関川浩一
関川 浩一(せきかわ こういち、1969年4月1日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(外野手・捕手、右投左打)。引退後はプロ野球の指導者をしている。
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経歴
プロ入り前
小学校時代は調布リトル、中学時代は同シニアに所属し、中学3年の夏には全日本選手権にて優勝を果たす。その後桐蔭学園高校に進学。入学早々の1年時の夏、後に慶應義塾大学のエースとして活躍した志村亮投手らと共に第66回全国高等学校野球選手権大会に出場。6番右翼手としてスタメン出場で活躍。その後は、強肩強打の捕手として活躍した。卒業後は駒澤大学に進学。東都大学リーグ通算50試合出場、161打数42安打、打率.261、3本塁打、13打点。捕手として大学リーグベストナインに2回輝く。また日米大学野球選手権大会にも出場した。
1990年度ドラフト会議で阪神タイガースから2位指名を受けて入団。
阪神時代
1993年に出場機会を増やし89試合に出場し、プロ初本塁打を放った。1994年は103試合に出場し、規定打席不足だったが打率.269と好成績を残したが、守備面ではであった。
1995年に初の規定打席到達を果たし、また外野手としての出場も増えた。
1997年オフに久慈照嘉と共に大豊泰昭・矢野輝弘との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
中日時代
広いナゴヤドームに適応できる野手として外野手専任となり、前年内野手として不本意なシーズンを送った立浪和義、投手として伸び悩んでいた井上一樹と共に外野守備コーチの二宮至の特訓を受けた。当時監督の星野仙一から重用され、移籍1年目からレギュラーとなり、1998年は125試合に出場し、3割は逃したが、3年ぶりに規定打席に到達し、打率.285の成績を残した。
1999年は自身最高の成績となる打率.330・4本塁打・60打点・20盗塁を記録し、リーグ優勝の牽引役を果たした。主に1番打者として出場した他、勝負強さを買われて3番で起用されることも多かった。しかし日本シリーズ第1戦、ダイエーの先発工藤公康に狙い球を待つ時の癖を見破られ、そこを徹底的に突かれたことにより、パニックに陥り思い切りバットを振れなくなってしまう[1]。結果、日本シリーズ第5戦まで19打席0安打と1安打も放てず、ダイエーに1勝4敗で敗れた。
2000年、さらに2001年と、出場試合数も、打率も下降し続けた。監督が山田久志に代わった2002年は福留孝介の外野手転向や英智の台頭もあり出番が減り、73試合の出場に留まった。打率.212と低迷した。2002年に当時テレビ東京アナウンサーの家森幸子と結婚。2003年は、107試合に出場し、規定打席に届かないものの3割を超えた。
2004年は新監督に落合博満が就任し、リーグ優勝を果たすものの自身は移籍後最少の12試合出場に留まり、プロ入り後初のノーヒットに終わった。外野陣は福留・アレックス・英智の3人で埋められており、出番が回ってくることはほとんどなかった。同年オフ、無償トレードで小山伸一郎と共に新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。
楽天時代
2005年3月26日、ロッテとの開幕戦(千葉)に1番左翼手で先発出場。新球団1人目の打者となった(初回表先頭打者として相手先発清水直行の初球を左飛)。4月6日の日本ハム戦で通算1000本安打を達成。同時にこの1000本目の安打は球団史上初の猛打賞、及び球団史上初の三塁打となった。
2006年9月5日、オリックス戦(仙台)に2番で先発出場し、1試合犠牲バント4個の日本プロ野球タイ記録(過去6人)を達成した。またこの年の後半戦から、監督の野村克也が「藤井彰人とカツノリが負傷した際に捕手を守らせる」という意向で、捕手守備の練習にも取り組んだが、実際に守備に就くことはなかった。故障の影響で81試合の出場に終わった。
2007年は若手選手の台頭や自身の不調もあり、出場機会が激減、9月24日に同年限りで現役引退を表明。引退試合の10月4日の対ロッテ23回戦で、1番中堅手としてフル出場し4打数1安打。現役最後の打席は代名詞となったヘッドスライディングを見せるも一塁ゴロ。相手投手は清水直行で、奇しくも楽天初の公式戦で先頭打者として対戦したのと同じ相手だった。試合後の引退セレモニーでは、監督に試合に出してもらえるよう頼んだところ、上記のように1番中堅手で起用されたことに感謝の意を述べ涙した。プロ17年間の思い出について、「(1999年に)星野監督を胴上げすることができたこと。あの年は星野監督の笑顔を見たくて一生懸命やっていた」と話している。この年の出場数は17試合だった。11月30日に、自由契約選手としてNPBから公示。
現役引退後
2007年秋季キャンプから楽天一軍打撃コーチ補佐に就任し、2009年10月26日に来季の契約を結ばない事を発表された[2]。
2010年は韓国プロ野球・SKワイバーンズの一軍打撃コーチを務め、同年の公式戦優勝、韓国シリーズ優勝に貢献した。韓国では、本人の意思で自宅から球場までMTBで通勤をしていた。
2011年には、楽天の監督に星野が就任したことを受けて、二軍外野守備・走塁コーチとして同球団に復帰。5月15日に一軍外野守備・走塁コーチへ異動したが、10月30日に退団が発表された[3]。
2012年からは、阪神の監督に就任した和田豊から招聘され[4]同球団の一軍外野守備・走塁コーチに就任[5]。8月17日の対東京ヤクルトスワローズ戦ではマット・マートンの守備でのミスを巡って試合後にマートンと衝突した[6]。2013年からは一軍打撃コーチとなった。
阪神の一軍打撃コーチ時代の公式戦では、NPBが定めたベンチ登録コーチ数の上限(最大7名)との兼ね合いから、ユニフォームを着用せず(登録コーチに数えられない)スコアラーとしてポロシャツ姿でベンチに入っていた。就任3年目の2015年に、チーム打率がセントラル・リーグ4位、総得点数・総安打数がリーグ5位と低迷[7]、同月15日に球団からコーチ契約の解除を通告された[8]。
