 | 223.2 | 181 | 18 | 64 | 4 | 2 | 175 | 2 | 0 | 65 | 60 | 2.41 | 1.10 | |
1988 | 24 | 20 | 11 | 2 | 0 | 10 | 10 | 1 | -- | .500 | 694 | 159.0 | 164 | 18 | 70 | 6 | 1 | 94 | 4 | 0 | 77 | 67 | 3.79 | 1.47 | |
1989 | 33 | 17 | 4 | 0 | 0 | 4 | 8 | 2 | -- | .333 | 540 | 118.0 | 126 | 12 | 76 | 4 | 2 | 94 | 9 | 0 | 70 | 65 | 4.96 | 1.71 | |
1990 | 13 | 13 | 4 | 1 | 0 | 9 | 2 | 0 | -- | .818 | 359 | 85.2 | 58 | 11 | 46 | 1 | 2 | 89 | 4 | 0 | 33 | 32 | 3.36 | 1.21 | |
1991 | 25 | 23 | 10 | 4 | 1 | 16 | 3 | 0 | -- | .842 | 705 | 175.1 | 124 | 17 | 75 | 1 | 0 | 151 | 4 | 0 | 55 | 55 | 2.82 | 1.13 | |
1992 | 25 | 24 | 6 | 3 | 0 | 11 | 5 | 0 | -- | .688 | 645 | 150.2 | 140 | 17 | 69 | 3 | 3 | 133 | 4 | 0 | 60 | 59 | 3.52 | 1.39 | |
1993 | 24 | 23 | 4 | 0 | 0 | 15 | 3 | 0 | -- | .833 | 697 | 170.0 | 129 | 10 | 65 | 4 | 2 | 130 | 5 | 0 | 46 | 39 | 2.06 | 1.14 | |
1994 | 24 | 22 | 4 | 1 | 1 | 11 | 7 | 0 | -- | .611 | 554 | 130.2 | 120 | 12 | 44 | 0 | 3 | 124 | 2 | 1 | 54 | 50 | 3.44 | 1.26 | |
1995 | ダイエー | 22 | 22 | 6 | 1 | 1 | 12 | 5 | 0 | -- | .706 | 652 | 163.0 | 137 | 15 | 48 | 0 | 0 | 138 | 4 | 0 | 69 | 66 | 3.64 | 1.13 |
1996 | 29 | 29 | 9 | 1 | 0 | 8 | 15 | 0 | -- | .348 | 867 | 202.2 | 207 | 17 | 70 | 2 | 1 | 178 | 6 | 0 | 94 | 79 | 3.51 | 1.37 | |
1997 | 27 | 27 | 0 | 0 | 0 | 11 | 6 | 0 | -- | .647 | 670 | 161.1 | 153 | 14 | 48 | 2 | 3 | 146 | 2 | 0 | 61 | 60 | 3.35 | 1.25 | |
1998 | 15 | 14 | 1 | 0 | 1 | 7 | 4 | 0 | -- | .636 | 386 | 93.2 | 90 | 8 | 28 | 1 | 2 | 65 | 0 | 1 | 35 | 32 | 3.07 | 1.26 | |
1999 | 26 | 26 | 7 | 3 | 2 | 11 | 7 | 0 | -- | .611 | 754 | 196.1 | 143 | 12 | 34 | 1 | 1 | 196 | 6 | 1 | 56 | 52 | 2.38 | 0.90 | |
2000 | 巨人 | 21 | 21 | 1 | 1 | 1 | 12 | 5 | 0 | -- | .706 | 545 | 136.0 | 127 | 14 | 16 | 0 | 1 | 148 | 5 | 0 | 53 | 47 | 3.11 | 1.05 |
2001 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 103 | 21.1 | 35 | 3 | 7 | 1 | 0 | 8 | 2 | 0 | 21 | 20 | 8.44 | 1.97 | |
2002 | 24 | 24 | 1 | 1 | 0 | 9 | 8 | 0 | -- | .529 | 681 | 170.1 | 157 | 21 | 26 | 3 | 2 | 151 | 5 | 0 | 61 | 55 | 2.91 | 1.07 | |
2003 | 18 | 18 | 4 | 2 | 1 | 7 | 6 | 0 | -- | .538 | 483 | 117.0 | 117 | 15 | 22 | 2 | 3 | 115 | 1 | 0 | 56 | 55 | 4.23 | 1.19 | |
2004 | 23 | 23 | 2 | 0 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 596 | 138.2 | 160 | 27 | 33 | 1 | 1 | 128 | 3 | 0 | 78 | 72 | 4.67 | 1.39 | |
2005 | 24 | 24 | 1 | 0 | 0 | 11 | 9 | 0 | 0 | .550 | 595 | 136.0 | 159 | 26 | 44 | 3 | 1 | 130 | 4 | 0 | 73 | 71 | 4.70 | 1.49 | |
