堀内恒夫

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堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手投手)、監督政治家自由民主党所属の前参議院議員(1期)。

読売ジャイアンツV9時代のエースとして活躍。

経歴

プロ入りまで

山梨県甲府市出身。養蚕業(生糸工場経営者)の家に生まれる[1]。小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。しかし、そのことで手の形が変わったことが独特の大きなドロップカーブを生み出すことになった[2]

甲府市立南中学校1年生の時、部活はサッカー部に入っていた。下働きがないのが魅力というのが理由だった。その後野球部長の熱心な誘いもあって、2年生で野球部に転部、この時は「渋々」だったと言う[3]

甲府市立甲府商業高等学校では1年生次から中堅手、控え投手として活躍。1963年夏の甲子園県予選決勝では、3年生エース大石勝彦をリリーフして機山工を降す。しかし第45回記念大会は出場校が多く、会場に阪急西宮球場と甲子園を併用し、甲府商は西宮組に入ったために甲子園に行くことはなかった。これは『巨人の星』でもエピソードに使われている。大会では武雄高宮崎商を降し山梨県勢初の3回戦に進出するが、優勝した明星に0-11で完敗。堀内はリリーフで2試合に登板している。2年上のチームメートに雨宮捷年右翼手がいた[4]

1964年夏はエースとして西関東大会決勝に進出するが、熊谷商工に0-1で惜敗。同年秋季関東大会でも決勝に進むが、東農大二高樫出三郎らに抑えられ完封負け、春の選抜出場を逸する。1965年夏も西関東大会準決勝で熊谷商工に敗れ、甲子園出場はならなかった。

現役時代

1965年の第一回ドラフト会議で1位指名を受け読売ジャイアンツに入団。1年目の1966年キャンプ終盤、高橋一三に代わり一軍昇格し5月に一度二軍に落ちたもののすぐ復帰しそのまま一軍に定着。プロ初登板(初先発)の投球練習時は1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率最高勝率沢村賞新人王のタイトルを獲得し、チームの優勝に貢献した。

1966年、入団時の背番号は21だったが、1967年からは18になった。しかし1月のチームの自主トレ中に腰を痛めて、重症の椎間板ヘルニアを患ってしまう。この時は一軍と二軍の往復を繰り返し、ようやく7月末に復帰する。その後、調子を上げ、10月10日にノーヒットノーランを記録し、計12勝を挙げた。けれども腰痛は現役をやめるまで持病となり、堀内を悩ませることとなった[5]

1972年、シーズン開始から好調で初の開幕投手を務める。6月9日江夏豊との互いに通算99勝対決を制し、100勝を達成[6]する。本シーズンの巨人は王と長嶋を含めた打線陣が3割打者不在になるなどの不調で堀内以外の投手が勝てなくなっていたが、堀内が48登板34先発26完投、特に阪神戦では毎カード3戦中1先発1リリーフと奮闘し[7]、巨人のリーグ優勝・日本一に貢献。MVP、シリーズMVP、最多勝、沢村賞に輝いた[8]

27歳で150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ[9]V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。1972年に26勝を挙げ[10]、セ・リーグMVPに選出されている[11]。この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない[12]。V9を含め、巨人は1963年から1974年までセ・リーグMVPを独占したが、この間ON王貞治長嶋茂雄)以外で受賞したのは堀内が唯一である[13]

1980年に引退した王貞治は、ファン感謝デーの紅白戦で堀内を投手として最終打席に立っている。しかし、堀内は2球のドロップに渾身のストレートを投げ王を空振り三振に仕留めている。その後、王が入団時のポジションである投手に、打席に堀内が立って再び勝負をしたが、堀内は王の初球を引っ張り本塁打とした[14][15]

1975年はリーグ最多の18敗を喫しチームも最下位に終わった。1979年4月9日の対中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手となる。1980年6月2日の対ヤクルト戦で通算200勝を達成。巨人一筋で200勝を挙げたのは中尾碩志と堀内のみ[16]。しかし、1981年藤田元司が監督に就任すると、江川卓西本聖定岡正二の台頭により登板が急激に減り、日本シリーズでは登板機会がなく、1982年に投手コーチ兼任となる[17]