2015年11月19日に、福岡ソフトバンクホークスの一軍野手総合巡回コーチに就任した[9]。デイリースポーツによると、このポストでは、基本として一軍で活動しながら、監督・工藤公康からの指名で二軍・三軍の野手に関する情報収集や指導も担当する[10]。就任会見で「工藤監督の手足となって動けるようにしたい。選手が一番いい状態でいられるよう手助けするのが役割」と抱負を述べた[11]。しかし試合中の作戦面や選手の昇降格などで試行錯誤を繰り返す事が多かった[12]。チームは三連覇を逃し、野手総合巡回コーチという役職は一年で廃止され、関川は2017年1月30日に作戦・戦略アドバイザーに配属された[13][14]。2018年からは三軍監督を務めることになった[15]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 阪神 | 10 | 30 | 28 | 3 | 8 | 2 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 11 | 0 | .286 | .333 | .357 | .690 |
1992 | 31 | 46 | 43 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1 | .116 | .174 | .140 | .313 | |
1993 | 89 | 262 | 233 | 22 | 65 | 4 | 1 | 1 | 74 | 19 | 2 | 5 | 2 | 0 | 26 | 1 | 1 | 61 | 3 | .279 | .354 | .318 | .671 | |
1994 | 103 | 320 | 283 | 27 | 76 | 8 | 1 | 2 | 92 | 27 | 2 | 4 | 9 | 2 | 26 | 2 | 0 | 37 | 5 | .269 | .328 | .325 | .653 | |
1995 | 124 | 471 | 417 | 62 | 123 | 17 | 5 | 2 | 156 | 30 | 12 | 8 | 7 | 2 | 44 | 1 | 1 | 74 | 2 | .295 | .362 | .374 | .736 | |
1996 | 113 | 382 | 344 | 32 | 108 | 21 | 2 | 2 | 139 | 28 | 5 | 6 | 2 | 4 | 32 | 7 | 0 | 60 | 2 | .314 | .368 | .404 | .772 | |
1997 | 95 | 285 | 245 | 28 | 75 | 12 | 2 | 5 | 106 | 26 | 3 | 4 | 2 | 2 | 34 | 8 | 2 | 39 | 4 | .306 | .392 | .433 | .825 | |
1998 | 中日 | 125 | 449 | 382 | 62 | 109 | 13 | 2 | 1 | 129 | 36 | 15 | 3 | 13 | 3 | 47 | 2 | 4 | 57 | 5 | .285 | .367 | .338 | .705 |
1999 | 135 | 591 | 522 | 74 | 172 | 28 | 6 | 4 | 224 | 60 | 20 | 11 | 11 | 8 | 48 | 2 | 2 | 73 | 6 | .330 | .383 | .429 | .812 | |
2000 | 127 | 485 | 419 | 50 | 109 | 19 | 2 | 3 | 141 | 29 | 8 | 6 | 13 | 4 | 46 | 2 | 3 | 72 | 3 | .260 | .335 | .337 | .671 | |
2001 | 65 | 212 | 180 | 20 | 40 | 4 | 0 | 1 | 47 | 8 | 3 | 3 | 7 | 0 | 24 | 2 | 1 | 34 | 0 | .222 | .317 | .261 | .578 | |
2002 | 73 | 137 | 118 | 13 | 25 | 7 | 1 | 0 | 34 | 13 | 4 | 2 | 9 | 2 | 8 | 1 | 0 | 24 | 1 | .212 | .258 | .288 | .546 | |
2003 | 107 | 282 | 247 | 35 | 78 | 11 | 1 | 2 | 97 | 23 | 3 | 4 | 4 | 2 | 28 | 1 | 1 | 39 | 2 | .316 | .385 | .393 | .778 | |
2004 | 12 | 11 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2005 | 楽天 | 101 | 294 | 258 | 30 | 74 | 16 | 2 | 0 | 94 | 12 | 7 | 6 | 6 | 2 | 26 | 0 | 2 | 53 | 1 | .287 | .354 | .364 | .719 |
2006 | 81 | 233 | 199 | 26 | 57 | 8 | 0 | 1 | 68 | 9 | 7 | 3 | 16 | 0 | 16 | 0 | 2 | 45 | 5 | .286 | .346 | .342 | .687 | |
2007 | 17 | 25 | 24 | 4 | 5 | 2 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | .208 | .240 | .292 | .532 | |
通算:17年 | 1408 | 4515 | 3953 | 490 | 1129 | 173 | 25 | 24 | 1424 | 324 | 91 | 65 | 101 | 31 | 410 | 29 | 20 | 702 | 36 | .286 | .353 | .360 | .713 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
捕手 | 外野 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 捕逸 | 守備率 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 試合数 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
