ランディ・バース

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ランディ・ウイリアム・バスRandy William Bass, 1954年3月13日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン生まれの元プロ野球選手内野手)、政治家

1983年から1988年までNPB阪神タイガースでプレー。6シーズンに渡る在籍は、ウィリー・カークランドマット・マートンと並び球団の歴代外国人野手としての史上最長記録である。現役引退後、2004年からオクラホマ州議会の上院議員(民主党)を務めている(現職)。

NPBにおけるシーズン打率の日本記録保持者(.389)であり、外国人選手ではNPB史上最多となる2度の三冠王に輝いている。

経歴

メジャーリーグ時代

メジャーリーグベースボール時代はミネソタ・ツインズカンザスシティ・ロイヤルズモントリオール・エクスポズサンディエゴ・パドレステキサス・レンジャーズを転々としていた。

メジャー時代はその長打力から「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われたこともあったが、幼少時に足を複雑骨折していたことから全力疾走ができない状態であり、守れないということでレギュラーは獲得していない。さらに速球に弱いという弱点が重なりメジャー通算本塁打は9本に終わっている。エクスポズ時代のチームメイトには、後に読売ジャイアンツで活躍するウォーレン・クロマティがいた。

1982年のオフ、ハワイのMLBウィンター・ミーティングでは阪神と阪急ブレーブスとの間で獲得競争となり、阪神の渉外担当藤江清志と阪急常務の矢形勝洋が契約金額を競り合ったが、ブーマー・ウェルズに着目した阪急は乗り換えて手を引いた[1]

阪神タイガース時代

1983年に来日し、阪神に入団。阪神入団当初は藤田平が一塁手として多用されていたこともあり、右翼手として守備に就いていたが、上記の通り全力疾走できないことと、藤田の年齢による衰えから、後に一塁手に固定される。体調不良でシーズン序盤を出遅れたにもかかわらず、1年目から打率.288、35本塁打、82打点と長打力を見せつける。また、同年のシーズン終盤には25試合連続安打も記録しており、これは2001年に桧山進次郎が28試合で更新するまで球団記録であった。

この1983年に、バースはシーズン途中で解雇されていた可能性があった。前年後半にチームが大躍進したこともあり阪神ファンは優勝への期待を募らせていたが、4月を2位で終了したものの5月途中には1勝15敗と大きく負け越してしまう。調子の上がらないバースが不調の原因との批判も多く、同期入団でミートの上手いスティーブ・ストローターの方が日本の野球に適合しているとの評価が高かった[3]。そんな中、先発投手陣が手薄な球団は投手のリチャード・オルセンの獲得に動く。当時の規定では外国人選手は1チーム3名までしか契約できなかったこともあり、既にバース、ストローター、アレンの3人の野手と契約していた球団は、このうち誰か1人を解雇する必要に迫られた。ミートは上手いが怪我が重症であった[2]ストローターか、外角に落ちる変化球をことごとく空振りするなど調子の上がらなかったバースかの選択となったが、球団はパワーのほかに、態度、努力、人格を評価しバースを残留させた。その期待通り、バースは後半戦から一気に調子を上げた。翌1984年は.326という高打率を挙げたものの、前年を下回る27本塁打に終わり、また夏場に負傷で離脱したことによりチーム全体の失速を招いてしまう。さらにオフに外野手の岡田を三塁に、三塁手の掛布を一塁にコンバートする案が持ち上がり、掛布と重複し守備力に難のあるバースを解雇するという情報が流れたが、来季から再任する吉田義男監督が球団に残留を強く進言、前述の掛布の一塁コンバート案も白紙となったことで、解雇を免れている。