1983年現役引退を発表。引退試合(10月22日の対大洋戦)では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録。引退試合での現役最終打席は、「ホリさんまで打順を回そう」と野手陣が打ちまくったことにより実現した。引退試合後の1983年の日本シリーズは出場しなかった[18]

現役最後の本塁打を打たれた打者は、広島東洋カープ山本浩二。堀内は引退後に「僕は山本浩二さんに引導を渡されたんですよ。最後に山本浩二さんに打たれたホームランで僕は自分の力を感じて引退した」と語っている[19]

評論家・巨人コーチ時代

現役を引退した翌年の1984年から王貞治監督の下で巨人投手コーチ専任。1986年から1992年まで、日本テレビRFラジオ日本のプロ野球解説者やスポーツ報知野球評論家。1993年から1998年までは監督・長嶋茂雄の下で巨人の一軍投手コーチ、ヘッドコーチを歴任した。1999年から2003年まで、日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。また読売新聞スポーツアドバイザーとして[20]、野球教室のイベント等にも携わっていた[21]

2000年3月29日に、東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツシカゴ・カブスで、この試合を観戦に来た皇太子徳仁親王夫妻の横に座り、野球解説を行った[20]


巨人監督時代

2003年オフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期に全く予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八郎にちなんでつけたもの[11]。2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。コーチ陣はヘッドコーチに須藤豊、投手コーチに池谷公二郎、外野守備走塁コーチに弘田澄男、二軍から阿波野秀幸(投手)、淡口憲治(打撃)、上田和明(内野)、高田誠(バッテリー)が昇格、二軍監督は高橋一三(前二軍投手コーチ)が就任、堀内は「人間的に信頼でき、技術があり、動けるコーチを選んだ。ようやく堀内丸がスタートできる」と語った[22]

2004年度

大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ福岡ダイエーホークスから小久保裕紀パ・リーグ本塁打王経験者が2選手同時に加入。怪我のため前年出場ゼロの小久保は41本塁打、96打点と復活。ローズも45本塁打、99打点と猛打を発揮し、本塁打王とベストナインを獲得。一番から仁志敏久清水隆行、ローズ、高橋由伸、小久保、ペタジーニ阿部慎之助二岡智宏と続く「史上最強打線」はプロ野球記録のチーム259本塁打を記録した。しかし、投手陣の不調を補って前半戦こそ優勝を争ったものの6月の中日戦で同一カード3連敗を喫し、首位を奪われ失速。優勝した中日に8ゲーム差を離されて3位に終わる。須藤、池谷が辞任した。

2005年度

開幕に向けて「今年はうちと中日の一騎討ちになるだろう」と語った。前年度の反省から「守りの野球」をフロントに要請し、中堅手としてゲーブ・キャプラー、抑え投手としてメジャーリーグで活躍したダン・ミセリを補強した。また、ペタジーニと清原和博を構想外とし、清水を一塁手にコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番一塁清原で開幕を迎えることとなる。

しかし補強の目玉だったはずのミセリとキャプラーが大誤算で、ミセリは数試合で解雇となり、キャプラーは単打で一塁走者の生還を許すこともあるほどの守備力だった(この両選手は二軍に落とせない契約を交わしていた)。その後、中堅手のローズに対し、コーチの弘田澄男が『緩慢』と叱責したことでローズの怒りが爆発し首脳陣批判[23]。また、清原は夏場に打撃不振に加え持病の悪化から二軍落ちし、そのため肩を故障した捕手の阿部を一塁手に起用する、など、当初の構想から大幅に外れる戦いを強いられた。

シーズン終盤は高橋由・ローズ・清原などが離脱した反面、矢野謙次亀井義行など生え抜きの若手選手が活躍を見せる光明もあった。しかし、チーム防御率は2年連続で球団のワースト記録を更新した。チームはBクラスに低迷し、一部週刊誌は堀内の采配を批判する記事が後を絶たなかった。終盤はやや盛り返して5位となり、30年ぶりの最下位こそ免れたものの、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫した。本拠地最終戦の試合後にライトスタンドを中心に「お前が悪いぞホーリウチ!」というコールが起こり、予定されていた試合後のセレモニーが中止される前代未聞の事態となった[24]。この年をもって「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し辞任した。後任監督は前任者である原が再登板した。