2006 | 13 | 13 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | .600 | 295 | 70.0 | 69 | 12 | 19 | 0 | 3 | 52 | 0 | 0 | 41 | 35 | 4.50 | 1.26 | |
2007 | 横浜 | 19 | 18 | 0 | 0 | 0 | 7 | 6 | 0 | 0 | .538 | 442 | 103.2 | 118 | 6 | 28 | 1 | 4 | 73 | 2 | 0 | 46 | 45 | 3.91 | 1.41 |
2008 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 70 | 13.2 | 21 | 3 | 5 | 0 | 1 | 7 | 2 | 0 | 13 | 8 | 5.27 | 1.90 | |
2009 | 46 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 10 | .400 | 172 | 37.1 | 53 | 11 | 14 | 1 | 0 | 24 | 2 | 1 | 30 | 27 | 6.51 | 1.79 | |
2010 | 西武 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 33 | 6.0 | 11 | 1 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 7 | 7 | 10.50 | 2.50 |
通算:29年 | 635 | 472 | 116 | 24 | 12 | 224 | 142 | 3 | 10 | .612 | 13890 | 3336.2 | 3056 | 362 | 1128 | 48 | 67 | 2859 | 81 | 5 | 1379 | 1279 | 3.45 | 1.25 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
タイトル
表彰
- MVP:2回 (1993年、1999年)
- 最優秀投手:1回 (2000年)
- ベストナイン:3回 (投手部門:1987年、1993年、2000年)
- ゴールデングラブ賞:3回 (投手部門:1994年、1995年、2000年) ※投手では史上唯一となるセ・パ両リーグでの受賞
- 月間MVP:1回 (投手部門:1991年4月)
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2002年5月)
- 日本シリーズMVP:2回 (1986年、1987年) ※2年連続受賞は長嶋茂雄、堀内恒夫に次いで史上3人目
- 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1991年、1999年)
- 最優秀バッテリー賞:2回 (1991年、捕手:伊東勤、1999年、捕手:城島健司)
- 正力松太郎賞:2回 (1987年、2015年) ※現役選手・監督での両受賞は王貞治、秋山幸二に次いで史上3人目
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1999年)
- パ・リーグ最優秀監督賞:1回 (2015年)
- 野球殿堂競技者表彰 (2016年)
- ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回 (2004年)
- 新語・流行語大賞 流行語部門金賞 (1986年、「新人類」、清原和博・渡辺久信と共同で受賞)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」 (2009年)
- ビッグスポーツ賞 スーパーベースボール賞 (2011年[59])
記録
- レギュラーシーズン
- 実働29年(歴代1位タイ)
- 年齢別最多勝(42歳で11勝、44歳で7勝)
- 40歳以降2桁奪三振試合数
- 23年連続勝利(歴代1位タイ)
- 日本シリーズ
- 出場回数:14(シリーズタイ記録)
- 通算奪三振:102(シリーズ記録)
- 1試合奪三振:13(1999年第1戦、シリーズ記録)
- イニング3者3球三振(1994年第2戦3回、シリーズ史上初)
- 両リーグ勝利投手(パ8勝、うち西武で7勝、ダイエーで1勝 セ1勝、うち巨人で1勝、史上3人目)
- 初記録
- 初登板:1982年4月10日、対阪急ブレーブス前期1回戦(西武ライオンズ球場)、6回表2死に2番手で救援登板、1/3回無失点
- 初奪三振:同上、6回表にウェイン・ケージから
- 初勝利:1982年8月31日、対日本ハムファイターズ後期9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表2死に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
- 初先発:1983年8月4日、対南海ホークス16回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を2失点
- 初先発勝利・初完投勝利:1985年7月9日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム)、9回2失点
- 初完封勝利:1986年6月18日、対南海ホークス11回戦(西武ライオンズ球場)
