ザ・フー
The Who | |
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基本情報 | |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル |
ロック ハードロック アートロック パワーポップ サイケデリック・ロック プロトパンク |
活動期間 | 1964年 - 1982年, 1989年, 1996年 - 現在 |
レーベル |
ブランズウィック・レコード (米)デッカ・レコード リアクション トラック・レコード MCAレコード ポリドール・レコード ワーナー・ブラザース・レコード ユニバーサル・リパブリック |
公式サイト | ザ・フー 公式サイト |
ザ・フー(The Who)は、イギリスのロックバンド。ビートルズ、ローリング・ストーンズと並び、イギリスの3大ロックバンドの一つに数えられる[1]。
デビュー当初はスモール・フェイセス(のちフェイセズに改名)と並びモッズ・カルチャーを代表するバンドと評された。1969年に発表されたアルバム『ロック・オペラ “トミー”』でロック・オペラというジャンルを確立。また1971年発表の『フーズ・ネクスト』では、当時貴重なシンセサイザーを、後のテクノにも影響を与えたミニマル・ミュージック風に導入するなど、先進的な音楽性を持つバンドに成長するに至る。また、ギターを叩き壊しドラムセットを破壊する暴力的なパフォーマンスと文学性豊かな歌詞世界とのギャップが魅力のひとつでもあった。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第29位[2]。
メンバーと主な担当楽器
正式メンバー
- ロジャー・ダルトリー (Roger Daltrey CBE, 1944年3月1日 - )(ボーカル、ハーモニカ)ライブでは曲によってタンバリンやギターも担当する。
- ピート・タウンゼント (Pete Townshend, 1945年5月19日 - )(ギター、ボーカル、キーボード、シンセサイザー)ザ・フーのメイン・ソングライター。
- ジョン・エントウィッスル (John Entwistle, 1944年10月9日 - 2002年6月27日)(ベース、ボーカル、ブラス、キーボード)
- キース・ムーン (Keith Moon, 1946年8月23日 - 1978年9月7日)(ドラムス)
- ケニー・ジョーンズ (Kenney(またはKenny)Jones, 1948年9月16日 - )(ドラムス)キース・ムーンの死後1979年に加入し、1988年2月8日の英国レコード産業協会 (BPI) 特別功労賞受賞時の再結成ライブまで在籍した。
サポートメンバー
- ジョン “ラビット” バンドリック (John "Rabbit" Bundrick, 1948年11月21日 - )(キーボード、ボーカル)(在籍期間 1979年 - 1981年、1985年 - )
- ザック・スターキー (Zak Starkey, 1965年9月13日 - )(ドラムス)(在籍期間 1996年 - )リンゴ・スターの長男。ドラムを生前のキース・ムーンから直接教わっており、師弟関係にある。
- サイモン・タウンゼント (Simon Townshend, 1960年10月10日 - )(ボーカル、ギター)(在籍期間 1996年 - 1997年、2002年 - )ピート・タウンゼントの実弟。
- ピノ・パラディーノ (Pino Palladino, 1957年10月17日 - )(ベース)(在籍期間 2002年 - )
来歴
1961年~1964年
ザ・フーの前身は、ロジャー・ダルトリーが十代の頃に身近な仲間と共に結成したスキッフルバンド、ザ・ディトゥアーズである。1961年夏、ダルトリーの誘いにより中学校時代の後輩だったジョン・エントウィッスルが加入。1962年1月にはBBCラジオのオーディションに応募するが経験不足を理由に不合格となっている[3]。同年夏、前任のリズムギタリストに代わりエントウィッスルのかつてのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入。タウンゼントの加入から間もなく、ダルトリーより8歳年上で妻帯者でもあるダグ・サンダムがドラマーとして加入する[4]。1964年のメジャー・デビューまでにメンバーは目まぐるしく入れ替わり、1962年の下旬に前任のボーカリストが他のメンバーと衝突し脱退すると、リードギター担当だったダルトリーはボーカルを兼任することになった[5]。
当時の彼らは、ダルトリーは板金工、エントウィッスルは税務署員、サンダムはレンガ積みとそれぞれ日中に仕事があり、またタウンゼントはイーリング・アート・カレッジの学生であったため、音楽活動はもっぱら夜間か休日に絞られた[6]。バンドとしての仕事はタウンゼントの母ベティが手配したり交渉を行ったりしていたが、やがて地元のプロモーターのロバート・ドゥルースと契約し、彼に仕事を回してもらうようになった[7]。また、ダルトリーが板金の仕事でしばしば手を負傷していたため、1963年にはギターを辞めボーカルに専念することにし、タウンゼントがリードギタリストとなった。この頃はダルトリーがバンドの絶対的なリーダーであり、彼の音域でカバーできない曲はレパートリーから外された[8]。
ディトゥアーズの当時の主な演奏レパートリーはベンチャーズやシャドウズ、ビートルズといった最新ヒットのカバーやトラッド・ジャズで[4][8]、オリジナル曲はなかったが、1963年にはタウンゼントが初めて書いた曲が実験的にレコーディングされている。またこの年の秋ごろより、当時のロンドンの音楽の趨勢に影響される形で、レパートリーをヒット曲のカバーから泥臭いシカゴ・ブルースに変えた[8]。ダルトリーは「(レパートリーを変えた事で)今までのファンを全て失い、それを取り戻すのに半年かかった。でもその時にはファンの数が以前の3倍になっていた」と当時を振り返っている[9]。
1964年2月、同名のバンドがいたことが判明し、バンド名の変更を迫られる。いくつかのふざけた名前が候補に挙げられたが、タウンゼントの友人のリチャード・バーンズがザ・フーという名前を提案、ダルトリーの「“ザ・フー”に決まりだろ?」の一声で決定した[10]。2月20日のギグより、彼らはザ・フーの名を冠するようになった[11]。それから間もなく、ドアノブ製造業者のヘルムート・ゴードンに見出され、彼とマネージメント契約を結ぶ[10]。