1985年には掛布雅之岡田彰布と強力なクリーンナップを形成。同年4月17日の対巨人戦、槙原寛己からのバックスクリーン3連発での1本がバースのこの年の第1号本塁打である。この年は打率.350、54本塁打、134打点の成績を残して三冠王に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝・初の日本一に大きく貢献した。また、セントラル・リーグ初の外国人選手による本塁打王となった。 ともにミネソタ・ツインズ出身のチャーリー・マニエルが保持していた外国人登録選手のシーズン最多本塁打記録48本に並ぶところから、54号までの経緯は以下の通り。10月9日高野光から右翼へ48号2ラン(甲子園球場)、12日大野豊からバックスクリーンへ決勝49号ソロで当時の外国人記録を更新(広島市民球場)、14日は風を読んで左翼へ川口和久から50号3ランおよび小林誠二から51号ソロ(広島)、16日は21年ぶりの優勝を決めた試合で荒木大輔から右翼へ52号2ラン(神宮球場)、17日高野光からバックスクリーン左の中段席へ53号ソロ(神宮)、20日にシーズン16勝目を挙げ最多勝当確の小松辰雄から左翼ポール際へ54号2ラン(ナゴヤ球場)。

この年は王貞治1964年に記録したシーズン55本塁打の更新が注目されたが、54本目を打った段階で残り試合数が2試合になった。いずれも巨人戦で、その監督は王貞治。最初の試合(10月22日、甲子園)で先発した江川卓は3打席ストライクで勝負し1安打に抑えるも、他の投手は事実上の敬遠攻めであった。最終戦(24日、後楽園)の第1、2、4、5打席はストレートの四球、第3打席は先発の斎藤雅樹がバットが届くところに投じた初球の外角高めの球に飛びつくようにセンター前に単打して、結局1打数1安打4四球で記録は達成できず、翌日の報知新聞には「バース記録達成失敗」という見出しと「自分はバースに敬遠を指示しなかった」という王のコメントが掲載された。当時巨人に在籍した外国人投手キース・カムストックは、後に自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき罰金1000ドルが課せられていた」と記している。指示を出したのは、当時一軍投手コーチだった堀内恒夫であった[4]。また当時バースは、最終戦を前に「記録達成は無理だろう、私はガイジン(外人)だから」とも語っていた。一方、この敬遠攻めの影響でバースの出塁率が上昇し、前日まで9厘差でトップだった吉村禎章(当日4打席で出塁0)を最終打席で.0005差で抜いたことで、バースは最高出塁率のタイトルも獲得した。前年(1984年)までセ・リーグでは『最多出塁数』が表彰タイトルであったが、この1985年からは『最高出塁率』が表彰タイトルへと変更されており、当時の巨人ベンチはこの記録のことをよく理解しておらず忘れていたことが原因であった。結果的にバースは当時表彰タイトルだった最多勝利打点と併せ、打撃部門5冠に輝いた。ちなみにバースは、記録を恐れず真っ向勝負してきた江川を高く評価し、「日本の今のプロ野球で最高の投手だ。メジャーでも十分通用する」とコメントしている。

西武ライオンズとの日本シリーズはセ・リーグの名遊撃手であった吉田義男広岡達朗が監督として戦う因縁の対決であった。バースは第1戦から第3戦で3試合連続本塁打(第1戦は工藤公康の外角カーブを左翼へ決勝3ラン、第2戦は高橋直樹の110 km/hの外角カーブを左翼へ決勝2ラン、第3戦は工藤公康から右翼へ3ラン)を放ち、第2戦には守備でも歴史的ファインプレーを見せる(後述)など攻守に渡る大活躍でチームを牽引。阪神を球団創設以来初(2017年シーズン終了時点で唯一)の日本一に導き、バースはシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成した。なお阪神の日本一はこの1回だけであることから、バースは阪神唯一の日本シリーズMVP獲得者である。(2017年現在)

新ストライクゾーンが導入された1986年4月、開幕試合の大洋戦は5打数無安打としたものの、8試合目に3割台とし、5月は6試合連続マルチ安打を記録、5月下旬から6月にかけて16打数12安打で打率.369に上げ、5月31日にはこの年初めて首位打者に立ち、以降譲ることなく打率をさらに上げて、7月2日の大洋戦で5打数4安打として打率を.402と4割に乗せる。7月8日に.407としたのをピークに中日の小松辰雄に4打数無安打で抑えられ、打率4割を切り、その後25打数無安打とスランプに入り.376まで落とすが、8月に入り12日に.399まで戻す。8月以降は各試合終了時点で打率4割を越える事はなかったが、8月は.390を割る事はなかった。9月は3日と19日に.389としたものの、9月終了時点で.394とした。10月、打率4割の可能性はまだ残っていたものの、7日の大洋戦と続く広島戦で無安打で.388に落とし、14日の最終戦の大洋戦で2打数2安打で.389、打率の日本プロ野球記録を更新し[5]、他にも47本塁打、109打点の成績を挙げ、ロッテオリオンズ落合博満と共に、2年連続三冠王となった。バースは規定打席到達後、それまで張本勲が持っていたシーズン打率.383の日本記録を下回ってしまうと日本の投手がそれ以上勝負してくれないのではないかと考え、監督に直訴してそれ以降の試合を欠場させてもらうつもりでいたが、結局一度も下回ることはなく、最後まで打席に立ち続けた。