1991 | 10 | 7 | 7 | 0 | .000 | ||||||||||||
1992 | 20 | 4 | 3 | 1 | .250 | ||||||||||||
1993 | 86 | 43 | 30 | 13 | .302 | ||||||||||||
1994 | 99 | 48 | 42 | 6 | .125 | ||||||||||||
1995 | 94 | 82 | 57 | 25 | .305 | ||||||||||||
1996 | 33 | 21 | 16 | 5 | .238 | ||||||||||||
1997 | 60 | 53 | 36 | 17 | .321 | ||||||||||||
1998 | - | 120 | 237 | 6 | 2 | 1 | .992 | ||||||||||
1999 | - | 135 | 252 | 5 | 3 | 1 | .988 | ||||||||||
2000 | - | 123 | 209 | 9 | 2 | 0 | .991 | ||||||||||
2001 | - | ||||||||||||||||
2002 | - | ||||||||||||||||
2003 | - | ||||||||||||||||
2004 | - | ||||||||||||||||
2005 | - | 95 | 162 | 3 | 3 | 1 | .982 | ||||||||||
2006 | - | 68 | 98 | 3 | 2 | 1 | .981 | ||||||||||
2007 | - | 5 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||||||
通算 | 402 | 258 | 191 | 67 | .260 |
表彰
- ベストナイン:1回 (1999年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (強肩賞:2000年9月)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1991年7月31日、対読売ジャイアンツ17回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回裏に香田勲男から左翼へ二塁打
- 初打点:1992年6月30日、対読売ジャイアンツ16回戦(東京ドーム)、4回表に斎藤雅樹から右前適時打
- 初本塁打:1993年5月11日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、5回表に木戸克彦の代打で出場、桑田真澄からソロ
- 初盗塁:1993年7月16日、対横浜ベイスターズ14回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に二盗(投手:佐々木主浩、捕手:谷繁元信)
- 節目の記録
- 1000試合出場:2001年6月29日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、4回裏に右翼手として出場 ※史上369人目
- 1000本安打:2005年4月5日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(福島県営あづま球場)、8回裏に鎌倉健から右中間へ三塁打 ※史上228人目
- その他の記録
- 1試合4犠打:2006年9月5日、対オリックス・バファローズ17回戦(フルキャストスタジアム宮城) ※史上7人目
- 捕手シーズン最高守備率:1.000(1993年)
- オールスターゲーム出場:2回(1995年、1999年)
背番号
- 21 (1991年 - 1996年)
- 22 (1997年)
- 23 (1998年 - 2007年)
- 81 (2008年 - 2009年)
- 88 (2010年、2018年 - )
- 75 (2011年)
- 78 (2012年 - 2014年)
- 77 (2015年)
- 72 (2016年)
脚注
- ↑ 報道ステーション 2012年10月26日放送「日本シリーズ必勝の鉄則“キーマンをつぶせ!”」より
- ↑ 来季のコーチ契約について楽天球団公式サイト2009年10月26日配信
- ↑ “来季のコーチ契約に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年10月30日). . 2011閲覧.
- ↑ 【緊急連載4】監督とコーチの仲たがいデイリースポーツ2015年10月1日
- ↑ “関川浩一氏のコーチ就任について”. 阪神タイガース (2011年10月31日). . 2011閲覧.
- ↑ 拙守のマートン 関川コーチに逆ギレ 登録抹消へ スポーツニッポン、2012年8月18日
- ↑ 2015年 セントラル・リーグNPB
- ↑ 来季のコーチ契約について阪神タイガース公式サイト2015年10月15日
- ↑ 新入団コーチのお知らせ福岡ソフトバンクホークス公式サイト2015年11月9日
- ↑ ソフトバンク三軍野手情デイリースポーツ2015年11月12日
- ↑ 関川コーチ、高村コーチが宮崎で入団会見球団公式サイト2015年11月12日
- ↑ 工藤体制新ポスト 達川氏ヘッドコーチ 西日本新聞、2016年10月17日
- ↑ コーチの退任について 球団公式サイト2016年10月28日
- ↑ “2017/01/30 プレスリリース 球団人事について”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年1月30日). . 2017閲覧.
- ↑ “2018年コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス公式サイト (2017年11月9日). . 2017-11-9閲覧.
関連項目
外部リンク
- 74 関川 浩一 選手名鑑 - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト
テンプレート:福岡ソフトバンクホークス テンプレート:セントラル・リーグ ベストナイン (外野手) テンプレート:阪神タイガース1990年ドラフト指名選手