プロデビューへの光が見えてきた矢先、4月初旬に受けたレコーディング・オーディションで「ドラムに問題あり」と評されたことが引き金となり、タウンゼントとダグ・サンダムが衝突し、かねてからザ・フーの音楽性になじめなかったサンダムはこれをきっかけにバンドを脱退する[12]。後にタウンゼントはサンダムを追い出したことを「人生における最大の後悔の一つ」と語った[13]。すぐに別のドラマーを雇い入れたが(つなぎで入れたドラマーの中には、後にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのメンバーとなるミッチ・ミッチェルもいた[13])、それから間もない4月末頃、ザ・フーのギグ中に客席から一人の男が「俺の連れの方が上手い」と、ある少年をステージに上げた。その少年こそがキース・ムーンだった。ムーンはその激しいプレイでドラムを壊してしまい、度肝を抜かれたメンバーはすぐさまムーンをザ・フーに加入させた[14]。
ハイ・ナンバーズとしてデビュー
ゴードンがフリーランスで活動していたピーター・ミーデンをザ・フーのパブリシストとして雇った事から、メジャー・デビューへの動きが加速する。フォンタナ・レコードと契約を取り付けたミーデンは、バンドを当時流行していたモッズ族として売り出すことを画策し、メンバーにモッズ系の服を着ることを命じ、さらにバンド名をハイ・ナンバーズと改めさせた(「ナンバー」とはモッズの間でストリートにたむろする者を表すスラングで、「ハイ」は彼らがドラッグで常にハイであったことにちなむ)[15]。1964年7月3日、ミーデンが書いた「ズート・スーツ/アイム・ザ・フェイス」(2曲とも実際にはミーデンのオリジナル曲ではなく、既存曲の歌詞を書き替えただけのものである)で、ハイ・ナンバーズはレコード・デビューする。しかしレコードは1000枚しかプレスされず[16]、ミーデンの懸命な宣伝活動の甲斐もなく、デビューシングルは不発に終わる[17]。
7月中旬頃、才能あるロックバンドを探してドキュメンタリー映画を撮ることを夢見ていたキット・ランバートの目に留まったことから、再びバンドの運命が変わる。ハイ・ナンバーズのステージに圧倒されたランバートは、さっそく相棒のクリス・スタンプと共にバンドに接触する。ランバート、スタンプ共に音楽ビジネスの経験はなく、バンド側もはじめは二人を警戒していたが、ミーデンの手法に不満感を抱いていたこともあり、ゴードンとの契約を破棄し、ランバートらと行動を共にする事を決めた[18]。ミーデンも彼らを渡すまいと厳つい用心棒を引き連れて抵抗したものの、8月には250ポンドの手切れ金で追い出され、ディトゥアーズはランバートらと新たなマネージメント契約を結んだ。契約内容は取り分をランバートとスタンプがそれぞれ20%ずつ、残りの60%をメンバーで4等分することでまとまった[19]。なお、ミーデンはこれ以降ザ・フーと一切かかわることはなく、ムーンの死の少し前の1978年7月30日に37才で死亡した。死因は断定されていないが、ムーン同様オーバードースと見られている[20]。
10月、EMIのオーディションを受けるも不合格となるが、プロデューサーのシェル・タルミーに見出され、プロデュース契約を結ぶ事に成功[21]。11月にはブランズウィックとのレコード契約を交わし、バンドは再び“ザ・フー”と改名して再デビューすることとなった[22]。彼らの大音量のライブ、特にギターやアンプ、ドラムを破壊する派手なパフォーマンスは、モッズの若者を中心に評判を呼んでいった。
1965年~1968年
1965年1月にリリースされたザ・フー名義でのデビュー・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は、全英8位のヒット。さらに10月にリリースした3枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」は全英2位という大ヒットとなり、ザ・フーの名を一気にスターダムにのし上げた。彼らの活躍ぶりはポール・マッカートニーをして「ザ・フーの出現は1965年の音楽シーンに於ける最重要事項」と言わしめるほどだった[23]。だが当時のバンド内では常に諍いが絶えず、いつ解散してもおかしくない状態だった。9月にはドラッグの使用をめぐってダルトリーが他の3人と衝突し、あわや脱退というところにまで事態が進んだが、「マイ・ジェネレーション」の大ヒットとランバートらの説得、そして本人の謝罪により、脱退という最悪の事態は免れた[24]。12月、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』をリリース(全英5位)。
翌1966年になってもトラブルは続いた。印税配分の不均衡からプロデューサーのシェル・タルミーと対立し、バンドはタルミーとの契約を破棄し、バンドのエージェントであるロバート・スティグウッドが設立したリアクション・レコードへ移籍する。だが、4枚目のシングル「恋のピンチ・ヒッター」のB面曲である「サークルズ」が、著作権侵害に当たるとしてタルミーがシングル発売の停止を裁判所に訴えた[25][26]。またバンド内の対立も深刻化しており、同年5月にはダルトリーが一時的にバンドを脱退[27]、そのダルトリーが戻ってくると、今度はムーンがダルトリーやタウンゼントと衝突し、バンドを一時的に脱退する。これもランバートらの説得により、1週間後にはムーンは脱退を取り下げた[28]。また当時はエントウィッスルも脱退を考えており、ムーディ・ブルースへの加入を画策していたという[26]。非常に混沌とした時期だったが、この年リリースしたシングル「恋のピンチ・ヒッター」、「アイム・ア・ボーイ」、「ハッピー・ジャック」は全てトップ10入りのヒットとなった。特に「ハッピー・ジャック」は全米24位につけ、アメリカでの初ヒット曲となった。
1967年に入ると、アメリカでの活動が本格化。この年、バンドは長期全米ツアーを敢行。6月にはモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。お得意の楽器破壊を披露し、過激なライヴバンドとしてアメリカ人に強いインパクトを残した。出演順をめぐりジミ・ヘンドリックスと争ったエピソードは有名であり、争いに敗れたヘンドリックスは、ギターに火をつけるというザ・フー以上に過激なパフォーマンスを行った[29]。この年の10月にリリースした「恋のマジック・アイ」が全米9位につけるヒット曲となった(ザ・フーのアメリカに於けるシングルの最高位)[30]。またこの頃、タウンゼントはその後の彼の人生と作品に大きな影響をもたらしたインドの導師、メハー・ババに帰依している[31]。
1968年1月からスモール・フェイセズ、ポール・ジョーンズと共にオーストラリア~ニュージーランドへ遠征する。オーストラリアでのツアー中、移動中の飛行機内でトラブルを起こし警察に連行された。事の発端はあるスチュワーデスがメンバーを侮辱したことだったが、航空会社はスチュワーデスの言い分をそのままのみ、バンド側が酔っ払って下品な言葉を並べたためと訴えた[32]。これに加え現地のメディアからひどいバッシングを受けたことも相まって、グループは二度とオーストラリアを訪れないことを宣言した[33]。2月より再びアメリカ本土に上陸、断続的なツアーは8月末まで行われた[34]。ダルトリーは「アメリカが俺達を団結させてくれた。他に頼れるものはなく、力を合わせるしかなかったんだ」と語っている[35]。