巨人監督辞任後、2005年11月25日の巨人納会に出席。退団会見から約1ヶ月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。選手との確執なども頻繁にタブロイド等で報じられていたものの、辞任会見に際して仁志ら主力野手陣が胴上げできなかったことの無念さを口にしている。堀内やフロントに重用され、投手陣・野手陣のリーダー的選手となった小久保(翌年度FA権を行使してソフトバンクに復帰)と工藤(門倉健のFA人的補償として横浜に移籍)が「巨人でやり残したことは?」と質問を受けた時も同様のことを語っており、小久保は「堀内さん1人のせいにすることも出来ますけど、実際にプレーするのは僕らなんです」と擁護している。

工藤は2004年度、通算200勝達成を目前にして負けが続き(本人曰く「何試合か足踏みして意識してしまった」)、チームも下降線を辿っていたが、堀内は変えることなく工藤を先発で起用し続け、200勝を達成した。工藤は引退後「チームがあんな状況で若い子を試してもよかったのに僕を使っていただいて本当に救われました。今でも感謝してもしきれません」と語っている[25]

2005年に二軍で投げていた内海哲也の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させている[26]。結果は4勝9敗、防御率5点台だったものの、堀内が去った翌年は二桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長した。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と述べている[27]

清原に関しては巨人からの戦力外発表後は「清原選手にさらなる活躍の道を開いて欲しいということで、今回の発表に至ったと思います。故障を直して体を万全にし、来年、雄姿を見せてくれることを願っています。巨人での9年間、本当にご苦労さまでした」とこれまでのプレーを労う発言をしたが、清原は現役引退後も堀内への辛辣な批判や揶揄を公式の場でも公言しており、堀内と清原との確執は深いものがあったとされる[28][29]

巨人監督退任後

2006年から現在まで、日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。研究と趣味を兼ね、スケジュールの合間をぬってメジャーリーグ観戦に熱心に足を運んでいる。2006年3月5日に、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本vs.韓国戦を皇太子夫妻が観戦に訪れた際、巨人球団会長の渡邉恒雄、コミッショナーの根來泰周とともに同席して解説を務めた。

2008年1月11日、野球殿堂競技者表彰選考で、野球殿堂入りする。殿堂入り表彰式は、2008年8月1日のオールスターゲーム第2戦(横浜スタジアム)の際に執り行われた。2009年9月からは読売新聞のTVCMに解説者役として出演している。

巨人はレギュラーシーズンで過去5度、相手チームの胴上げを目の前で見る屈辱を喫したが、堀内はそのうち3度もグランドで立ち会った1975年後楽園球場で選手、1995年明治神宮野球場でコーチ、2005年は阪神甲子園球場で監督として見ることになってしまった。

政治活動

2010年4月22日に、7月の第22回参議院議員通常選挙に、自由民主党からの出馬を表明した[30]。7月11日の当開票の結果、比例代表で101,840票を獲得し党内で13位につけたが自民党として12名しか当選しなかったため次点で落選した。

外国人参政権や選択的夫婦別姓制度に反対していた[31]

2013年7月31日に中村博彦が死去のため、3年ぶりに繰り上げ当選の資格が生じた。これを受けて堀内は「前向きに検討している」とコメントし[32]、8月6日に中央選挙管理会告示により正式に3年越しの繰り上げ当選が決定、[33][34]雪辱を果たし、初当選・初登院し、政治家となった。 現在はスポーツの環境づくりに積極的な活動をしている[35]

2016年平成28年)7月10日の第24回参議院議員通常選挙参議院比例区から自由民主党公認で立候補し、84,597票(得票率1,7%)を獲得したが落選した(党内22位)。

殿堂歴

2008年 野球殿堂入り

選手としての特徴

球質は軽いが切れがよく、遠くから弓なりに伸びる直球、一度浮き上がってから突然急ブレーキがかかったように曲がり落ちる大きなカーブ、ロサンゼルス・ドジャースベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーから教えを受けたチェンジアップを武器とした。コントロールは危なかったが逆球にはならずピンチに強かった。体重が理想的に配分された身体で、均整のとれた体格であった[36]

新人の開幕連勝記録を更新中の時に、週刊朝日編集部がホームプレート上に光電式の速度計測装置を使用して測定した結果155km/hを記録した[37]

