ジョン・レノン
ジョン・レノン John Lennon | |
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基本情報 | |
出生名 |
ジョン・ウィンストン・レノン John Winston Lennon |
生誕 | 1940年10月9日 |
出身地 | イングランド リヴァプール |
死没 |
1980年12月8日(40歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク |
学歴 | リヴァプール・カレッジ・オブ・アート卒業 |
ジャンル |
ロック フォーク サイケ ロカビリー等 |
職業 |
ミュージシャン シンガーソングライター 作詞家 作曲家 編曲家 音楽プロデューサー 芸術家 画家 |
担当楽器 |
ヴォーカル ギター ハーモニカ ベース マンドリン バンジョー ピアノ キーボード オルガン |
活動期間 |
1957年 - 1975年 1980年 |
レーベル | EMI |
共同作業者 |
クオリーメン→ザ・ビートルズ プラスティック・オノ・バンド エルトン・ジョン |
公式サイト | www.johnlennon.com |
著名使用楽器 | |
リッケンバッカー・325 エピフォン・カジノ ギブソン・J-160E ギブソン・レスポール・ジュニア | |
ジョン・ウィンストン・オノ・レノン (John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 - 1980年12月8日) はイギリスのミュージシャン、シンガーソングライターである。イギリスのロックバンド、ザ・ビートルズのオリジナル・メンバーで、主にボーカル・ギター・作詞・作曲を担当した。レノン=マッカートニー名義でポール・マッカートニーと共にビートルズの作品の多くを作詞作曲した。ビートルズ解散後はソロとしてアメリカを拠点に妻であるオノ・ヨーコと共に活動した。1980年に死去した。息子にシンシア・レノンとの間に生まれたジュリアン・レノンとオノ・ヨーコとの間に生まれたショーン・レノンがいる。
出生名はジョン・ウィンストン・レノン (John Winston Lennon)。オノ・ヨーコとの結婚に際しジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名した。1965年にMBE・大英帝国第5級勲位を受賞したが、後に英国のベトナム戦争支持を理由に返上した。
Contents
概説
ロックバンド、ザ・ビートルズを立ち上げたリーダーであるほか、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作しメイン・ヴォーカルをつとめた。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後1980年に活動を再開するも、同年12月8日(月)23時頃(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性に射殺された。
『ローリング・ストーン』誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第5位。同誌の「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第38位、「歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第3位、「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第55位、『Q誌』の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第5位である[1]。
代表曲
『ギネス・ワールド・レコーズ』では、最も成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。ビートルズ時代には、「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」、リード・ヴォーカルを採る「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」「デイ・トリッパー」「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「愛こそはすべて」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「カム・トゥゲザー」を発表した。また、ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「ワーキング・クラス・ヒーロー」「女は世界の奴隷か」「ハッピー・クリスマス」「ジェラス・ガイ」「マインド・ゲームス」「真夜中を突っ走れ」「インスタント・カーマ」「平和を我等に」「マザー」「夢の夢」[2]などを発表した。カバー曲の「スタンド・バイ・ミー」「ビーバップ・ア・ルーラ」も出している。
生涯
生い立ち
- 幼年期
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、アイルランド系の父・アルフレッド・レノン(1912 - 1976)は商船の乗組員[3]として航海中で不在。母・ジュリア(1914 - 1958)も他の男性と同棲していたので、母親の姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級のメアリー(1903〜91)夫婦に育てられる。ミドルネーム(ウィンストン)は当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルに因む。
ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった[4]。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年、父・アルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らしたが母・ジュリアがジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、再びミミ夫妻に育てられる。父は蒸発した。
ビートルズ・デビューまで
- 少年時代
実の両親に育てられなかったからか少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こす事が多かったという。1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージ(1903 - 1955)が死去した。
ジョン・レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[5]。さらにジョンは1956年には、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。当時からギター・ヴォーカルを担当していた。
- ポール、ジョージとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[6]。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーなどアメリカのロックンロールに夢中になった。1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。間もなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
- 母の死
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはね死亡させる事件が起こった[7]。母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、既に(1956年、14歳の時)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになった。
- ハンブルク時代
この頃からリヴァプールだけでなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた[8]。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」やザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。
1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。[9]また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るが間もなく20代で脳腫瘍のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年12月、ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者たるブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[10]、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇した。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーたるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日(金)「ザ・ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