また、32歳のバースは日本の球場なら左方向に打っても本塁打になることを悟り、左翼への本塁打を量産し、この年の6月26日には王貞治と並ぶ7試合連続本塁打の日本タイ記録を達成。6月18日高野光から左翼へ16号ソロ(甲子園球場)、19日荒木大輔から右翼へ17号2ラン(甲子園)、20日郭源治から左翼ポールへ18号2ラン(甲子園)、21日鈴木孝政から左翼へ19号ソロ(甲子園)、22日平沼定晴の内角フォークを左翼へ20号2ラン(甲子園)、24日はルーキー桑田真澄が投じた114 km/hのド真ん中のカーブをバックスクリーン右へ21号2ラン(後楽園球場)、タイ記録達成の26日は5対5で迎えた8回表に球数120超の江川卓が投じたこの打席2球目136 km/hの真ん中の高さの内角直球を後楽園球場の右翼場外の釣具店の屋根まで運んだ飛距離約150mの決勝22号ソロ(通算138号)だった。このときは記録を達成したバースのみならず、この試合でバースに投じた12球のうち11球が直球の真っ向勝負を挑んだ江川に対しても賛辞が贈られた。当時、江川以外でバースに真っ向勝負を挑んだ投手として広島東洋カープ津田恒実がおり、バースに対して全て150 km/h超のストレートで挑み、3球三振に仕留めたこともある。この試合後、津田に対してバースは「ツダはクレイジーだ」とコメントしている。

他にも5月30日の6・8回と関根浩史から本塁打を放つと翌6月1日には1回と4回に欠端光則から本塁打を打って2日にわたって4打数連続本塁打、13試合連続打点(前述の7試合連続本塁打からスタートし、7月4日まで)や、シーズン長打率.777(当時[6])といった日本記録を次々に達成。OPSも王貞治の1.293(1974年)に次ぐ歴代2位となる1.258を記録した。しかしMVPには、優勝した広島の北別府学が選出された[7]

1987年には落合博満がトレードで中日ドラゴンズに移籍し「三冠王対決」と騒がれたが、両者とも成績を落として無冠に終わる。(1985年と1986年はラビットボールの使用疑惑が持ち上がるほど本塁打が増加するなど投低打高化している)また、前年から囁かれていた吉田義男監督との確執がエスカレートした。無冠に終わり、チームが低迷したこの年、雑誌のインタビューで吉田監督批判を行ったため、球団からペナルティとして罰金を科せられるという事件もあった。この罰金は最終的にうやむやになってしまい、実際には払われなかった。なお、インタビューを行ったロバート・ホワイティングは責任を感じてバースに同額を支払っている。

1988年水頭症を患った長男への対応を巡り球団と対立し、シーズン途中で解雇された。契約では家族の疾病の際には球団が医療費を負担することになっており、多額の医療費を負担することを恐れたための解雇だった。この経緯については、退団後に発売された自伝『バースの日記』でも述べられている。なお、このバース退団後の7月19日、当時の阪神球団代表だった古谷真吾が東京都内のホテルで飛び降り自殺する事件が起き、バースの退団をめぐるトラブルで球団とバースの板挟みになったのではないかと報じられた。この一件は、後に球団側が示談金を払ったことで解決した。

選手引退後

アメリカでの活動

帰国後は本業の農場経営の傍ら、1998年から2003年まで東京ジャイアンツのスカウトをしていたとしている[8]。また2000年から2003年までは、ロートンハイスクールで女子ゴルフのコーチを務めている[9]