- 初セーブ:1988年6月5日、対阪急ブレーブス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初ホールド:2009年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 打撃成績
- 初安打・初打点:2000年4月11日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、6回表に藤川球児から左前適時打
- 初本塁打:2004年8月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、7回裏にジェイソン・ベバリンから右越決勝2ラン
- 節目の記録
- 1000投球回:1991年6月1日、対ロッテオリオンズ8回戦(宮城球場) ※史上241人目
- 1000奪三振:1992年8月6日、対近鉄バファローズ17回戦(藤井寺球場)、2回裏にアルビン・デービスから ※史上85人目
- 100勝:1993年9月4日、対福岡ダイエーホークス21回戦(西武ライオンズ)、9回1失点完投勝利 ※史上109人目
- 1500投球回:1994年7月17日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム) ※史上138人目
- 1500奪三振:1996年6月29日、対近鉄バファローズ14回戦(福岡ドーム)、5回表に水口栄二から ※史上39人目
- 2000投球回:1997年6月10日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(福井県営球場) ※史上75人目
- 150勝:1998年9月9日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(千葉マリンスタジアム)、先発登板で7回1/3を4失点(自責点3) ※史上43人目
- 2000奪三振:1999年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に藤井康雄から ※史上16人目
- 2500投球回:2000年8月17日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム) ※史上41人目
- 500試合登板:2004年4月21日、対横浜ベイスターズ2回戦(東京ドーム)、先発登板で4回1/3を7失点(自責点3) ※史上73人目
- 2500奪三振:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、5回裏にビリー・マーチンから ※史上8人目
- 200勝:2004年8月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、9回2失点完投勝利 ※史上23人目
- 3000投球回:2005年5月12日、対オリックス・バファローズ3回戦(東京ドーム) ※史上25人目
- 600試合登板:2009年7月9日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、8回裏1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点 ※史上34人目
- その他の記録
- 1イニング4奪三振:1996年8月2日、対千葉ロッテマリーンズ戦17回戦(福岡ドーム)、7回表 ※NPB史上3人目
- 最年長ホールド:46歳4ヶ月-2009年9月20日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、8回裏1死に3番手で救援登板、2/3回無失点
- オールスターゲーム出場:10回 (1986年、1987年、1991年、1993年、1995年、1997年、1999年、2000年、2004年、2005年)
背番号
現役時代
- 47 (1982年 - 1994年、1997年 - 2009年)
- 21 (1995年 - 1996年)
- 55 (2010年)
21をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47を背負い続けたことから、47は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている[60]。2010年は背番号を55にした。
プロ入り時に西武が最初に用意した背番号は17だった。ところが熊谷組の入社試験まで受けていたので、他のスカウトから絶対プロ入りはない、と考えられていた工藤が、「プロ入り拒否・熊谷組入社」から「西武入団」へと方向転換したため、西武との密約が噂されたが、これについては球団側・工藤側ともにそれを否定できなかったため、47に「降格」となった。
1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたためやむなく21をつけた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディが47を引き継いだため、移籍3年目の1997年に希望通り47が与えられた。21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えてもらった東尾修の現役時代と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。
21をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたといい、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁は13に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47を付けていた堤内健は36に変更した。
背番号47が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18を与えられた(47をつけていたのは左腕投手の山口鉄也)。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足は2009年オフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11としたが、2013年から背番号を47としている。
2009年11月16日に埼玉西武ライオンズの入団会見を行った際に、背番号55を選んだ理由として、ダイエー時代のチームメイトであり、現役中の2000年に31歳の若さで急逝した藤井将雄が生前に着用していた背番号15を意識し、「彼の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けていこう、と心に決めていた」と語った。また「子供たちから『イケイケゴーゴー』だと言われたし、自分の誕生日も5月5日なので」とも語った。
背番号の上の名前の英字表記はいずれも「KUDOH」であった。
監督時代
- 81 (2015年 - )
背番号の上の名前の英字表記は「KUDO」である。
年度別監督成績
- リーグ公式戦
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015 | ソフトバンク | 1位 | 143 | 90 | 49 | 4 | .647 | - | 141 | .267 | 3.16 | 52歳 |
2016 | 2位 | 143 | 83 | 54 | 6 | .606 | 2.5 | 114 | .261 | 3.09 | 53歳 | |
2017 | 1位 | 143 | 94 | 49 | 0 | .657 | - | 164 | .259 | 3.22 | 54歳 | |
通算:3年 | 429 | 267 | 152 | 10 | .637 | Aクラス3回、Bクラス0回 |
- 太字は日本一
- ポストシーズン
年 度 |
球 団 |
大 会 名 |
相 手 |
勝 敗 |
---|---|---|---|---|
2015 | ソフトバンク | パ・リーグクライマックスシリーズ ファイナルステージ |
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) | 4勝0敗=日本シリーズ進出 (※1) |
日本シリーズ | 東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ1位) | 4勝1敗=日本一 | ||
2016 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ |
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) | 2勝0敗=ファイナルステージ進出 | |
パ・リーグクライマックスシリーズ ファイナルステージ |
北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) | 2勝4敗=ファイナルステージ敗退 (※2) | ||
2017 | パ・リーグクライマックスシリーズ ファイナルステージ |
東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ3位) | 4勝2敗=日本シリーズ進出 (※1) | |
日本シリーズ | 横浜DeNAベイスターズ(セ・リーグ3位) | 4勝2敗=日本一 |
- 勝敗の太字は勝利したシリーズ
- ※1 リーグ優勝したチームに与えられるアドバンテージの1勝を含む。
- ※2 ディスアドバンテージの1敗を含む。
関連情報
著書
単著
- 『僕の野球塾:「考える力」こそ最強の武器』(講談社、2006年3月、ISBN 4062133555/講談社+α文庫、2011年5月、ISBN 9784062814263)
- 『現役力:自分を知ることからすべては始まる』(PHP研究所、2009年3月、ISBN 4569706827)
- 『47番の投球論(ベストセラーズ、2009年3月、ISBN 4584122210)
- 『限界を作らない生き方:2009年、46歳のシーズン』(幻冬舎、2010年1月、ISBN 4344950984)
- 『探究力。:人間「工藤公康」からのメッセージ』(創英社、2010年3月、ISBN 4881421913)
- 『工藤公康の10km/h速くなる投球術』(別冊宝島、2011年4月、ISBN 4796682163/決定版、2012年2月、ISBN 4796696601)
- 『折れない心を支える言葉』(幻冬舎、2012年1月、ISBN 9784344020801)
- 『野球の本当のこと、ぜんぶ話そう!』(宝島社、2012年7月、ISBN 9784796695893)
- 『野球のプレーに、「偶然」はない:テレビ中継・球場で観戦を楽しむ29の視点』(カンゼン、2013年4月、ISBN 9784862551771)
- 『「10年先の自分」をつくる』(KADOKAWA、2013年10月、ISBN 9784046000231)