最初の結婚
1962年8月23日にシンシア・パウエルと結婚した[11]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[12]。
1963年4月8日に長男・ジュリアン・レノンが誕生した。しかし、両親と生活したことが無いジョンは、ジュリアンにどう接して良いか分からないので「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らは良い友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。ヒッピー文化の影響を受けたジョンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファーロウ、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている[13]。
キリスト発言
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーブとのインタヴューでジョンは次のような発言をした[14]。
- 「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」
この発言はイギリスではほとんど問題に成らなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止しビートルズのレコードやグッズが燃やされた。スペインおよびヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。
- 「僕がもし、"テレビがイエスより人気がある" と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでもなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」
「僕はたまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今の彼らは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」
ローマ教皇庁による赦免
ジョンの死後四半世紀を経た2008年11月、ヴァチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」は、ローマ教皇庁がジョンの発言を赦したという記事を発表した。これは、1966年に発表されたものを再度掲載したものである。教皇庁は、有名になった若者が豪語したにすぎない、予想外の成功による自慢話だという見解を示した[15][16]。同紙は2010年4月には、ビートルズを称賛する記事を掲載した[17]。
ジョンとヨーコ:ベトナム反戦運動
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演した。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで、彼は後に2人目の妻となるオノ・ヨーコに出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいた事もあり日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見たヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である[18]。
2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間にヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通していた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請し11月8日に離婚が成立した。
1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後間もなくジョンは「ミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルに因み付けられた)をOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められずパスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。
彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やヴェトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのヴェトナム戦争支持を受け大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 'War Is Over (If You Want it)'(1971年)の街頭広告を行った。69年にジョンは、カリフォルニア州知事選挙出馬を発表したティモシー・リアリーを支援する目的で「カム・トゥゲザー」を発表した[19]。ティモシー・リアリーは、共和党右派のロナルド・レーガンに対抗して出馬しようとしたものだったが、結局出馬できなかった。「カム・トゥゲザー」については、チャック・ベリーの曲の権利を所有するモーリス・レヴィがジョンを相手どって訴訟を起こしている[20]。レヴィの言い分は、カム・トゥゲザーがチャック・ベリーの「ユー・キャント・キャッチ・ミー」の盗作であるというものだった。裁判は結局、和解で終結し、ジョンがアルバムの中にチャック・ベリーとリー・ドーシーのカバー曲を収録することが条件となった。なお、チャック・ベリーは裁判を起こすような人物ではなく、後にジョンをステージにあげ、共に歌ったりしている。ピーター・バラカンは2つの曲について「盗作というほど、ひどく似ているわけではない」とラジオ番組で論評した。
ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。
ソロ・キャリア
ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いたるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。
1969年、シングル『平和を我等に』、『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。
1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。
1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。
1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した (発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)などもおこなった。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[21]。この様な理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続をとり続けた[22]。
1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーと共に、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。
1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム、『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。
1974年3月からはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』 (Walls And Bridges) を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、『イマジン』以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」 (全米1位)、「夢の夢」 (同9位) がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には『失われた週末』を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした (全米6位)。
1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの『ヤング・アメリカンズ』 (3月発表) でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニヴァース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタヴューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集『シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡』を発表した。