初登板以来自分が投げた結果をスコアラーの資料の元、打者ごとに細かく分析しノートにつけていた。先発前夜になると眠れなくなるほど真剣にピッチングの組み立てを行った。また試合前やキャンプのミーティングでも居眠りしているようできちんと全部ノートに書いていた[38]

入団当時は、投げ終わった後に帽子が横っちょにぶれるぐらいのダイナミックな投球フォームが特徴的であった[39]。しかし、実は少し大きめの帽子を被り、ダイナミックさを演出していた[40]

肩が強く多摩川グランドの左中間フェンスにぴったり身体を貼り付けたまま、ワン・ステップしただけで一塁ベンチの上を越すボールを投げることができた[41]

打撃も上手く、投手では通算で21本塁打を記録。特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成し[42]、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている[42]。投手による3打席連続本塁打は史上唯一[42]。これに関して本人は現役引退後、「4打席目にホームランを打てず(中前安打)ガッカリしてベンチに戻った際に、自分でも打撃に熱中していたことから、他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。『4打席連続本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』『あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか』と思った」と語っている。1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。この2本塁打などの活躍で1972年1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞。1983年の引退登板でも当時大洋の金沢次男投手からホームランを放っている。

守備でも素晴らしい反射神経・運動能力を見せ、ゴールデングラブ賞を創設年の1972年から7年連続で受賞。非常にクイックがうまく、日本シリーズで対戦した福本豊をして「あんなクイックは初めて見た。小さいクイックで色々なコースに速い球を投げてきて、癖を見抜けなかった。パ・リーグにあんなことができるピッチャーはいない」と称された[43]

人物像

高校3年時、野球部のキャプテンになると、上級生が理由にならない理由を見つけて下級生を殴ることを禁止した[44]

ふてぶてしい態度から「悪太郎」また「甲斐の小天狗」とあだ名され[45]、実際に「鬼軍曹」と恐れられていた当時寮長の武宮敏明は「巨人歴代三ワル」の一人として堀内を挙げている[46]。寮生活では門限破りの常習犯として知られていて、武宮の目を逃れるため風呂場の窓から入る、寮から抜け出すために非常用のはしごを買っていた、帰宅を待ち構えていた王に殴られた(『見かねた王の鉄拳伝説』)など(ただし、王に殴られたのは堀内自身も認めているが、合宿所ではなく、遠征先での出来事だと言われており、実情は不明である。堀内自身は「自身が成績優秀だったことへの先輩たちの嫉妬から、代表で王さんが殴ったんだろう」と述べているが、「悪太郎」らしいビッグマウスで言っているだけだと記者は解釈している)。本人曰く、門限破りをするようになったのは入団してから3~4年目からであり[47]、見つかったのは100回以上のうち3回だけと言う。

若手の頃は、話術を学んでトークに活かそうと新宿の寄席に毎日通った時期があった。投球に活かす努力をしたというが具体的に触れていない[48]

