九州国分
九州国分(きゅうしゅうくにわけ)は、豊臣秀吉による九州攻め(九州平定)ののちの天正15年(1587年)6月、豊臣政権によって行なわれた九州地方の大名の領土配分のことである。
概要
九州攻め以前の九州国分計画
天正13年(1585年)、四国攻めの結果、豊臣政権は毛利氏の小早川隆景を独立大名として伊予に封じた。また、島津氏が勢力を拡大し、九州平定を目前に控えており、孤立した劣勢の大友氏は豊臣氏を頼る形勢であった。
天正13年(1585年)10月2日、豊臣秀吉は島津・大友両氏に九州停戦令を発した。大友氏は停戦令をすぐに受諾したのに対し、島津氏は激論の末受諾を決定するとともに、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、戦争は大友氏に対する防戦であると弁明させた。天正14年(1586年)3月7日、鎌田政近は大坂城において秀吉から肥後半国・豊前半国・筑後を大友へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は秀吉の所領とする国分案を提示された。これは島津氏が本領とする薩摩・大隅・日向半国に加え肥後半国・豊前半国を安堵する寛大な処置であったが島津氏はこれに反発した[1]。4月5日には救援を求めるため大坂城で秀吉に面会した大友義鎮(宗麟)も国分案を提示されているが、内容の詳細は伝わっていない。また、6月25日頃に比定される秀吉朱印状では毛利輝元宛で九州国分案が提示されており、それは、秀吉が毛利所領から備中・伯耆の一部と備後・伊予を召し上げ、代わって九州の豊前・筑前・筑後・肥後の4カ国を与えた上で九州取次に任命する内容となっている[2]。
九州平定と南九州の国分
天正14年(1586年)6月、島津氏は、島津氏に示された上記の国分案を拒否し、筑後・筑前にまで侵攻した。九州攻めのはじまりである。秀吉は「九州停戦令」に違反したとして、諸大名に島津氏の「征伐」を命令して中国地方・四国地方の大名を派遣したが、島津はこれらとも戦い、かえって豊後国をも占領した[3]。
天正15年3月1日(西暦1587年4月8日)、秀吉が大坂城を出発、「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」(黒田孝高あて朱印状)として自らも九州に出陣した[4]。秀吉の大軍に対し、島津氏は日向国高城(宮崎県木城町)を前線として抗戦したが、根白坂で一戦したのみで5月8日には島津義久が剃髪して降伏した。
一方豊後の大友義鎮は、4月の島津勢の撤退ののち疲労を訴えるようになり、日向一国を隠居料にという秀吉の提案を辞退し、そののち隠居地の豊後国津久見(大分県津久見市)で5月6日に死去した(同じころ、肥前の大村純忠も死去している)。
義久の弟島津歳久、同じく日向飯野城の城主島津義弘、家臣の新納忠元らは義久降伏後も抵抗を続けたが、豊臣方の石田三成と島津側の伊集院忠棟の間で調停が進み、義久の働きかけもあって講和が成立した。
5月25日(新暦6月30日)、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」[5]として、義久には薩摩国を、義弘に対しては大隅国を安堵し、義弘の子島津久保に対しては日向国諸県郡のうち真幸院をあたえた。また、5月30日には佐々成政に肥後国一国を与えた[5]。肥後の国人衆は、旧領安堵された上で成政の家臣団に編入することとした[6]。
九州国分と新領主の入部
秀吉は同年6月7日(新暦7月12日)、薩摩からの帰途、筑前国箱崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、かつては自治都市としての歴史をもつ貿易港博多(福岡市博多区)を直轄都市とした上で、唐入り(明遠征)の基地として筑前国に小早川氏を入封するなど北部九州も含めた九州地方の国分(くにわけ)を沙汰した。
それによれば、小早川隆景には筑前・筑後・肥前1郡の約37万石、黒田孝高(如水)には豊前国のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎(宗茂)には筑後柳川城(福岡県柳川市)に13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉(福岡県北九州市)約6万石をそれぞれ与えた。宗麟の子大友義統には豊後一国が安堵された。龍造寺政家、純忠の子大村喜前、松浦鎮信は、それぞれ肥前国内の所領が、宗氏は対馬国が安堵された。また、大規模な蔵入地も設定された。
4日後の6月11日には、石田三成・滝川雄利・小西行長・長束正家・山崎片家の5名を町割奉行に任じ、神屋宗湛や島井宗室ら町衆も動員して博多の復興を命じ[7]、6月19日には長崎港での南蛮貿易独占のためバテレン追放令を出し、九州を「五畿内同前」の体制とすることとした(翌天正16年4月には教会領であった長崎を没収して直轄地にしている)。また、これに先だつ6月15日には、対馬(長崎県対馬市)の島主宗義調とその養嗣子宗義智に対し朝鮮国王を上洛させるための使者を派遣するよう命じた。西海道を平定した秀吉は東アジアを視野に入れた施策を次々と打ち出したわけである[8]。