1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。
1980年代
1980年にはジョンは、友人のデヴィッド・ピールのアルバム「ジョン・レノン・フォー・プレジデント」に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。最後の年、ジョンはB-52s、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタヴューの中で否定している。
1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米1位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた(アルバムも全世界で500万枚以上セールス)。没後、1982年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
音楽性の発展
ビートルズ時代
1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。ジョンのこうした作風と、ポールの春の日差しのような明るくポジティヴな作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。
ビートルズにおけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。「恋する二人」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。ポール作曲の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うのメロディーは、ポールの楽天的に聴こえるメロディーに、ジョンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらしたとジョンは述べた[23]。なお、「ミッシェル」のような曲はブルージーとは呼ばない。ブルージーなのは「カム・トゥゲザー」のような曲を指す。
後期には、レゲエやロックステディのリズムを持つポール作曲の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」[24]で、レノンは冒頭のピアノを演奏。後期は単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの曲を発表した。
ソロ時代
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。
また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期 (1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。
さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタヴューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[25]。『心の壁、愛の橋』の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式[26]を踏襲した楽曲構成をおこなった。
わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタヴューで述べている[25]。
編曲・プロデュース
『レット・イット・ビー』でのアレンジを高く評価したレノンはビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」に続いて、ソロ前期『ジョンの魂』『イマジン』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用した。スペクターは、ストリングスを用いた厚い音による編曲が特徴で、「音の壁 (Wall Of Sound)」で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた[25]。
ソロ後期の『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックンロール』、復帰後の『ダブル・ファンタジー』では、セルフ・プロデュース(『ロックンロール』では一部をフィルスペクターが担当、『ダブル・ファンタジー』はジャック・ダグラス、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった[27]。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言 (デヴィッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど) がある[28]。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[29]、大人向けのロックを創造した[30]。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ[31]、分散和音的なアプローチも取り入れている。『心の壁、愛の橋』ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。
また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」、「マザー」、「愛の不毛」、「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える[32]。
ポール・マッカートニーとの関係
ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミも知られていた。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり[33]、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になるなど、深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かう中、1970年代も中頃になると、マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行なった際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行ない、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカヴァーするなどしている。
ジョンとポールが最後に会った日はテレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」、「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとてもうれしかった」と述べている。
またレノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。また殺害された1980年12月8日(月)取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった。」[34]と述べている。
同世代・次世代のミュージシャンへの影響
ポールと並び、ロック界では最も影響力のあったミュージシャンとして知られる。ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソンらが挙げられる[35]。他にもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールらも影響を受けている。
ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている[36]。Nowhere誌の中で、元ポリスのスティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。
1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ヴォーカルの電気処理を導入したことでも知られる。
日本との関わり
ビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している[37]。 また、2人で歌舞伎隅田川を観劇し、感涙したという。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[38]。
1977年から1979年には、ヨーコ、ショーンと毎年訪日し、東京や京都、小野家の別荘がある軽井沢で夏を過ごした(合計約9ヶ月)。軽井沢では万平ホテルの旧館2階にも宿泊し、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[39]。