アメリカでは人気が高まる一方、本国イギリスでの人気に陰りが出始めた。1968年に発表したシングル「ドッグス」、「マジック・バス」は共に全英トップ20入りを逃した。3枚目のアルバム『セル・アウト』も英、米双方でトップ10入りを逃したこともあり、ザ・フーはシングル・ヒットを飛ばし続ける活動に限界を感じ始める。さらに当時のザ・フーは慢性的な財政難に陥っており、次回作のアルバムが失敗に終れば解散というところにまで追い詰められていた[36]。同年9月より、グループはタウンゼントが構想を温めてきたロック・オペラ『トミー』の制作を開始する。『トミー』はタウンゼント自身の幼少期の経験、そして彼が師事していたメハー・ババの教えが元となっている。制作費捻出のため、レコーディングはライヴツアーと並行しながら行われた[37]。
1969年~1973年(全盛期)
半年以上もの製作期間を費やし、ようやく1969年5月にアルバム『トミー』は発表された。2枚組の大作で、それまでのヒット曲のようなキャッチーさもないシリアスな作風ながら、『トミー』は全英2位、全米4位の大ヒットとなる。本作の成功により、ザ・フーは解散の危機から脱すると共に、ヒットソング・バンドのイメージから脱却した[38]。同年5月1日から開始されたツアーでは、『トミー』のほぼ全曲をノンストップで再現するという長尺のコンサートが行われていた[39]。1970年12月まで続けられた「トミー・ツアー」は大成功を収め、「“ザ・フー”を作った“トミー”」と、バンド名と作品名を間違われるほどにまで知れ渡った[40]。
大盛況だったツアーであるが、トラブルもあった。1969年5月16日、フィルモア・イーストでのライブ中、会場の近隣で放火事件が発生し、会場内にも煙が立ち込め始めたため、私服警官がステージに上がりコンサートを中止させようとしたところ、ダルトリーとタウンゼントから暴行を受ける。コンサートは中止となり、二人は暴行のかどで通報され、翌日警察に出頭した[41]。6月に行われた裁判の結果、タウンゼントが75ドルの罰金刑、ダルトリーは無罪となった[42]。タウンゼントによればボヤ騒ぎのことをメンバーに伝えることをスタッフが怠ったため、警官をただの暴漢と勘違いして暴行に至ったという[43]。7月5日に行われたロイヤル・アルバート・ホール公演でも、共演者のチャック・ベリーと出演順をめぐってトラブルになったり、また観客のテディ・ボーイ達が暴れて警察ともみ合うなど大混乱となった[44]。
同年8月16日~17日、ウッドストック・フェスティバルに出演。ザ・フーの出番は夜10時からのはずだったが、降雨による中断でただでさえ時間が押していたにもかかわらず、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが3時間以上も演奏を続けたため、彼らの出番は朝の4時にまで伸びた[45]。「シー・ミー・フィール・ミー」の演奏中、偶然にも太陽が昇り始め会場に不思議な効果をもたらした。タウンゼントは「信じられない気持ちだった」とその時の興奮を語り、エントウィッスルは「神が俺達の照明係だったのさ」と軽口を叩いている[46]。この模様は映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』にも収められている。
1970年、ザ・フー初のライブ・アルバム『ライヴ・アット・リーズ』をリリース。全英3位、全米4位という大ヒットとなる。8月29日~30日、ワイト島フェスティバルに出演。ここでも彼らの出番は午前2時と遅れに遅れた。コンサートは映画用に撮影もされていたが、映像の権利譲渡をめぐり撮影者とバンド側で折り合いが付かず、四半世紀以上を経た1996年になってようやく音源と映像がソフト化されている[47]。
同年、タウンゼントは『トミー』に続く新たなロック・オペラ「ライフハウス」を企画。アルバムと同時に映画化も計画されたが、あまりにも壮大なプロジェクトにメンバーが内容を理解しきれず、さらに『トミー』映画化とレーベル運営で多忙だったランバートの協力が得られなかったこともあり、「ライフハウス」計画は頓挫する。そこからの楽曲の一部を集めて1971年にリリースされたのが『フーズ・ネクスト』である。バンド側が望まない形での発表であったにもかかわらず、作品は高い評価を受け、バンドにとって初の全英チャート1位を獲得する(全米4位)[48]。同年11月にはベストアルバム『ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシィ』を発表。これによりシェル・タルミーとの長期にわたる法的闘争に終止符が打たれた[49]。またこの年には、エントウィッスルが1stソロ・アルバム『衝撃!!』をリリースしている。
1972年は結成以来初の長期のオフをとったため、新作はシングル2枚をリリースするに留まったが、この間にエントウィッスル2枚目のソロアルバム『風の詩』、そしてタウンゼントの1stソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』がリリースされている。またこの年、『トミー』のロンドン交響楽団とのコラボレーションによるオーケストラ版の発表と、それに伴うレインボウ・シアターにおける『トミー』の舞台公演が行われている。
1973年、ダルトリーが1stソロ・アルバム『ダルトリー』をリリース。アルバムからのシングル「ギヴィング・イット・オール・アウェイ」が全英5位のヒットとなる。同年10月、『トミー』に続くロック・オペラ第2弾『四重人格』を発表。英米共に2位につける大ヒットとなる。だがタウンゼントが後に「『四重人格』がザ・フーにとって最後の傑作だった」[50]と語ったように、この時期をピークにザ・フーは下降線をたどるようになる。この年の10月に妻と離婚したムーンは以前にもまして酒に溺れるようになり、アメリカ・カナダツアー初日の11月20日、本番前に酒と動物用の鎮静剤を混ぜて飲んだ事により本番中に昏倒、客席からドラムが叩ける者を募って急場をしのぐという出来事があった[51]。さらに、メンバーに支払われるべき未払いの印税があることが発覚し、それまで蜜月の関係にあったランバートやスタンプとの間に修復不可能な亀裂が生じる。ムーン以外のメンバーはマネージャー達に対し法的手段に出る事を決意した[52]。
1974年~1978年(ムーンの死)
1974年、ランバートとスタンプに代わり、ビル・カービシュリーがザ・フーのマネージャーに就任する[53]。この年はほとんどが映画『トミー』の製作に費やされた。映画は1975年上映。この映画で俳優デビューを飾ったダルトリーは、これをきっかけに俳優業にも本格的に進出する事になる。この間に空いた時間を、エントウィッスルはバンド初の未発表曲集『オッズ&ソッズ』の編集作業と、自身のソロ活動に当てた。エントウィッスルは自身が中心となるバンド、ジョン・エントウィッスルズ・オックスを結成し、1974年12月から翌年3月にかけてイギリス、アメリカでツアーを行うが、客の入りは悪く、結局30000ポンド以上もの赤字を出す結果となった[54]。