共著
- (白澤卓二)『40歳から進化する心と体』(青春出版社(青春新書)、2013年3月、ISBN 9784413043908)
監修
- 『工藤公康のピッチングバイブル:DVDでマスター』(カンゼン、2012年6月、ISBN 9784862551306)
関連書籍
- 『ON対決初戦工藤公康86球にこめた戦い!:スコアラーの目から…』(吉見健明著、三省堂スポーツソフト、2000年10月、ISBN 4385602328)
- 『工藤公康「42歳で146km」の真実:食卓発の肉体改造』(黒井克行著、講談社+α新書、2006年1月、ISBN 4062723573)
- 『工藤公康 粗食は最強の体をつくる!:食事を変えれば、体が楽になる!強くなる!若くなる!』(幕内秀夫著、三笠書房、2006年4月、ISBN 4837921868)
- 『工藤公康プロフェッショナルの矜持』(黒井克行著、新潮社、2006年10月、ISBN 4104489042)
- 『強打者 工藤公康が語る、18.44メートル向こうのライバルたち』(飯尾哲司著、竹書房、2015年3月、ISBN 4801901468)
出演
テレビ出演
- ウゴウゴルーガ2号 (1993年、フジテレビ・息子と一緒に出演したことがある)
- 関口宏の東京フレンドパークII - (2000年、TBS・薬丸裕英と一緒に出演)
- ゆうどきネットワーク - 「あのときを忘れない」(2011年1月7日、NHK総合)
- 報道ステーション(2012年1月 - 2014年12月、テレビ朝日、スポーツキャスター)
- GET SPORTS(2012年2月 - 2015年1月、テレビ朝日、不定期コーナーで「工藤公康の野球のススメ」も担当)
- 速報!甲子園への道(2012年・2013年、朝日放送、第3代「熱闘!高校野球」ナビゲーター)
- 熱闘甲子園(2012年 - 2014年、毎年8月、朝日放送・テレビ朝日共同制作、第3代「熱闘!高校野球」ナビゲーター)
- スーパーベースボール(テレビ朝日制作分のほか、朝日放送制作分である「阪神対巨人」にも出演)
- スペシャルドラマ・ママが生きた証(2014年7月5日、本人役)[61]
ラジオ出演
その他
脚注
- ↑ 【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (1/2ページ)デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2015年10月26日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (1/2ページ)デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2017年1月27日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 “【5月23日】2007年(平19) 工藤公康、セ最年長記録「一番長くて忘れられない1勝」”. Sponichi Annex. 2016年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2017閲覧.
- ↑ 【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (2/2ページ)デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2015年10月26日閲覧。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 工藤新監督「恩返ししたい」 背番は81 日刊スポーツ 2014年11月1日閲覧
- ↑ 6.0 6.1 工藤公康氏の福岡ソフトバンクホークス監督就任について 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト 2014年11月1日付
- ↑ “5人きょうだい”工藤阿須加、ドラマでも大家族に意欲ORICON STYLE 2015年5月22日配信、2015年10月26日閲覧。
- ↑ 長女・遥加、父の鷹・工藤監督は「理想のアスリート」SANSPO.COM(サンスポ) 2015年9月18日配信、2015年10月26日閲覧。
- ↑ 広岡達朗『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』(幻冬舎 2016年3月) P33 - 34。ISBN 978-4344029163
- ↑ 【11月12日】1982年(昭57) 工藤公康“プロ初先発”はメロメロ 追試もボロボロ、
- ↑ 『ライオンズ60年史 獅子の記憶―「西鉄」から「埼玉西武」まで』 ベースボール・マガジン社、2010年、74-77頁。週刊現代、講談社 2009年11月14日、136頁、九州スポーツ、2009年10月28日3面、人の自立を促すのが真のリーダー 野球評論家 工藤公康、工藤新監督、鷹常勝軍団へ“広岡イズム”で指導 ... - ZAKZAK、【球界ここだけの話(254)】ソフトバンク・工藤監督が半袖を着られないワケ
- ↑ 12.0 12.1 ソフトバンク・工藤公康 V当確の裏にあった“広岡式管理野球
- ↑ <朝日新聞×マイナビ転職>Heroes File〜挑戦者たち〜 工藤公康さんvol.1、もりやまタイムス平成24年3月号
- ↑ “コメントで読む99年ダイエー日本一 痛めた脚でスーパージャンプの秋山は…”. 西日本スポーツ (2017年10月27日). . 2017閲覧.