日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時に共にインタビューを受けた加山雄三(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻の下で過ごした時期のある横尾忠則[38]、訪日時に食事を共にした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京のラジオインタヴューを受けている[40]。写真家の篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』、『ミルク・アンド・ハニー』のカヴァー写真を撮影している。
日本での売り上げで、シングルでは「マザー」と「イマジン」、「スターティング・オーヴァー」、「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」の他もオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。
ジョン・レノン殺害事件
1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーン』掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。
フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。
一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタヴューを受ける。この最期のインタヴューで、レノンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている[41]。
22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた! (I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
警官の到着時にレノンはまだ、かすかに意識があったが、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズヴェルト病院に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時過ぎに死亡した。満40歳没(享年41)。レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かってるのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた[42]。
病院でレノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と質問したという[43]。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。
レノンの殺害に関して、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに仮釈放が有り得る無期刑が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2016年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが「本人が反省していない。再犯する確率が高い。レノンの遺族が釈放に強く反対している。釈放されたらレノン・ファンに殺害される危険性がある」として仮釈放申請を却下され現在も服役中である。
この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。カナダに滞在中だったリンゴは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。ブライアン・フェリーとロキシー・ミュージックは「ジェラス・ガイ」を、ポール・マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ジョージ・ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分したザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは「ジョンを殺した犯人に対して憎しみが薄れる事は無く、増すばかりだ」。キースの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していた。
日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催である追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォト・セッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イヴェントが行なわれている。
ディスコグラフィ
音楽作品についてはジョン・レノンの作品を参照。
EMIミュージック・ジャパン (旧 東芝EMI) リリース作品についてはhttp://www.emimusic.jp/international/artists/johnlennon/も参照。
映像作品
フィクション
- ジョン・レノンの 僕の戦争 - How I Won The War(1967年)[映画 & VHS & LD & DVD]
音楽ビデオ・クリップ集
- ジョン・レノン・ビデオ・コレクション - THE JOHN LENNON VIDEO COLLECTION [VHS & LD]
- レノン・レジェンド - LENNON LEGEND(2003年)[DVD]
ライヴ演奏
- スウィート・トロント - SWEET TORONTO [VHS & LD & DVD]
- ジョン・レノン・ライヴ - LIVE IN NEW YORK CITY(1986年)[VHS & LD]
- ワン・トゥ・ワン - ONE TO ONE [VHS & LD]
ドキュメンタリー・記録
- イマジンージョン・レノンー - IMAGINE: JOHN LENNON (1988年) [映画 & VHS & LD & DVD]
- PEACE BED アメリカVSジョン・レノン - THE U.S. VS JOHN LENNON (2006年) [映画 & DVD]
- ザ・ビートルズ・アンド・ビヨンド - THE BEATLES AND BEYOND [VHS & LD]
- メイキング・オブ・『ジョンの魂』 - (2008年) [DVD]
- イマジン - IMAGINE: THE FILM [VHS & LD]
- ギミ・サム・トゥルース - GIMME SOME TRUTH (2000年) [VHS & DVD]
- JOHN&YOKO ザ・ディック・キャベット・ショー [DVD]
- ジョン&ヨーコ イン マイク・ダグラス ショー - the mike douglas show with lennon ono [VHS & DVD]
- ジョン・レノン&オノ・ヨーコ イヤー・オブ・ピース (2002年) [DVD]
- ジョン・レノン,ニューヨーク (2010年) [映画 & DVD & Blu-ray]
ジョン・レノンを題材とした作品
- 『僕たちの時間』(1991年) [映画 & VHS]
- 『バック・ビート』(1994年) [映画 & VHS & LD & DVD]
- 『ジョン・レノン/青春のビートルズ』(2000年) [テレビ映画]
- 『ジョン・レノンを撃った男』(2007年) [映画 & DVD]
- 『チャプター27』(2007年) [映画 & DVD & Blu-ray]
- 『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』(2009年) [映画 & DVD & Blu-ray]
- ジョン・レノンの魂〜アーティストへの脱皮 苦悩の時代〜(Lennon Naked (2010年) [テレビドラマ]
書籍
自著
- 『絵本ジョン・レノンセンス』 片岡義男、加藤直訳 晶文社 1975年12月 のち筑摩書房(ちくま文庫)2011年 のち晶文社 新版 2013年11月 - In His Own Write (1964年)
- 『らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集』 佐藤良明訳 筑摩書房 2002年12月 - A Spaniard in the Works (1965年)
- 『空に書く ジョン・レノン自伝&作品集』森田義信訳 筑摩書房 2002年12月 - Skywriting by Word of Mouth (1986年)
- 『Ai ジョン・レノンが見た日本』(序:オノ・ヨーコ)筑摩書房(ちくま文庫)2001年12月 - Ai: Japan Through John Lennon's Eyes: A Personal Sketchbook (1992年)
- 『リアル・ラヴ ショーンのために描いた絵』(序:オノ・ヨーコ)徳間書店 2000年5月 - Real Love: The Drawings for Sean (1999年)
- 『ザ・ビートルズ・アンソロジー』ザ・ビートルズ・クラブ、島田陽子訳 リットーミュージック 2000年9月 - The Beatles Anthology (2000年)
インタビュー
- ヤーン・ウェナー著 片岡義男訳『ビートルズ革命』 草思社 1972年4月
のち改題『回想するジョン・レノン : ジョン・レノンの告白』新版 1974年6月
のち改題『レノン・リメンバーズ』(序:オノ・ヨーコ)同社 2001年7月