1975年7月、ランバートが映画『トミー』で自身に支払われるはずの報酬がなかったとして、ザ・フーと新しいマネージャーを訴える用意があるとインタビューで発言したことにより、ザ・フーとの不和が表沙汰になる[55]。なお、ランバートとの争いは1977年1月に長い話し合いの末にようやく解決したが[56]、その後ランバートは音楽業界から身を引き、酒と薬に溺れる隠遁生活を送り、1981年に自宅の階段から転落して死亡した[57]。また、タウンゼントとダルトリーが誌面上で互いを中傷し合うという出来事もあり、ザ・フー解散説が実しやかに囁かれるようになる[58]。この年はアルバム『バイ・ナンバーズ』と、ムーン唯一のソロ・アルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』のリリース、そしてこれまでにない大規模なスタジアム・ツアーが行われた。10月から翌年10月まで続いたこのツアーは大盛況となり、ザ・フーはローリング・ストーン誌の1976年最優秀グループに選ばれた。エントウィッスルは「キースとの最後になったこのツアーがザ・フーのキャリアの頂点だった」と語っている[59]。
だがこのツアー中の1976年1月、ムーンはアルコールの禁断症状を発症し一時意識不明に陥る[60]。さらに8月にはマイアミで過度の飲酒により8日間の入院を余儀なくされ、ツアーの日程に影響を及ぼした[61]。ムーンの長年にわたる酒と薬物による身体・健康状態は深刻なものとなっており、これによりザ・フーは以降長期のツアーを組めなくなる。この年と1977年はデビュー以来初めて新作が発表されず、ダルトリーとタウンゼントがそれぞれソロ・アルバムをリリースするに留まった。
1977年12月、映画『キッズ・アー・オールライト』のために、ロンドン、キルバーンのゴーモント・ステート・シネマにおいてライヴを行うも、1年以上ものブランクのせいで演奏は上手くいかず、この時のライヴの映像はほとんど映画で使われる事はなかった[62]。翌1978年5月、再度観客を入れての映画用のライヴを行う。これがムーンが参加したザ・フー最後のライヴとなった[63]。同年8月、3年ぶりのオリジナルアルバム『フー・アー・ユー』をリリース。ザ・フーの復活を印象付けたかのように思われた。だがそれから間もない9月7日、ポール・マッカートニー主催のパーティーに参加した翌日、ムーンはオーバードースによりロンドン、メイフェアのフラットで死亡した。32歳だった[64]。ムーンの死の翌日、タウンゼントはムーンに対する哀悼の念と、ザ・フーを存続させる決意を公式声明分で述べた[65]。
1979年~1983年(解散)
ムーンの死に際し、バンドの元にジェネシスのフィル・コリンズから「いつでもお役に立つぜ」と連絡が来たが、タウンゼントが望んでいたのは元フェイセズのケニー・ジョーンズだった[66]。1979年、タウンゼントの希望通りケニー・ジョーンズが新メンバーとして加入、またサポートメンバーのキーボーディストにジョン・“ラビット”・バンドリックを加え、ザ・フーは再始動する。だが同年12月3日、米オハイオ州シンシナティでのコンサートで開場時に観客が入場ゲートに殺到し、将棋倒しとなって11人が死亡する事故が起きる。メンバーはライヴ終了後に事を知らされ、大きなショックを受ける[67]。同年12月28日、カンボジア難民救済コンサートに出演。
1981年、ジョーンズ加入後初となるアルバム『フェイス・ダンシズ』をリリース。この頃から新メンバーのジョーンズをめぐってバンド内に軋みが生じ始める。タウンゼントは新生ザ・フーの演奏を楽しんでいたが[68]、ダルトリーはジョーンズのプレイが気に入らず、ミーティングの席で「ケニーを辞めさせろ」と言い出した。一方ジョーンズは「ピートがいい曲をソロ活動の方に使ってしまっている」と不満を訴えた[69]。バンド内の不和に加え、家庭内の問題も抱えていたタウンゼントはこの頃から絶っていたドラッグに再び手を出すようになり、一時は深刻な状態に陥るが、2ヶ月のリハビリを経て復帰する[70]。
だが、もはや彼らにかつてのような勢いはなかった。1982年、解散前のラストアルバムとなった『イッツ・ハード』をリリース。同年12月のトロントで最後のライヴを行う。ラストナンバーはエントウィッスルがリードをとる「ツイスト・アンド・シャウト」だった[67]。ラストライブの模様は1984年のライヴアルバム『フーズ・ラスト』に収録された。1983年6月、タウンゼントがザ・フー脱退の意向を示し、正式にバンドの解散が決まった[71]。ダルトリーは後年のインタビューで「ピートはツアーからのプレッシャーについてよく話していたし、ドラッグにもはまっていた。彼からプレッシャーを取り除いてあげたかった。そうすれば彼は自殺しないだろうと思い、解散を決めた」と語っている[72]。
再結成以降
1985年7月、ライヴ・エイドにて最初の再結成。1988年2月には英国レコード産業協会(BPIアワード)の授賞式で3曲を披露。これを最後にケニー・ジョーンズはザ・フーと袂を分った[67]。この前年の1987年、タウンゼントは結成25周年に当たる1989年に、ザ・フーとしての新作とツアーを行う事を表明していたが、新作は彼のソロアルバム『アイアン・マン』の中で、ザ・フー名義の曲が2曲収録されるに留まった[73]。しかしツアーは『トミー』の発表20周年に合わせて敢行された。このツアーでは総勢15名にもなる豪華なバックバンドを従え、演奏もかつてのものとは異なりかなりシンフォニックなものになった。メンバーは1985年から1986年にかけてタウンゼントのソロ・ライブ時に編成されたディープ・エンドという名のバックバンドが流用される形となり、ドラムを担当したサイモン・フィリップスもその中の一人であった。だがこの頃より、タウンゼントが以前より患っていた難聴が進行し、自身はアコースティックギターを弾くに留まり、それを補うためにセカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンが起用される[74]。このツアーにおける録音は、後にライヴ・アルバム『ジョイン・トゥゲザー』としてリリースされた。1990年、ロックの殿堂入り[75]。
デビュー30周年の1994年には、未発表曲やレア・トラックなどを収録したボックスセット『ザ・フー・ボックス』及び同タイトルのビデオ作品を発表。1995年より、音楽ジャーナリストのクリス・チャールズワース監修のもと、ザ・フーの全カタログの未発表曲を付属したリマスター/リミックス版が断続的にリリースされる。第1弾は『ライヴ・アット・リーズ』拡大版であった。リマスタリングおよびリミキシングはアルバム『フー・アー・ユー』でプロデューサーを務めたジョン・アストリーが一手に引き受けた(タウンゼントの元義弟でもある)[76]。