2001年、故郷のロートンの市議に当選。1期務めた後、2004年オクラホマ州議会上院議員選挙で地元第32区における民主党の候補者指名を受ける。大統領選挙一般投票と同日である11月2日の投票では9,809票を獲得し、35票の僅差で共和党のイーストン候補を破り初当選した。2006年11月には63.34%の得票率で勝利し再選を果たしている。2010年は民主党予備選挙・本選挙とも対立候補がなく当選。2014年にも民主党予備選挙では対立候補がなく、また共和党側は予備選挙中に唯一の立候補者が辞退したため、再び対立候補なしで当選。連続4選[10]。会派のリーダーである少数党院内総務を務め、その後は少数党名誉院内総務となる[9]。任期制限により、2018年の改選には出馬できない[10]

日本での活動

選手引退後もイベントなどでたびたび訪日している。1995年から開催されているサントリードリームマッチには毎年必ず出場している他、プロ野球マスターズリーグにも大阪ロマンズの選手として登録されている。かつてのライバルであった大野豊とは、直球とフルスイングでファンを沸かせているが、現役時代と変わらぬ体型と肉体を維持し、140 km/hを超える大野の直球に、今のところ全打席三振を喫している。サントリーモルツ(モルツ球団)、日産・サニー(B14型系)などCMにもいくつか出演し、また東京スター銀行大阪支店名誉支店長にも就任。2007年8月19日に放送された『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で人生が変わる瞬間の“女子ソフトメダリストからヒットを狙う”コーナーにバッターとして出演した(結果は凡退)。

2008年8月28日の阪神対中日戦(甲子園球場)では始球式を行い、テレビ解説にも登場した。8月29日には『わくわく宝島SP』(読売テレビ)に登場。「10年に一度、来日している」と語っている。翌2009年11月にも来日し、奈良県2010年に開催の「平城遷都1300年祭」への支援として奈良県に100万円を寄付した[11]。これはバースが阪神選手時代からイメージキャラクターを務めているユニットバス製造メーカー「日ポリ化工」が奈良県香芝市に本社があることから、「奈良への恩返し」の意味合いも込めているという。

2012年にはクイズ☆タレント名鑑で「掛布と2者連続でホームラン(アベックホームラン)が打てるか?」という企画に挑戦するために来日(当初はこれに岡田も参加し「バックスクリーン3連発を再現できるか?」だったがスケジュールの都合のため、岡田は参加できなかった)。挑戦こそ失敗したものの、明るく朗らかながら本気で企画に挑戦するバースの姿とその真摯な人柄に出演者が皆が感心していた。

選手引退後の人気

退団後20年以上がたった現在でも往年の阪神ファンからは絶大な人気を誇り、バースの活躍以降、関西のメディアでは阪神の新外国人打者がキャンプやオープン戦で好調な場合「バースの再来」と報じることが恒例になっている。

2016年日本シリーズ(広島vs日本ハム)で、同じ名字「Bass(バス)」で登録名も同じ「バース」である北海道日本ハムファイターズのアンソニー・バース投手が中継ぎで3勝、防御率0.00に加え、日本一を決める試合でダメ押しとなる6点目のタイムリーヒットを放つなど大車輪の活躍を見せ、インターネット上などで「バースの再来」「バース緊急来日」などのジョークが多く書き込まれた様に、他球団ファンにも人気を誇るプレイヤーである。

「日本シリーズ影のMVP(MVPは3本塁打のブランドン・レアードに譲ったものの)」「影の二刀流」「二刀流は大谷だけじゃなかった」「バースが日本シリーズで打点は31年ぶり」など、30年以上経った今も野球ファンの多くは「バース」という登録名に敏感である様に、人気の程が伺える。

選手としての特徴

テンプレート:スポーツ選手の出典明記

打撃

バースが高い成績を残せた理由としては、苦手としていた速球投手が日本に少なかったこと、日本に順応しようと努力していたことが挙げられている。掛布雅之が浜風の強い甲子園対策として身に付けていた独特の流し打ちを伝授したこともバースの打撃の幅を広げ、持ち前のパワーと相まって驚異的な成績を残すことになる。狭い球場や左方向に強い風が吹いているときには、軽く流しただけでレフトスタンドへの本塁打になるほどだった。1985年の日本シリーズ第1・2戦の本塁打などはその典型である。ちなみに、メジャー時代はそのパワーから 「ニューヨークからロスまで飛ばす男」と呼ばれていた。