- Lennon Remembers: The Full Rolling Stone Interviews from 1970 (2000年) - アンディ・ピーブルズ著 北山修訳『All that John Lennon』中央公論新社 1981年2月
のち改題文庫版『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』同社(中公文庫)2001年11月
- Lennon Tapes Paperback (1981年) - 『ジョン・レノン PLAYBOYインタビュー』PLAYBOY編集部編 集英社 1981年3月
のち全貌版 デービッド・シェフ著 石田泰子訳『ジョンとヨーコ ラストインタビュー : Love & peace』同社 1990年11月
- The Playboy Interviews With John Lennon and Yoko Ono (1981年) - 『ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980』 ジェフ・バーガー編 DU BOOKS 2018年3月
Lennon on Lennon: Conversations with John Lennon (2016年)
第三者による伝記
- シンシア・レノン著 江口大行、シャーロット・デューク共訳『素顔のジョン・レノン : 瓦解へのプレリュード』 シンコーミュージック・エンタテイメント 1981年4月
- A Twist of Lennon (1980年) - レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 1986年8月
- John Winston Lennon Volume 1 1940-66 (1984年) - トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳『ジョン・レノン : 愛こそはすべて』(解説:片岡義男)佑学社 1987年11月
- ケヴィン・ホウレット、マーク・ルイソン著 中江昌彦訳 『ジョン・レノン IN MY LIFE』 日本放送出版協会 1991年11月
- マイケル・ホワイト著 乾侑美子訳『ジョン・レノン 』 偕成社(伝記 世界の作曲家12)1999年4月
- レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 2002年5月
- - Lennon: The Definitive Biography : Anniversary Edition (2000年)
- ジェフリー・ジュリアーノ著 遠藤梓訳『ジョン・レノン : アメリカでの日々』 WAVE出版 2003年11月
- - Lennon in America: 1971-1980, Based in Part on the Lost Lennon Diaries (2001年)
- シンシア・レノン著 吉野由樹訳『ジョン・レノンに恋して』 河出書房新社 2007年3月
- JOHN (2005年) - メイ・パン著 山川真理訳『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド : Instamatic Karma』 河出書房新社 2008年11月
- ジョナサン・コット著 栩木玲子訳『忘れがたき日々 : ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして』 岩波書店 2015年12月
主な使用楽器
アコースティック・ギター
- ギブソン・J-200
- アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持っている写真が確認されている。
- フラマス・12弦ギター
- 映画『ヘルプ!4人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター。
- マーティン・D-28(Martin D-28)
2台の所有が写真で確認され、1台目はポールと同時期のもので67年製、 もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期〜後期の物である。
エレクトリック・ギター
- ヘフナー・クラブ40(Hofner Club40)
- ジョンが初めて入手したエレキギター。1959年製。ショートスケール。1959年にジョンが伯母のミミと一緒にリヴァプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。2台目のリッケンバッカー・325を手に入れると、ジョンはクラブ40をしばらくポールに貸したりした後に売却した。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
- ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・ヴァイブローラが付けられていた(後にビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。トゥーツ・シールマンスをハンブルク巡業で見て影響されて購入した。1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、『エド・サリヴァン・ショー』の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに割れが生じていたためか、白いアクリル製のものに交換されていた。この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、さいたまスーパーアリーナ内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。
- また、2002年にはリッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器を主に扱っているギター・ショップ「with」でリペアを担当する大金直樹に依頼。大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。現在は生産終了となっている。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
- ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた2本目のリッケンバッカー。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームが付いているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは、3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまい、ネックが破損する。1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中スタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
- 1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見ると、ネック裏の傷がはっきり見て取れる。また、ビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
- 1965年、ポール・マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じてプレゼントされたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。
- リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
- ジョンが、リッケンバッカー社に特注した、325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」。
- 本来、325など末尾に5が付くモデルはトレモロ・アーム付きだが、このギターが製作された時期は、まだそれが徹底されておらず、このギターもアームが付いていないにも関わらず325-12となっているが、1964年より、末尾に5が付くモデルはアーム付きであることが徹底されたため、320-12と改番された。
- 現在は、オノ・ヨーコが所有。
- ギブソン・J-160E(1本目)
- 1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・ギター。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプはJ-45と同じだが、ネックのジョイント位置が異り、ボディ内部の構造も異なる、J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とは全く違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。
- ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな要素となっている。