1996年、ハイドパークでの英チャールズ皇太子が主催するプリンス・トラスト・コンサートにおける『四重人格』全曲ライブ演奏を契機に本格的なツアー活動を再開。ドラムにリンゴ・スターの息子であるザック・スターキー、また、ギターとボーカルにタウンゼントの実弟であるサイモン・タウンゼントが加入するなどツアーバンドに変更があった。ツアー当初は重要パートはあまり弾いていなかったタウンゼントも、中盤以降は自らリードギターを弾くようになった。1997年までツアーは続く[77]。
1999年10月から12月にかけてiBash '99及びニール・ヤング夫妻が主催するブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートへの出演を含め計7回のライブを行う。ジョン・バンドリック、ザック・スターキーを含めた5人の基本的なバンド編成に戻り、タウンゼントもほぼ全ての曲で再びリードギターを弾くようになる。このツアーの目的は、経済的に逼迫していたエントウィッスルを救済するためでもあった[78]。2000年に北米・全英ツアー、11月27日にはダルトリーが支援している青少年のがんや白血病患者の支援団体であるティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートが英ロイヤル・アルバート・ホールで開催され、ポール・ウェラー、オアシスのノエル・ギャラガーやパール・ジャムのエディ・ヴェダーなどと競演。
2001年2月、グラミー賞特別功労賞を受賞。10月20日、アメリカ同時多発テロ事件被害者のための支援コンサートとして米マディソン・スクエア・ガーデンで行われたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演。2002年2月7日と8日の両日、ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートに出演。これがエントウィッスルが参加した最後のライブ演奏となった[79]。
全米ツアー初日を翌日に控えた同年6月27日、エントウィッスルが米ネバダ州ラスベガスのホテルで、薬物摂取に起因する心臓発作で急死する(57歳没)。残されたメンバーはツアーを続行すべきか悩み苦しんだ末、過去にタウンゼントのソロ作品にも参加した経験のあるピノ・パラディーノを抜擢し、7月1日からツアーを開始した。なお、この日のハリウッド・ボウル公演では、メンバー全員が黒い衣装でステージに上がった[79]。またこの年、長年廃盤状態だった1stアルバム『マイ・ジェネレーション』が、初期プロデューサーのシェル・タルミーとの関係が改善した事からようやく復刻された。
デビュー40周年の2004年、3月22日のロンドンよりツアーを開始。6月12日、復活版ワイト島フェスティバルに出演。7月24日および25日、横浜と大阪で開催されたロック・フェスティバル、POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004への出演のため初来日。その後2008年にもバンド単独での来日公演が行われている。また、このツアーでは1968年以来となるオーストラリア公演が実現している[80]。2005年7月2日、ハイドパークで行われたLIVE 8に出演。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーに出ていたため、代役としてデーモン・ミンチェラとスティーヴ・ホワイトがそれぞれのパートを担当。
2006年6月17日、ヨーロッパとそれに続く世界ツアーの初日として1970年以来36年ぶりにリーズ大学でライブを行う。11月、『イッツ・ハード』以来24年ぶりのスタジオ録音フルアルバムとなる『エンドレス・ワイヤー』を発表。2007年6月24日、グラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーとして出演。
2010年2月7日、マイアミで行われた第44回スーパーボウルのハーフタイムショーを行う。3月30日にはロイヤル・アルバート・ホールにおいて『四重人格』の1日限りの再演。この公演にはパール・ジャムのエディ・ヴェダーやカサビアンのトム・ミーガンがゲスト出演している[81]。2012年、ロンドンオリンピック閉会式に出演。さらに同年から2013年にかけて、「Quadrophenia and More」と題し、『四重人格』を再演するツアーを行う。
デビュー50周年の2014年、新曲を含めた2枚組オールタイムベストアルバム『ヒッツ50』リリース。また同タイトルのツアーをアラブ首長国連邦・アブダビより開始。2015年、タウンゼントは「このツアーが終ったら、俺達は別々の道を歩む事になるだろう」とザ・フー解散を示唆した。ただし、「ロジャーとは折にふれ何かやっていく事にはなるだろう」と、ダルトリーとのコラボレーションは継続していくことも表明している[82]。この「ヒッツ50」ツアーは、2015年9月にダルトリーがウイルス性髄膜炎を患ったことにより中断された[83]。2016年6月、4度目の出演となるワイト島フェスティバルでツアー復帰、新ツアー「 Back to the Who Tour 51!」を開始する(同年9月まで)。2017年3月から4月にかけて、1989年以来となるアルバム『トミー』のフル・パフォーマンス・ツアー「Tommy and More」を敢行。
音楽スタイルと影響
楽曲面
ザ・フーはアマチュア時代にはR&Bなどのブラック・ミュージックを中心にプレイして来たが、ビートルズやローリング・ストーンズといった同年代のバンドに比べると黒人音楽の要素は薄く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』の頃から独自のポップセンスを見せていた[84]。パワー・ポップというジャンルはタウンゼントが発した言葉から生まれたとされているが[85]、当時のザ・フーはハードでラウドな演奏にキャッチーなメロディを乗せるというパワー・ポップの特徴そのものだった。ミュージシャンで音楽評論家の和久井光司は「ザ・フーには正統的なブルースの要素がないのが“パンクの元祖”になり得た秘訣だろう。伝統なんてものはパンクスにとって壊してナンボのものだから、ブルースの要素は迷惑でしかない」と分析している[86]。だが1969年のアルバム『トミー』でシリアスで内省的な作風に転換し、それまでのポップバンドのイメージを刷新すると、初のライブ盤『ライヴ・アット・リーズ』ではこれまでレコードでは表現しきれなかった彼らのハードロック・バンドとしての側面を見せた。そのハードロックサウンドをスタジオで再現し、さらにシンセサイザーを導入して時代の最先端をいくプログレッシブな傑作となった『フーズ・ネクスト』で、彼等はその人気を決定付ける事となる。『四重人格』ではそのエレクトロニクス・サウンドをさらに推し進めたが、その次の『バイ・ナンバーズ』では一転してシンプルなサウンドに戻るなど、時代や作品によって様々な側面を見せた。