秀吉による九州国分の沙汰ののち、筑前・筑後などが与えられた小早川隆景は立花氏の居城であった名島城(福岡市東区)に入部した。豊前6郡を与えられた黒田孝高は中津城(大分県中津市)を本拠とした。なお孝高の今までの功績に対し石高が抑えられたのは、秀吉が密かに孝高の野心と軍事的才能を怖れたからとも言われる[9]。筑後柳川の立花統虎は、大友氏から独立した直臣の大名として取り立てられることとなった。小早川隆景の養子であった毛利秀包は伊予国宇和郡大洲城3万5,000石の大名であったが、養父隆景より筑後国内に7万5,000石を与えられ、天正16年(1588年)、久留米城(福岡県久留米市)に入った。
島津家久の嫡子島津豊久には日向の都於郡(宮崎県西都市)と佐土原(同佐土原町)が安堵され、秀吉の九州平定以前に島津氏と同盟していた筑前の秋月種実は日向の櫛間(同串間市)・財部(同高鍋町)、種実二男高橋元種は縣(同延岡市)・宮崎(同宮崎市)へ移封された。古くから日向国に勢力を保ち続け、島津氏と対立し九州平定軍の先導役を務め上げた伊東祐兵には、日向の飫肥(同日南市)・曾井(同宮崎市)・清武(同清武町)が与えられた。肥後は、上述のとおり佐々成政に与えられたが、現在の熊本県人吉市を中心とする人吉地方は、相良氏家臣深水長智の交渉努力によって相良頼房に安堵されることとなった。肥前では、鍋島直茂が主家龍造寺氏とは独立した大名として取り立てられ、長崎港をしばしば襲撃し、南蛮船からの通行料徴収を強行した俵石城主深堀純賢は、天正16年、海賊停止令違反として所領を没収された。
結果
国分によって既得権益を奪われた在地勢力の不満は国人一揆の形で現れた。早くも天正15年8月、検地を強行した佐々成政が、これに従わない隈部親永を攻撃したのに対し、親永に与力した国人・百姓が一揆を結び、成政の本拠隈本城(熊本県熊本市)を襲撃している(肥後国人一揆)。肥前国、豊前国においても同様の一揆が起こった。秀吉の九州制圧を祝って10月1日に京都で10日間にわたって開く予定であった北野大茶湯も、1日開催したのみで中止となったが、これは秀吉が肥後国人一揆の報を耳にしたからだと言われている[10]。また佐々成政は肥後での失政をとがめられて肥後一国を取り上げられ、摂津国尼崎で切腹を命じられた。こののち肥後の北半部は加藤清正、南半部は小西行長に与えられた。
秋月種実の櫛間入部に際しては、在地の伊集院久治が不満を抱き、約半年にわたって櫛間城から退去せず、飫肥城の城代であった上原尚近(島津氏家臣)も伊東祐兵への城明け渡しを約1年にわたって拒むなどの事件も起こった。
秀吉は、抵抗する領主に対しては徹底的に成敗するよう配下に命じており、これは九州地方における戦国時代の終焉と近世的な新しい秩序の幕開けを意味していた[4]。また、北部九州を中心に新たに豊臣系大名領が設けられ、大規模な蔵入地(直轄地)が九州各地に設けられたことは、この地方を「唐入り」の前進基地として位置づけることを念頭に置いており、単なる領土裁定の枠を超えるものであった[5][8]。その一方、秀吉の天下統一事業において九州国分は西日本一帯の平定完了を意味しており、こののち東国の平定が豊臣政権の大きな課題として残された。
脚注・出典
- ↑ 田辺龍弥、「豊臣期における九州国分 : 薩摩島津氏を事例に」、ゆけむり史学 創刊号、p.30、別府大学大学院文学研究科歴史学専攻院生研究報告会、2007年。
- ↑ 尾下成敏「九州停戦命令をめぐる政治過程--豊臣「惣無事令」の再検討」(2010)
- ↑ このことについて、池上裕子は「島津は自力で九州のほとんどを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ためとしている。池上(2002)p.155
- ↑ 4.0 4.1 乱世の終焉・九州平定 (福岡市博物館)
- ↑ 5.0 5.1 5.2 池上(2002)p.155
- ↑ 『クロニック戦国全史』(1995)p.500
- ↑ 博多に対して秀吉は、座の廃止、地子・諸役・徳政の免除、全国の湊への自由通行などを認める法令を発している。池(2003)p.64
- ↑ 8.0 8.1 池(2003)p.63-64
- ↑ 秀吉が孝高を怖れたことは、坂口安吾『黒田如水』など小説にもよく取り上げられるテーマである。
- ↑ 『クロニック戦国全史』(1995)p.503
参考文献
- 池上裕子・池享・小和田哲男・小林清治・峰岸純夫ら編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月。ISBN 4-06-206016-7
- 尾下成敏「九州停戦命令をめぐる政治過程--豊臣「惣無事令」の再検討」『史林 第93巻第1号<戦争>』史学研究会、2010年。
- 池上裕子「惣無事令と平定戦」『日本の歴史15 大織豊政権と江戸幕府』講談社、2002年1月。ISBN 4-06-268915-4
- 池享「天下統一と朝鮮侵略」池享編『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館、2003年6月。ISBN 4-642-00813-6