ボブ・マーリー
ボブ・マーリー | |
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基本情報 | |
出生名 | Robert Nesta Marley |
別名 | タフ・ゴング |
生誕 |
1945年2月6日 ジャマイカの旗 ジャマイカ セント・アン教区ナイン・マイルズ |
死没 |
1981年5月11日(36歳没) アメリカ合衆国フロリダ州 |
ジャンル | レゲエ、ロック (音楽) |
職業 | 歌手、ソングライター、ギタリスト |
担当楽器 | ギター、ボーカル |
活動期間 | 1962年 - 1981年 |
レーベル | スタジオ・ワン、ビヴァリーズ、アップセッター、トロージャン、アイランド、タフ・ゴング |
共同作業者 | ウェイラーズ、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ、リー・ペリー他 |
公式サイト | Bob Marley: The Official Site |
著名使用楽器 | |
ギブソンLes Paul Special ヤマハ・SG-1000 |
ボブ・マーリー(Bob Marley、1945年2月6日 - 1981年5月11日、出生名ロバート・ネスタ・マーリー Robert Nesta Marley)は、ジャマイカのレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリ運動の思想を背景としており、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。
Contents
来歴
幼少期
1945年2月6日にジャマイカ・セント・アン教区のナイン・マイルズで、のイギリス海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人のノーヴァル・マーリー (英語) と、ジャマイカ人の セデラ・ブッカー (英語)との間に生まれる[1]。当時、父親は61歳、母親は16歳だった。両親はボブの誕生後すぐに別れた。父親は首都キングストンで、ボブは母親とその家族と共にナイン・マイルズで幼少期を過ごした[1]。
ボブはナイン・マイルズ近郊のステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールに通い、そこで後に共にウェイラーズを結成することとなるネヴィル・リヴィングストンと出会っている[1]。
トレンチタウン
ボブが10歳のときに父が死に、それまで受け取っていた経済的な援助がなくなった。母は息子を連れ職を求めてキングストン郊外のスラム(トレンチタウン)に移り住んだ。ここでバニー・ウェイラーと共に音楽活動を開始し、1959年に14歳のときには音楽に専念するため学校を中退した。
21歳の時に19歳のリタ・アンダーソンと結婚した。
ジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ思想の教えを受ける。
1962年、レスリー・コンのビバリーズ・レーベルから「One Cup of Coffee」、「Judge Not」を発表しプロとしてデビューする。なお、上記2楽曲のシングルにはボビー・マーテル(Bobby Martell)と表記されていた。
ウェイラーズ結成
1963年 ピーター・トッシュらとティーネイジャーズ(後にウェイラーズへと改名)を結成しデビュー。当初は6人組だった。
1970年、キングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。
1972年、アイランド・レコードと契約し、翌年メジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』をリリース。
1973年、アルバム『バーニン』を発表。同アルバムに収録された「アイ・ショット・ザ・シェリフ(I Shot the Sheriff)」を1974年にエリック・クラプトンがカバー。クラプトンのバージョンは全米ビルボードチャート1位を獲得。
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ
1974年、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュがウェイラーズから脱退したため、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして新たに活動を開始して、10月にアルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。
1976年、プロデューサーのクランシー・エクルズらと共に人民国家党 (PNP) の政治キャンペーンに参加したことからマイケル・マンリー率いるPNPと、エドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃され負傷。亡命を余儀なくされる。
1977年、モデルで1976年度ミス・ワールドのシンディ・ブレイクスピアと交際を開始。
1978年 ジャマイカに舞い戻り、4月22日にキングストンで「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演する。このとき、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。7月21日、シンディがダミアン・マーリーを出産する。
1979年には、4月から日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。さらにかねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアをはじめとするアフリカの国々を訪問。このときの体験をもとにアルバム『サヴァイヴァル』を発表している。
1980年 アルバム『アップライジング』発売。 西アフリカ、カンボジアの大統領の誕生日パーティーで演奏。
死
悪性のメラノーマを発症し医師からは親指を切断することを勧められたが、マーリーは宗教的な理由でこれを拒否し、部分切除を行った。やがて腫瘍は全身に転移し、手を付けられない状態まで悪化した。
1981年5月11日、療養先のドイツからジャマイカに向けて帰国の途のつく途中で容態が悪化、アメリカ・フロリダ州の病院で妻と母に見届けられ、死去。最終的な死因は脳腫瘍と癌の肺への転移によるものとされている。36歳没。同月21日、キングストンにて国葬された。
使用楽器
愛用のギターはボディとネックに1ピースマホガニー、指板はローズウッドを使用し、ピックアップにP-90を2基搭載したギブソンのLes Paul Specialであるが[2]、1979年の来日公演時にヤマハ・SG-1000を贈られ、日本、オーストラリア、ニュージーランドでの公演時にはこれを使用した[3]。
影響
家族
- リタ・マーリーとの間に2男(歌手のジギー・マーリー、ステファン・マーリー)2女(ジャロン・マーリー、セデラ・マーリー)。
- Pat Williamsとの間に一男(ロビー・マーリー)。
- Janet Huntとの間に一男(ローハン・マーリー)。
- Janet Bowenとの間に一女(カレン・マーリー)。
- Lucy Pounderとの間に一男(歌手のジュリアン・マーリー)。
- Anita Belnavisとの間に一男(歌手のキマーニ・マーリー)。
- シンディ・ブレイクスピアとの間に一男(歌手のダミアン・マーリー)。
- 孫に歌手のSkip Marley(セデラ・マーリーの息子)、Jo Mersa Marley(ステファン・マーリーの息子)、Daniel Bambaata Marley(ジギー・マーリーの息子)、モデルのセラ・マーリー(ローハン・マーリーとローリン・ヒルの娘)。
マーリーを題材にした作品
- 『「i and i」after Bob Marley 21,000miles』 - ボブの映画助監督であるダラス・ロジャーズ(IZABA)が監督を務めたレゲエ・ドキュメンタリー映画。
- 『ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド』 - ボブ・マーリー財団公認のドキュメンタリー映画。監督はケヴィン・マクドナルド。
ディスコグラフィ
来日公演
- 1979年 4月5日・6日 東京厚生年金会館、4月7日 渋谷公会堂、4月10日 中野サンプラザ、4月11日 大阪厚生年金会館、4月13日 フェスティバルホール
- 4月7日、10日は、1日2回公演で行われた。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 藤川 (1996) p.40
- ↑ Bob Marley Les Paul Special Guitar - www.zuitar.com
- ↑ “Feud Brewing Over Marley Guitar”. www.riddimjamaica.net. 2008年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。
参考文献
- スティーヴン デイヴィス『ボブ・マーリー—レゲエの伝説』晶文社、1986年 ISBN 978-4-7949-5066-6
- 『ボブ・マーリー レジェンド』(2006年)ISBN 978-4-86020-147-0
- 藤川毅、高橋瑞穂、五味俊之、イアン・ボイス、ヤマン・ジャン・ピエール「ボブ・マーリィ 1945 - 1981 LIFE & HIS MUSIC」、『RM レゲエ・マガジン』第47号、株式会社タキオン、1995年6月。