他にも、長崎啓二の打撃を徹底的に研究しており、長崎が打った日本シリーズ第5・6戦のホームランを指し、「ボクのホームランはたまたま風に乗っただけだよ。その点、ナガサキのホームランは本物だった」と絶賛していた。また川藤幸三に色々な面で世話になったことから、今でも「カワトウには感謝している」と語っている。ある特集番組では「三冠王を獲ることができたのはカケフのおかげである」と語ったこともある。

規定打席に到達した5シーズンのうち、OPSでリーグ1位を3回、リーグ2位を2回記録している。

日本では記録に残る活躍をしたバースだが、『実録スポーツヒーロー列伝 松井秀喜物語』での作中によると、日本風の打撃にした自分のスイングではメジャーの直球は打てないと考えていた。

守備

一塁手としての守備範囲は狭かったが捕球は堅実で、多くのファインプレーでチームのピンチを救った。1985年の日本シリーズでは、当初対戦相手の西武の広岡達朗監督が「阪神の弱点はバースの守備」と公言していたが、10月27日の第2戦7回1死一三塁で辻発彦がカウント1ストライク2ボールでの4球目に実行したプッシュバント・スクイズを右手(素手)でつかみ、三塁走者の秋山幸二を本塁で封殺したプレーなどで日本一に貢献[12]。広岡は評価を改めて「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」とコメントした。来日一年目は一塁手以外にも、外野手、主に右翼手として出場していたが、来日前から懸念されていた守備力の低さを露呈してしまっていた。1983年のシーズンにはバースの他にキム・アレンスティーブ・ストローターのいずれも外野手二人がおり、守備力の劣るバースはこの二人にポジションを譲ることが幾度とあった。しかしアレンは怪我のため5月に解雇、ストローターも6月に外国人投手を補強するために解雇され、バースもベテランの一塁手藤田平からポジションを奪い、何とか一塁手に定着することができた。しかし、83年オフに、守備力の低さを理由に、一時は解雇も検討されることとなってしまう。翌1984年オフにも解雇の話は持ち上がったが、再任となる吉田義男監督が守備力の低さを差し引いてもお釣りがくる打力であると、解雇に反対し残留した。

人物

名前

名字は正しくは「バス[bæs]と発音する[13]が、当時阪神バスが球団親会社である阪神電鉄の直営事業だったこともあって、好調時に「阪神バス大爆発」、怪我をしたときに「阪神バス故障」、不振時に「阪神バス急ブレーキ」「阪神バス大渋滞」などとマスコミに揶揄されるのを嫌った球団側の配慮で、あえて音を延ばした「バース」を登録名とした[14]

ひげ

バースのひげは彼のトレードマークだったが、1986年のキャンプ前、ジレット社のひげ剃り広告でひげを剃った姿を披露し、ファンを驚かせた。この広告は2日連続で新聞に掲載されたもので、最初の日が「明日の俺を見てくれ」というキャプションでひげ剃り前の写真、翌日がひげ剃り後の写真であった(ティーザー広告)。テレビコマーシャルも放送されており、「俺はひげをそれない」とひげをそる前にコメントし、その後ひげをそって「剃刀の三冠王」と宣伝していた。

開幕に備えて来日した時にはひげは元通りになっていたが、この“ひげ剃り料”は当時として破格の1億円であった。なお、起用したジレット社の経常利益は約100億円になった。ただし1983年の来日当初はあごひげがないなど、後年おなじみとなる風貌とは若干異なっていた。

好物

神戸牛が大好物である。米国産牛肉の対日輸出問題について「日本人が牛肉にかける思い、情熱を私ほど理解している政治家はアメリカにはいない」「日本人が輸入にナーバスになる心情が良く理解できる」と語っている。また甲子園球場内のうどんも好んで食べていた。

私生活

私生活では阪神退団後に離婚するが、のちに再婚して1児をもうける。幼いころに重病を患った長男は結婚し、グッドイヤーに勤めている。また、子供たちも結婚し、3人の孫にも恵まれている。