メンバーで楽曲を共作する事はほとんどなく、グループの楽曲の95%以上はタウンゼント一人で書かれている[87]。タウンゼントはただ作曲するだけでなく、ギターやベース、ドラムス等の基本アレンジも一人でこなしており、自宅でダビング録音をし、そのデモテープを他のメンバーに渡し、曲を覚えてもらってからレコーディングに入るという習慣がいつしか出来上がっていたという[87]。そのデモテープは、タウンゼントのソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』や『スクープ』(1983年)などで聴くことが出来る。タウンゼントはまた、サウンド・クリエーターとしても評価が高く、クラシックの作曲技法である対位法を取り入れた『トミー』などのドラマティックなロックオペラ、シンセサイザーのシークエンスフレーズと同期させた演奏(例:「ババ・オライリィ」)など、ロックの枠を広げる画期的な試みも多い。
演奏面
ハイ・ナンバーズと名乗っていた頃より、大音量で演奏するバンドとして知られていた[19]。1976年にはロンドンのライヴで120デジベルという音量を記録し、当時の「世界一大音量を出すバンド」としてギネスブックに登録された[88]。タウンゼントも初期の頃に受けたインタビューで「音楽のクオリティなんて関係ない。大事なのはパワーとボリュームなんだ」と答えていた[89][注釈 1]。彼らが大音量でプレイするようになったのは、アマチュア時代にタウンゼントとエントウィッスルが互いに負けじと大きなアンプを次々と購入していったことに起因する。タウンゼントは「2台のアンプを同時に使ったギタリストは私が最初だろう」と語っている[90]。
しかし、彼等がライヴバンドとしての名声を獲得し得たのは、音の大きさよりも個々の確かな演奏技術であった。リードベースと言われるエントウィッスルの高度なテクニック、全編フィルインとも言える手数の多いムーンのドラムは、他に類を見ない物であった。タウンゼントも「ベースとドラムがリード楽器で、ギターがリズム楽器になるという、本来の立場が逆転していたのがザ・フーのユニークさだった」と発言している[87]。そのタウンゼントも、速弾きのソロ・プレイやテクニカルさとは無縁であるものの、リードギターとリズムギターを合わせたようなパワーコードや、「ピンボールの魔術師」などに代表される高速カッティングといったリズムギターに定評がある[87]。ダルトリーは初期の頃こそ声が細く、器楽のパワーに押され気味であったが、'70年代に入ると声が太くなり、ややハスキーな声質を生かした独自の唱法を獲得し、ボーカリストとしての評価を確立した。以降、彼は繊細さと力強さの振幅の激しいザ・フーの楽曲に極めてすぐれた解釈をみせ、今日に至るまで歌い続けている。
ステージ・パフォーマンス
ザ・フーの特徴と言えばステージでの派手なアクションが筆頭に挙げられる。ダルトリーは投げ縄の如くマイクを振り回し、タウンゼントは縦横無尽に飛び跳ね、腕を大きく振り回しながらギターをかき鳴らした(ウィンドミル奏法と呼ばれるこの弾き方は、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズがステージでウォーミングアップのために腕を回したのがヒントとなっている[9])。ムーンは全身を投げ出すようにドラムを叩きまくるその破天荒なプレイスタイルで、デビュー当初から評判だった。3人のアクションとは対照的に、ベースのエントウィッスルは黙々とプレイし、バンドの動きに大きなコントラストをつけた。
終盤で行われる楽器破壊もまたザ・フーのコンサートの目玉だった。元々はタウンゼントが天井の低い会場で誤ってギターを天井にぶつけたのがパフォーマンスと受け取られたことがきっかけだった[91]。この楽器破壊のパフォーマンスはたちまち評判を呼び、観客のみならず、取材に来た記者までもが客席から「ピート、ギターを壊せ!」と煽る始末だった[92]。パフォーマンスでやる場合もあれば、感情にまかせて破壊することもあり、1973年にはテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で、何を思ったかタウンゼントは、演奏中に突然ギターとムーンのドラムスを破壊した(この時中指をつき立てたりもしたため、BBCから出入り禁止の処分となった)[93]。タウンゼントに影響される形で、やがてムーンもドラムを壊すようになった。特に語り草となっているのが1967年のテレビ番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」出演時のパフォーマンスで、ムーンはバスドラムに安全基準を超える大量の閃光粉を仕込み、演奏後に爆発させた。爆風をまともに受けたタウンゼントは一時的に耳が聞こえなくなり、これが現在まで続く聴覚障害の遠因となった。ムーン自身も負傷し、さらにゲストのベティ・デイヴィスを気絶させた[94]。こうした過激なステージパフォーマンスは、後にパンク・ロックのアーティストら(セックス・ピストルズ、パール・ジャムなど)に大きな影響を与えた。
歌詞の文学性
ステージでの凶暴性とは対照的に、ザ・フー(とりわけタウンゼント)の歌詞世界は非常に内省的なものが多く、タウンゼントのロック・ミュージシャンらしからぬ表現力は「文学的」とも評される[95]。初期の頃は「マイ・ジェネレーション」に代表される若者のフラストレーションを代弁するような歌詞が多かったが、1969年の『トミー』以降、精神的で繊細な内容が多く見受けられるようになった。これにはタウンゼントが帰依したミハー・ババからの影響が大きい。タウンゼント自身も「ババのおかげで俺の人生は完全に変わったしバンド全体も変わった」と認めている[31]。しかし、1975年の『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』ではさらに変化し、精神性よりもタウンゼント個人の現実的な問題を歌詞に反映させるようになった[58]。タウンゼントに次いで多くの曲を書いたエントウィッスルは、変質者やアルコール中毒者、死後の世界など、ブラックユーモアに富んだ歌詞が多かった。しかしメロディはタウンゼント同様ポップで、歌詞とメロディのミスマッチさで独特な雰囲気を作り出した[96]。
歌詞に物語性を持たせたのもザ・フーの楽曲の大きな特徴である。先駆けとなったのが、1966年のアルバム『ア・クイック・ワン』収録のタイトル曲で、この流れは次作の『セル・アウト』収録の「ラエル」にも受け継がれ、やがてロック・オペラという新たなジャンルを確立させた『トミー』へと結実する[97]。ザ・フーはその後も『ライフハウス』[注釈 2]、『四重人格』と新たなロック・オペラを生み出し、現時点では最新作となる『エンドレス・ワイヤー』内でも「ワイヤー&グラス」というミニ・オペラを披露している。『トミー』は全世界に大きな影響を与え、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1970年)やピンク・フロイドの『ザ・ウォール』(1979年)など、多数のロック・オペラ作品が生み出された。
