長束正家
長束正家 | |
---|---|
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄5年(1562年)? |
死没 | 慶長5年10月3日(1600年11月8日) |
主君 | 丹羽長秀→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
氏族 | 長束氏 |
長束 正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。弟に直吉らがいる。近江国水口岡山城主。
Contents
生涯
本姓は大蔵氏という。別説にもともとは水口氏で天正年間、居城水口城が落城したため長束村に在し、その地名を取って長束を称したとの記録もある。熊本藩の侍帳の正家の子孫の項目には正家の父・盛里までを水口氏とし、正家以降を長束氏として記録している。
永禄5年(1562年)、水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村(尾張国説もある[注釈 1])で生まれたといわれる。
秀吉近臣時代
初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると財政上不正があったと豊臣家より糾弾されたが、正家は帳簿を証拠として提出し、これに抵抗した。 この後豊臣氏直参の家臣になった。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。
天正14年(1586年)の九州平定、天正18年(1590年)小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し、20万石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。支城の戦いでは家臣・家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが忍城攻めにおいて武功を立てている。戦後には家臣であった弟の正隆が秀吉の直参に取り立てられている。文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。
この間、天正14年(1586年)には本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、天正17年(1589年)には長男・半右衛門助信が誕生している。半右衛門には山中三十郎が家老として付けられた(『北野社家日記』)。天正18年(1590年)正月13日には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かった。
農村支配にも関与しており、文禄3年(1594年)2月には豊臣秀次とも相談の上、中川秀成の豊後入封に際し隣接する蔵入地代官太田一吉に協力を求めて戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示している。また、同時期に伏見城の造営にも参画している。
水口城主時代
文禄4年(1595年)に近江水口城5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。慶長2年(1597年)には12万石に加増され、官位も従四位下侍従に昇任した。領内ではのちに家松山大徳寺となる浄慶寺に保護を加え、この縁故によって後年遺児が同寺に迎えられ三世門跡・還誉岌閑となる。蒲生秀行が減封された際には、松田秀宣らの蒲生浪人を召抱えた。
関ヶ原
秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加するが、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられないなど、功を奏しなかった。さらに息子と家臣が水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀っているとの噂が立ち、甲賀衆篠山景春の通報によって家康は城下を素通りした。
慶長5年(1600年)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。開戦当初には山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗している。初め陣代・家所帯刀、武者奉行・伴五兵衛らを将として伏見城攻めに兵を送り、家臣甲賀衆鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く功をあげた。8月下旬には伊勢安濃津城を攻略する(安濃津城の戦い)。しかし伊勢方面の戦いでは少数の敵船団を家康の本隊と誤認して退却する失態も犯している。この後、弟・直吉に水口岡山城の守備を任せて大垣城へと向かった。
関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われる。
戦場離脱後は水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟・玄春が捕らえられ、処刑されている。正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。このとき重臣・嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田軍に捕縛されている。捕えられた正家は弟・直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39という。重臣6名も同日、近江日野で切腹させられた。首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという。地元古城山の阿迦之宮に霊が祀られる。
家族・子孫
- 正室は本多忠勝の妹の栄子。
- 子に半右衛門助信、長吉、祐順らがいる。
- このほか関ヶ原後に栄子が男子を出生した。出産直後に栄子が死亡したため、この男児は家臣・山本浅右衛門が養育した。この遺児はのちに水口大徳寺の三世門跡還誉岌閑となっている[注釈 2]。
- 弟直吉の子孫は浅野家に仕えたという。
- 常陸水戸藩の支藩陸奥守山藩主松平頼平は正家の遺物である村正の刀を愛蔵していたという。その刀の由来書によると正家の子孫に佐野と苗字を改めて泉州岸和田の岡部家に仕えた者がいたと言われる。
家臣
- 長束与十郎 - 一族か。正家切腹の際、形見の品を拝領した。
- 奥村左馬助 - 使番。水口城攻防戦の際、池田長吉・亀井茲矩の下に赴き正家が切腹するための猶予を乞い認められた。
- 西川兵庫 - 使番。
- 家所帯刀 - 信長、秀吉に直臣として仕え、天正12年(1585年)木造具康攻めの際には秀吉の命で連部城を築城し、宮山城を奪取するなどの武功をあげた。小田原征伐では忍城攻めで武功をあげ、関ヶ原前哨戦では伏見城攻撃に参加した長束勢を陣代として率いた。
- 小西治右衛門 - 宇土城主小西行長の一族か。正家切腹の際、形見の品を拝領した。
- 竹内伊右衛門
- 伴藤三郎
- 古高正永
関連事項
正家を題材とした作品
- 小説
- 伊東潤 『戦は算術に候』(『国を蹴った男』収録の短編)
脚注
注釈
出典
外部リンク
- 姫塚 甲賀市観光協会
- 栄子姫と思川(甲賀市) 京都新聞