8歳のときにアメリカの競馬場でホットワーカー(厩務員)をした経験があり[15]、日本では親交があった翻訳家・平尾圭吾のすすめで社台サラブレッドクラブ一口馬主となっていた[15]。2011年時点ではアメリカのローカル競馬に出走する競走馬を5頭所有する馬主となっている[16]

日本で最も成功したといわれる元外国人プロレスラー、スタン・ハンセンとは近所に住んでいたこともあり親交が深い。

ルーテル教会に属し、教会役員(長老)に就いている[8]

阪神在籍中、チームメイトの川藤幸三から将棋を教えてもらっており、それがきっかけで趣味とするようになった。

史上最強の助っ人

2度の三冠王に輝き、阪神の優勝・日本一に貢献した事から、1985年当時を知る阪神ファンからは「神」と呼ばれる事も多い。(当時のセ・リーグチーム名を一文字に略した場合、阪神は「神」になることから新聞やテレビの紹介テロップではバース(神)と書かれた事が多いのも要因。)球界内外からも今でも「史上最強の助っ人」と言われることが多い。高田文夫の著書によれば、モルツ球団が張本勲の打順を3番にした際、4番のつもりの張本は激怒して「4番は誰が打つんだ?!」と関係者に詰め寄るも、「バースです」という答えに暫し沈黙し、「それなら仕方ないな」と納得してしまったという。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1977 MIN 9 19 19 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .105 .105 .105 .211
1978 KC 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1979 MON 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1980 SD 19 57 49 5 14 0 1 3 25 8 0 0 0 0 7 1 1 7 0 .286 .386 .510 .896
1981 69 201 176 13 37 4 1 4 55 20 0 1 3 1 20 1 1 28 7 .210 .293 .313 .605
1982 13 34 30 1 6 0 0 1 9 8 0 0 0 1 2 0 1 4 0 .200 .265 .300 .565
TEX 16 52 48 5 10 2 0 1 15 6 0 0 0 2 1 0 1 7 1 .208 .231 .313 .543
'82計 29 86 78 6 16 2 0 2 24 14 0 0 0 3 3 0 2 11 1 .205 .244 .308 .552
1983 阪神 113 420 371 69 107 15 0 35 227 83 0 1 0 5 39 2 5 57 13 .288 .360 .612 .971
1984 104 407 356 57 116 16 0 27 213 73 1 0 0 4 38 3 9 64 8 .326 .400 .598 .999
1985 126 570 497 100 174 21 0 54 357 134 1 0 0 3 67 5 3 61 14 .350 .428 .718 1.146
1986 126 541 453 92 176 31 2 47 352 109 2 0 0 4 82 18 2 70 9 .389 .481 .777 1.258
1987 123 518 453 60 145 15 2 37 275 79 1 0 0 1 60 13 4 70 8 .320 .403 .607 1.011
1988 22 94 78 9 25 2 0 2 33 8 0 0 0 3 13 0 0 15 5 .321 .404 .423 .827
MLB:6年 130 366 325 24 69 6 2 9 106 42 0 1 3 4 30 2 4 51 8 .212 .284 .326 .610
NPB:6年 614 2550 2208 387 743 100 4 202 1457 486 5 1 0 20 299 41 23 337 57 .337 .418 .660 1.078
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 赤太字は日本プロ野球最高

タイトル

NPB

表彰

NPB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1985年8月24日、対ヤクルトスワローズ17回戦(岡山県野球場)、4回裏に荒木大輔からソロ ※史上142人目
  • 150本塁打:1986年8月19日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(横浜スタジアム)、8回表に遠藤一彦から中越ソロ ※史上82人目
  • 200本塁打:1987年10月3日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、7回表に荒木大輔から2ラン ※史上54人目(外国人選手7人目)
NPBその他の記録
  • 三冠王:2回 (1985年、1986年)
  • シーズン最高打率:.389(1986年)(日本記録)
  • シーズン40本塁打到達スピード1位タイ: 97試合 (1985年)
  • 25試合連続安打(1983年9月6日 - 1983年10月15日)
  • 連続試合本塁打:7(1986年6月18日 - 1986年6月26日)(日本記録)
  • 5試合連続本塁打(1985年4月17日 - 1985年4月22日)
  • 連続打数本塁打:4(1986年5月31日 - 1986年6月1日)(日本タイ記録)
  • 連続試合打点:13(1986年6月18日 - 1986年7月4日)(日本記録)
  • シーズン最多勝利打点:22(1985年)(日本記録)
  • 連続試合勝利打点:4(1985年10月9日 - 1985年10月14日)
  • オールスターゲーム出場:3回 (1985年 - 1987年)