- カヴァーのないP-90ピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。1963年末に紛失。当時は盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと発言していたが、ジョージは「運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになった」と発言していた。実際には盗難されており、カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたジョンのギターを購入していた。2015年にこのギターはアメリカで発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、ジョンの使用していた現物であると正式に認定され、その後オークションにかけられ、約3億円という価格で落札された。ちなみに最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明。この2本は全く同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。
- ギブソン・J-160E(2本目)
- 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスティック製になる。
- ジョンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらと共に塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取り付けられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されていた。実物はアメリカ・オハイオ州クリーヴランドにあるロックの殿堂に展示されている。
- フェンダー・ストラトキャスター
- ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。主に『ラバー・ソウル』レコーディング・セッションで、ヴォックスAC30に繋いで使用。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル(さらにリフィニッシュして『コンサート・フォー・バングラデシュ』で使用)のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
- エピフォン・カジノ
- 以前から同器を使用していたポール・マッカートニーに勧められてジョージ・ハリスンと共に1965年に購入。ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の『ラバー・ソウル』セッションにおいて使い始め1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。日本公演でも使用した。
- 元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の『サージェント・ペパーズ〜』レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。同年の「愛こそはすべて」の衛星中継リハーサルにて、ジョージがこのギターを借りて使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装を剥がして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。このころビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後、1971年の『イマジン』レコーディング・セッションまで使用。その後、コレクションとして大切に保管していた。
- ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため、音が若干柔らかめになっている。
- ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブと共に展示されていた。
- ギブソン・レスポール・ジュニア
- 1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時ジョンは、ボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、マーリーが同じモデルを使用していたため、それに倣って入手したという。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、1972年8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたチャリティ・コンサート『ワン・トゥ・ワン』での使用が最も有名。
- ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。
- また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、福山雅治やASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文らが愛用している。
アンプ
- ヴォックス・AC30(VOX AC30)
- ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)のレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。なおライヴでも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR(PA)システムでは巨大な会場でのライヴには向かなかった。
- ヴォックス・AC50(VOX AC50)
- ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC100, VOX AC200)
- ライヴにおいて観客からほとんど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライヴのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。
- フェンダー・ツインリヴァーブ
- 主にビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライヴや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画『レット・イット・ビー』にて使用されている様子を確認できる。ジョンは、フェンダー・ベースVIを接続して演奏していた。
その他
- ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)
- いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。
- (レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われた時、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている)。初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。
- ホーナー・クロモニカ(M.HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳)
- 「ラヴ・ミードゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。これは、ブルース・ハープ等の10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。レノン自身もBBCライヴにおける司会者とのやり取りの中で、10穴ハーモニカを「ハープ」、クロマチック・ハーモニカを「ハーモニカ」と呼んで区別している。
- Gallotone Champion guitar body.jpg
ギャロトーン・チャンピオン
ジョンが最初に入手したギター(叔母のミミに買ってもらった)で、ポールとの出会いの場でも使われたギター。写真はジョンのものとほぼ同一の仕様だがテールピースの形状が異なる。現物はジョン・レノン・ミュージアムにて展示 - Guitarras de Lennon.jpg
リッケンバッカー・325(58年製改造)とギブソン・J-160Eとヴォックス・アンプ
購入時の325はメイプル・グローだが、後に黒く塗った。 - Rickenbacker 325C64.jpg
リッケンバッカー・325C64
64年製(ジョン使用の2台目)の復刻。 - Gibson J-160E 1964(SB).jpg
ギブソン・J-160E
1964年製 - Gibson J-200.jpg
ギブソン・J-200
- Epiphone Casino SB.jpg
エピフォン・カジノ(サンバースト)
塗装を剥がす前の仕様に近く、ピックガードのEマークも現行のものと異なり、ジョンモデルと同様にフラットなタイプ。 - Epiphone Casino Revolution.jpg
エピフォン・カジノ
レヴォリューションモデル。塗装を剥がした状態のレプリカモデル。 - Gibson Les Paul John Lennon Jr.jpg
ギブソン・レスポール・ジュニア
写真のはその仕様を復刻したモデル。
参考・脚注
- ↑ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). . 2013閲覧.