ファッション性
ザ・フーは当初モッズ・バンドとしてデビューしたが、メンバーの中にモッズであった者は一人もいなかった。ダルトリーは「俺はテッズ(テディボーイ)だった」としており[98]、タウンゼントも1973年のインタビューで「俺達はモッズでも何でもなかったよ。当時流行だったし、マネージャーが俺達を戦略的にモッズとして売り出したんだ。成功したポップバンドで本物のモッズといえばスモール・フェイセズぐらいなもんで、それに比べりゃ俺達なんて便乗組もいいとこさ」と語っている[99]。だが別のインタビューでは「ハイ・ナンバーズもザ・フーもれっきとしたモッズ・バンドだった。モッズに受け入れられてたらモッズなんだよ。デビュー当時、俺は生きてるだけで幸せだった。気分は最高にモッズだったよ。一つだけ確かなのは、俺達はモッズに見られたくて必死だったってことさ」とも語っている[100]。しかし、彼らがモッズとして振舞っていた時期は短く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』を以って、ザ・フーはモッズの看板を下ろした[24]。タウンゼントは1970年に「とにかく俺はモッズの亡霊、ノスタルジーからとっとと離れたかったんだ」と語っており[101]、ダルトリーも「ピートはシェパーズ・ブッシュのガキ共のための曲じゃなく、もっと大きなものを曲の題材にしていた。奴の曲の通訳者を務める俺はそう思うよ」と、ザ・フーがモッズのイメージで終わるバンドではないことを主張している[102]。
ザ・フーはそのファッションにも注目が集まった。彼らがデビューした頃はポップアートが最先端とされており、ザ・フーはこれを戦略的に取り入れた。ユニオンジャックで仕立てたテーラードジャケット、服の全面につけたバッジ、ムーンが好んで着用したラウンデルをあしらったトレーナーなどはその一端であり、彼らのトレードマークとなった[103]。特にラウンデルは、グループがモッズのイメージを払拭した後も作品のジャケットや関連グッズの意匠に使用され続けている。しかしそれまでのポップな作風から大きく変換した1969年以降は、女の子受けするファッションとは無縁になり、ダルトリーは素肌にフリンジの付いたジャケットを羽織り、タウンゼントは白い作業着をステージ衣装にした。エントウィッスルも骸骨をあしらったラバースーツでインパクトを与えたが、1970年代も中頃になると奇抜なファッションは見られなくなった。
なお、デビュー当時のザ・フーのメンバーで、最も女の子からの人気が高かったのはムーンだった。だが彼は20代のうちにかなり容姿が老け込んでしまい、代わってダルトリーがグループのセックス・シンボルとなった[104]。しかし、ザ・フーのメンバーはルックスにはあまり自信を持っていないようで、ダルトリーは「俺たち不細工すぎたから」と自嘲しており[105]、タウンゼントも自身の大きな鼻がコンプレックスで、ステージで派手なアクションを決めるのも「顔より体の方に注目してほしかったから」と明かしている[19]。
ザ・フーと日本
日本におけるザ・フーの知名度は、ビートルズやストーンズ、また1970年代以降に登場したレッド・ツェッペリンやエアロスミス、クイーンなど、同年代に活躍したバンドに比べると高いとは言えず、スモール・イン・ジャパンの代表として挙げられることがある[106]。バンドの代表作の一つでもある『四重人格』も、当時の日本では全く話題にならなかったという[107]。音楽ライターの夏川翠はこの原因について、彼らが全盛期だった1970年代に来日しなかったからだと指摘する。ザ・フーが来日しなかった理由については当時から様々な憶測が流れていたが、夏川は「実話だ」として次のような話を明かしている。夏川が海外アーティストの追っかけをしていた1972年当時、同じく追っかけをしていた友人があるプロモーターの社長に「ザ・フーを呼んで」とお願いしたところ「ダメ、あれは怖いから!」と断わられたという。彼らはレッド・ツェッペリン以上の乱暴者の集団であるとの噂が日本に伝わっていたのである[108]。尚、1975年には映画『トミー』のヒットに乗じて来日しようと、実際にバンド内で話し合いが持たれたことがあるが、タウンゼントが様々な問題を抱えて気落ちしていた時期でもあり、彼が拒んだため結局実現しなかった[109]。
1974年にフェイセズとして来日したケニー・ジョーンズを除くザ・フーのメンバーの中で、最初に日本の土を踏んだのはエントウィッスルだった。1987年に楽器フェアのプロモーションで来日が最初で、その後も度々来日し、計4度も日本を訪れたが、ザ・フーとして来日することは遂になかった[110]。ダルトリーとタウンゼントが初来日を果たしたのは2004年になってからだった。日本にはその後も2008年に単独公演のために訪れている。また2012年にはダルトリーがソロで来日し、公演を行っている。
ディスコグラフィ
オリジナル・アルバム
- 1965年 マイ・ジェネレーション - My Generation (Brunswick)
- 1966年 ア・クイック・ワン - A Quick One (Reaction)
- 1967年 ザ・フー・セル・アウト - The Who Sell Out (Track)
- 1969年 ロック・オペラ “トミー” - Tommy (Track)
- 1971年 フーズ・ネクスト - Who's Next (Track)
- 1973年 四重人格 - Quadrophenia (Track)
- 1975年 ザ・フー・バイ・ナンバーズ - The Who By Numbers (Polydor)
- 1978年 フー・アー・ユー - Who Are You (Polydor)
- 1981年 フェイス・ダンシズ - - Face Dances - Face Dances (Polydor)
- 1982年 イッツ・ハード - - It's Hard - It's Hard (Polydor)
- 2006年 エンドレス・ワイヤー - Endless Wire (Polydor)
EP
- 1966年 レディ・ステディ・フー - Ready stedy who (Reaction)
- 1969年 Tommy EP (Track)
サウンドトラック盤
- 1975年 トミー - Tommy(soundtrack) (Polydor)
- 1979年 キッズ・アー・オールライト - The Kids Are Alright (Polydor)
- 1979年 さらば青春の光 - Quadrophenia_(soundtrack) (Polydor)
ライヴ・アルバム