背番号

  • 2 (1977年)
  • 7 (1978年)
  • 41 (1979年)
  • 5 (1980年 - 1982年)
  • 35 (1982年)
  • 44 (1983年 - 1988年)

関連情報

書籍

  • ランディ・バース著 平尾圭吾訳 『バースの日記。』(集英社, 1990年)ISBN 4-08-749685-6
  • 平尾圭吾著 『この一年バースが言いたかったこと: オレはオレのやり方でやった』(徳間書店, 1985年)ISBN 4-19-503172-9

脚注

  1. 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年、pp.170 - 172。阪急はブーマー獲得に際して、ミネソタ・ツインズから求められた移籍金を含めて3000万円を支払ったが、それでも競り合いで吊り上がったバースの年俸よりは安かったという。
  2. 2.0 2.1 日刊スポーツ(大阪版),2017年1月26日付4面『あの猛虎は今』
  3. この年、5月24日から29日にかけての6連戦では、ストローターが6試合全てで3番スタメンだったのに対し、同じく左打ちだったバースは6番か7番、しかもスタメン起用はうち4試合だけ(他の2試合は代打と欠場)であった[2]
  4. TBS「S☆1 Jスポ」2009年7月12日放映「阪神伝説の3連発トリオ・・・バース・掛布・岡田ぶち抜きSP!」での槙原寛己の会話より。
  5. ここまでの記述の出典は、講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」274-275ページ
  6. 2013年にウラディミール・バレンティンが.779で記録を更新。“バレンティンが歴代最高長打率 86年のバース上回る”. 朝日新聞デジタル. (2013年10月8日). オリジナル2013年10月10日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131010004435/http://www.asahi.com/sports/update/1008/JJT201310080009.html 
  7. 過去の三冠王獲得者では、1974年の王貞治と、1982年・1985年の落合博満はいずれも所属チームが優勝しなかったがMVPに選出されている。
  8. 8.0 8.1 オクラホマ州議会公式HPでのバースの紹介 オクラホマ州議会-Senator Randy Bass - District 32
  9. 9.0 9.1 Randy Bass' Biography - The Voter's Self Defense System - Vote Smart 2017年12月7日閲覧
  10. 10.0 10.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「ballotpedia」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  11. 元阪神のバース氏が100万円寄付=平城遷都1300年祭に
  12. 【10月27日】1985年(昭60) “神様、仏様、バース様”、守備でも魅せた!”. スポーツニッポン (2007年10月27日). . 2012.9.28閲覧.
  13. 名字が同じく「Bass」である、2007年に東北楽天に所属したアダム・バス(Adam Bass)、2016年に北海道日本ハムに所属したアンソニー・バス(Anthony Bass)も、ともに同じく「バス」と発音する。アンソニー・バスは登録名を同じく「バース」としたが、アダム・バスは登録名はそのまま「バス」とした。
  14. 水本義政によると、当初のプレスリリースでは「Bass(バス)」という表記だった。バースがアメリカ時代に足を故障して走れないことを知っていた水本は、打っても「阪神バス、エンストばかり」打たなくても「阪神バス、ブレーキ」と書かれると球団フロントに指摘したところ、「バスではなく、バースである」と訂正発表されたという。バースが初年度に17打数ノーヒットだった時は「バスだとバスストップになっていた」という球団フロントのブラックジョークも出たとされている。出典:ベースボールマガジン2012年1月号63ページ
  15. 15.0 15.1 「馬家先生のパカパカ問答 (9) ゲスト R・バースさん」、『優駿』、日本中央競馬会、1985年11月、 72-73頁。
  16. 夕刊フジ 2011年9月13日号
  17. 歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. . 2017閲覧.

関連項目

外部リンク