- ↑ http://www.discogs.com/John-Lennon-9-Dream/.../2315685
- ↑ http://mccartney.com/?page_id=7117
- ↑ http://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/.../post17
- ↑ http://www.allmusic.com/artist/lonnie-donegan.../biography
- ↑ ジョンとポールは近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会った事はなかったという。
- ↑ 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。
- ↑ ドキュメンタリー「ビートルズ・シークレット・ストーリー」
- ↑ スチュアートと並んでベースを演奏している写真がある。
- ↑ [John Lennon:The Life] Philip Norlan著
- ↑ [John Lennon:The Life] Philip Norlan著
- ↑ ドキュメンタリー映画「ビートルズ・シークレット・ストーリー」より
- ↑ http://thebeatlesinindia.com/stories/meeting-the-beatles/
- ↑ 「ジョン・レノン その生と死と音楽」河出書房新社
- ↑ 「25.キリスト発言」『All You Need Is THE BEATLES』斉藤早苗監修、宝島社、2017年1月19日。76-79頁。ISBN 4-80026-523-1。
- ↑ ローマ法王庁、J・レノンの「キリスト」発言を許す ロイター通信 2008年11月23日
- ↑ カトリック総本山、ついにザ・ビートルズを許す BARKS 2010年4月13日
- ↑ 「ジョン・レノン その生と死と音楽」河出書房新社
- ↑ http://www.songfacts.com/detail.php?id=191
- ↑ http://www.beatleswiki.com/wiki/index.php/Come_Together
- ↑ 『ジョン・レノンの真実 ― FBI監視記録 DE‐4〜HQ‐33』 (ジョン・ウィーナー著、角川書店、2000年)。また、一連の事件をまとめた映画『PEACE BED/アメリカ vs ジョン・レノン』が2006年に公開された (日本公開は翌年)。
- ↑ ジョンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的にジョン側が勝訴した。
- ↑ PLAYBOY編集部 『ジョン・レノンPLAYBOYインタビュー』 集英社、1981-3-10。
- ↑ ただしこの曲は実質的にはポール・マッカートニー作詞作曲で、ジョンは嫌っていた。
- ↑ 25.0 25.1 25.2 ジョン・レノンラスト・インタビュー (文庫) ジョン・レノン (著)、John Lennon (著)、オノ・ヨーコ (著)、アンディ・ピーブルズ (著)、Andy Peebles (著)、池澤 夏樹 (著) 中公文庫
- ↑ ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著 東京書籍
- ↑ シンコーミュージック刊: ジョン・レノン全曲解説 ジョニー ローガン (著)、Johnny Rogan (原著)、丸山 京子 (翻訳)
- ↑ シンコーミュージック刊: ギターマガジン、トニー・レヴィン特集、インタヴュー所収記事
- ↑ シンコーミュージック刊: ギターマガジン、ジョンレノン特集、スピノザ・インタヴュー所収記事
- ↑ ミュージックマガジン刊: レコードコレクターズ2002 vol.12, No.12, 96ー99サエキけんぞう
- ↑ ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著
- ↑ ビートルズのつくり方」1994 山下邦彦 著
- ↑ 『ラム』でのマッカートニーのレノンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど
- ↑ 「ジョンレノン 愛の遺言」 (講談社1980年12月8日収録インタヴュー、1981年刊行)
- ↑ 雑誌「ローリングストーン」において。
- ↑ [1]
- ↑ シンコーミュッジック刊、1972年 ビートルズの軌跡所収、水原健二インタヴュー、1971 (昭和46) 年1月21日、372p
- ↑ 38.0 38.1 河出書房新社刊 別冊文藝 ジョンレノン所収
- ↑ ニューヨークで日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本(ちくま文庫・2001年)として出版された
- ↑ ミュージックマガジン、ジョンレノンを抱きしめて、1981年、2000年復刊所収
- ↑ このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている
- ↑ Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 687.
- ↑ Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 688.
関連項目
- ザ・ビートルズ
- オノ・ヨーコ(小野洋子)
- ジュリアン・レノン(長男)
- ショーン・レノン(次男)
- プラスティック・オノ・バンド
- ミック・ジャガー
- ベッド・イン
- ジョン・レノン・ミュージアム
- イマジン・ピース・タワー
- リヴァプール・ジョン・レノン空港
外部リンク
- Official John Lennon website, courtesy of Yoko Ono and EMI/Capitol Records
- ジョン・レノン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
- Official "Definitive Lennon" Website
- [2] - Discogs
- 命日コム ジョンレノンのページ