- 1970年 ライヴ・アット・リーズ - Live At Leeds (Track)
- 1983年 The Who Rocks America (CBS FOX)
- 1984年 フーズ・ラスト - Who's Last (MCA)
- 1990年 ジョイン・トゥゲザー - Join Together (Virgin)
- 1996年 ワイト島ライヴ1970 - Live at the Isle of Wight Festival 1970 (Castle)
- 2000年 BBCセッションズ - BBC Sessions(Polydor)
- 2003年 ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール - Live at the Royal Albert Hall(Castle)
- 2006年 Live from Toronto (Polydor)
- 2010年 ライヴ・グレイテスト・ヒッツ - Greatest Hits Live (Polydor)
- 2012年 ライヴ・アット・ハル 1970 - Live at Hull 1970 (Polydor)
- 2014年 四重人格ライヴ - - Live in London - Quadrophenia Live In London (Polydor)
- 2015年 ライヴ・イン・ハイドパーク - Live In Hyde Park (Polydor)
- 2018年 Live at The Fillmore East: Saturday April 6, 1968 (Polydor)
編集盤、ベスト盤など
- 1968年 ダイレクト・ヒッツ - Direct Hits (Track-UKのみ)
- 1968年 マジック・バス~ザ・フー・オン・ツアー - Magic Bus (Decca-USのみ)
- 1971年 ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシィ - Meaty Beaty Big And Bouncy (Track)
- 1974年 オッズ&ソッズ - Odds And Sods(Track)
- 1976年 ストーリー・オブ・ザ・フー - The Story Of The Who (Polydor)
- 1980年 Wholigans (US)(MCA)
- 1983年 Who Rarities Volume 1 (Polydor)
- 1984年 Who Rarities Volume 2 (Polydor)
- 1985年 The Singles (Polydor)
- 1986年 Who's Missing (Polydor)
- 1987年 Two's Missing (Polydor)
- 1988年 フーズ・ベター、フーズ・ベスト - Who's Better, Who's Best (Polydor)
- 1989年 アイアン・マン - - The Iron Man: The Musical by Pete Townshend - The Iron man (Virgin)
- 1996年 マイ・ジェネレイション〜ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・フー - My Generation - The Very Best of the Who (Polydor)
- 2002年 アルティメイト・コレクション - The Ultimate Collection
- 2004年 The 1st Singles Box (Polydor)
- 2004年 Then and Now 1964-2004 (Polydor)
- 2014年 The Who Hits 50! (Polydor)
日本公演
- 2004年 THE ROCK ODYSSEY 2004(初来日)
- 2008年 (2度目の来日。単独公演としては初)
- 11月13日(木)大阪城ホール
- 11月14日(金)横浜アリーナ
- 11月16日(日)さいたまスーパーアリーナ
- 11月17日(月)・19日(水)日本武道館
脚注
注釈
出典
- ↑ The Who Biography The Rolling Stone
- ↑ “ローリングストーン誌最も偉大なアーティスト | 田副暢宣(Masanori Tazoe)” (日本語). . 2017閲覧.
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- ↑ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.50
- ↑ 13.0 13.1 フー・アイ・アム・p.62
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- ↑ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.147
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- ↑ SACD『トミー・デラックス・エディション』(2003年)付属のマット・ケントによる解説より。
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- ↑ 『ROCK JET』Vol.21(シンコーミュージック・エンターテイメント刊、2005年、ISBN 4401619552) p.82
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- ↑ フー・アイ・アム・p.244
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- ↑ WhiteFang's Who Site -The Who Discography
参考文献
- 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』(アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳、シンコーミュージック刊、2008年)ISBN 978-4-401-63255-8
- 『フー・アイ・アム』(ピート・タウンゼント著、森田義信訳、河出書房新社刊、2013年)ISBN 978-4-309-27425-6
- レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』 (ミュージック・マガジン刊、2004年)
外部リンク
- ザ・フー 公式ウェブサイト
- ピート・タウンゼント 公式ウェブサイト
- ジョン・エントウィッスル 公式ウェブサイト
- ユニバーサル ミュージック インターナショナル ザ・フー 情報サイト
- ワーナーミュージック・ジャパン - ザ・フー