詳細情報

以下、{表彰}まではオフィシャルベースボールガイドの各年度版による

年度別投手成績

1966 巨人 33 22 14 7 1 16 2 -- -- .889 714 181.0 125 5 69 2 4 117 5 0 34 28 1.39 1.07
1967 23 16 13 2 0 12 2 -- -- .857 609 149.0 126 7 59 1 1 82 6 0 41 36 2.17 1.24
1968 40 29 12 3 0 17 10 -- -- .630 845 206.2 153 31 105 4 4 142 4 0 81 76 3.31 1.25
1969 41 29 12 4 0 14 13 -- -- .519 1004 236.2 211 21 107 5 6 160 6 1 94 82 3.12 1.34
1970 42 34 18 1 0 18 10 -- -- .643 1130 282.2 202 22 103 4 7 228 2 0 82 65 2.07 1.08
1971 40 33 14 3 0 14 8 -- -- .636 924 226.0 183 18 82 5 6 155 7 0 83 78 3.11 1.17
1972 48 34 26 4 1 26 9 -- -- .743 1282 312.0 292 34 95 5 3 203 3 0 110 101 2.91 1.24
1973 39 33 15 2 1 12 17 -- -- .414 953 221.0 238 28 70 6 6 113 1 1 117 111 4.52 1.39
1974 46 37 21 3 1 19 11 1 -- .633 1106 276.2 217 31 80 6 7 127 2 0 101 82 2.67 1.07
1975 38 29 8 2 1 10 18 0 -- .357 893 213.2 212 28 75 4 6 118 4 1 100 90 3.79 1.34
1976 34 27 11 2 0 14 6 0 -- .700 763 177.1 173 23 71 1 4 82 2 0 84 78 3.96 1.38
1977 34 23 4 1 1 10 9 3 -- .526 657 151.1 163 20 53 3 5 86 3 0 81 77 4.58 1.43
1978 35 31 7 3 1 12 9 0 -- .571 829 201.0 190 22 59 4 3 113 1 0 86 79 3.54 1.24
1979 24 14 1 0 0 4 7 0 -- .364 400 86.1 111 16 35 5 2 59 1 0 68 64 6.67 1.69
1980 19 12 2 0 0 3 5 1 -- .375 319 75.0 78 12 22 4 1 58 0 0 43 36 4.32 1.33
1981 9 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 92 22.0 27 3 1 0 0 11 1 0 16 11 4.50 1.27
1982 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 29 7.0 8 0 0 0 0 2 0 0 5 3 3.86 1.14
1983 11 1 0 0 0 1 0 1 -- 1.000 79 19.2 16 2 9 1 1 9 0 0 9 9 4.12 1.27
通算:18年 560 408 178 37 7 203 139 6 -- .594 12628 3045.0 2725 323 1095 60 66 1865 48 3 1235 1106 3.27 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算打撃成績

1010打数 174安打(.172) 21本塁打 82打点

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2004年 巨人 3位 138 71 64 3 .526 8.0 259 .275 4.50 56歳
2005年 5位 146 62 80 4 .437 25.5 186 .260 4.80 57歳
通算:2年 284 133 144 7 .480 Aクラス1回、Bクラス1回
※2004年シーズンは、ストライキのため2試合が中止

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100勝:1972年6月9日、対阪神タイガース8回戦(阪神甲子園球場)、9回完封勝利 ※史上57人目
  • 1000奪三振:1972年7月16日、対中日ドラゴンズ16回戦(後楽園球場)、3回表に稲葉光雄から ※史上43人目
  • 150勝:1975年5月17日、対阪神タイガース6回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上28人目
  • 1500奪三振:1976年8月17日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、6回裏に水沼四郎から ※史上23人目
  • 500試合登板:1979年5月26日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(横浜スタジアム)、先発登板で5回2/3を6失点 ※史上39人目
  • 200勝:1980年6月2日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、6回1失点完投勝利(6回終了時雨天コールド) ※史上16人目
レギュラーシーズン
  • 新人の開幕連勝:13(1966年)
  • ノーヒットノーラン:1967年10月10日、対広島カープ22回戦(後楽園球場) ※史上38人目
  • 投手の1試合3本塁打:同上 ※ 川崎徳次に次いで史上2人目(3打席連続本塁打は史上初)
  • シーズン勝率.889(1966年、16勝2敗、セ・リーグ記録)
日本シリーズ
  • 通算登板試合:27(シリーズ記録)
  • 通算投球回数:140 1/3(シリーズ記録)
  • 通算勝利:11(シリーズタイ記録)
  • 通算与四球:61(シリーズ記録)
  • 投手の1試合2本塁打:1973年第3戦(史上唯一)
オールスターゲーム
  • オールスターゲーム出場:9回 (1966年、1968年 - 1975年)
  • 通算防御率:1.44(20イニング以上で歴代1位)

背番号

(出典:[50]

  • 21 (1966年)
  • 18 (1967年 - 1984年途中)
  • 73 (1984年途中 - 1985年)
  • 70 (1993年 - 1998年)
  • 88 (2004年 - 2005年)