- ↑ “工藤 巨人消した?”. 毎日インタラクティブ. 2001年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
- ↑ “工藤 引退覚悟契約”. 毎日インタラクティブ. 2001年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
- ↑ 野茂英雄の言葉
- ↑ SB工藤監督が初告白 ダイエー残留署名17万人に感謝の手紙
- ↑ プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二が対大映戦で打った48歳9か月。
- ↑ 工藤、西武入りへ!背番「47」は辞退 サンケイスポーツ 2009年11月14日閲覧
- ↑ 復帰喜ぶ工藤 サンケイスポーツ 2009年11月16日閲覧
- ↑ “西武・工藤に戦力外通告 最年長47歳、現役続行の意志”. 朝日新聞 (2010年9月27日). . 2011閲覧.
- ↑ “信念と現実のはざ間で。現役最年長・工藤公康の現在地”. スポーツタイムズ (2011年10月13日). 2013年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013閲覧.
- ↑ プロ野球最年長投手 工藤公康が初めて語った父との相克(週刊朝日 2011年12月09日号配信掲載) - @niftyニュース(Internet Archive)
- ↑ “今秋、米球界に挑戦=元西武の工藤氏―プロ野球”. 時事通信 (2011年7月24日). . 2011閲覧.
- ↑ “工藤、引退へ「投げるたび肩壊れる」プロ30年で区切り”. スポーツ報知 (2011年11月23日). . 2011閲覧.
- ↑ “横浜DeNAが工藤氏と監督交渉打ち切り”. デイリースポーツ (2011年12月5日). . 2011閲覧.
- ↑ 達川ヘッドコーチ有力 SB工藤監督と6年越しのタッグ実現
- ↑ “30年間ありがとうございました。”. 工藤公康公式サイト (2011年12月9日). 2012年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2015閲覧.(archive.is)
- ↑ ありがとう47番!工藤公康氏来場!!西武球団公式サイト
- ↑ 工藤公康氏 引退式 秋山、渡辺監督もひと役「この2球団は大事な球団」スポーツニッポン 2012年10月13日閲覧
- ↑ “工藤投手「引退します」 解説者に転身”. 日刊スポーツ (2011年12月9日). . 2011閲覧.
- ↑ “工藤公康氏「報ステ」に登板!栗山氏後任”. 日刊スポーツ (2012年1月13日). . 2012閲覧.
- ↑ “「熱闘甲子園」キャスターに工藤公康氏”. 日刊スポーツ (2012年6月22日). . 2012閲覧. ちなみに、歴代の「熱闘!高校野球ナビゲーター」のうち、高校時代に同大会で甲子園に出場した経験のある人物は工藤が初めてである。なお、本大会期間中は「熱闘甲子園」の取材ならびに番組収録が優先されるため、文化放送のプロ野球中継には出演しなかった。
- ↑ 工藤公康氏 50歳で筑波大大学院合格「スポーツ医学研究したい」 - スポーツニッポン 2013年7月19日
- ↑ 工藤、吉井、仁志の3氏 そろって筑波大大学院に入学:朝日新聞デジタル
- ↑ 37.0 37.1 工藤氏が新監督就任=「強いチームを継続したい」-プロ野球・ソフトバンク 時事通信 2014年11月1日閲覧
- ↑ 工藤新監督は背番号「89」王会長の“半永久欠番”を継承へ スポーツニッポン 2014年11月1日閲覧
- ↑ ホークス交流戦「1位」が決定! - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト、2015年6月17日
- ↑ ソフトバンクが最高勝率 日本生命セ・パ交流戦 - 西日本新聞、2015年6月16日
- ↑ 交流戦勝率1位はソフトB!賞金総額1500万円手に - スポニチアネックス
- ↑ 優勝マジック「38」が初点灯 福岡移転後では最速、福岡ソフトバンク
- ↑ ソフトバンクがCS進出 両リーグ一番乗り
- ↑ ソフトB ぶっちぎり連覇!1年目工藤監督、パ最速Vで歓喜 - スポニチアネックス、2015年9月17日
- ↑ ソフトB、4番内川3戦連続V打で日本S決めた!“下剋上”ロッテを撃破 - スポニチアネックス、2015年10月16日
- ↑ 平成28年野球殿堂入り発表 斎藤氏、工藤氏、榎本氏、松本氏、山中氏が殿堂入り 野球殿堂博物館ニュース 2016年1月18日付
- ↑ 『中日新聞』2016年1月19日朝刊27面「工藤、斎藤氏ら殿堂入り 山中、故榎本、故松本氏も」
- ↑ 野球殿堂入り 工藤公康氏や斎藤雅樹氏ら5人 NHKニュース 2016年1月18日閲覧
- ↑ 工藤体制新ポスト 達川氏ヘッドコーチ西日本スポーツ
- ↑ 東京中日スポーツ2017年9月17日5版
- ↑ プロ野球 名選手列伝 驚きの記録を残したツワモノたち。著者・吉野秀。2008年6月15日。19頁。
- ↑ 「あいつ終わったな」の恐怖 - 日経スタイル 2017年1月6日閲覧
- ↑ 2010年8月6日放送『情報ライブ ミヤネ屋』より
- ↑ 坂本雄次の訪問!スポーツ人 vol.1 工藤公康さん | 日本製粉
- ↑ “ノーヒッターの可能性蹴って勝利に徹した工藤監督”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2015年7月6日) . 2017閲覧.
- ↑ 【話の肖像画】男のプライド(中)プロ野球投手・工藤公康 - MSN産経ニュース
- ↑ みなぎるバイタリティー | 週刊ベースボールONLINE
- ↑ 加藤 完全復活の支えは工藤氏から学んだ心得 スポーツニッポン 2013年7月12日、同14日閲覧。
- ↑ “2011年 第46回テレビ朝日ビッグスポーツ賞 (PDF)”. . 2017閲覧.
- ↑ 日本プロ野球名球会所属の投手では、工藤に先立ち小山正明が1958年から引退した1973年まで47を付けていた。小山は右腕投手である。また、現役最終年は横浜の前身に当たる大洋ホエールズに所属したため、工藤と同じチームで背番号47をつけた「先輩」でもある。
- ↑ テレビドガッチ (2014年7月3日). “阿部サダヲ、スポーツの現場で突撃取材!?栗山英樹、安藤美姫、工藤公康が友情出演!『ママが生きた証』”. . 2014閲覧.
- ↑ “「クッキングパパ」作中に工藤公康が登場、次号モーニングに「ピアノの森」”. コミックナタリー (2015年7月30日). . 2015閲覧.
関連項目
外部リンク
- 81 工藤 公康 選手名鑑 - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト
- 野球殿堂 工藤公康 - 公益財団法人野球殿堂博物館
- 工藤公康オフィシャルサイト
テンプレート:福岡ソフトバンクホークス テンプレート:福岡ソフトバンクホークス歴代監督