関連情報

役職

出演番組

現在の出演番組
過去の出演番組

書籍

連載

堀内恒夫の多事正論 - 週刊ベースボール、隔週連載

TVゲーム

発売コナミ。いずれも解説者役として出演

脚注

  1. 『オレは悪太郎―わが投手人生のMemoir』60頁
  2. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』文春文庫 1995年7月10日 28頁
  3. 『オレは悪太郎―わが投手人生のMemoir』83 - 84頁
  4. 『プロ野球人名事典1999』(日刊アソシエーツ)15頁
  5. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日 140頁
  6. 1972年6月10日 スポーツ報知 1-2面など
  7. 1972年4月 - 10月 読売新聞など各紙スポーツ面参照
  8. 帝京平成大中野で巨人軍OB堀内恒夫さん講演 「私の野球人生」テーマに、抽選会も”. 中野経済新聞 (2015年7月6日). . 2016閲覧.
  9. プロ野球データ事典(PHP研究所)p.22 - 29
  10. プロ野球データ事典(PHP研究所)p.27
  11. 11.0 11.1 堀内恒夫オフィシャルサイト「ヒストリー」より
  12. プロ野球データ事典(PHP研究所)p.27 - 170
  13. セ・リーグ歴代MVP”. サンケイスポーツ. . 2016閲覧.
  14. 1980年11月24日 スポーツニッポン 3面など
  15. 長嶋、王、原…巨人のスター選手の引退セレモニー”. スポーツニッポン (2015年12月1日). . 2015閲覧.
  16. 200勝達成時の背番号は共に、18であった。
  17. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』文春文庫 1995年7月10日 320頁
  18. オフィシャルベースボールガイド1984年版
  19. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』文春文庫 1995年7月10日 プロローグ「最後の一勝」より
  20. 20.0 20.1 読売新聞 2000年3月30日朝刊 38面
  21. 堀内恒夫オフィシャルサイト「プロフィール」より
  22. 巨人、来季コーチ陣を発表=ヘッドコーチに須藤氏-プロ野球(時事通信) 2003年10月10日
  23. サンケイスポーツ 2005年4月27日 3面など
  24. サンケイスポーツ 2005年10月7日 2面など
  25. 週刊ベースボール 2012年1月30日号
  26. 週刊ベースボール 2012年5月28日号
  27. 雑誌「NUMBER」2009年6月21日号
  28. "番長"清原、監督就任の夢語る「修業を続けていきたい」”. cinemacafe.net (2010年5月19日). . 2015閲覧.
  29. 清原和博&金本知憲「ムカつく奴らシバキ上げ」(4)「堀内! 何が国会議員じゃ!!」 アサ芸プラス
  30. “堀内・巨人前監督が出馬表明「政界に剛速球」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月22日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100422-OYT1T00849.htm . 2010閲覧. 
  31. 「2010参院選 候補者アンケート」毎日jp(毎日新聞社)、2010年6月26日
  32. 堀内恒夫氏 自民参院リリーフ登板へ 中村氏死去で繰り上げ当選対象 スポーツニッポン2013年8月1日配信
  33. 官報特別号外(平成25年度第19号)1頁 国立印刷局
  34. 元巨人エースがリリーフ登板 堀内氏の繰り上げ当選決定 スポーツニッポン 2013年8月6日閲覧
  35. http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150827-00010000-sphk-base
  36. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日 47頁 75頁 83頁 164頁
  37. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』文春文庫 1995年7月10日 122頁
  38. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日 176頁
  39. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』文春文庫 1995年7月10日 98頁
  40. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』文春文庫 1995年7月10日 98頁
  41. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日 30頁
  42. 42.0 42.1 42.2 週刊ベースボール2012年5月7日号 P70
  43. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日 210頁
  44. 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日 24頁
  45. 日本プロ野球 仰天伝説199連発!(ベースボールマガジン社、2014年10月)p.112
  46. http://www.news-postseven.com/archives/20140829_273183.html
  47. http://news.livedoor.com/article/detail/10345007/
  48. 『プロ野球 名選手列伝 驚きの記録を残したツワモノたち』著者・吉野秀、2008年6月15日、43頁。
  49. 歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. . 2017閲覧.
  50. ベースボールマガジン Summer issue 2006 No.3「背番号の美学 受け継がれる魂」p.150 - 152
  51. 沢村賞に楽天の田中将大投手 2度目の受賞「嬉しい」 産経新聞 2013年10月28日閲覧
  52. 堀内 恒夫(ほりうち つねお) 参議院ホームページ:議員情報

参考文献

  • 海老沢泰久『ただ栄光のために-堀内恒夫物語-』新潮文庫 1985年2月1日

関連項目

外部リンク

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